Ⅵ
カティアの回想
あれは、私がまだ5歳か6歳だったころだったかしら。
あの頃の私は、今よりもずっとわがままで、勉強も嫌いで、マナーの授業もすぐにサボって逃げ出してしまうような、悪い子だったの。
その日。
こっそり授業を抜け出していた私は、裏庭で見つけて綺麗な花をお母さまに見せようと思って、屋敷の居間へ向かった。
「お母さま?」
広間からお母さまとお父さまの声が聞こえて、嬉しくなって部屋の中へ入ると、そこにはおねえさまに笑顔を向ける両親の姿があったわ。
「あら、カティア。」
私に気づいたお母さまは、驚いた顔をしたあと、私に手招きをしてくれた。
「どうしたのかしら?」
「お母さま、あのね。お庭で、綺麗なお花を見つけたの!」
そう言って私が差し出したお花を見て、おねえさまが「あ!」と声を出した。
驚いておねえさまの顔を見ると、おねえさまは悲しそうな顔をして、突然泣き出してしまった。
「おねえさま?」
すると、様子を見ていたお父さまは、私の手からその綺麗なお花を取り上げてしまった。
「返して!」
「…カティア、どこでこれを?」
「裏庭でみつけたの!とっても綺麗でしょう?」
私は自信たっぷりに答えたわ。
綺麗なお花を自分の力で見つけたことが誇らしかったから。
褒めてくれると思ったのに、お父さまは、怒った顔をしてそのお花をお姉様に渡してしまう。
どうして?そのお花は、お母さまにあげようと思ったのに。
「カティア、これはシシィが育てていた花だ」
「え?」
なに、それ?
わたし、そんなこと知らなかった。知っていたら、取らなかったわ。
「…しらなかったの」
「謝るんだ、カティア」
お父さまは、眉間にしわを寄せて、厳しい声で言ったの。
謝ろうと思ったけれど、驚いて、声がすぐに出なかったのよね。
「謝れないのか?」
「…そもそも、今日の授業はどうした?また抜け出したのか?シシィはいつもきちんと受けているのに、お前は…」
その時。わたしを責めるお父さまの声と、おねえさまを慰めるお母さまの姿をみて、なんだか私だけ除け者のような気がしたの。
わたしは、ついカッとなって、そのままおねえさまに歩み寄って、花を握りつぶした。
グシャ、
それを見て、お父さまは、見たことのないような怖い目をした。
おねえさまは、小さな悲鳴をあげた。
お母さまは、おねえさまを抱きしめながら、私のことを困った顔をしてみる。
「…そんなお花、いらない!」
そして、私は部屋を出て、廊下を抜け、屋敷を出た。
走って、走って。
疲れて、走り終わることには、みたことのない場所にいた。
お姉さまなんて、嫌いだわ。
お母さまも、お父さまも、お姉さまばかりに優しくて、私には怒ってばっかり。
…でも、そんな怒りは、辺りがだんだん暗くなるのに比例して、小さくなっていった。
長い草が風に揺れる音が聞こえる、でも他には何も聞こえない。
大きな木を見つけた私は、その根元で膝を抱えるしかなかった。
…きっと、わたしが悪い子だから、神様がお仕置きしているんだわ。
このまま、誰にも見つからなかったら、私はどうなってしまうのだろう。
本当は、わかっているの。
お勉強しても、お姉様のようにうまく覚えられなくて、嫌になって抜け出して。
先生を困らせて、わがままばかり。
お姉さまのお花を勝手にちぎって、だめにしてしまって。
私が悪いんだって。
でも、責められれば責められるほど、謝れなくて、どんどん気持ちがこじれてしまう。
「…うっ、うっ…」
ぎゅっと目をつぶって、震えていた。
その時だった。
「カティア!どこにいるの!?返事をして!」
聞き覚えのある声がして、顔を上げた。
頬に残る涙の筋が、風に当たって冷たい。
キョロキョロと辺りを見回すと、オレンジ色の明かりが揺れているのが見える。
少しずつ大きくなるその光とともに、黒い人影がうっすらとあらわれた。
「アンリ、おにいさま!」
わたしは、その人影が誰のものかわかると、すぐに駆け出して、そのひとにしがみついた。
お兄様は、ランタンを足元に置くと、わたしをぎゅっと抱きしめてくれたの。
ふわっと香るのは、ミントと、汗の匂い。
「うわああん、おにいさま、おにいさま」
「うん、カティア。もう大丈夫、大丈夫だよ。」
優しく撫でてくれる手が温かくて、アンリお兄さまは、わたしが泣き止むまで、ずっとそうして背中を撫でていてくれた。
しばらくして、わたしが泣き止んだことを確認すると、お兄さまはぐしゃぐしゃになったわたしの前髪と、涙でぐっしょり濡れた顔を、ハンカチで優しく拭いてくれた。
アンリお兄様の額にもうっすらと汗が滲んでいて、髪も少し乱れていた。
でも、ただホッとした表情をして、わたしのことを見ているその優しい瞳を見て、ささくれ立った心が溶けていくように感じた。
「お兄さま、ごめんなさい」
「…いいんだよ」
「わるい子で、ごめんなさい」
お兄様は、口元に柔らかな笑みを浮かべて言った。
「…カティアは、本当はやさしい子だって、僕は知っているよ。お花、おばさまに見せてあげたかったんだよね。おばさまは、体が弱くて、あまり外に出られないから。」
止まったはずの涙が、またハラハラとこぼれた。
「でもね、あのお花は、シシィがカティアと同じ想いで、育てていたものだったんだ。…だから、帰ったら僕と一緒に謝ろうね。」
アンリお兄様は、その言葉通り、お父さまに怒られる時にもずっと隣にいてくれて、お姉さまに謝るときにも、一緒に謝ってくれたの。
そして、アンリお兄様は、最後に私に教えてくれた。
「今はつまらない授業も、マナーの練習も、いつかカティアを幸せにしてくれる道具になるんだ。カティアが夢を叶えたいと願った時、学んだことは、きみを助けてくれるはずだからね。」
「わたしを、しあわせにしてくれる?」
「うん、きっとね。」
アンリお兄様は、「あ、でも」と言って、小さな声で私に教えてくれた。
「もしまた授業を抜け出す時には、ひとりで冒険に行かないで。そのときは、僕を呼んでね。こう見えて、冒険は大好きなんだ」
「うふふ、うん。わかったわ!」
わたしは、アンリお兄様の言葉を信じて、次の日から授業を抜け出すのをやめたの。
たまに、少し遠くの湖へ連れていってくれたり、留学の帰りには綺麗なバレッタを買ってくれたり。
お母さまが亡くなった時にも、アンリお兄様はすぐに我が家に駆けつけて、涙の止まらない私の背中を撫でてくれた。
アンリお兄様を好きになるのは、私にとって、息をするように自然なことだったの。
そして憧れから恋へと鮮やかな変貌を遂げたこの気持ちは、ある一つの夢を導いて。
私やお姉様が年頃になると、それまでのようにアンリお兄様と自由に会うことは難しくなったけれど、それでも私の想いは消えるどころか、ますます強くなるばかりだった。
社交界デビューすれば、堂々とお兄様に会える。それは、幼馴染としてではなくて、一人の女性として。
”いつかきっと、アンリお兄様のお嫁さんになりたいわ”
なんて、ね。