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後半

ー1ー


 眼を覚ました。砂と岩の感触。辺りが暑い。わたしは、地面に倒れていた。置きあがり、辺りを見渡すと、周囲は全体的に赤い、岩場のような所だった。

 わたしは少しの間呆然としていた。こんなに、こんなにあっさりと死んじゃうんだ。そう思った。

「よう、起きたか?」

 声に振り向くと、そこには黒い死神が立っていた。見覚えのあるニヤニヤ顔で、わたしの事を見ている。フードはしておらず、あの特徴的な耳が上を向いていた。

「あ・・・うん。そう・・・だね」

 わたしは立ち上がった。服の砂を払い落とした。

「ここは・・・どこ?」

 わたしは改めて周りを見た。立ち上がると、大分風景が違う。周囲が崖のようになっている。遥か下からは、凄い熱が伝わってくる。まるで、今いる部分がステージのようになっていて、そこからまっすぐ一本の橋のように、手摺も何もない道が続いている。

「ここかァ? ここはなぁ・・・んー、なんて言ったら分かるんだ」

「煉獄ですよ」

 振り返ると、白い死神さんがいた。なんと、背中に真っ白な翼が生えていた。

「え・・・っ!?」

「まあ、いわゆる天国と地獄の境目という場所ですよ。とはいえ、天国も地獄も、人間が思っているような場所ではないのですがね」

「え、あの・・・は、羽!?」

 白い死神は僅かに驚いたような顔をした。

「あ、そっちですか。ええまあ、ここで姿を隠す必要はないので。息苦しいですから、あれ。意外に疲れるんですよ」

「あ・・・えと・・・そう・・・なんですか」

 思わず、その綺麗さに見とれると、白い死神さんがいぶかしそうにわたしを見た。

「・・・なんです?」

「あの、えっと・・・すっごく綺麗だなって・・・」

 わたしの言葉を聞いた瞬間、白い死神さんが目を丸くした。そして、少しの間黙った後、深く息を吐いた。

「・・・そうですか。ずいぶん余裕がお有りの様だ。さすがに図太すぎやしませんか」

「お? なぁんだよお前、嬉しいなら素直に礼を言えばいいだろーが!」

 黒い死神がやたらと嬉しそうに白い死神さんの背を叩いた。

「・・・嬉しくなんかないです。ただ、ちょっと驚いただけで・・・」

 どうやら白い死神さんは大分素直じゃないようだ。そっけない態度も、もしかしたら何か関係しているのかもしれない。

 その時、急にドキッとするような・・・そんな感覚と共に、思い出した。

「・・・もしかして・・・美雪も、美雪も来てる・・・の?」

 何故か不安で、もう死んでいる(らしい)のに、心臓がドキドキするような感覚を覚えた。

 黒と白、二人の死神が黙ってわたしを見た。少しあって、白い死神さんがわたしの後ろを指さして答えた。

「そちらにいらっしゃいますよ。・・・先ほどから、ずっと」

 わたしはすぐに振り返った。恐怖が、何かの予感がわたしに纏わりついている。見てはいけないような、知らなくてはいけないような気がした。

 振り返ってみた先には、何もいないように見えた。・・・しかし、よく見ると、黒くドロドロ溶けた、薄い影のようなものがいるのに気が付いた。わたしはなぜか、それが美雪だと認識した。

「・・・え・・・っ、みゆ・・・きなの」

 わたしが声をかけた瞬間、影が濃くなり、真っ黒い石油の様なドロドロした液体から、ぬるり、と人が立ち上がった。振り返った人は、顔もどろどろと黒く溶け、しばらく私を見つめていた。

「・・・こ・・・・ず・・・」

 そのモノが声を発した瞬間、足元からちゃんとした人の形になっていき、やがて顔が出きて、最後に目が出来た。そして、その目はうつろにわたしを見ていた。

 わたしは美雪に駆け寄った。

「ねえ、美雪! ど・・・いったい、どうしちゃったの!?」

 声をかけると、美雪の目に光が戻った。そして、その目が見る見るうちに憎しみに染まっていくのがわかった。

「・・・こず、あんたが・・・あんたが、あんたがぁぁあ!!」

 美雪はいきなり掴みかかってきた。わたしは慌てて身を引いた。わたしをつかみ損ねた美雪は体制を崩しながら、半分溶けかかりながら再び襲いかかってきた。

 その時、わたしと美雪の前に黒い影が割り込んだ。死神だ。

 彼は美雪の両手を押さえ、地面に叩き付けた。

「よっし止まれ! これ以上暴れんならモンドウムヨーで叩き落とすぞ!」

 しかし、美雪はなおも暴れている。死神の足元で、呪いの様な言葉を吐きながら、わたしに手を伸ばそうとしている。

 その時だった。わたしは、震えあがるような感覚を覚えた。前だ。

 顔を上げると、いつの間にか、そこには、着物姿の大きな男が立っていた。男は穏やかな表情でわたしたちを見下ろしていた。やがて、男は口を開いた。

「・・・あまり、あがくのはおすすめ出来ないな。どちらにせよ、君はもう死んでしまっているからね」

 美雪は黙り込んだ。暴れるのもやめ、ひたすら男を睨み続けているようだった。

「あんた、だれよ」

 美雪の言葉に、男は柔らかな笑顔を浮かべた。よく見ると、男の額に二本の角が生えている。

「わたしの名はガツトウ。そこの、二人の上司に当たる者だ。これからの事で、聞いてほしいことがいくつかあるんだけど・・・聞いてもらえないかな?」

 ガツトウの声は低く、とても穏やかだ。思わず聞いてしまうような・・・そんな声だ。

 わたしは、先ほどから何となく思っていたことがあった。・・・というより、直感が告げていたのだ。これから、これから何かが始まる。いや、むしろ・・・今からが、本当に何かの始まりなのだ、と。

「・・・これから・・・いったい何が、始まるんですか」

 わたしは、ようやく自分が緊張していることに気付いた。おそらく、このひとが来た時から、緊張していたんだと思う。

 ガツトウはわたしを見て、緩やかに微笑んだ。そして、急に少し表情を硬くした。

「わかった。今から話そうか。チェイス、一度離れなさい」

「・・・はーい」

 声をかけられて、黒い死神が美雪から離れた。美雪はもう暴れもせず、じっとしていたが、やたらと敵意に満ちた目でわたしをちらちらと見た。

・・・ところで、今初めて知ったけど。黒い死神は名前をチェイスと言うらしい。そう言えば、名乗ってくれていなかった。・・・まあでも、業務上、名前なんか教えなくてもいいのだろう。実際、今この瞬間でも差し支えはなかったから。

 そして、黒と白、二人の死神がガツトウの左右に立った。

「いいかい。・・・君たちは罪を犯した。今、この現世において、その因果が罪人に訪れることは、珍しいことになりつつある。しかし、君たちにその因果が訪れたのには理由があってね」

 そういうと、ガツトウはあたりを見渡した。

「・・・今、ここには来ていないようだね・・・珍しい。・・・まあなんというか、ちょっとした「奇跡」の力のおかげなんだ」

 その言い方だと、なんだか・・・「奇跡」が誰かの名前みたいに思えるけど・・・。そう思った瞬間、ガツトウが笑った。

「そう、そんなような認識で構わないよ。彼は最近生まれたばかりの「神」だからね」

 わたしは驚いて聞き返した。

「え、考えている事わかっちゃうんですか」

 ガツトウはにこにこと笑った。

「まあ、君は今精神体だからね。わかってしまうんだよ。・・・とにかく、彼が何の気まぐれか、君たち二人に因果をもたらしたんだ。結果、君たちはこの二人によって、今ここにいる。どちらにせよ、君たち自身が引き寄せた因果だ。・・・わかるね」

 そういうとガツトウは何故か美雪を見た。美雪は、火を噴くような勢いでガツトウに声を投げた。

「じゃあ、あたしはあたしのせいで死んだって言いたいの? そんなの、そんなの理不尽でしょ! 何でよ! 他にも万引きとか売春とかカツアゲとか、あたしよりもっとひどいことしてる奴なんかいっぱいいるじゃない! 何であたしが死ななくちゃいけないんだよ!」

 ガツトウは真剣な表情で答えた。

「ああ。勿論、君よりも重い罪を犯している人間はいくらでもいる。重い因果を背負いながらも、裁きを受けずに済んでいる人間がね。・・・しかし、それはそれだ。すべての人間が君のように裁かれることはないだろう。しかし、だ」

 ガツトウは冷たい、悲しそうな目をした。

「君はこうして今、裁かれようとしている。いくら君が理不尽に感じても、それは免罪符になどならないのだよ。君の代わりなんか、どこにも存在しないのだからね。これは理不尽などではない。君が言い訳をしながら、眼を背けてしまった結果なのだよ。・・・いいかい」

 そういうとガツトウは改めて私たちを見た。

「今、この場において、他人がどれだけ罪深いかなど、関係ない。なぜなら今、裁かれているのは他でもない、自分自身なのだからね」

 わたしは言葉が、深く染み渡っていく様な感覚を覚えた。なんだか、驚いてしまうくらいあっさりと受け入れられる。なんとなく、理由は分かるような気がした。でも、美雪の気持ちも、痛いほど理解できる。わたしは、ついこの間まで美雪の様な人間だったからだ。

 だから多分、美雪は納得していない。

「・・・話がそれてしまったね。では、本題に移ろうか」

 ガツトウは、横を指さした。つられて、わたしもそちらを見た。指した先には、暗く長い、先の見えない道が続いている。ここと同じように、崖のようになっていて、踏み外したら大変なことになるだろう。

「あそこの道が見えるだろう? あの先に、ずっと遠くの方に、二つの出口がある。これが、君たちに与える試練だ。君たちにはその出口の先へたどり着いてもらおう」

 ガツトウは一旦言葉を止めた。その時、美雪が溶けた。わたしはぞっとして、思わず美雪から離れた。

「何で。何でよ。どうしても嫌だ。なんで、あたしより・・・・嫌だ。ねえ、帰らせてよ。いいでしょ。あたしまだ十六歳なんだけど。ねえ・・・ねえ、帰らせてってば。全部・・・夢なんでしょ、どうせ。あたし、あたし・・・」

「え・・・っ、美雪、・・・」

 美雪はみるみるうちにドロドロと黒く溶けていく。

 それを見たガツトウは、深い溜息を吐いた。

「・・・あぁ・・・そうか。なあ、この子は君の友達かい?」

 わたしは言葉が出てこないまま、小刻みに頷いた。

「彼女を認識してあげてくれないかい? 彼女が彼女である事を・・・わからせてあげられないかなぁ・・・」

 わたしは、ひとまず声をかけてみることにした。

「・・・ね、ねえ、美雪。美雪なんでしょ。しっかりしなよ。えと・・・ラモラのバッグ、好きだったよね」

 すると、ドロドロとした塊が再び人の形を取り始める。足元から少しずつ。

「こず・・・え・・・そう・・・あたし・・・あたしは・・・」

 そして再び、美雪は元の姿に戻った。

 ガツトウはにっこりと笑う。

「よかった。その調子で、最後の出口まで進んでくれ。そうして、君たちの命運が決められるだろう。それじゃあ、行ってきなさい」

 わたしは頷き、道の方へ向き直った。虚ろな表情をしている美雪に、声をかけた。

「行こう。何もしないよりかはきっといいよ。ね」

 美雪は黙ったまま、道の方をにらんだ。と、いきなり駆け出した。

「み、美雪!」

 美雪は途中で振り向くと、物凄い形相で叫んだ。

「うるさい! あんたのせいでこんな目にあってんだよ! 死ね!」

 そういうと道の先へ走っていった。

 わたしは一息ついた。わたしも、行こう。

「・・・じゃあ、いって来ます」

 わたしは三人に向けて言った。ガツトウはにっこりと笑って頷いた。

「行って来なさい。この先の道は非常に険しく、厳しい。一人で行くのが困難なところもあるだろう。でも、きっと・・・君なら乗り越えられるだろう」

 わたしは頷いた。胸に下がった、おもちゃのペンダントを握りしめた。そして、道へと足を踏み出した。




ー2ー



 何時間歩いただろうか。何もない、平坦な道が続いている。遠くの方に何かが見えるものの、一向にそれに近づく気配がない。

「・・・。今、何時なのかな。・・・お母さん、お父さん・・・みんなも、大丈夫なのかなあ・・・」

 誰もいない中、ボソッと呟いた。声は広い広い空間に、吸い込まれて消えていった。

「美雪・・・」

 今の所、美雪の姿は見えない。どこまでいってしまったのだろうか。わたしは、足もとの奈落を見た。

 そこは、大きな真っ暗な穴だった。どこまで続いているのか、全く見当もつかない。ここまで深い穴なら、落ちてしまったら即死だろう。いや、もう死んでるんだろうけど。

 歩きながら、考えた。これが、罰なんだと。罪なんだと。頭に浮かぶのは、みんなに対してやって来てしまった、数々の罪。

 犯罪こそやってはいないものの、酒もタバコも味わったことあるし、親や周囲の人間にはいつも暴言を吐いていた。誰かを否定する残酷な言葉を、幾らだって言って来た。いじめだって・・・。突き飛ばしてしまったことも、周囲の人間にそうさせるように促したこともあるから、やっぱり暴力はふるったことになるんだろうな。

 親にも暴力はふるった。父親を、カバンで殴りつけたこともある。

 何もかもが面倒で、つまらなかった。楽しくなかった。飽き飽きしていた。親がお弁当を作ってくれることは当たり前だったし、お金を稼いできてくれることも、お小遣いをくれるのも、お掃除、洗濯、その他いろいろなことをやってもらうのが当たり前だった。そして、こんな年して、大したこともできず、頭の出来も良くなくて、お世辞にも美人じゃない自分が嫌だった。いつも体重を気にしていたし、いつも洋服を気にしていたし、小物にも気を使っていた。化粧もしていた。それでも、どれだけ遊んでも、劣等感と満たされない感覚はずっとあった。何をしてもダメだった。

 それがずっと嫌だったんだろうと、今になって思う。

 でも、と思った。どうしたら満たされたんだろう?

 どうしたらあんなに迷わなくて済んだんだろう。

 そんな迷いと小さな絶望に、わたしは苛まれ、たくさんの人に八つ当たりして来た。ひどいことをいっぱいしてしまった。それに再び、たまらなく後悔した。

 と、気がつくと壁の眼の前に来ていた。わたしは愕然とした。幾ら何でも、気がつかない、なんてことはないはずなのに。そこには美雪がいた。

「美雪・・・」

 よく見ると、美雪の両足に黒い靄みたいなものがまとわりついている。美雪はひどく動きづらそうにしながら、なんとか壁を登ろうとしていた。

 壁は二メートルほどの段が、幾つも重なっている岩棚だった。上は天高く、先が見えない。

 この先の見えない岩棚を登っていくのか。どこまで続いているかもわからない、途中で落ちるかもしれない、この恐ろしい高さの岩棚を登らなくてはならないのか。

 わたしは息を吸い込んだ。落ちること、消えること、諦めるかもしれないこと。その全てを覚悟した。

「ねえ、美雪」

 すると、美雪は再びすごい形相でこちらを見た。ひどく苛立っているようだった。

「何!」

「ねえ、ちょっと協力しない? これくらいなら、多分ちょっと協力すれば登れるよ」

「こんなの届くわけないでしょ! ほんと、さっきのやつら死ね! なんであたしばっかこんな目に合わなきゃいけないの!?」

 わたしはいたたまれなくなって、できるだけなだめるように話しかけた。

「大丈夫だよ。大したことないって。ほら、よく見てみなよ。二人ならいけるって。一人が下から押し上げて、もう一人が上から・・・」

 と、辺りを見渡すと、鉄の杭のついたロープを見つけた。

「あれ、あれ使おう。登った方があれを刺して、もう一人が登っていくの。きっとできるよ」

「あれってどれよ!」

 わたしは少し驚いた。どうやら、美雪にはロープが見えていないようだった。

 わたしはロープを拾い上げると、美雪に見せた。

「ほら、これ」

 すると、美雪は初めてそれに気づいたのか、ぽかんとしてロープを見た。

「なにそれ・・・そんなの、さっきまでどこにもなかったじゃん。だけど・・・そんなのでこの壁、登れるの? 三メートル以上はあるじゃん」

 わたしはまた驚いてしまった。見えてる景色も違うらしい。

「ねえ、この景色・・・どう思う」

 わたしは赤茶けた岩壁と、道以外には大きな崖と壁しかない周辺を見渡しながら聞いてみた。

「どうって・・・幾ら何でも真っ暗すぎるでしょ。いまいち足元も見えにくいし・・・何度落っこちそうになったことか。しかも天井、よくみたらあれ骸骨じゃない? 趣味悪すぎでしょ」

 わたしは上を見上げた。そこには何もなく、ただ深い闇が続いているだけだった。

 やっぱり見えてる景色が違う。

「しかもなんか、足がよくもつれるんだよ。手も、体も重いし・・・マジなんなの? 

ここ」

 言われて美雪を見てみると、体全体に、特に腕と足に黒い靄がかかっている。どうして、わたしと美雪にこんな差が出るのか・・・。

「・・・わたしが上に登るよ。少し手伝って」

「本当にこれ登るつもりなの? 冗談でしょ?」

「登らなきゃ先に進めないよ。やってみよう」

 わたしは美雪に、肩車をしてもらうことにした。

「よっ・・・いしょ」

 そして、両手を伸ばして崖を掴み体を持ち上げた。そのままよじ登る。美雪が、ぽかんとこちらを見ていた。

「ね、できたでしょ。待ってね、今ロープ下ろすから」

「う、うん・・・」

 上に登ると、美雪は呆然としながら言った。

「意外と・・・できるんだ。やば」

 そう言いながら、下を覗き込んでいた。


 その調子でしばらく登っていった。


 どれくらい登っただろうか。二人揃ってクタクタになる頃には、ようやく頂上へと登りきった。そして、少し休憩することにした。

「ねえ・・・本当にあんたじゃないの?」

 美雪が聞いて来た。

「何が?」

「今あたしがこうしてることとか、その原因」

 わたしは首を振った。

「・・・わたしじゃないよ。むしろ、わたしも死んだんだから。わたしのせいで」

 美雪は制服だった。少し気になったので聞いてみた。

「ねえ・・・死んだ時、何してたの?」

「何って・・・遊んでたけど。普通に。「よろよい」飲みながら玲奈の家でゲームやってた。その間も、あの白い変なのがずっと話しかけてきてた。本当にこんなことしてていいのか、とかもう悔いはないのか、とか」

 わたしは黙った。もしかして、本当に死ぬとは思っていなかったんじゃないだろうか。

「すごいうざかった。やたらしつこく聞いてくるし。ていうか、一日中ずっと付きまとって来てたし。でも他の人に見えてなかったから、なんでとか思ってたし・・・で、あんたが見えるっぽかったから、あんたが呪うか何かしたんじゃないかと思った・・・」

 と、きゅうに言葉を区切った。

「ていうか、あんたなにで死んだの? 事故?」

 答える前に、小雪が言った。

「あたし、あんたさえ死ねば呪いが解けると思って。叔父に電話したら、呪い殺してくれるって言ってたから・・・で、呪いかけるの成功した、って言ってたから、あんたはもう死ぬんだ、あたしはもう平気なんだと思って遊んでたんだけど」

 わたしは、叔母と片付けをしている時に謎の「不運な事故」に何度も襲われたことを思い出した。同時に、ネズミのようのものを死神さんが食べてしまったことも。

 あれがどうやら、呪いだったらしい。

 それで仕事の邪魔がどうのとか言っていたのか。

「・・・わたし、夜の0時に、死神さんに連れて逝かれたよ。死ぬんだって分かってたから、一番のお気に入りの服着て・・・」

 そこで、わたしは家族に手紙を残さなかったことを思い出して、後悔した。もっと、伝えきれない全てを書いておけばよかった。もっと、伝えたいことはあった。でももう、遅い。もう、もう二度と、会えない。

 涙で前が滲んだ。でももう仕方がないことだ。

「・・・何それ。死ぬカクゴ決めたって言いたいの?」

「ううん。覚悟なんて決まらなかったよ。今でもまだ死んでないんじゃないかと思っているし」

 わたし達は少しの間黙ってしまった。何を話したらいいか、もうわからなくなってしまった。昔一緒に遊んでた時は、ずっと何か喋ってたのに。

 今となっては、何をしゃべっていたのかも朧げで思い出せない。多分、ろくなことを喋ってなかったんだと思う。

「あたしは遊んでたら「時間です」って言われて・・・急に眠くなってさ。気づいたらここにいたんだけど。何? 本当に死んだわけ? なんかのドッキリとかじゃないの?」

 わたしはさっきまでの、美雪がドロドロに溶けた姿を思い出した。

「・・・多分、違う。わたし達、本当に死んじゃったんだと思う・・・」

「じゃあ、ここはどこ? 天国じゃなさそうだし、地獄? なの?」

「さっき「煉獄」って言ってたよ。天国と地獄の狭間・・・じゃなかったっけ。その場所にいるらしいよ」

 わたしはふと疑問を抱いた。この旅路は、いったいなんの旅路なんだろう? わたし達は、どこへと向かっているんだろう?

「え、じゃあ何? これから天国にでも行くの?」

「・・・わかんないや」

 わたし達は再び黙ってしまった。

「・・・とにかく、先に進んでみなきゃわかんないよね。そろそろ行こうよ」

 美雪は黙ったまま頷いた。




ー3ー



 次の道は、狭苦しい洞窟だった。ひどい圧迫感と先の見えなさは、これまでの数倍もあった。

「・・・結構、きついかも・・・」

 そう呟いた瞬間、嫌な気配を感じた。

 振り返ると、美雪が溶けかけていた。

「ね・・・なんで・・・こんな目に合わなきゃならないの・・・? あたし、あたしさ・・・ずっと、親に無視されて・・・でも期待されて・・・・意味わけわかんない。・・・よね。辛い・・・辛くて、それで・・・なのに、こんな・・・あたしが、何したっていうの?」

 口から、目から黒い液体がボトボトと流れ始める。

「ま、待って! 落ち着いて、大丈夫だよ! きっと良くなるから・・・!」

 声をかけると、ドロドロがわずかに収まり、また人らしくなっていく。

「・・・あたし・・・あたし・・・」

「大丈夫! 諦めちゃダメだよ、きっと・・・きっと良くなるから・・・」

 大して慰めにもならない言葉が、口から溢れでてくる。どのみち、わたし達は死んだ。これ以上良くなりようがないのに。

「あたし・・・まだ・・・死にたくない・・・だって・・・冷たくされた分、遊んでやりたいんだから・・・だからまだ・・・死にたくないよ・・・」

 わたしは言葉を続けられなくなってしまった。ずいぶん、わたしはお気楽に「グレた」らしいことが、よく理解できてしまった。この子には、この子なりの痛みがちゃんとあって、苦しみがちゃんとあって、絶望していた。わたしはそんなこともわからず、便乗して悪ぶっていただけだったのだ。

 それでも美雪がして来たことは多分、わたしと同じかそれ以上のことだったと思う。わたしは深葉ちゃんしかいじめていなかったけど、美雪は他のクラスの子とも馴染んで、他にも何人もいじめていたらしい。その内容は詳しくは聞いていないけど、結構凄惨なものだったと聞いている。

「そうだね・・・でも、今は先に進もうよ。ね・・・それしかないよ」

 美雪の姿はどんどん人間に戻っていく。

「そう・・・だ・・・もう・・・それしか、できることがないんだもんね」

 美雪は顔を上げた。

「・・・行くよ」

「うん」

 頷くと、美雪は投げやりな足取りで歩いて行った。




ー4ー



 しばらく進むと、ようやく出口が見えて来た。

 洞窟を出ると、開けた川原に出た。地面は丸く削れたたくさんの灰色の石で構成されていた。

 川は大きく広く、流れも急なところと緩やかなところがある。深いところも浅いところもある。ただ、とにかく広い川が、横に流れていた。

 その瞬間、美雪が悲鳴を上げた。

「ど、どうしたの?」

 美雪はその場に座り込み、悲鳴を上げながら後ずさっている。

「美雪? ねえ、どうしたの!?」

 美雪は真っ青な顔をしながら川を指差した。

「馬鹿! これが見えないっていうの! 頭おかしいんじゃねえの!? まさかこんなところ渡れっていうのかよ!? ふざけてんじゃねえよ!!」

 そういうと美雪は泣き出した。

 わたしは何もない川原を眺めながら、改めて見える景色が違うことを思い知った。

「大丈夫、ただの川だよ。・・・少なくとも、わたしにはそう見えるから」

 美雪は泣きながら頭を横に振った。

「これ! 無理だよ! なんで、こんな・・・」

「どう見えるの。教えて、お願い」

 聞くと美雪は震えながら叫んだ。

「血が! ドロドロに溶けた人間が、いっぱいいる! 川から手を伸ばして、すごい声であたし達を呼んでるんだよ・・・! それに、すごいひどい臭いじゃん! 血とか、内臓とか・・・うんことか、ゲロとかの、いろんなひっどいにおい・・・! その中を、でっかい化け物が泳いでる! ほら! 笑い声が聞こえる! 呼んでるじゃん!」

 わたしは絶句した。それが本当に見えている景色なんだとしたら、どれだけ恐ろしいんだろう。わたしはしゃがみ、美雪の手を握った。

「大丈夫、わたしが先導する・・・」

 その時、ゲラゲラとぞっとする様な笑い声が聞こえ、思わず固まった。ひどい悪臭も感じた。嫌な気配に、わたしは辺りを見渡した。

 すると、異常な光景が広がっていた。先ほどまでの穏やかな川原などどこにもなく、先ほど美雪が言った様な光景が広がっていた。

 川は血で赤く染まり、そこら中に何かの肉片や臓物、汚物が流れている。そしてそこら中に皮膚や肉が溶け、ドロドロになった人間達がいた。ほとんど骨になってしまっている人間もいる。まさしく、ひしめき合っているという様な光景だ。それらが一斉にこちらを見ながら、手招きと呼び声を浴びせてきていた。

 そしてその川で、大きな、クジラの様に大きな魚が跳ねた。ぎょろっとした巨大な目でこちらを見ていて、口元は不気味に歪んでいる。

 そんな川が、二百メートル程も続いている。

「こ・・・っれ・・・は・・・」

 わたしは黙り込んでしまった。まさか、こんな景色が美雪に見えているなんて。

「この川を、渡る・・・」

 わたしは深く息を吸い込んだ。ひどい空気が、肺の隅々まで染み渡る。

 これが、美雪の罪。

「・・・行こう」

 美雪はいっそう激しく泣き出した。

「嫌だ! 嫌だ!! こんな汚い・・・! 怖いとこ、行きたくない! 気持ち悪い・・・!だって、どうなるかわかんないんだよ! こんなおぞましいところ、無理だよ!」

 わたしは美雪の目を見た。

 大丈夫だ。本当はわたしが見えていたあの川なんだ。それが、美雪の罪のせいでこんな景色に見えてしまっているだけなんだ。

「わたしが手を繋いでるから。わたしが一緒に、絶対一緒にこの川を渡るから。わたしだけさっさと行ったりしないよ。引き摺り込まれそうになったら、助けてあげるから! だからいこう。それしかないよ」

 美雪は泣きじゃくりながら頷いた。嫌でも、行くしかない。

 わたしは美雪の手をしっかり掴むと、美雪の手を引いた。

「・・・行こう」

 わたしは川に入った。美雪も、続いて川に入る。

 生ぬるく、ぬるっとした液体が足にまとわりつく。先ほどまで感じていた悪臭は烈度を増し、悪心が込み上げてくる。まだ十メートルも進んでいないのに、百五十メートルは進んだと思われるほどの疲労感とおぞましさが、胸にせり上がってくる。わたしは、美雪の手を再び強く握った。

「わあっ!?」

 美雪の悲鳴。振り返ると、美雪が溶けた集団にまとわりつかれている。ひどい悪臭が、すぐそばまで迫っていた。

 わたしは美雪の手を引っ張り、それらを手で追い払った。

「離れろ! この! 美雪は渡さない!」

 それらに触れると、ぬるっとした感触とともに取れた皮膚が腕にまとわりついた。全身に震えが走った。

 それらは一向に美雪から離れようとしない。わたしは、美雪の手を思いっきり引いた。

「急ごう! これ以上何かされたら、たまったもんじゃないよ!」

 美雪は激しく泣きじゃくっている。が、素直にわたしについて来た。

 そして再び歩き出した。時折、ぬるっとした手や骨が、わたしの足を掴み、川底へ引きずり込もうとする。それは美雪も同様な様で、悲鳴を上げていた。わたしは、それらをすべて追い払った。わたしはペンダントを握りしめた。

 ようやく五十メートルほどのところにたどり着いた。ここは少し深くなっていて、胸あたりまで液体で沈む。わたしは目の前を流れていく汚物にぞっとしながらも、どこか慣れ始めていた。

 美雪は何も喋らない。ただ、時折狂った様に暴れるのだった。

「嫌! やだ! 寄ってこないで! やめて!」

 その度にわたしは美雪の手をしっかりと握りしめた。

「美雪。諦めないで。絶対に渡り切るよ。何があっても一緒だからね」

 美雪は言葉を返さないが、泣きながら頷くのだった。

 七十メートルほど。

 体がどんどん重たくなっていく。前に進むどころが、流されない様にするのでやっと、というくらい水流が強い。両足に何かがまとわりつく気配が、行ったり来たりする。それでもわたしは着実に、一歩を進めていく。美雪の手を引いて。

 その時だった。美雪を掴むわたしの手を、引き剥がそうとする力を感じた。わたしを美雪を、引き剥がすつもりの様だ。わたしはペンダントから手を離し、その手を振り払った。「離して! わたしは美雪を置いていくつもりなんかないよ! 絶対に一緒に、この川を渡り切るんだから!」

 そう声をかけると、手は少し力を失う。わたしはかまわず、美雪の手を引く。

 百メートル地点くらいだろうか。

 全身が重たくなって、これ以上進むこともできない、そう思えてしまうほどの疲労が襲いかかって来た。それは美雪も同様の様で、荒い呼吸が聞こえる。

 と、目の前に、あの大きな魚が現れた。

 ぷっかりと浮かんだ魚は、その大きな横腹を見せながら、わたし達に話しかけて来た。

「そこいくお嬢さん方。いい加減諦めたらどうだい? わしがみえるということは、それなりに重い罪を犯して来たんだろう? この先は地獄へとつながっている。君たちは地獄に行くためだけに、このおぞましい川を渡っているんだよ。諦めて川に身を任せなさいよ。そうしたら全てが楽になる。地獄へ向かうこともなくなる。ここで溶けて一つになって、全てを諦めて沈もうよ。なんなら、わしが食べてやってもいいんだぞ」

 魚はニヤニヤと笑っている。わたしは魚を睨みつけた。

「うるさい。わたしは先に進むんだから。たとえこの先が地獄だったとしても、少なくともこの川を越えてやるんだから。ね・・・」

 そういうと、美雪がわたしの手を離した。

 瞬間、川は何もない、平坦な川へと姿を変えた。水も透明、濁りのかけらもない。

 強いていうなら、目の前に釣りをしているおじさんが一人いる。おじさんは微かに笑いながら、わたしたちを見ていた。

 わたしは驚いて美雪を見た。

「・・・地獄・・・こんな苦労しても、この先に待ってるのが地獄? こんな嫌な思いばっかりして、こんな辛い思いばっかりしてるのに、地獄だって? ・・・もう、嫌。冗談じゃない・・・ねえ、こず」

 わたしは嫌な予感に震えた。

「・・・何?」

「ねえ、ここでもうやめちゃおうよ。あたし、疲れちゃった。食べてもらえるんなら、そうしちゃおうよ。あたし、もう嫌。もう・・・疲れたよ」

 美雪が溶け始めた。両目と口から、どろどろした黒い液体がこぼれ始める。

「あたし・・・あたし、なんのために生きて来たのかな。なんでこんな辛い思いしながら生きて来て、その上で死んで、こんな目に合わなくちゃいけないのかな。あたし・・・全部、無駄だったんだよ。そんでさ・・・」

 そういうと、どろどろの美雪はわたしを見た。

「あたし、そんなことないって言って欲しいんだね。そんなことない、きっと救われる、報われるんだ、って。言って欲しいんだ。わがままだよね。自分勝手だ・・・よね。でもいいんだ。苦しんだんだ。それくらいはしてもいいよね。・・・」

 わたしは美雪の方へ行くと、両頬を叩いた。

「いたっ!?」

「ねえ、美雪。約束したでしょ。わたしだけさっさと行ったりしないって。引き摺り込まれそうになったら助けるって。今だってそうだよ。あんただけ置いて行ったりするもんか。それで、わたしは先に進みたい。だから無理にでも連れてくからね」

 美雪が元の姿に戻っていく。だんだん、暗い両目に元の自分勝手な色が戻ってくる。

「・・・そこまで言うなら行ってあげるよ。でも本当に地獄だったら、あんたのこと絶対許さないからね」

 わたしは頷くと、再び美雪の手を握った。

 すると何もなかった川原は、一瞬にして元のひどい光景に変わってしまった。

 魚の笑うケラケラと言う音に、わたしは前を向いた。

「そうかい、そうかい。あんた、物好きだねえ。他人の罪、ちょっと背負ってあげてるんだ。その上で前に行こうって言うんだねえ」

 わたしは黙った。どう言う意味か、ちょっとわからなかった。

「そんなに言うなら通してあげよう。でもきっと、後悔するよ。ここでわしに食われておけばよかったなってさ」

 そういうと魚はざぶりと音を立てながら、汚れた川に潜って行った。

 わたしと美雪はしばらく黙った。

 今の魚が言っていたことが本当かどうかは分からない。わたし達が本当に地獄に向かって歩いているかもしれないかどうかなんて、現状、判断なんかできない。できればそうでないと思いたいが、そうも言っていられないのだ。

「・・・行こうか。ここにいても仕方ない・・・よね」

 美雪は何も答えてくれない。

 わたしは美雪の手を引いて再び歩き始めた。


 いったいどれほどの時間が経っただろうか。わたし達は、ようやく川を渡りきった。

 あまりの疲労感に、川原へぐったりと座り込んだ。

「・・・あたしさ」

 少し休んでいると、美雪が唐突に言葉を発した。

「ずっと親に放置されてたんだよ。家に帰ると、机に五百円が置かれててさ。褒めてもらった事も、叱られた事もほとんどなくてさ。無関心っていうの? そんなんだった。何度話しかけても鬱陶しそうにあしらわれてさ。なんか何もかも嫌々やってるっていうか。でもお金ちょうだいとか、あれ買ってとかいうとくれたりしたから、悪い親じゃないと思ってた。でもなんかずっと虚しくて。だって、話何も聞いてくれないんだよ。 話しかけてもくれないし」

 美雪は少しだけ黙った。もう手は離してしまっているので、何もない川原しかわたしには見えていないけど、美雪は川を眺めていた。どこか遠くを眺める様な目つきだった。

「でさ。なんか思ったんだけどさ。暴力とか暴言とかはなかったけど・・・いい親じゃなかった・・・んだよね。きっと。これって、虐待に入るの? みたいな感じだけどさ」

 美雪は自分の言葉に困っている様だった。きっと、どうしてこんなことを話し始めたのか、自分でもわからないんだ。

「なんていうか・・・辛かった・・・のかもね。わかんないんだけどさ・・・なんで辛いのか、とか・・・わかんない。あたし、・・・本当、なんのために生まれて来たんだろうって思ったりしてさ。こんな状態のまま、このままで生きていかなきゃいけないのかなって・・・」

 わたしはじっと話を聞いていた。ここまでのものを抱えていたなんて、思いもしなかった。やっぱりわたしは、かなりお気楽に生きていたみたいだ。

「・・・なんでこんなこと喋ってるんだろ。あたし、何が言いたいのか自分でもわかんないや。同情して欲しいのかな・・・いや、ちょっと違うかな。なんでなんだろう」

「それは・・・辛かったね。多分、ずっとちっちゃい頃から、ずっと辛かったんだよ。自分を認めてあげてよ。ね・・・」

 そう言うと、美雪は激高した。

「あんたに何がわかるって言うの! あんたみたいにさあ、ただ単純に思春期拗らせてるだけのやつとは大違いなんだよ! あたしがどんな思いで生きて来たのか、あんたにわかる!?」

 わたしは黙った。多分、分からない。

 きっと、美雪はずっと自分の苦しみに確信が持てないで来たんだ。物理的な暴力があったわけじゃなかったから、お金や欲しいものはもらえたから、本当に悪い親だったと言い切れるのかどうか、ずっと分からなかったんだろう。

 美雪の親は多分、黒寄りのグレーゾーン。ネグレクトだ。

 だけど、真っ黒ってわけじゃなかったから、分かりにくくて・・・。それで、よく分からないもやもやとした感覚を感じながら生きて来たんだと思う。

 わたしは、ちょっとした覚悟を決めた。

「百パーセント理解は、多分できないよ。でも、七十パーセントでも・・・それこそ二十パーセントかもしれないけど、想像することはできるよ。わたしなんかじゃ、到底わかりきれない様な世界で生きて来たんだよね。そうだよね・・・ごめんね。気づけなくて」

 美雪は黙った。

 美雪が望んだ言葉とは、おそらくかけ離れた言葉しかわたしには言えなかった。きっと、美雪もなんて言って欲しかったのかはわかっていないんじゃないか・・・。そう思いかけて、わたしは一つ思い至った。

「あのね。それ、多分・・・ネグレクトっていう立派な虐待だよ。何も、殴られなかったから、暴言を吐かれなかったから虐待じゃない、って言うのはもう、古い考え方なんだよ。そんなさ・・・わかりにくい虐待だからこそ、辛かったんでしょ。いや、辛いかどうかも根拠を見出せなくて、分からなくなってたんでしょ。大丈夫。辛かったんだよ、美雪は。ちゃんと辛かったんだよ。美雪は、虐待を受けながら育って来たんだよ」

 美雪は黙ったまま何も答えない。が、表情は変わっている。複雑な表情だ。

 美雪が欲しかったのはこれだ。理論的に近い「辛かった証拠」だ。正体の見えない辛さを美雪は、どうしていいかずっと分からないで来たんだ。

 わたしと、同じ。

「でも、それでもやって来ちゃったことはまずかったんだよ。だからここにいるんだ。だから・・・わたし達にできることはもう、一つしかないよ」

 美雪は何か言いたそうに口を開いた。が、言葉が出てこない様だった。

「進もう。少しでもいい結果になるんだとしたら、可能性に賭けてみようよ。わたし達は、きっとできることがあるはず。だから、行こう」

 美雪は静かに頷いた。よく見ると、少しだけ泣いているのが見て取れた。




ー5ー



 川を越えて少し歩くと、そこには断崖絶壁があった。細い、細い道が続いている。いや、それは道と呼ぶにはあまりにも細すぎる。足一つ分のスペースしかない。

 壁にはロープが杭で打ち付けてあった。あれを掴みながら進むしかないみたいだ。

 美雪はもう怒鳴ったり暴れたりする気力がない様だった、じっと断崖絶壁を見つめている。

「・・・今度は・・・こんなとこ・・・進んでくの?」

 わたしは頷いた。ずっと一本道だった。これ以外の道はどこにも見当たらない。この崖も、先が全く見えなかった。

 美雪はもう絶望的な表情をしている。それもそうだ。この先、もしここを通り抜けられたとしても、まだ先があるかもしれないんだ。こんな、すぐに落ちてしまいそうなところ、わたしだって怖い。

 わたしはふと下を見た。この先はどこに繋がっているんだろう。ここから落ちたら、突帯どこにたどり着くんだろう。わたし達はもう死んでいる。だから、死ぬことはないとは思うけど。

 でもきっと、恐ろしく怖いんだろうな。もしかしたら底なんてなくて、永遠に落ち続けるのかもしれない。どこまでもどこまでも、ずっと落ち続けて・・・頭がおかしくなっちゃうんじゃないか。いや、もしかしたら地獄に繋がっていて、落ちたらさっきの川よりひどい世界に行くことになるかもしれない・・・。

 そういえば最初、溶けてわたしに襲いかかって来た美雪に対して、死神が「叩き落とす」と言っていた。と言うことはやはり、この挑戦においてもここから落ちると言うことはおしまい・・・「ゲームオーバー」を指すのだろう。

わたしはぞっとして、思わず身震いをした。だって、わたし達にやり直すことはできない。残機なんてそんなものも、リスタートすることもできない、一発勝負だからだ。わたしは改めて、崖の下を見つめた。

「ねえ美雪、ちょっと手、出してくれる?」

 聞くと、美雪は戸惑いながらもわたしに手を差し出した。

 その手を握ると、やはり周囲の光景は一変した。崖の足場はそこら中が崩れていて、壁のロープはボロボロだ。しかも、全体的にうっすらと湿っている。これだと足場が滑りそうだ。崖の下を見下ろすと、何かたくさんの蠢くものが見えた。

「・・・下、どうなってるの」

 美雪が聞いて来た。わたしは言葉を詰まらせながら、なんとか答えようとした。

「あ・・・れ・・・は」

 またしても大量の人がいた。皆一様に溶けていて、黒ずんでいる。こちらに手を伸ばしている。・・・が、それだけではない気がして、わたしはじっと覗き込んだ。

 耳をすますと、シャカシャカという無数の音が聞こえて来た。眺めているうちに、不意にその正体に気づいてしまった。全身に悪寒が走る。

「わっ・・・!? う、うわっ・・・!」

 美雪が怪訝そうに崖の下を覗き込む。同じ様にしばらく見つめていたが、美雪も気づいた様で、悲鳴をあげた。

 無数の人々は、黒ずんでいたわけではなかった。その前身を、大量の虫が這っていたのだ。よくあたりを見渡すと、底にいる虫達と同じ虫であろう、黒い虫があちこちに塊を作っていた。人々はわたし達を呼ぶために手を伸ばしていたわけではなかった。助けを求めていたのだ。

 ・・・よくよく聞くと、悲鳴の様な、すすり泣きの声が聞こえてくる。

 わたしと美雪はしばらくの間言葉が出せなかった。体を、凄まじい嫌悪と震えが襲う。

「あたし・・・虫、・・・無理なんだけど・・・」

 美雪の言葉。いやいや、これは虫が得意だとしてもゾッとするレベルじゃないか。

「わたしだって無理だよ・・・しかも、こんな・・・」

 わたし達は一面の虫を見つめた。シャカシャカという音は、この大量の虫達が這う足の音だったのだ。

 その時、ブン、という音がして耳元をその虫が飛んで行った。

「うわっ!」

 思わず身をすくめた。こんな中、このボロボロの断崖絶壁を渡るのか・・・!?

 わたしは美雪から手を離した。・・・が。

「あれ・・・?」

 景色が変わらない。あの、大量の虫で埋め尽くされた光景が、まだ広がっている。

「でもまあ、いいか。美雪だけに辛い思いさせるわけにもいかないよね」

「・・・何? どうかしたの?」

「あ、ううん。なんでもない」

 わたしはじっとりと湿った空気を吸い込んだ。かび臭い様な、苔むした様なにおいが鼻腔いっぱいに広がる。

「・・・行こうか」

 美雪は黙って頷いた。

 わたしは、細い細い足場へと、足を一歩踏み出した。




 わたしは震えた。ロープは今にも切れそうなのに、これを掴んで体を支えながら移動しなくてはならない。文字通り、命綱というわけだ。いや、もう死んでいるんだけど。

 止まっているはずの心臓が、恐ろしく唸る様にバクバクと鼓動する。手がブルブルと震える。先は全く見えないし、足場は不安定だ。

 その時、美雪が片足を滑らせ、ずるっと嫌な音を立てながら、ロープにぶら下がった。わたしの心臓は跳ね上がった。全身から凄まじい量の冷や汗が吹き出す。

 美雪は固まっている。それもそうだ。

「ねえ、落ち着いて・・・ゆっくりだよ。慎重にね」

 わたしはできるだけそっと話しかけた。低い虫の羽音が邪魔をする。

 美雪はおそろしくゆっくりと足場に膝を乗せ、慎重に足を乗せた。小さな石のかけらが、パラパラと虫の沼に落ちていく。

「・・・死ぬかと・・・思った」

 美雪の声はひどく震えていた。わたしも、震えを押し殺した。今にも、膝が笑い出してしまいそうだ。でも、そうなってしまえば終わる。あの虫の塊の中に、頭から真っ逆さまだ。

 その時だった。頭の上から、大量の虫の塊が降って来た。

 虫は服の中にも入り、わたしの皮膚を這い回り、噛みついた。体が激しく震え出すのがわかった。大量のトゲ付きの足が、うじゃうじゃと体でうごめいた。全身に、三十匹くらいのカナブン大の虫が、まとわりつく。美雪が息を飲む声が聞こえた。

 わたしは必死で振り払った。片手でロープを掴みながら、もう片方の手で虫を落としていく。服もめくって、払いおとす。口に虫が入りそうだったから、声を上げることもできないが、喉は悲鳴をあげたがってくつっと鳴った。

 しばらく振り払うと、虫はいなくなったが、周辺ではまだぶうんぶうんと羽が鳴っている。わたしは全身が重くなるのを感じた。

 しゃがんで休みたい。少しでいいから、ほんの少しでいいから休みたい。

 しかしどれだけ先を見ても、一向に進んだという気配はなく、休めそうな足場もない。わたしは足を止めて、片手でペンダントを握りしめた。

 わたしはこんな状況だというのに、なぜか他人を想った。急に、美雪や家族が同じ目にあうという想像が生まれたのだ。その瞬間、嫌だ、と強く想った。

 もし美雪や家族、深葉ちゃんやおじいちゃん達・・・その人たちや、他にも顔も名前もない誰か他人がこんな目にあうのだとしたら、それは自分がこんな目にあうのと同じか、それ以上くらいに嫌なことだと想った。

 わたしは、何もできないかもしれない。でも、一心に祈った。その人たちがこんな目にあうことなんか起こりませんように。美雪も含めたみんなが、こんなひどい思いをするなんて、そんなことあって欲しくない。

 当事者だから思うのだろうか。それとも、どこかわたしに余裕があるのかだろうか?

 いや、余裕なんてない。なのになぜか、とっさに他人達の顔が頭に浮かんだのだ。

 その時だった。前方上にあった虫の塊がずり落ち、目の前を通り過ぎて、崖の下へと落ちていった。わたしは思わず息を飲んだ。

 タイミング的に、わたしが祈るような思いを抱く時間がなければ、わたしか美雪に落ちていた。こんな偶然ってありうるのか。

 とにかく運が良かった。わたしは、再び足を進めた。振り返ると、ちゃんと美雪もいる。どこか安心感を覚えながら、わたしは少し前方のロープを掴んだ。じっとりと湿っている。




 しばらく進んだ。一向にゴールは見えない。その間、美雪が何度か足を滑らせた。その度にわたしの心臓は凍りつき、どうか美雪が落ちませんようにと祈りながら、服を掴んで引っ張り上げた。

 少しして、美雪がボソッと言った。

「・・・いつになったらつくんだろ」

「さあ。わかんないや。・・・でも諦めちゃダメだよ」

 と、美雪の歩が止まった。移動音が聞こえなくなって、わたしは美雪が止まったことに気がついた。

「どうしたの?」

 美雪は崖の下をじっと見つめている。

「・・・あのさ。落ちたら・・・あそこにいる人たちみたいになっちゃうのかな。あの人たちが赤いのってさ・・・虫に食われてるから・・・なのかな」

 わたしは黙って崖の下の人を見た。相変わらず、すすり泣く様な声を上げながらこちらに向かって手を伸ばしている。

 その人たちとわたし達は随分と離れているはずだ。距離的にも、百五十メートルは離れていそうだ。なのに、その人達の状態ははっきりと見て取れるし、すすり泣く音も虫が蠢く音もはっきりと聞こえる。少し不思議だった。

「わかんない。・・・そうかもしれないね」

「てことはさ・・・あの人たち、ここを渡るのを失敗した人たち・・・なのかな。あんなにたくさんの人たちが・・・失敗、・・・したのかな」

 わたしは黙った。わたし達は、そんな恐ろしい場所にいるのか。

「ねえ、もし失敗したらどうなるんだろう。本当にああなっちゃうのかな。・・・ねえ」

 そんなことないよ。きっと大丈夫だよ。なんとかなるって。

 そんな言葉を今、期待されている。

 それがわかってしまったから、何も言えなくなってしまった。多分、嘘になる。美雪の両目から、黒いドロドロしたものが流れ始める。目が、ぽっかりと穴が空いたようになくなっていく。

「ねえ。ねえねえねえ。どうなの。どうなんだよ。あたしは大丈夫でしょ。そうなんでしょ。ねえ、ねえねえ、なんで何も言わないわけ? あたしを無視するっていうの?」

「違うよ! ただ・・・」

 わたしは黙った。難しすぎる。どっちに転んでも絶望的だ。こうして前に進めてない以上、嘘をついてもつかなくても、どのみち長くは持たない。

「ただ、なんて言ったらいいか・・・わからなくて」

 言うと、美雪のドロドロが少しだけおさまった。が、それでもぼたぼたと黒い液体は流れ落ちる。

「こずでもわかんないんだ。あっそ。でも大丈夫だよね、あたしは。ねえ」

 ねえ、を皮切りに、美雪がドロドロと溶け始めた。

「ねえ、疲れたよ。もう疲れたの。ねえ、疲れちゃったよ。あたし頑張ったよね。もう頑張ってるんだよね。辛かったよ。そうなんでしょ。あたしは大丈夫なんだよね。ねえ。あたしは辛かったんでしょ。疲れたんだよ、もう、疲れた疲れた疲れた・・・」

 最後の方はボソボソと言うつぶやきに変わる。わたしは慌てて言った。

「ま、待って! そうだよ、美雪は辛かったんだよ! 大丈夫・・・」

 言いかけて、わたしは声を詰まらせた。

 何が大丈夫なもんか。わたしだって疲弊している。わたしですら、大丈夫かどうかなんてわからないんだ。わたしにばかり押し付けないでよ。わたしだって・・・。

 そう思いかけて、足場に黒い液体が垂れたことに気がついた。慌てて顔を手でなぞると、真っ黒い液体が手にこびりついた。

 わたしはぞっとした。

 そうか。この液体は、感情なんだ。黒くて深い、痛みに近い強い感情が、肉体じゃないわたし達の魂から溢れ出して、ドロドロと落ちていくんだ。このままだとわたし達は感情が溶けきって、魂まで溶けきって、何一つとして成し遂げられないままで終わる。

 わたしは息を吸い込んだ。

「大丈夫だよ!」

 強く叫ぶと、美雪が少しおさまる。

 美雪は、わたしの言葉を待っている。空間にすすり泣きと、虫の羽音が響く。

 わたしは美雪をまっすぐ見た。

「大丈夫! わたし達なら超えられる! 本当にできるんだよ! これは嘘でも誇張でもない、本当のことなんだ! どんなにきつくても、辛くても、わたし達はちゃんと辛くて、痛くて、虚しかった! あの思いは本物なんだ。だからきっと、あれを抱えてこれたんだからできる! わたし達だから!」

 わたしは心の底から叫んだ。不安や恐怖を打ち消す様に。悲鳴を受け止められる様に。

 美雪はしばらく黙っていた。が、徐々に人間の形へと戻っていく。やがて、泣きながら笑った。

「・・・そういうんじゃないよ。別に。・・・そんなの、わかんないし」

 わたしは再び祈った。何に対してかは、わからないけど。どうか美雪とここを乗り越えられますようにと。ただ願った。

 すると。

「・・・あ、こず! 見てよあれ!」

 声に顔を上げると、崖の終わりが見えた。広い場所に出ている。

 わたしは喜びでいっぱいになった。美雪も、声のトーンが明るい。

 そしてようやく、わたし達は崖を渡りきったのだった。




 わたしは達はしばらくぐったりと休んだ。全身が重い。もう、一歩だって歩けそうにない。ふと、崖を振り返るとあの大量の虫の姿はどこにも無くなっていた。

 もう羽音もすすり泣きの声も聞こえなくなっている。

 ようやく超えたんだ、という実感が、奥の方から湧き上がってくる。何かで、満たされた様な感覚を覚えた。

「なんか・・・達成感すごくない」

 美雪に言われて初めて、これが達成感なんだということに気がついた。

「・・・確かに。美雪も、よく頑張ったね。お疲れ様」

「あんたもね」

 言葉を交わし合う。美雪が、ちゃんとここにいる。わたしは安堵でいっぱいになった。

 わたしは先の方へと目をやった。そこはまた、洞窟になっていた。先はまた見えない。

「・・・・・・さっき言ってくれたの、嬉しかったよ」

 美雪の言葉に、わたしは呆然とした。

 地球が一回転してしまっても、美雪からは聞けないような言葉だったからだ。この長い旅路で、美雪にも何か心に変化が現れてくれたのかもしれない。

「・・・ううん」

 でもなんだか、少しだけ嫌な予感がした。なんだか、形だけ言っているような。いや、そんなことはないはず。

 わたしは崖下を覗き込んだ。もう、あの虫に食われている人々も見当たらない。

「・・・よくあんなものまた見ようとするよね。悪趣味じゃない?」

「美雪にはまだ見えるの?」

 美雪は怪訝そうな顔をした。

「見える、って・・・全然いるじゃん。虫も人も」

 わたしは黙ってしまった。美雪にはまだ、あの景色が見えているんだ。

 本当にここは地獄じゃないんだろうか? 

 終わらない道、山のような壁、恐ろしい川。そしてこの崖。煉獄と聞いたものの、恐ろしい場所に変わりはない。なんだか、何かを試されているような・・・そんな気さえしてくる。そして、まだ続く道。・・・でもなんだか、もう直ぐ終わりが訪れるような・・・そんな気がした。

 わたしは立ち上がった。まだ体は全然重たいけど、動けないほどじゃない。

「そろそろ、行こうよ。多分・・・終わりは近いんじゃないかな」

「ん・・・」

 美雪も立ち上がった。そして、わたし達は洞窟へと足を向けた。




ー6ー



 意外にも、洞窟はあっさりと終わった。抜けた先には、凄まじい光景が広がっていた。

 ぽっかり何もない空間に、ゴロゴロと岩がいくつも浮いているのだ。そして遠くの方に、光る出口が二つ見える。

 ふと横を見ると、看板があった。古めかしい、時代劇に出てきそうな、木でできた看板だ。そこには一言だけ書いてあった。


〈望め〉と。


 そんなわたしを見て、美雪も看板を見た。

 そして嫌な感覚を覚えた。美雪がどんどん、どんどん黒くなっていくような感じがした。

「〈助かるのは〉・・・〈一人のみ〉・・・」

 美雪がそう呟いた。わたしは息を飲んだ。

 美雪がわたしを見た。黒い液体が、目からわずかに溢れている。

「一人しか助からないんだって」

 見えている文字が・・・違う。

「あのどっちかの出口のうち片方が助かる出口なのかな」

 わたしは何も言えなかった。どちらが正しい光景なのか、わからないからだ。

 もしかしたら、わたしが間違った世界を見せられているのではないか。本当は美雪の世界の方が正しくて、わたしは都合のいい景色だけしか見えていないのではないか。

 わたしは頭を振った。どちらが正しいにせよ、わたしは美雪に助かって欲しい。美雪の見えている世界が正しかったとして、その上でその文章なんだったとしたら、わたしは美雪に助かって欲しいと思う。

「ねえ・・・助かるって、なんのことだと思う」

 わたしは答えようとした。が、美雪に遮られた。

「生きかえるってことじゃないかな。生きて、いい人生を歩める権利が得られるんだよ、きっと。ねえ、多分そうなんだよ。そうじゃなかったら、天国へ行く権利だよね」

 美雪が、少しずつ溶けていく。

「あたしは生きたい。まだ生きて、いろんなことをしたいし、親に仕返しをしてやりたい。なんなら殴っても、殺してもいい。だって、虐待だったんでしょ。それくらい、いいよね」

 わたしは答えられなかった。

 そんなこと言ったら、わたしだって生きていたい。やり残したことも、やりたいこともまだたくさんある。だけど・・・。だけど、美雪に生きて欲しい。もし「助からない方」っていうのが地獄行きだったとしても、わたしは美雪に幸せになって欲しい。

 でもやっぱり自分も生きたい。生きて、生きて・・・次に死ぬその時まで、精一杯恩返しがしたい。

 もしわたしの看板があっているなら、望みさえすれば二人とも生還できるかもしれない。片方の出口に二人で入ることだって可能なわけだ。・・・そうだ。

「ねえ、片方の出口に二人で入ろうよ。そうすれば多分・・・」

「ふざけないでよ!!」

 わたしは突然の怒鳴り声に、びっくりして固まってしまった。

 美雪は肩で息をするように、荒い呼吸を繰り返している。

「そんなことしてどっちもダメにされたらどうするんだよ! あたしは生きたいんだよ! あんたなんかに可能性を潰されてなるもんか!」

 美雪の体がどんどん溶けていく。が、いつもと違う。黒く、そのまま人型になっていく。

「あたしは右側の扉に行く。明らかに良さそうだもんね。光ってるし、きっと生き返れるんだ」

「ま、待ってよ。その〈助かる〉っていうのが生き返れるってことなのかどうかも分からないでしょ。落ち着いて・・・」

「落ち着いていられないよ!」

 わたしは出口を見た。遠目に見ても、どちらも同じ穴にしか見えない。

「あのね・・・待って、落ち着いて聞いて欲しいんだけど・・・わたしと美雪だと、見えてる景色が違うみたいなんだよ。だからちょっと手を握らせて。そうしたら美雪の見てる景色、わたしにも見えるから」

 そういえばわたしと美雪が手をつないでいる時に、美雪はわたしの景色が見えていたんだろうか?

 いや、違う。見えていなかった。手をつないで川を渡っていたとき、美雪は川であの溶けた人間たちに襲われていたじゃないか。わたしの景色には、あの人たちはいなかった。

 美雪は苛立ちながら言った。

「じゃあさ、そうしたらいうこと聞いてくれる? あたしが助かるためになんでもしてよ」

 わたしはひとまず、美雪に従うことにした。実際にそうするかどうかは置いておいて、どんな景色が見えているのか知りたかったのだ。

「・・・わかった。じゃあ手、出して」

 美雪は苛立ちながらも手を出した。

 わたしはその手を握った。その瞬間、辺りに強風が吹いた。オォォォ・・・と何かのうなり声のようなものも聞こえる。そして、ぽっかり何もなかった岩の下には、大量の手が、顔があった。皆、こっちを見ている。一様に動いている。心臓がギチッと締め上げられ、背に、冷たい水が流れるような感覚が走った。それらは皆、わたし達や浮いている岩に向かって手を伸ばしていた。そしてそれらすべてが、聞くに耐えない軋むような悲鳴をキシキシとあげていた。

「うっ・・・!?」

 思わず後ずさった。そして、遠くの出口に目を向けた。すると美雪が言っていた通り、右側の岩の穴が扉になっていて、明るい光が漏れ出していた。左側は、何もない、わたしが見たのと同じ穴が空いていた。そして、足場になる岩はわたしが見えていたものよりも数が少なく、小さく、ボロボロだった。

 と、美雪がわたしの手を振り払った。景色は元の、ぽっかり空いた底のない穴と、それぞれが瓜二つの出口と、宙に浮いた岩だけが残った。風も吹いていない。

「じゃ、あたし行くから。あんたは左側の出口使ってね」

 そう言うと美雪は足場に向かって飛び出した。すると、まるで、重力が減ったような、なだらかな曲線を描いて、美雪は宙を移動した。そして、小さな足場に乗ると、再び同じような軌道を描きながら次の足場へと乗り移った。

 美雪は二つ目の足場に足をかけた瞬間、ずるりと滑った。美雪は必死の形相で足場にしがみつく。すると、美雪が何かに引きずり込まれるようにズルズルと落ちていく。

 わたしは慌てて飛び出した。体がふわっとした軽い感覚に覆われ、緩やかな軌道を描いて一つ目の足場に到達した。

 そのまま二つ目の足場に飛び移る。そして、美雪のそばまで行って服を掴むと、思いっきり引き上げようとした。

 が、重い。恐ろしいほどの重さだ。小さな足場に、必死に踏ん張った。

 絶対に美雪を助けるんだ。わたしは一心に思った。少しずつ、美雪の体が持ち上がってくる。やっぱり美雪はさっきのやつらに、足を掴まれて引きずり込まれそうになっているんだ。

「ううぅぅ・・・美雪・・・!」

 そのまま、ぐっと美雪の体が持ち上がった。勢いよく引っ張り上げる。美雪は、岩の上に伏せるように乗った。ゼエゼエと、荒い息が漏れる。美雪も、体全体で息をしている。

 わたしはさっきの、美雪の手を通じて見えた景色を思い出して、背筋が凍った。あの大量の手に掴まれたらと思うと、わたしはとてもじゃないが正気でいられる気がしない。

 美雪はわたしを見上げた。どことなく、憤慨しているような・・・。」

「ねえ、こず、なんでもっと早く助けてくれなかったわけ?」

「・・・え?」

 わたしは美雪が落ちたのを見て、すぐに駆けつけたのだ。それに、先走って飛び出していったのは美雪の方だ。

 助けたのにこんな言い方なんて・・・と思ったが、わたしは再び先ほどの光景を思い出した。きっと、美雪もパニックを起こしているんだ。相当、怖かったに違いない。

「でも助けたんだから、お礼くらい言ってよ」

 言うと、美雪は声を荒らげた。

「何それ! 意味わかんないんだけど。勝手に助けたくせに感謝しろって言うの? ふざけんなよ!」

 わたしは絶句した。いくらパニックになっているからって、そんな・・・。

 そう思いかけて、思い直した。これ、普段の美雪じゃないか。美雪はいつもこんな性格だった。絶対に謝らないし感謝しない。誰かにしてもらって当然、やってもらって当然という性格だった。昔、わたしもそうだったから、そう言う意味で気が合っていたのかもしれないけど。

 美雪は猛然と立ち上がった。わたしは美雪に押され、足場から落ちそうになったので、大きな別の足場へと飛び移った。

 ギリギリ、足場にしがみつくとこができた。そんなわたしを、美雪は横目で少し見ただけで行ってしまった。

 そうだ。美雪はあんな子だった。美雪はどれほどの人に迷惑をかけながら生きいたんだろう。わたしは正直、美雪のやってきたことに対して詳しくはない。ただ、小学校時代からいじめや暴力をやっていたらしい、とは風の噂で聞いた。でも、その時の私にとってはそんなこと、どうでもよかった。ただ話題が合って、好きなものが近くて、美人でリーダーシップのある美雪についていっただけなのだ。そうして一緒になって悪ぶっていた。

 わたしはそうだったから、たまたま美雪にいじめられなかった。それだけなのかもしれない。もしわたしが美雪にいじめられる立場だったなら、ここまで美雪とともに来ることができただろうか?

 それでも、思い返してみれば美雪は私達・・・取り巻きというものなんだろうか。に対しても、当たり自体は強かった。ちょっとでも美雪の気に入らないことを言うと、あからさまに嫌な態度を取られたり、他の取り巻きに悪口を流されたりした。

 わたしは前方の岩に飛び移った。もう美雪は、かなり先の方へ行っている。

 わたしが美雪を心配するのは、取り巻きだったからなんだろうか。惰性で、美雪のいいように使われているだけなんだろうか。

 いや、それでも私は自分の意思で美雪を助けてきた。以前の私だったら多分、美雪のことを・・・助けていなかったんじゃないか? 状況が状況なだけに、私のことだけしか見えていなかった可能性はある。

 いや、むしろ一人でこの旅路を超えてこられたのだろうか?

 わたしが美雪を助けてこれたのは、以前の私とは気持ちが変わったからで、もし美雪を助けないルートだったなら、わたしは何も変わっていない、以前の私だったはずだ。もしそうなんだとしたら、今の私なら超えられた道も、超えることができなかったのではないか。だとしたら、美雪を助けてきたのは必然だったのではないか。

 本当にこれでよかったのか?

 わたしはそう思った。そう考えるしかなかった。変わったわたしだったからこそ、美雪を助けて来れたのだ。その選択は、果たして合っていたのだろうか。

 あの子の人生はひどいものだった。それでも多分、わたしの知らないところでやってきたことは、相当まずいものだったんじゃないか。あの当たりの強さでいじめをしていたんだとすると、相当の鋭さになったはずだ。あの子はそんなことを、何年もやってきたんだ。誰かが悪いんだと言い訳しながら。

 わたしは胸が詰まるような感じがした。だとしたら、あの子の見ていた風景はある種のペナルティなんじゃないか。ゲームでいうとハードモード、だったのかもしれない。

 だとしたら、もしそうなんだとしたら、本当に正しい景色により近いのはわたしの景色、ということになる。そうだとすると、おそらくこの場所を乗り越えるのに必要なのは何かを望むことだ。

 わたしは再び思った。試されている。何か、魂の真価のようなものを、何かの答えを求められているんじゃないか。

 もしそうなら、美雪はまずいことになるかもしれない。今の所、わたしの見えた文字である〈望め〉という条件だけならクリアできるだろう。でももし、この旅路全てがただ辛いだけじゃなくて、意味があることだったのなら、美雪は何か答えを出せるのだろうか?

 わたしは悪い予感しかしなかった。



 しばらく進むと、美雪がいた。それも、今にも落ちそうになりながら、必死で岩へしがみついている。

 あの様子だと、おそらくあの辺り一帯に強い風が吹いているのだろう。美雪は必死の形相だ。

 わたしは迷った。美雪を助けるべきなのか。それとも、置いていくべきだろうか。わたしはペンダントに手を当てた。そうだ。

 わたしはどうしたい。今、この瞬間に助けるにしろ見捨てるにしろ、どちらを選びたいのか? だ。わたしは、わたしがしたいことをするべきだ。

 心は決まっていた。

「美雪!」

 わたしは美雪に向かって手を伸ばした。岩にしっかりと捕まって、落ちないように気をつけながら。

 美雪は片腕で岩からぶら下がっていた。体が、強風に煽られているかのごとく揺れ、手足をばたつかせながら何かを振り払おうと躍起になっている。もう、体の半分はあの恐ろしい人々に引きずり込まれているんだろう。

「ほら、捕まって!」

 美雪は一瞬だけためらった様子を見せた。が、わたしに手を伸ばす。

 わたしは美雪の手を、絶対に離すまいと強く握りしめた。その瞬間、あたりの景色が一変し、美雪があの恐ろしい、大量の白い人の手によって引きずり込まれそうなのが見えた。おびただしい量の人間が、美雪に向かって手を伸ばしていた。わたしは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い浮かべた。

 美雪を助けたい。いや、たとえこの人が美雪でなかったにしても、わたしは助けたいと望んだだろう。わたしは必死に引っ張った。

 絶対に助けるんだ。絶対に、少しでもいい結果するために、絶対に前に進んでみせる。

「あああぁぁぁぁぁあああ!!!」

 掛け声とともに、美雪を思いっきり引っ張り上げた。美雪の体が持ち上がる。わたし達は、岩の上でぜえぜえと呼吸した。

 助かったんだ。美雪は。

 流石に二回目となると、美雪は複雑な思いを抱いているようだった。荒い呼吸でわたしをじっと見ている。

 わたしは美雪を見返した。

「美雪が無事でよかった。わたし、凄くホッとしてるよ」

 美雪は無言でわたしを見た。そしてゆっくりと口を開いた。

「・・・なんで」

「何が?」

「何でこの状況であたしを助けるの」

 わたしは何も言えず、穴を見つめた。

「何で! あたしを助けるの!? あたしがいなかったら右側の扉に行けるんだよ! あたしはねえ、生きたいんだよ!」

 そういうと美雪は再びドロドロと溶け始めた。

「だいたいさあ、そうやって偽善押し付けて、何が楽しいわけ! 私に同情してるの!? 樫道と仲良くしてみたり! 私達と距離取ったりしてみてさあ! いい人ぶってんなよ! それとも気持ちいいの? 私を助けて優越感にでも浸ってんのかよ!」

 美雪の目からボトボトと黒い液体が流れていく。

「私が哀れだって言うんでしょ。惨めだって言うんでしょ。かわいそうだって言うんでしょ!?」

 わたしは息を吸い込んだ。そして、美雪をしっかりと見据えた。

「わたしは! 美雪に幸せになってほしい! ずっと毎日絶望してたんでしょ。毎日が苦痛で仕方なかったんでしょ。だから! 美雪にもっと、幸せになってほしいんだよ! そのために助けてるんだ! たとえそれでわたしが地獄に落ちるなら、それでもいい! わたしだって、悪いことはたくさんしてきたんだから、それくらい当然なんだから!」

 美雪は黙り込んだ。

「偽善でもいい、同情でもいい! 何だって構わない。わたしは美雪を助けたい!」

 美雪が少しずつ元の姿に戻り始めた。ドロドロが収まり、人の形に戻っていく。

「ねえ、ここも一緒に行こうよ。きっと、一人で行くよりずっといいよ」

 美雪は黙ったまま頷いた。もう、泣きそうな顔だった。




ー7ー



 わたしと美雪は、お互いに協力しながら岩を移動していった。進むスピードは、先ほどと比べると1・5倍ほどになった。少しずつ、出口が近づいてくる。

「・・・ねえ、さっきあんたが言ってたことだけど」

 わたしは美雪を見た。

「何?」

「あのさ。二人で同じ扉に入るっていうの・・・やってみようか。どっちが助かるかわからない以上、どっち選んだって変わりないもんね」

 わたしは頷いた。〈助かるのは、片方のみ〉・・・これはもしかしたら、ミスリードなのではないだろうか。

 もしくは、とわたしは一つ思いついた。あれは、現状の私たちがどうなっているかを示す文章だったのではないか。わたしの場合、望むことで、この先に進むことができる。美雪の場合、一人しか助からない、と言うのは、「このままだと」一人しか助からない、と言う意味なんじゃないかと思う。もしわたしの見えている景色が正常な世界なんだとしたら、そう言う解釈をしても間違いであるかどうか。それはわからないが、可能性はある。

 そうしたら・・・もしかしたら、助からない可能性があるのは美雪の方なんじゃないか。

 わたしは恐怖に見舞われながらも祈った。

 どうか美雪が助かりますように。どうか美雪にいい結末が訪れますように。

 その時、美雪が飛ばされてきた。美雪の景色だと、やはり強風が吹いているようだ。わたしは、美雪を抑えた。

「大丈夫?」

「うん、なんとか・・・ここ、危なすぎっしょ」

 と、美雪が再び黒い液体を両目から流した。

「ほんと、さっきの三人・・・死ねばいいのに。こんな目にあうこともなかった・・・」

 わたしは首を振った。

「死ねって言うのは・・・その、あんまり良くないと思う。死ぬって実際、私たちが味わっている状況なわけだし・・・」

 美雪は舌打ちをした。

「ここでも偽善ぶるの? きもいんだけど」

 そう言いつつも、ドロドロは止まっている。

 わたしは安堵しつつ、出口の方へと目を向けた。

 あと、五十メートルほどだ。

 これで、わたしたちの試練の旅が終わる。

「どっちの出口に入る?」

 わたしが聞くと、美雪は問答無用で答えた。

「右に決まってるでしょ。どう見ても特別そうじゃん」

 わたしは出口を見た。瓜二つの洞窟が見えるだけだ。

「・・・わかった。そうしよう。あと少しだよ」

 その時、わたしの足元の岩が崩れた。わたしは驚いて足を滑らせ、落ちそうになった。

「うわっ・・・!? や、やばい」

 美雪はわたしと穴、それぞれを交互に見つめている。

 わたしは岩をしっかりと掴んで、慎重に体を持ち上げた。落ちたらおしまいだ。美雪は、そんなわたしの姿をただ眺めていた。

「何やってんの? 鈍くさ。置いてくよ」

 二回も落ちてる人が何を・・・と思ったが、あえて何も言わないようにした。これ以上美雪を刺激したっていいことなんか何もない。

 わたしは美雪を見て、意を決して言った。

「ねえ、美雪」

 美雪は改まった様子のわたしを見て、怪訝そうにしている。言わなくちゃいけないことがある。どうしても。このままだと、よくないことが起こりそうな予感がした。

「なにさ」

「今までのこと、反省したほうがいいと思う」

 美雪は、そんなわたしを鼻で笑った。

「は? 何言っちゃってんの? やっぱり正義のヒロインぶるつもり? 反省って何したらいいのさ。ぼっちでコミュショーな奴らに接してあげてただけじゃん。むしろ、ぼっちじゃなくしてあげたんだから感謝してほしいくらいなんだけど」

 わたしは心臓が握りつぶされそうな、そんな苦しさを感じた。まさか。

「美雪は、いままで何をしてきたの。何で、そんなことしたの」

 答えは、わかっていた。だけど聞かざるを得なかった。美雪から直接聞きたかった。でも聞きたくなかった。合っているかもしれない予感の、答え合わせをしたくなかった。

「別に。大したことしてないけど。ハンザイになるようなこと何もしてないし。ちょっと構ってあげただけだよ。ぼっちだったしね」

 やっぱりそうだ。美雪は、美雪は・・・何も考えてなかったんだ。深くも、大して興味も抱かなかったんだ。他人の痛みについて、誰かの苦しみについて。美雪がいじめてきた人の中にはきっと、深葉ちゃんみたいな、恐ろしい事情があって暗い性格をしていた子もいるだろう。深く絶望しながら、毎日を生きている子もいただろう。そんな子達の苦しみには一切目を向けず、自分のことしか見えていないんだ。「自分がそう思ったから」、「きっとそうだから」、だなんて、そんな浅はかな考えでいじめを続けてきたんだ。

 いや、むしろいじめとすら思っていなかったんじゃないか。構ってもらえなかった美雪にとって、構ってもらうこと、ぼっちじゃないことっていうのはいいことだったんじゃないか。だから、構ってやった自分を偉い、くらいに思っている可能性だってある。

 浅はか、としか言いようがない。まさか、ここまでとは思わなかった。

「・・・そう、思ってるんだ」

 美雪は不快そうに眉をひそめた。

「だから何? 何かダメなことでもあったっていうわけ? あんたどんだけ偽善者なの?」

 偽善者・・・でも、いいや。美雪と同じような人間には、なりたくないし。

「美雪は・・・美雪はどう思った。この旅で・・・これだけきつい思いをして。どう思った?」

 美雪は憤慨するように言った。

「どうも何も、フザケンナって感じだよ。何であたしがこんな目に合わなきゃいけなかったわけ? まじであの三人死ねばいいのにさあ」

 わたしはぞっとした。

 美雪は、これほどの旅を重ねてきたのにも関わらず、何一つ成長しなかったんだ。何一つ、思いを覆すことはなかったんだ。

 否、自分を見つめ直すことくらいはできたのかもしれない。でも、それ以上が全く進んでいないのだ。自分が一体何をしてきたのか、全く考えようともしていないのか?

「・・・冗談でしょ?」

 わたしは、割と真剣に聞いた。さっきの予感があっていたら、どれだけ恐ろしいんだろう。無自覚に罪を重ねるっていうこと。人を傷つけ続けるということ。それらの罪の重さを、まさか理解していないだなんて、理不尽ともとれる思考回路が本当に美雪の中にあるだなんて、と脳が理解を拒んでいる。

 いや、きっと違う。これはいつもの、美雪の素直じゃないところが出ているだけなんじゃないか。本当は罪の重さに気付いていて、見ないふりをしているんじゃないか。

 そんなわたしの淡い期待は、たったの一言で崩されることとなる。

 美雪は言った。たった、たった一言だけ言った。

「は?」

 と。

 明らかに馬鹿にするような声で。

 わたしは絶句した。もう、何も言えなかった。

「そんなくだらないこと言ってないでさっさと行くよ。もうゴールが近いんだし」

 美雪はそう言うと穴を忌々しげに見た。きっと、さっきの大量の顔と手を見ているんだ。今は何よりも試練を早く終わらせることだけが目的だ、というのがわかる。わかってしまう。そして、自分は助かるのだ、という根拠もない自信を、信じきっているということも。

 美雪は次の岩に向かって飛び出した。わたしはもう何も言えず、黙って後についていった。こんなの、こんなのあんまりだ。

 でもきっと、昨日までの私は、この美雪と大差なかったんだ。そう思うと、恥ずかしさで顔が火照ってくる。涙が浮かぶ。なんて恥ずかしい思い違いをしていたんだ。




 もう後五メートルほどのところに来た。わたし達は右側の出口に向かっていて、出口はもう目前、といったところだ。

先を行っていた美雪が、わたしに向かって手を差し伸べてきた。

「ほら! もうゴールだよ!」

「うん!」

 わたしは迷いなく美雪の手を握った。と・・・。

 突然、腹部に強い衝撃が走った。一瞬、何が起きたか理解できなかった。わたしはゆるい軌道を描きながら、左側の出口の前を過ぎて落ちそうになった。慌てて、左側の出口の端にしがみつく。

 呆然と美雪を見ると、美雪は勝ち誇ったような顔で言った。その時、ようやく理解した。わたしは今、美雪に蹴り飛ばされたんだ。

「こっち側にあんたなんかを通すわけないでしょ! 本気にしたの? バカじゃない?」

 わたしはずん、と重たい感情に殴られた感じがした。がっかりするような、ドスンとした重い感覚がのしかかってくる。再び、脳が理解を拒む。

 わたしは今、失望したんだ。美雪に。

 ここから自力だと、右側の出口に行けそうにない。ぐるっと回ってこなければ・・・。そう思って後ろを見ると、なんと足場がなくなっていた。美雪が笑いながら言った。

「あんたは気付いてなかったみたいだけどさ。さっきから、後ろの足場がどんどん落ちていってたんだよ。落ちなかっただけラッキーだと思えば?」

 わたしはなおさら呆然と美雪を見た。もう、頭が動かない。パンクしそうだ。

 美雪はどやっと、さも「してやったり」、と言う表情をすると、右側の出口に手をかけた。

「じゃ、あたし行くから。せいぜい地獄で楽しくやってね。・・・あたしは生きるんだ!」

 嬉しそうにそう言うと、見えない何かを開けるような動作をして、出口を通り抜けていった。

 わたしは、なんとなく理解してしまった。美雪は、最初っからこのつもりだったんだ。わたしと一緒に右側の出口を通るなんて言葉、嘘だったんだ。

 わたしは出口によじ登り、座り込んだ。ぽたっ、と手に黒い液体が滴る。

 わたしは、裏切られたんだ。

 重たい実感が、じわじわとこみ上げる。

 これが、絶望感か。

 わたしは少しの間、じっと座っていた。

 もしかしたら・・・わたしは、誰かにこれを味あわせたことがあるんじゃないか? 心当たりはいくつもある。わたしは一体、どれほどのことをしでかしてきたのか・・・。

 ぼたぼたと、両腕に黒い液体が落ちる。量はどんどんと増えていき、やがて頭がぼうっとしてきた。

 そうだ。わたしは悪い子だ。たくさんの人に迷惑をかけて、嫌な思いをたくさんさせて、理不尽の一端をになってきた。こんなにひどい存在に落ちぶれていたのならばいっそ、ここから飛び降りちゃえばいい。助かる可能性? そんなの、わたしなんかにはあまりにも都合の良すぎる話じゃないか。そんな可能性さえ、捨てなくてはならないのではないか?わたしにはそんな可能性、ないほうがいい。こんな自分なんか、いなくなったほうがいい。そうだ、美雪は〈助かるのは片方のみ〉って看板を読んでたじゃないか。わたしがいなくなれば、美雪は助かるんじゃないか? わたしは、美雪に幸せになってほしいし、わたしなんか・・・。

 そこで、思考が途切れた。たった一言だけ、くらげのように浮かんできた言葉があった。

〈望め〉と。

 わたしは顔を上げた。そうだ。やらかしてきたことがなんだ。絶望させてきたのがなんだ。わたしは、償わなくちゃならない。悪いことをしたなら、謝らなくちゃならない。過去の私に、決別をしなくてはならない。今ここで飛び降りるのは、逃げにしかならないじゃないか。

 もし、もしわたしが助かったなら。

 わたしは立ち上がった。やらなきゃいけないことがある。未練がたくさんある。もしも、それを叶えることができる可能性があるのなら、贖罪のチャンスがあるのなら、諦めるべきじゃない。どんなに自分が醜くとも、そこから逃げたらいけない。

 わたしは大穴に背を向けた。出るんだ。ここから。出て、助かる可能性に賭けてみよう。その「助かる」っていうのが何に対してなのかはわからない。裁かれているのは、わたし。どんな可能性だって構わない。過去の自分と、決別しよう。

 わたしは、出口に向かって足を踏み出した。




ー8ー



 気づくと、わたしは畳の上の紺色の座布団に座っていた。目の前には四角いちゃぶ台と、緑茶の入った薄緑色の湯のみが一つ、置いてある。

 辺りを見渡すと、部屋の右側の、下半分がガラスになっている障子から、明るめの色の木でできた廊下越しに、池のある庭が見えた。よく見ると、ししおどしまである。反対側はふすまだ。

 と、誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえた。じっと待っていると、障子の下のガラスから、足袋を履いている着物の足が見えた。そのまま、障子が開いた。そこには、ガツトウが立っていた。手には目の前にあるものと同じ湯のみと、白い急須を持っていた。

「やあ。ようやく来たんだね」

 わたしはぽかんとしてガツトウを見つめてしまった。ガツトウはにっこりと笑うと、私の目の前に座った。湯のみと急須をちゃぶ台に置く。

「遠慮しないで飲んでくれ。足も正座じゃなくていいからね」

 言われて、わたしは初めて正座で座っていることに気がついた。でもなんとなく、足を崩す気にはなれなかった。

「ありがとう・・・ございます・・・?」

 わたしは訳がわからないまま、湯のみを見つめた。これは、現実なのか?

「早速だが、君に聞きたいことがある。いいね?」

 わたしは呆然と頷いた。

 ガツトウは満足そうに笑うと、改まった表情でわたしに聞いた。

「単刀直入に聞こう。君は、この試練で何を得たんだい?」

 わたしは黙った。なんと答えていいか、わからなかったからだ。この試練で得たもの。わたしは、試練を思い返した。

 最初は長い一本道だった。あの時は、自分のしてきたことに後悔した。小さな絶望と迷いに苛まれ、ひどいことをたくさんしてきたことを思い出したんだった。

 次は高い山のような、崖のような、岩棚がいくつも並んでいるところだった。あの時は、覚悟した。落ちるかもしれない。消えるかもしれない。そういったことを覚悟して、あとはただ登ったのだった。

 その次が長い洞窟だった。あの時は・・・わたしは、自分がお気楽にグレた、ってことに気がついたのだった。そして、美雪の抱えていた痛みにも。

 そして川。あれは・・・あの時は、とにかく言葉を失った。美雪の見ている景色に、そこを渡り切らなければならない、ということに。そしてわたしは、決意したんだ。美雪とこの川を、絶対に渡りきる、と。

 それから崖。崖では、一度手を握っただけだったのに、なぜかわたしにはずっと美雪の景色が見えていたんだった。滑りそうになったり・・・そうだ。大量の虫が落ちてきた時は、さすがに恐ろしくてたまらなかった。そして、もし自分以外の誰かがこんな目に遭ってしまうとしたら、それは自分がこんな目にあう以上に辛いことだろう、と思ったのだ。そして、祈った。どうか、美雪や家族や・・・いろんな人たちが、こんな目にあいませんように・・・と。

 最後に・・・道のない道。美雪に裏切られた時は、絶望した。でも、わたしは〈望め〉っていう言葉を思い出したんだった。そして、望んだ。贖罪を。

 わたしは何を得たんだろう。わたしは、この旅を通じてどうなったんだろう。

「・・・わたしは・・・」

 わたしはガツトウを見た。真剣な表情をしている。ちゃんと聞いてくれるんだ。

「わたしは成長・・・できたんじゃないかなって、思います。もう、遅いけど。・・・いろんなことを知って、いろんな思いに駆られて・・・それでも、わたしは変われたんだ、って思います。わたしはきっと、変われたんです。あの頃の自分から」

 ガツトウは頷いた。

「なるほどね。・・・じゃあもう一つ」

 ししおどしがかこん、と小綺麗な音を立てた。

「もし今望みが叶うなら、何をしたい?」

 わたしは迷いなく答えた。

「罪を償うことです」

 そうだ。それ以外思いつかない。自分が生きようが死のうが、そんなことは大した問題じゃない。

わたしは自分の尻拭いをする必要があると、過ちの清算をする必要があると気づいたんだった。わたしが今、悪いやつであろうと偽善者であろうと、そんなことは一切関係ないんだ。わたしが、贖罪する必要があるんだ。

 これは他の誰でもない、自分にしかできないことだ。いや、


 自分がやらなければならないことだ。

 今からではきっと、遅いかもしれないけど。


 ガツトウは笑った。柔らかくて静かな、月の光のような笑みだった。

「・・・そうなんだね。君のことはよく理解できたよ。素直な気持ちを聞けたようだ。・・・最後にもう一ついいかい?」

「はい」

 わたしは少し身構えた。きっと重大な質問が来るに違いない。最後に、ときたものだから。きっと、この旅路の全てを問われるに違いない。

 多分、あの言葉だけでは伝わり切らないはずだ。わたしも、説明しても説明しきれないだろう。だから、きっと核心にせまる質問が来るに違いない。

 ガツトウは非常に真剣な顔で言った。

「・・・この部屋、どう思うかね?」

 沈黙。かこん、とししおどしが響く。

「・・・・・・・・・え?」

「この部屋だよ。すこし近代に寄せたつもりだったのだが、部下にずれていると言われてしまってね。・・・どう思う」

「え?・・・え??」

 頭の中がはてなで満たされた。理解が追いつかないまま、頭に浮かんだままを答えた。

「えっと・・・和風で・・・ちょっと懐かしいけど、味があって、わたしは好きです」

 そう、なんとか答えるとガツトウは嬉しそうに笑った。

「そうか! 現代を生きた君がそういうんだからきっといい部屋なんだ! 今度古臭くてカビが生えるだなんて抜かした部下に、軽めのげんこつを食らわせてやらないとな!」

 わたしはなんとなく、あの白い死神を思い浮かべた。

「そう、彼だ。彼がそう言ったんだよ。わたしは近代的で格好の良い部屋にしたつもりだったからね。海外から来たくせに、日本の侘び寂びに興味も持たないだなんてひどい話だと思わないかい?」

「え、ええ・・・」

 そう答えて、気づいた。

 そうだ。このひとはわたしの考えていることが全部わかるんだ。なら、今思ったことも全部伝わったんじゃないだろうか。

 ガツトウはにこにこしている。どうやらそうらしい。

「そ、そしたらなんで、聞いたんですか?」

 ガツトウは茶をすすった。

「君が正直に答えるか否かが知りたかったんだよ。思ったことと口から言うことを統一しない人間は、たくさんいるからね。それに、直接聞けばすぐに何を考えているかわかるだろう?」

 なるほど。なんだか、あまりにも現実味がなさすぎて、思わず納得してしまった。

「そうそう。そのくらいの理解が一番ちょうどいい」

「あの」

 わたしは不意に美雪のことを思い出した。

「あの子は・・・どうなったんですか。あの子は、助かったんですか」

 美雪は美雪なりに絶望しながら生きてきた。それでも確かに悪いことはいけなかったけど、少しは報われてもいいんじゃないか。

「・・・大丈夫。そのうち、君でもわかるだろう」

 そういうとガツトウは目を細めた。

「ここまでこれた人間の願いを、叶えられる範囲で一つだけ叶えてあげられるんだ。人間はいろいろなことを、意識的でも無意識的でも、言われると願ってしまう。わたしはその中から一つ選んで、本人には教えないまま叶えてあげるのさ」

 わたしは真っ先に贖罪を思い浮かべた。単純だけど、これがいちばんの願いだ。他は、わたしは何を願うんだろう。

「・・・わたしの、願いもですか」

「もちろん。例外はないよ」

 わたしは願った。どうか、家族が苦しみませんように。深葉ちゃんに、美雪に幸が訪れますように。

 ガツトウは笑った。

「さあ、そろそろ時間だ。行きなさい。試練、ご苦労様。それじゃあね」

「・・・はい。色々と・・・ありがとうございました」

 きっと試練があったから、わたしは変われた。良くも悪くも、これでよかったんだ。

 すると、視界がどんどん眩しくなっていった。どんどん、どんどん眩しくなっていく。やがて、目も開けられないほどになっていった。




ー9ー



 ようやく光がおさまった。ややあって、薄明るいぼんやりとした景色が見えてきた。とりあえず、地獄ではなさそうだ。わたしはホッとして、美雪を探そうとした。

 が、体が動かない。どうやらわたしは横になっているようだ。体に、ひどい重みを感じる。わたしはなんとか起き上がった。

 視界がぼんやりする。よく見えない。わたしは、口にマスクのようなものを当てられていることに気がついた。

 瞬間、景色がはっきりした。病室だった。

 わたしは呆然とした。天国かどうかわからないけど、こんな景色なのか。

 いや、それにしても嫌にリアルだ。煉獄にいた時もリアルだったけど、現実感が半端なく襲ってくる。わたしは、マスクを外そうとして・・・。

 悪心に襲われた。

 美雪は?

 わたしは勢いよく振り返り、ナースコールと思わしきボタンを押した。少しして、看護師さんがわたしのところへやってきた。

「あ! 目が覚めたんだね! よかった! ご家族に連絡・・・」

「美雪は!? 向島美雪って子、無事ですか!? み・・・」

 そこまで言ったところで、わたしは咳き込んだ。喉がカラカラに乾いている。

「ああ、向島美雪ちゃんね。同級生だってね。隣の病室に入院してるからね。大丈夫よ」

 わたしはマスクを取った。そして、ベッドから落ちるように降りた。

「ちょっと、梢さん? まだ歩くのはきついよ」

 わたしはかまわず立ち上がった。足が萎えているみたいだ。

 わたしのいる病室は一番端だった。となると、隣の病室は一部屋しかない。わたしは手すりを伝ってどうにか隣の病室の前まで行き、名前の貼ってあるプレートを読んだ。

 右奥の、窓際のベッドだ。わたしはよろよろしながら、その病室に入った。その瞬間。

 ピーッ・・・と、長い、変動のない単調な音が聞こえた。

 わたしは震えながら、右奥のベッドのカーテンを開けた。

 そこには、美雪が寝ていた。確かに美雪だった。眠っていた。静かに。呼吸もなく。

 遠くで、看護師さんたちが慌てるような音が聞こえた。

 わたしは、ししおどしが鳴る音を聞いた気がした。




ー10ー



 わたしは今日、深葉ちゃんと街に遊びにきていた。街はいつもの通り、活気立っていた。人々は皆、急ぐように道を歩いていた。

「・・・ごめんね。こんな時に誘っちゃって」

 言うと、深葉ちゃんは困ったように笑った。

「手続きばっかりで疲れてたところだから・・・むしろ、嬉しかったよ。ありがとう」

 結局、美雪は助からなかった。

 わたしの願いは一つ、叶わなかったってことだった。そして、美雪のいちばんの願いも。

 でも美雪が死んだことによって、美雪の両親は今大もめにもめているらしい。両親とも、美雪をネグレクトしていたことが、どこからか発覚したらしく、今はお互いに罪をなすりつけあう泥沼調停になっているそうだ。

 けれどどのみち、未成年に対しての保護法だかなんだかで、二人には何かしらの罪が課せられるそうだ。

 美雪が聞いたら、きっと喜ぶだろうな。きっと美雪の願いの一つに両親への復讐があったんじゃないだろうか。ガツトウは、そっちを叶えたんだ。

 わたしは、二週間も眠っていたらしい。

 わたしが朝、起きてこないことに気づいたお母さんが、わたしを起こしにきたそうだ。その時、わたしが眠っているんじゃなくて意識がないんだ、ってことに気がついたらしい。どれだけ揺らしても声をかけても、一切目を覚まさなかったそうだ。それで、救急車を呼んだらしい。

 美雪の方は、友人と一緒に遊んでいた時に急にぷっつりと糸が切れたように眠ったんだそうだ。最初は酒の飲みすぎだと思って、美雪の友人たちが朝まで眠らせておいたらしいが、朝になって学校へ行く時間になっても起きなかったらしい。状況を察した一人が、12時ごろに救急車を呼んだという。時間のズレがあったのは、酒を飲んでいたのをごまかすためだったそうだ。

 今日で、目を覚ましてから一週間が経つ。

この一週間の間に、なんと深葉ちゃんの両親と兄が、それぞれ事故死した。深葉ちゃんは今、死亡の手続きでいっぱいいっぱいなんだそうだ。それもそうだ。今、親戚の人に手伝ってもらいながら、手続きを進めている。今日は日曜日なので、役所がやっていない。それで、息抜きにと遊びに来たのだった。

 今ではもう、あの時体験したことが本当は夢だったんじゃないか、と思うようになってきた。なんだか、現実の急な変化に頭が追いついていないみたいな感じで、あの日の出来事が遠ざかってゆく。いくつもの試練を受けたことも、死神やガツトウと話したことも、全部が夢幻に思えてくるのだ。

 やっぱり夢だったんじゃないか。あんな体験、現実じゃなかったんだ。

「着いたよ。ここ」

 わたしは目の前の建物を指差した。がやがやと賑やかな音がなっている。店内からは複数の曲がバラバラと聞こえてきていた。そう、ゲーセンだ。

「すごい・・・、一度、来てみたかったんだ」

 深葉ちゃんは目をキラキラさせている。まあ、深葉ちゃんの家族はあんまりいい家族とは言えなかったから、亡くなってすぐでもこう言う反応になるのは当たり前なのかもしれないけど。

 ゲームセンターに入り、まずはクレーンゲームを遊んだ。収穫は残念ながらなかったが、深葉ちゃんは大いに楽しめたようだった。

「次、上の階行こう!」

 深葉ちゃんははしゃぎまくっている。

「そんな急いでもゲームセンターはいなくならないから大丈夫だよ」

 とはいえ、今までずっと抑圧されてきたのだろう。その鬱憤を晴らす、いい機会になるといいと思う。

 上の階は音ゲーや対戦ゲーがあった。わたしはひとまず、音ゲーの中でも難易度の低めのものをオススメした。

「これ、どうやるの?」

「これはね、ここ押して・・・と、チュートリアルが出るから、それ見て・・・」

「あった! これ?」

 その時、うおおおん、と声がした。気になってそっちを見ると、対戦ゲーの一台の前で、若い小太りの男性が頭を抱えていた。

「なんで勝てないんだ! あんなにやりこんだのに!」

 そう聞こえる。気になって、そっちの方をチラチラ見ながら深葉ちゃんに教えた。

 曲が始まったのを見て、「終わったら戻るからね」と言い残して、その対戦ゲーの方を見に行った。なぜだかはわからなかったけど、ものすごく気になったのだ。

 見に行くと、どうやら店内対戦をしていたようだった。小太りの男が再びゲームを始める。が、苦戦しているようで、イライラと貧乏ゆすりをしていた。わたしはふと、対戦相手が気になって、見に行った。

 ゲーム台は十台あった。同じゲームが、プレイヤーが向かい合うようにして座るように並べてあった。なので、その小太りの人の正面か、右前のどちらかに、その対戦相手が座っていると思われた。なので、反対側に回り込んだ。

 見て、息を飲んだ。紛れもなく、見覚えのある後ろ姿。暗いピンクの短髪、背格好。猛烈な勢いでボタンを押し、レバーを操作している。なんだか、プロのゲーマーを思い起こさせるような動きだった。いやいや、そこじゃない。見覚えのあるその姿に驚いたんだ。

「・・・死神さん?」

 カンカンカン、と音がなった瞬間、おそらく死神さんだと思われる人物がガッツポーズを決めた。

「っしゃあ! へへ、どーだよ!」

「あの!」

 意を決して話しかけた。と、青年が振り向く。間違いない、あの死神さんだ。だけど服装は完全にどこにでもいる青年の姿で、耳も尻尾もない。強いて言うなら、赤い首輪をしているくらいだ。鈴は付いていない。

「あ! お前! えーと・・・なんだ? 誰だっけ。・・・」

 わたしは名乗ろうとした。その声を、青年が防ぐ。

「待った待った! 今喉元まで出かけてンだから邪魔すんな。えー・・・かし・・・こず・・・?」

 わたしは待った。まさか、本物なのか? そっくりさんとかじゃなくて?

 青年はパチンと手を打った。

「そうだ樫道梢! そうだろ!」

 間違いない。本物の死神さんだ。わたしは謎の感動に包まれていた。

「そ、そうだけど・・・こんなところで、何してるの?」

 聞くと、死神は不思議そうな表情をした。

「何って、どう見てもゲームだろうがよ。お前はゲーセンに何しにきたんだ?」

「そ、それは・・・ゲームだけど」

 違う、聞きたいのはそれじゃない。

「仕事、とか・・・そう言う関係の、あれだよ。しかも今・・・普通の人に、見えてるの?」

 聞くと死神は得意そうに笑った。

「おう! シゴトがひと段落したからユーキューもらったんだぜ!」

「ゆ、有給? とかあるの?」

「おう!」

 死神は今にも尻尾を振り出しそうな勢いだ。今はないけど。

「お前、コーエーに思えよ! 俺様が名前覚えてるなんて超特別なんだからな!」

 わたしは言葉をなくした。本物だ。本当の本当に本物だ。あれは夢じゃなかったんだ。あの辛かった旅路は、本物だったんだ。

 そう思った瞬間、両目から涙が溢れた。

「お、どうした? なんかゴミでも入ったか?」

 わたしはボロボロと泣き出してしまった。腕で拭うが、黒くドロドロしたものじゃなくなっていることに今更ながら気がついて、さらに泣けてきてしまった。

「・・・?」

 死神はきょとんとこちらを見ている。それもそうだ。わたしだって、一日しか会っていない人にいきなり眼の前で泣かれたら困惑する。それも、恥ずかしながら涙が止まらない。

 わたしは必死で涙をこらえた。

「・・・ごめん。ちょっとね・・・なんでもない」

 死神はぽかんとしている。

「おう・・・? 大丈夫か? どっか痛ぇのか? お、それともあれか? また連れて逝かれそうだと思って怖くなっちまったのか?」

 死神がにやにやと聞く。

「違うよ。あの試練が・・・本物だったと思ったら」

 死神はまだにやにやしている。やっぱり、ちょっとアホだ。このひと。

「なんだよー、そんなに俺様のことが恐れ多いかぁ? しょうがねえやつだなあ」

 なぜか嬉しそうだ。し、多分その「恐れ多い」は使い方が違う。

 その時、さっきの小太りの男性が声をかけてきた。

「痴話喧嘩ですかね! なら、外でやってもらえませんかね!」

 死神は黙ったままじっと男を見ている。多分、「痴話喧嘩」の意味はわかっていないだろうけど、絡まれていることは理解できるらしい。そしてやっぱり、普通の人にも見えているんだ。

 死神は立ち上がり、小太りの男性を黙ったまま見下ろした。男とは身長も体格も全然違う。十五センチか、二十センチ近く大きい。体格もがっしりしている。男は縮こまった。

「あ、その・・・あの、えっと・・・」

 死神は黙ったまま男を無表情で見下ろしている。

「な、なんでもありませんでした・・・ごめんなさいっ!」

 今度はわたしがぽかんとしてしまった。てっきり殴りかかるものだと思っていた。死神は男が去るのを見届けると、ふうっと息を吐いた。

 聞こうとした瞬間に、死神が言った。

「・・・人間となるべく揉め事起こすなって、ガツトウ様に言われてンだよ。前、フォーリンに「人間と喧嘩になりそうになったら、黙って相手をガン見しろ」って教わってさあ」

 なるほど。そういう。

「へえ・・・」

 確かに、この見た目と体格だったら、大抵の日本人なら逃げ出すだろう。なんだか、涙が完全に引っ込んでしまった。良くも悪くもありがたい、と言うべきだろうか。

「梢ちゃん!」

 後ろから深葉ちゃんの声がした。わたしは振り返った。

「・・・その人は?」

 わたしは少しだけ、なんて答えたものかと考えたが、そんなにやましい関係じゃないんだから、考えることもないだろう。

「ちょっとした知り合い。悪いひとじゃないよ」

 深葉ちゃんは少し考えるそぶりを見せた。

「・・・じゃあ私、ちょっと他の音楽ゲームでも遊んでくる。後で呼んでね」

「あ、ちょっと!」

 深葉ちゃんは行ってしまった。

「なんだぁ? あいつ・・・」

「深葉ちゃんっていうんだよ。わたしの友達」

 死神はわたしを見た。

「トモダチ? なら放っといていいのかぁ?」

 わたしは少し悩んだけど、やっぱり死神と少し話がしたい。

「少しだけ話したいんだけど。・・・いい?」

 死神は不満そうな顔をした。まだ他のゲームで遊びたいようだ。

「少しだけだから! お願い!」

「・・・。そこまで言うんなら。なんか食いもんくれたらいいぜ」

「・・・え」

 何か持ってたっけ? わたしはかばんを漁った。

「あ、これあげる。・・・食べかけだけど」

 わたしは小粒のグミがたくさん入っている小箱を取り出した。死神が興味深そうに見ている。

「これ、なんだ? どうやって出すんだ?」

 わたしは箱の口を引っ張った。

「ここを、こうして・・・あ、これグミなんだけど」

 すると死神はパッと顔を輝かせた。

「おっ! これグミなのか! まじかよ、俺様グミ好きなんだよ!」

 これは、予想外の反応だ。わたしは、死神にグミを箱ごとあげた。

 死神は早速グミを数粒口に放り込み、もごもごさせている。

わたしは早速、頭の中で聞きたいことを整理した。知りたいことはたくさんある。

「まず美雪について聞きたいんだけど・・・何か知らない?」

 聞くと、死神は眉をひそめた。

「さあ? ミユキって確か、フォーリンが担当してたほうだよな?」

「そうだよ。・・・美雪は、あの後どうなったの? ・・・どこへ行ったの」

 死神はへらっと笑った。

「分かんね。でも、フォーリンに聞けば何かわかるんじゃねえの?」

「聞けば、って・・・わたし、そんな簡単に探し出せたりしないし・・・」

 わたしは少し、わがままを言おうと決心した。深葉ちゃんには悪いけど、わたしは、会えるかどうかもわからない、白い死神に会って話を聞きたい。これを逃したら、もう二度と訪れないチャンスかもしれない。

 深葉ちゃんに頼んでみよう・・・そう思った時、その当人が走ってやってきた。

「深葉ちゃん!? どうしたの、そんなに急いで・・・」

 深葉ちゃんは息を切らせながら言った。

「ごめん・・・大叔父さんが、至急描いて欲しい書類があるから、帰ってきてくれないかって・・・電話が来て」

 わたしは少し驚いた。タイミングが良すぎないか。

「いや、いいよ・・・こっちも、予定できそうだったし」

「そうなの? でも、気を遣ってもらったのに・・・せっかく、遊びに誘ってくれたのに」

「いいよ、気にしないで。わたしも、深葉に気を遣わせちゃったし。また今度遊ぼうよ」

 深葉ちゃんは明るい笑顔を見せた。

「ほんと! ありがとう。じゃあまた、今度ね!」

 そう言うと深葉ちゃんは走って行ってしまった。

「・・・行っちゃったか。残念」

 深葉ちゃんと喫茶店巡り、きっと楽しかっただろうな・・・そう思うと、少し残念に思えてくる。

 でもいい。わたしにはもう、「また今度」の約束ができる。それは、何よりもありがたいことだった。

「・・・で、二つ目なんだけど」

「お、なんだ?」

 死神はもうグミを半分ほど食べきっている。余程気に入ったのだろう、味の違う一粒一粒を吟味している。

「これは聞くまでもないことなんだろうけど・・・わたし、本当にあの試練を乗り越えたんだよね」

 死神はニカッと笑った。

「おう! お前すごいやつだよな! 最初お前を見たときはマジで無理だと思ってたけど・・・やるな。見直したぜ」

 わたしは最も気になっていたことを聞いた。

「あの試練ってさ・・・どうしてわたしと美雪で、見える景色が違ったの?」

 それを聞いた死神は腕を組んで考え込んだ。何かを思い出そうとしているようだ。

「んー・・・なんでだったかなあ・・・理由はあるぜ。思い出せねえけど。お前だけ依怙贔屓されてたわけじゃねえから、そこは安心しろよな。確か・・・んー・・・」

 死神はけらっと笑った、

「わかんね!」

 わたしはコケそうになった。仕事、何年くらいやっているんだろう。立ち居振る舞いから、その道のプロ・・・ってほどじゃないだろうけど、それなりに長く所属していそうな気がするのだが。

「ま、フォーリンに聞けばわかるかもな。あいつ、物覚えは悪いけど、一度覚えたことなら絶対に忘れねえからなあ」

 全部、白い死神さん頼りらしい。わたしはため息をついた。

「なーんかゲーム飽きてきちまったなあ・・・みんな弱えし・・・」

 わたしはふと、思い至った。

「なら、コンビニにでも行かない? 何かお菓子とか売ってるかもよ」

 それを聞いた死神は目を輝かせた。

「マジで!? 菓子売ってんの!? コンビニってあれだろ、小さめでなんかめっちゃ眩しい店だろ!」

 そうだ。だいたい合っているが・・・コンビニに行ったことがないのだろうか?

「行ったことないの?」

 すると死神はけろっと言った。

「俺様、ゲーム好きだからキューリョー全部ゲームに使っちまうし、俺様たちは食わなくても存在し続けらるからな」

 だとすると・・・と、少し妙案が浮かんだ。

「ねえ、ハンバーガー食べてみない?」

 死神はきょとんとした。

「はんばーがー? なんだそれ」

「人間のご飯の一つだよ。多分、気にいると思うよ」

 わたしは行く店を頭の中で決めた。

「マジか! そりゃ気になるな! 連れてってくれよ!」

 わたしは頷いた。そして、バーガーショップに向かうことにした。




 わたしは死神を「王様バーガー」に連れて行った。死神はこういった店に入るのが初めてなようで、かなり興奮していた。

「すげえ、すげえ! なんだこれ! 面白えなあ!」

 わたしはひとまず王道バーガーを二つ頼んだ。片方はセット、もう片方は単品のみ。

 そして商品が出来上がると、二階の客席の方へと足を進ませた。

 席に着き、わたしは改めて話を聞こうとした・・・が。死神は期待の眼差しでバーガーを見ている。・・・まるで、「待て」をされている犬のようだ。

「・・・食べていいよ」

 言うと死神はパッと嬉しそうな顔をして、バーガーを両手でつかんだ。

「これ、どうやって開けるんだ?」

「それはね、ここの部分をこうやって・・・こう、包み紙を受け皿みたいにして・・・」

「へえ!」

 言うと死神は、案外あっさりとバーガーを持つことができた。こう考えると失礼かもしれないが。

 わたしがバーガーを食べたのを見て、死神が真似をするようにバーガーに食らいつく。

そして、はしゃぎだした。

「なんだこれ! すげえ! めっちゃうめえんだけど!」

 やっぱりそうだ。給料は全部ゲームにつぎ込んできた、と言っていた。なんとなく、ものの買い方もいまいちよく分かっていなさそうだ。

 偏見かもしれないが、死神は濃い味やジャンクフードが好きそうだなあと思ったのだ。その予想はどうやら的中したらしい。まあこればっかり食べるのは体に良くないと思うが、そこは死神。多分、大丈夫だろう。

わたしはざっと、ものの買い方を教えてみた。死神はハンバーガーを食べながら、割と真剣に聞いていた。が。

「わかんね!」

 ものすごい溌剌とした笑顔で言われた。思わず脱力する。でもなんか、そんな気はしてた。

「じゃあ、帰ったらガツトウさんに聞いてみて」

「わかった!」

 恐ろしく素直だ。こんなに素直なひと、今まで会ったこともない。まるで犬だ。いや、あの耳と尻尾から察するに犬なんだろうけど。

 そして、あの白い死神さんとは正反対と言っていいほどの性格だ。

「・・・って、え!」

 よく見ると、食べるスピードがものすごく早い。わたしは食べ始めたばかりだったのに、もう半分ほど食べきっている。王様バーガーのハンバーガーは基本的にかなり大きめだ。それなのにだ。わたしはかなり驚いた。

「どうした?」

「な、なんでもない」

 わたしもバーガーを食べた。少しだけ急ぎ気味に。

「で、何の用だったっけ?」

 言われて、わたしは思い出した。そうだ。すっかり忘れていた。

「あなたたちは、いったい何だったの?」

 死神はドヤっとしながら答えた。

「最初に言っただろ? 死神だってなァ。あっちに人間連れて逝くシゴトしてんだよ」

「それは・・・なんとなくわかる」

 現に、わたしは連れて逝かれた。まあ、自分が悪かったのだから仕方がないことなんだけど。けど・・・わたしが聞きたいのはそれじゃない。でも、この質問はやめることにした。多分、わたしが望んでいる答えは得られそうにない。

 そういえばガツトウが「最近生まれた神」がどうのとか言っていた。もしかしたら、その「神」が下した行動を実行する課とか、そんな感じなのかもしれない。

「あなたは、どうしてわたしの担当だったの?」

 死神はバーガーにかぶりついた。もぐもぐしながら答える。

「さあ? 特に理由はないから、たまたまだったんじゃねえの?」


 わたしは一つ、思っていたことがある。もし、わたしの担当が白い死神だったら、どうなっていたのか。

 おそらく、この黒い死神が美雪を問答無用で煉獄に送っていたんじゃないだろうか。煉獄では美雪は、かなり不安定だった。わたしよりもずっと早くあそこに行っていたなら、先に溶けていなくなっていたのかもしれない。

 しかもわたしは、美雪がいたから試練を乗り越えられた節がある。もし美雪がいなかったら、わたしはただ自分の罪の重さに潰されて、同じように溶けてしまっていたんじゃないだろうか。美雪がいたおかげで、わたしは物事を考える猶予ができた。だから、自分の感情に飲まれなかったんじゃないかと思う。まあ、最後は溶けかけてしまったけど。

 そして何よりも、一番初めにこの死神と出会った時に、殺されそうになったことだ。あれがなければ、わたしはターニングポイントを逃していたんじゃないか。もし逃していたのなら、そもそも変われなかったのだから、やはり煉獄の試練は超えられなかったのではないだろうか。

 これは、相当の幸運だったんじゃないか?


「それとすごく聞きたいんだけど。・・・あの世に行った魂って、どうなるの?」

 死神は首を傾げた。

「さあ? どうだったっけ。なんかテンゴクに行くとばらばらで、ジゴクに行くとずたずた・・・だったっけ」

 わたしはあまりにもアバウトな説明に驚いてむせた。それじゃ、美雪は今頃・・・。

 それにしてもこれじゃ、どっちに行こうがいい結末にはならないみたいだ。

「お、覚えてないの?」

 死神は口をもごもごさせながら答えた。

「だってテンゴクとジゴクの話、つまんなくて覚えられねえんだもん。あ、でもフォーリンなら知ってるんじゃねえの?」

 わたしは何も言えなくなった。これじゃ、美雪がどうなったかなんか、分かりそうもない。白い死神さんも今日こっちに遊びにきているかどうかもわからないし、そもそも見つけ出せるのか?

「・・・話、聞けたらいいのに」

 思わずそう呟くと、死神がニッと笑った。

「連れてってやろうか?」

 わたしは一瞬、時が止まったような気がした。それは、いったいどっちの意味だ?

 わたしが黙ったままでいると、死神が言葉を続けた。

「あいつなら今日、この街に遊びに来てるぜ。場所もわかると思うし。これの礼!」

 そう言って、ほとんど食べきっているバーガーを軽く持ち上げて見せた。

 わたしは、息ができなくなるような感覚に襲われた。会えるのか。黒い死神とはまた少し違う、「ああやっぱり実在しているんだ」という安堵に近い、謎の感動のようなものが波打つように押し寄せてくる。

 まるで、まるでそれが当たり前の事ように死神は続ける。

「どうすっか? 行くか?」

 わたしは言葉を続けられなかった。心臓がドキドキと音を鳴らす。声が出せないまま、頷いた。本当に、行くのか? 行けるのか?

 死神はニヤッと笑った。

「これで貸し無しな!」

 本気だ。黒い死神がいるように、白い死神もいるんだ。わたしは、再びあの試練をかみしめた。

 そして、わたしは食べ終わった死神に追いつくべく、必死になってバーガーを食べた。正直、味はほとんど感じられなかった。




ー11ー



 しばらく街を歩いた。死神はキョロキョロしながら、辺りの匂いを嗅いでいた。そうして、二、三本ほど奥の路地にやってきた。そして、少し古めかしい喫茶店の前で立ち止まった。犬並みの嗅覚だ。

「ここだな! あいつ、結構あっちこっち歩き回ってたみてェだ。あいつもあいつなりに楽しんでるんだなァ」

 そう言うと、死神はわたしに顔を近づけた。こうしてみると、わたしと死神の身長差はかなりのものだったんだなあ、とぼんやり思いながら死神を見上げた。

「ここでお別れだな。もう二度と会えないだろうぜ。何か言い残したことあるか?」

 わたしは考えた。ある意味かなり貴重な体験だった。多分、こんな経験は二度とすることはないだろう。

「・・・ありがとう。わたし、多分あなたのおかげで越えられた。感謝してる」

 そう言うと死神は驚いた。黙ったまま少しわたしを見ると、嬉しそうに笑った。

「おう! なんかよく分かんねェけど、感謝されるのは悪くねえな!」

 と、死神が小さく囁いた。

「あのさ。俺様がここ教えたってあいつにバレねぇようにしてくれねえか?」

「え、うん・・・なるべく、努力してみる。無理だったらごめんね」

 死神はホッとしたような顔をした。

「じゃあな」

「うん」

 死神が去っていく。後ろ姿は、少しガタイがいい、その辺の若者と変わらない。やがて、死神は人混みに消えていった。わたしは少しの間、それを眺めていた。そして、覚悟を決めて喫茶店に入った。


 喫茶店内部は不思議な空間だった。落ち着いた雰囲気なのに、どこか透明感のある、白くて明るいモダンな空間だった。窓からは人気のない路地が見える。

 その一番奥の窓際の白いテーブルに、正面から見て横向きに座っていた。小説か何かを読みながら、紅茶を飲んでいるようだ。なんだか、恐ろしいくらい絵になる光景だ。白い死神はまだわたしに気づいていない。その、肩にかかってる白金に近い金色の髪を。ふわっと掻き上げた。

 わたしはゆっくりと近づいていった。緊張に、心臓が鳴り、喉がじくじくと痛む。

 と、白い死神が不意にこちらを見た。少し驚いた表情をすると本を閉じ、わたしを見据えた。わたしは覚悟を決めて近づいていった。

 白い死神は、手で開いている椅子を指した。

「どうぞ。何か頼みます?」

 やはり綺麗な声だ。姿もまるで人形のように綺麗。わたしは緊張しながら言った。

「え、えっと、大丈夫・・・多分」

 白い死神は紅茶を飲んだ。

「遠慮なさらず。どうせあの駄犬がここまで嗅ぎつけてきたのでしょう」

 そう言いながらわたしにメニューを差し出してきた。わたしは受け取って、レモンティーを注文した。

 わたしは黙ってしまった。早速、黒い死神との約束が守れなかった。まあ、それくらいしか思い当たらないだろうから、当然だろう。わたしが「偶然ここに白い死神がいるタイミングで来る」なんてほぼあり得ない。

 実際、わたしも案内されるまでここの店そのものを知らなかったのだから。

 しばらく、沈黙が続いた。白い死神は、再び小説へ目を落とした。少し時間が経って、レモンティーが運ばれてきた。

 白い死神はふっと短く息を吐いた。小説を再び閉じた。

「・・・何か、用があってきたのでしょう? 話しなさい」

 わたしはレモンティーを一口飲んだ。

「美雪は、どうなったんですか」

「彼女なら死にましたよ」

 白い死神は淡々と言った。わたしが望んだ答えじゃないことを理解した上で。

「・・・死んで、そしてどうなったのかを聞きにきたのでしょう」

 わたしは頷いた。白い死神はその細い腕を組んだ。

「知ってどうするんです、と言いたいところですが・・・野暮ですね」

 遠回しな言い方。できれば、話したくないのだろう。

「・・・教えてください。美雪は、天国に逝ったんですか。それとも・・・。・・・。そして、逝った後、どうなったんですか」

 死神は呆れたような、静かな声を発した。

「知的探究心は尊重します。まあ、あなたにとってはあまり嬉しくない結果でしょうが」

 そうして、紅茶をまた一口飲んだ。長い睫毛が、店の照明に照らされて光っている。

「地獄逝きでした。彼女の魂は、凄まじい苦痛の中引き裂かれ、長い時間苦しんだ後、細かく分解され、この世界の魂を生み出すユグドラシルの肥やしになるのですよ」

 わたしは黙ったまま、言葉をかみしめた。それが本当かどうかは確かめるすべはない。わたしが知ってる、どの地獄とも違う。どの「あの世」とも違う。もしかしたら、白い死神はわたしのことをからかっているだけかもしれない。実は真剣に、現実のことを話しているのかもしれない。その両方の可能性は、事実を確かめられない以上、どちらも等価値になってしまう。

「まあ、願いは一つ叶いましたから。お察しの通り、彼女の両親のことですよ」

 なんとなく、やっぱりそうか、と思った。あれはやっぱり美雪の願いが叶った結果だったんだ。

「あと、わたしの見えていた景色と美雪の見えていた景色が違ったみたいなんですけど・・・どうしてですか?」

 白い死神は小説をパラパラと弄んでいる。なんとなく、手持ち無沙汰のなのだろう。人間とこうして話す機会が、おそらく少ないからなのかもしれない。

「なるほど。やはりそうでしたか・・・」

 白い死神は何か納得したようなそぶりを見せた。

「彼女は最期の日、結局ほとんど何もしていませんでした。怠け、お祓いに行き、あなたを呪い・・・後は遊んでいただけです。だからでしょう。彼女に見えていたのは、通常よりもずっと厳しい世界でした。あれもあれで本物の景色ですよ。・・・そういえば」

 そう言うと白い死神は顔を上げてわたしを見た。

「貴方、彼女の罪を少し背負ってあげていたらしいじゃないですか。今時珍しい。それで彼女があの試練を乗り越えられた、というわけでしたか。いや、話していたんですよ。彼女がこの試練を乗り越えるのは、ほぼ無理だろうと。それなのに乗り越えられたのだから、相当な人間だと思っていたのですが。貴方の助力あってこそ、だったのですね」

 わたしは「罪を背負う」と言うワードに聞き覚えがあった。

「川で、魚みたいなのが他人の罪を背負ってるのか、みたいなこと言ってました。あれって、どういうことだったんですか?」

「彼女と世界を共有したのでしょう? 貴方の見えていた景色はもっと、平坦で何もない景色だったはずです。罪は重い方から軽い方へ流れます。そうやって他人の罪を背負ってまで、彼女を引っ張っていったのでしょう?」

 わたしは黙った。自分がやっていたことの意味を、よく理解していなかった。そういうことだったのか。

 罪は重い方から軽い方へ流れる。ということは、わたしの景色が美雪に見えていなかったのは、わたしの方が罪が軽かったから・・・だったのかもしれない。

 そしてわたしは一つ、特に知りたかったことを聞いた。

「ずっと気になっていたんです。一つ・・・」

 わたしは息を吸った。

「なんです?」

 白い死神は、静かにこちらを見ている。なんとなく、何が聞きたいのか察してはいるようだ。

「わたしに訪れた「因果」っていうものと・・・「奇跡」の神について教えてください」

 死神は頷いた。

「疑問を抱いて当然でしょう。簡単に説明しますと、「奇跡」と呼ばれている神は、無作為に人を選び、その人間に〈良くも悪くも〉因果応報をもたらすという奇跡を引き起こす現象のことです。まあ、人によって見える姿が違うようですが。無作為に選んでいる時点で、ある種の理不尽とも言える。そんな矛盾した神なのですがね」

 わたしは考えた。今回、身近にいる誰かにその神様が舞い降りたんだ。だからそれを叶えるために、その人に悪いことをしたわたしと美雪が煉獄へ逝った・・・と、そういうことなんだろう。

 白い死神がかすかに微笑んだように見えた。

「なんとなくわかっているのでしょう? 誰に因果の神・・・「奇跡」が舞い降りたのか。僕らの仕事は、この一週間でひと段落したんです」

 そう言うと白い死神は紅茶を飲んだ。もう、あまり残っていないようだ。

 わたしはなんとなくわかっていた。誰の因果によって、わたしが煉獄へ逝ったのか。

「他に質問は?」

 わたしはレモンティーをぐっと飲んだ。

「・・・思いつきません」

 白い死神は息を深く吐いた。そして、カップの底にあった残りの紅茶を飲んだ。

「わかりました。疑問が晴れたようでなによりです」

 白い死神はカバンに小説をしまい、上着を着た。

「あの・・・時間、とっちゃって・・・ほんと、すみません。ありがとうございました」

「いいえ。僕も不快ではありませんでしたから、お気になさらず」

 白い死神はわたしをまっすぐ見た。

「試練、お疲れ様でした。これでもう二度と会うこともないでしょう。それでは」

 わたしは白い死神が立ち上がるのを見ていた。

「そう、最後に一つだけ」

 そういうと死神はカバンを持ち、椅子を机に押し込んだ。

「ここの喫茶店、ホワイトチョコレートケーキが絶品ですよ。ぜひご賞味ください」

 それだけ言い残すと、白い死神は店から出ていった。

 わたしは残ったレモンティーを見た。確かにそこに残っていた。少しすると、ケーキが運ばれてきた。驚いて店員に聞いた。

「こ、これ・・・」

「これ、先ほどのお連れ様が退店時に注文なさったんですよ。お客様にって。先ほど、ケーキ分も含めて会計もなさっていましたから、伝票いただきますね」

 そういうと店員は伝票を持って行ってしまった。わたしはしばらく呆けた。そしてケーキを見て、手を合わせて食べ始めた。ごちそうさまです、死神さん。

 ケーキは、びっくりするほど美味しかった。






ー12ー



 思えば、わたしはどうしてあの瞬間に後悔したんだろう。あれも「奇跡」の力のおかげだったのかもしれない。



 あいつさえいなければ、なんてもの通用しない。一度でもその言い訳を使えば、たとえその「あいつ」がいなくなったとしても、またどこかで同じことを繰り返すだろう。そうして、様々な人々の犠牲の上に立って、初めて気づく・・・なんて、わけないか。そこまで行ってしまった人は、行けてしまった人は、もはや気づいたふりしかできなくなっているだろう。

 そうして、形だけの反省を繰り返しながら、また別の場所に犠牲の山を築くんだ。

 やっぱり、それほどまでに自分というのは手強い存在なのだろう。自分を知る事は、絶望にあっさりとつながってしまうだろうから。誰だって、自分に絶望なんてしたくないだろう。願いを、希望を。理想を抱いて、それに裏切られたくないから、偽って、誤魔化して、他人のせいにして。でも、そんなんじゃだめだ。それじゃあ、自分は一生絶望したままだ。

 叶わない願いはある。届ない希望はある。たどり着けない理想はある。でも、すべてはそれらを胸に抱くところから始まるんだ。失うことを恐れているなら、大丈夫。失望することは怖いことだ。きっとすごく。だからこそ、覚悟ができる人なんていない。もし、それが出来るという自負がある人がいるのならば、それは多分虚勢か勘違いだ。

 だからこそ、わたしたちは向き合わなきゃいけない。より良い明日のため、より望みに近い自分のため。その願いに触れたいのなら、まず自分自身と向き合わなくちゃならない。肯定しかしない事も、否定しかしない事も。どちらも、眼を逸らしているだけに過ぎないんだ。そのままじゃあ、自分が嫌う明日しか来ない。願いには永遠に届かない。

 本当に明日を否定したいのなら、自分を育てなくちゃ。


 わたしたちは、自分という「絶望」に立ち向かうために、向き合わなければならない。



 奇跡の神が舞い降りたのは、篠野江深葉だった。

 深葉は、ずっと家族に強い恨みを抱いていた。そんなことも知らず、軽い気持ちで自分をいじめてくる同級生たちが憎かった。

 そんなある夜。深葉の元へ奇跡の神が舞い降りた。そこで、深葉は今後、自分が恨んだり憎んだ人たちがどうなるかを知った。ザマアミロ、思い知れ。そう思った。

 それなのに。一人が、自分に対して深く謝罪し、改心した。その姿を見ているうちに、自分はなんて恐ろしい願いを叶えてしまったのだろう、と思った。そして、彼女と話している間、終始震えが止まらなかった。

 しかし。その彼女は、生還した。心からの友人にもなってくれた。

 私は、幸せ者になれるんだ。





設定資料の一部

 ガツトウは月読・・・ツクヨミだ。長い年月の中、名前に飽きて呼び方を変えたらしい。

 白い死神はもともと人間に「天使」と呼ばれる存在だった。今は違うようだ。

 黒い死神は西洋で生まれた、頭が一つしかない奇形のケルベロスだった。



 ご愛読、ありがとうございました。拙い文章でしたが、人生のエッセンスになることを願っています。

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