前半
ごろごろしていた。部屋で。ゲーム片手に。
やることもないし、勉強は面倒だし、何より、日常がつまらなかったから。
そんなある日の夜中だった。
窓から、彼がやってきたのは。
ー1ー
「・・・!? ・・・・!!??」
ゲームをベッドに落とす。ベッドから飛び起きる。床に転がるように降りる。それが、ほぼ同時に起こった。
声も出ずにパニックになっている私を、彼は満足そうに見た。
そして彼は窓の縁にしゃがんだまま、歯を見せて不気味に笑った。その口には、まるで獣のような鋭い歯がいくつも並んでいた。
「よ」
彼はまるで、古い友人にあいさつでもするかのように、親しげに軽く手を上げて見せた。深くかぶっているフードからは妖しい、赤く光る眼が二つのぞいている。微かに、野生の獣のような臭いが鼻腔を触る。
少しずつ、自分の体が小刻みに震え始めたのがわかった。目の前の彼からは、人の気配がまるでしない。彼はさも可笑しそうにくつくつと喉の奥で笑った。そして、私を、鋭い爪のある指でさし、こういった。
「樫道梢・・・だな? 俺ァ死神だ。迎えに来たぜ」
喉の奥が貼りついてしまったかのように、音が出ない。どくどくと、酷く脈打つ心臓の音が聞こえてくる。
なぜ? どうして?
何でもう、え? 私、死ぬの?
死神と名乗った青年は、パニックになっている私をよそに、窓から私の部屋に入った。青年の首には赤い首輪があって、そこに下がっている大きな金色の鈴が、コロンと不釣り合いな音を立てた。しかし、重そうな姿をしているのに、着地の音はしない。まぶしい月光の影も、床にない。振り向いて姿見を見たが、そこにも青年の姿は映っていなかった。
ああ、「本物」だ、そう思った。心の底から、体が震え始めた。
「閻魔サマからのご通達だ。お前は生者としては、あまりにも罪を犯しすぎた。だがまあ、諸事情によって正しい因果がお前に訪れない。で、俺様が遣わされた、ってワケだ。分かれ」
私は貼り付いた喉を、必死に震わせて声を出した。
「わ・・・かれ・・・って、そ、そんなのわかるわけないじゃない! 何で、なんであたしが死ななくちゃならないの!! ほかにもいっぱい、いるでしょ!? 死ぬべき人間とかさぁ!」
理解できない。したくない。そんなの、酷い。
私は肩を激しく上下させながら、青年を見た。彼は私の反論を無表情で聞いていたが、やがて笑い出した。金色の鈴が、体に合わせて鳴る。
「アハッ、アヒャヒャハハハハ!!!」
「な・・・! 何がおかしいっていうの・・・、ねぇ、ちょっと!」
彼はひとしきり笑った後、「あー・・・あ」と、笑いを収めた。
「あーァ、可ッ笑しい。これだから業の深い人間は。・・・いいか? お前が理解できずとも、お前は今日中に死ぬ。それは避けようがない。お上の御達しだ、諦めろ。・・・ただし、今日一日で少しでもお前自身が罪を見直し、改善することができたら・・・ちィーっとは変わるんじゃねーか? たぶん」
話を聞きながら、一瞬だけ時計を見た。午前零時を、少し過ぎている。今日、一日で?
私が、死ぬ?
「・・・多分って、なにソレ。私、悪いこととかしてないし」
少しだけ意地になって言い返すと、青年は少しだけ意外そうな顔をした。
「・・・へぇ。そうかい。してないと」
「そうよ。だって私は悪いことなんか・・・」
言葉の途中で、死神が再び笑い出した。そのトーンに驚いて、私ははっと彼を見た。死神の眼には、酷く乱暴で凶悪で、悪意に満ちた光が宿っていた。死神がまるで、大きな山のようにも感じられた。再び、自分の体が硬直し、心臓がどくどくと響く音が聞こえ始めた。
「・・・なァら、今すぐにでも連れて逝ってやるよ。その方が仕事が早く終わるし、俺様にとっちゃ都合がいいからなァ・・・そこ、動くんじゃねぇぞ」
そういうと死神は、私に近付いてきた。その瞬間全身を、悪心が襲う。彼が近づいてくるにつれて、酷い眩暈や吐き気、体中の、特に内臓あたりからの激痛が私を襲い、冷たい汗が体中から吹き出した。思わず見下ろした両掌が、まるで炭のようにみるみる黒ずんでいく。死ぬ。このままでは。私は必死に、夢中で叫んだ。
「ま、待って!」
「あ?」
青年の足が止まる。必死で目の焦点を合わせると、青年が怪訝そうな顔をしているのがわかった。
「わ、わ、わかった。わかった、から、だから、待って、待ってよ」
少しずつ、悪心が治まっていく。安堵と恐怖で、全身が激しく震えた。汗と涙が、ぼたぼたとピンクの絨毯にしみこんでいく。ぜえぜえと喉が鳴る。耳元で、私の心臓の音が聞こえる。
まだ、まだ私は生きているんだ。
「んだよ。はっきりしろ。がたがた抜かしてねぇでさっさと死ね。仕事増やすな」
「まって、待ってよ。私、今日、ちょっと、が、頑張る・・・から、だから、お願い、まだ、まだ待って」
死神は一瞬だけ物凄く嫌そうな顔をした。そして、明らかに落胆した溜息を吐きながら、さらに舌打ちまでした。
「んだよしょーがねェなァ、めんっっっど。・・・じゃ、また迎えに来るからな。せいぜい未練カタしておけよ」
そう言い残すと、彼は再び窓から立ち去った。コロンという、鈴の音だけを残して。
私は少しの間、その場から動けずにへたり込んだまま、茫然と彼が去った窓を見つめていた。脳裏には、死神の赤い瞳と金色の鈴が残っていた。
ー2ー
「・・・っは!!!」
飛び起きた。
全身から汗が噴き出した。
ベッドの上、一人震えながら、呼吸を必死で整える。
ああ、悪い夢を見た。そうだ、あれは夢だ。きっとそうだ。そうに違いない。
「・・・あーあ、何だったんだろ」
安堵すると、ばからしくなってきた。・・・はずだ。なのに、心臓の鼓動が鳴りやまない。
時計を見ると、午前五時半だった。汗もひどいし、シャワーでも浴びてこよう。そう思い、クローゼットに手をやった瞬間、気づいた。
両掌が微かに黒ずんでいる事に。
「あ・・・・・・・・・!?」
全身を、激しい恐怖が襲う。
ああ、あれは夢じゃなかったのか!?
いや、でも落ち着け。これはきっと、そう。たまたま、たまたまだ。何かにぶつけたんだ。
急いで高校の制服と下着を用意して、誤魔化すようにシャワーを浴びた。温かいお湯を浴びているはずなのに、震えは止まらない。
嫌だ、死にたくない。
何で、なんで私が。
風呂から上がり、先祖を祭る仏壇に手を合わせた。不思議だ。いつも、こんなことしないのに。震えて、線香に火がつけ辛い。
ひたすら祈っているときに、体が凍りついた。聞き覚えのある、鈴の音だ。ふ、と顔を上げると、曾祖父の遺影に、微かに誰かの影が映り込んでいた。おもわず、凍りついた。見覚えのあるニヤニヤ顔。
勢いよく振り返ったが、そこには誰もいない。
再び、全身が震え始めた。
そんなことをしても無駄だ、と言われた気がしたのだ。
その時微かに、聞き覚えのあるような、ないような声がした(・・・ああ、かわいそうに)。
その場に固まり、動けないでいると、誰かが二階から降りてくる音が聞こえた。その人物は襖をあけ、私がいることに驚いて声を上げた。
「あら、こず、今日は早いのね」
お母さんだ。
私は、どうしてだろう。両目から涙が溢れた。体中が震える。
「おかぁさん・・・」
泣きながら抱きついた。今はただ、こうしたかった。怖い。怖い。
「え、どうしたの珍しい」
いつもはあんなに煩わしい、分からず屋のお母さんが、こんなに恋しいなんて。気づいた瞬間、家族みんなに会いたくなった。大っ嫌いなお父さんに、世話焼きでうっとおしいおばあちゃん、面倒なおじいちゃん。何故だかみんなが、酷く遠い人に思える。
お母さんは、優しく抱きしめてくれた。訳も聞かないで。
「・・・おがぁさん・・・ごべんなさい・・・」
思わず、だった。
口から謝罪の言葉が漏れた。
でも、それが自分の本心であることに、自分自身驚いた。
いつも歯向かってばかりいたのに、そんな自分を受け止めてくれたお母さんが、たまらなく大好きだということに、今初めて気づいたのだ。
初めて、自分が消えてなくなるということの意味を理解した。
「・・・なにがあったかわからないけど、元気出して。ね」
お母さんは私をリビングの椅子に座らせ、台所に立った。
「今日の朝ごはんとお弁当、こずの好きな物作るからね」
私は泣きじゃくりながら、視界に映るお母さんの背中を見た。
とても優しい、小さいころから見ていた背中。あんなに大きかったのに、いつのまにか少し小さくなった背中。
また、涙が溢れた。
私、いままで何やってたんだろ。ホントに。なんか、何も見えてなかった。
「あらあら、こずちゃん。なかないの」
小さいころ、私をあやしてくれたお母さんと、何ら変わりない、少しだけ齢を取った声で笑いながら、お母さんがエプロンで私の涙を拭う。そして、私の前にほうじ茶を置いた。
すすったら、熱かった。火傷しそうなほど。
ごめんなさい、とまた呟いた。ごめんなさい、もうお茶嫌いだからって、残したりしないから、ジュースじゃないからってわがまま言って家出して、心配かけて、本当にごめんなさい。
あの日は友人の家に泊まった。親がいないからって、泊めてもらった。あの時、友人はジュースを出してくれた。お互い、親の悪口を言い合ったり、ゲームしたりして、楽しかった。その時友人の家に、私がいないかって電話があったけど友人が「いませーん」って言って、一緒になって笑ってた。
次の日、お母さんにすごく怒られた。泣くほど心配してて、お父さんにも怒られた。ジュース出してくれないからいけないんじゃん、私悪くないって言ったら、お父さんに怒鳴られて、たたかれた。ムカついた。泣いたり、怒ったりしておーげさ、って思ってた。友人の家に泊まったし、私は楽しかったし。
でも、今ならわかる。両親がどれだけ心配したのかが。どれだけ不安だったのか。あの涙は、私が無事だったことが心から嬉しくて、安心して泣いちゃったんだってことも、私が何もわかってなくて、危ないから怒ったんだってこと。
だって私、お母さんが急にいなくなって帰ってこなかったら多分、すごく不安になる。何かあったんじゃないかとか、事故とか、すごく怖いし。
その時、気が付いた。
昨夜あの青年が言っていた、自分が犯した罪について。
わたし、謝らなくちゃ。
たくさんいる。私が悪いことしちゃった人が、たくさん。
だから、残りの時間かけて全部あやまらなくちゃ。もう、自分には時間が残されていないんだ。お母さんと、お父さんと約束した、夏休みの旅行も、毎年恒例の誕生パーティーも、もう私にはできない。もうできないんだ。それに、わたしは毎年当たり前みたいにしてたけど、本当はそれが全然当たり前なんかじゃなくて、凄く幸せなことだったんだって、いまさら気づいた。私、去年プレゼント、何を送ったんだっけ。
すごく適当に選んじゃった。だから、覚えてない。また涙が溢れた。
ああ、やり直したい。本当にやり直したい。全部。
目が覚めたような感覚だった。まるで長い間自分が眠っていたみたいな感じ。なにやってたんだろう、自分。
その時、お父さんが起きてきた。今は、六時十分。
「おはよう・・・あれ、こず。珍しいな」
そういった瞬間、お父さんは「しまった」と言う顔をした。
だけどわたしは涙を拭って、無意識に急須のほうじ茶を新しい湯呑に注いでいた。
「おはよう」
と、自然に、ごく自然に言った。やっぱり自分でも不思議だった。どうして、こんなに簡単にできるんだろう。もうわたしに朝が来ないからなのか、後悔をこれ以上重ねたくないからなのか。
お父さんとお母さんが、目を丸くして私を見た。
あれ、なんでだろ。急にそう思った。「私が~~するなんて珍しい」とか「おはよう」とか言われると、いつも嫌味に聞こえて、凄くイライラした。普段「お前にそんなことできないのに」みたいな意味に聞こえてて。なのに。
今は違う。一言一言が、身に沁みる。脳髄に沁みる。そして、突然こうなったわたしを、一切否定せずに受け入れてくれる二人を初めて・・・いや、久しぶりに、好きだと思った。
そして、迷った。最初は、死神の事を話すつもりでいた。でも。でも、いきなり話したって、多分信じてくれない。それに。・・・今日、自分が死ぬのだと二人に話すと、とても、・・・とても、悲しんでしまう。それは、嫌だ。わたしは多分、二人の悲しむ顔を、見たくなんかないんだ。
だから結局、話せなかった。わたしは、お父さんにほうじ茶を入れた。
お父さんはまた不思議な顔をして、照れ臭そうに笑い、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
そうして、久しぶりにゆっくりと話した。他愛のないことを。近所の犬の話、お母さんの会社の人の、コントのような失敗の話。お父さんの同僚の、不思議な特技。そして、また気づいた。
わたしは、わたしには話題がない。私の事はとてもじゃないけど、二人に話せない。
ようやく、思い知った。今まで、自分が何をしてきて、何をしてこなかったのかを。
今日、高校に行こう。改めて思った。学校は好きだったけど、そういう意味じゃない。私は、ある恐ろしい楽しみ方をしていたのだ。
今ならわかる。あれも、罪だ。私は、今までずっととんでもないことをしていたのだ。
七時半になって、お父さんが会社に出た。わたしもお母さんも、のんびりと見送った。
わたしはもう、支度を済ませていた。だから、お母さんの洗い物を手伝った。お母さんはまたもや目を丸くしたけど、特に何も言わず、鼻歌を歌っていた。洗い終わると、「手伝ってくれてありがとね」と、言ってくれた。それが、それがすごく、うれしかった。
ああ、自分は、何に追い詰められていたんだろう、と思った。日々、何かから逃げるように、何かを誤魔化すようにその場しのぎで生きてきた。だから余裕もなくて、必死だった。その苦しさを、周りにぶつけていた。ようやく知った。認められて、お礼を言われることが、こんなにもうれしいことだったなんて。
そこから家を出る時間まで、お母さんと他愛もないことを話した。一緒にいたかった。今度温泉にでも行こう、とお母さんが言った瞬間、胸がギュッと締め付けられるように苦しくなった。だって、わたしには、その「今度」はもう、二度と訪れない。
ああ、私は親不孝者だ。なんてひどい生き方をしてしまったんだろう。また、涙が込み上げた。そんなわたしを、お母さんは優しく撫でてくれた。
ー3ー
お母さんに行ってきます、を言った。多分、人生最期の。そして、人生最期の言ってらっしゃいを聞いた。
泣きそうになりながら、「天罰だ。天罰なんだ」と呟いた。自分の事ばかりの醜い人生の、天罰なのだと。
掌を見ると、黒ずみが朝見た時より広がって、色も濃くなっていた。それでもまだ、パッと見ただけではわからない程度だ。私は頭の中に、残りの砂が少ない砂時計を思い浮かべた。
通学路は、喧騒に満ちていた。自転車で徐行しながら、慎重に進む。もし自分が事故を起こし、人が死んだなら、その人の家族はわたしのおかあさんやお父さんくらい悲しむのかもしれないのだ。そんなの、あっていいはずがなかった。
そして、学校に着いた。いつもと何故か、何かが違って見えた。
深呼吸をした。靴を履きかえる。ロッカーから教科書を取り出す。すべての動作が、最期かもしれない。わたしは慎重に、ゆっくりと丁寧に行った。その時。
何気なく横を見ると、篠野江さんがいた。どきっとした。篠野江さんは体を強張らせ、眼を逸らし、早歩きで行こうとした。
「待って!」
わたしが呼び止めると、篠野江さんが驚いて固まった。わたしは篠野江さんの前に行き、まっすぐに目を見た。
怯えている。当然だった。再び、罪の重さがのしかかる。ああ、わたしは、今までなんてことをしていたんだろう。
「あ、あの・・・・な、なに」
篠野江さんの声が止まる。震えているのが、ここからでもわかる。わたしは、思い切り頭を下げた。
「いままでごめん!」
伝えなくちゃ。仕出かしたことは、なかったことに出来ない。なら、だったらせめて伝えなくちゃ。明日になってしまう前に。
篠野江さんからの答えはない。
篠野江さんにはひどいことをして来た。悪口、陰口は当たり前。水をかけたり、ものを捨てたり、突き飛ばしたり、くすくす笑ったり。それ以外にも、いろんなことをしてきてしまっていた。
わたしは顔を上げた。耳元で心臓の音がする。喉が渇いて、手が震える。
そう。私は、篠野江さんをいじめていた。ずっと。一年から。「それ」がどういう事だったのか、今朝まで気付かなかった。馬鹿だ。どうして他人の痛みに気付けなかったんだろう。いや・・・見ないふりをしてきたんだろう。
いじめは、私にとってはただの日常の一部に過ぎなかった。最早、特に楽しいとか、面白いとか殆ど感じていなかった。ただ、退屈しのぎの一環で、お笑いと何ら変わらなかった。
しかし今は、それがどれだけ残酷な遊びだったのか、漠然とではあるけどわかった気がした。
両目にまた、涙が溜まっていく。この子がわたしに一体何をしたというんだろう。私は、今まで何様のつもりでこの子を否定してきたんだろう。
それは多分、殺され続けるのと変わらない痛みなんだ。
「・・・なんで、急に」
篠野江さんの声は落ち着いていた。が、疑いと戸惑いの混じった声だった。
わたしは両掌を、固く握りしめた。
「わたし・・・私、本当に、本当に最低だった。今更、本当に今更・・・ずっと、考えてもみなかった。自分が何をしてたのか、その意味すら分かってなかった。わたし・・・いろんな人に迷惑をかけてたって気づいて、初めて自分が何してきたのか知ったんだよ。本っ当にバカだった。浅はかだった。・・・本当にごめんなさい。・・・許してもらえなくてもいい。せめて、これだけ伝えたいんだよ・・・」
言い切って、改めて篠野江さんを見た瞬間、両目から涙がこぼれた。自分が情けなくて、恥ずかしくて。どうしようもない。
篠野江さんは、黙ったまま泣いていた。その時、保健室の先生が通りかかって、驚いて訳を聞いてきた。そして、わたしたちは保健室の横にある部屋で、少しの間話すことになった。
わたしと篠野江さんは、少しの間無言だった。沈黙を破ったのは、篠野江さんだった。
「・・・ちょっと、嬉しかった」
「・・・え」
わたしが顔を上げると、篠野江さんは泣き笑いの顔をしていた。手の甲で涙を拭うと、そのまま話し始めた。今まで、自分がどれだけ苦しんで、どれだけつらかったかを。わたしはずっと聞いた。横で、ずっと。そのたびに、後悔の波が押し寄せた。
篠野江さんは親がひどい人で、家に居場所がないのだという。お弁当も作ってもらえず、自分で作るも食材を使うだけで怒られる始末で、お米だけしか持ってこられないのだという。だからいつも、味のないちいさなおむすびを一つ、昼で食べているのだという。
私たちが篠野江さんをいじめるようになったきっかけは、そのおむすびだった。私はその意味が解らなくて、一人でそのおむすびを食べる篠野江さんをからかった。小食を気取って、格好つけてるんだと勝手に思っていた。そのことを篠野江さんに正直に言うと、とても悲しい顔をした。
「・・・今日も、そうなの?」
聞くと、篠野江さんは静かにうなずいた。よく見ると、篠野江さんは異常なほどやせ細っていた。
何で気づかなかったんだろう。あんなに貶したのに。わたしは胸がぎゅうっと痛んだ。心臓が二つに裂けて、口から飛び出しそうなほど。わたしは、篠野江さんの苦しみを、ただのお遊びで重くしていたのだ。
知らないって、怖いことだ。思い込むって、恐ろしいことだ。わたしは思わず、自分のしてきたことに身震いした。
ああ、なんて傲慢で、気持ち悪かったんだろう。
「・・・ねえ。もし、もしよかったら、一緒にご飯、たべよ。二人で。誰もいないような所で。わたし、もっと篠野江さんの事、知りたいよ。わたしの事も、知ってほしい。だから、お願い」
二人で、と言ったところで、篠野江さんが少しだけ微笑んだ。
その時、保健室の先生が入ってきて、もうすぐ朝のHRの時間であることを教えてくれた。もうそんな時間なのか。もっと、もっと時間が欲しい。全然足りない。
でも、でもきっと、時間はいっぱいあった。本当は。それをドブに捨てていたのは、私。
二人で教室に向かった。三人の子が、私が「友達」と呼んでた子が「おはよーこーちゃん」と声をかけてきた。が、篠野江さんと一緒だと知ると、あのいつものニヤニヤ笑いを浮かべた。
気持ち悪い。そう思った。心底、気持ち悪かった。こんな顔してたんだ。私。あそこで、笑ってたんだ。
「なに? 篠野江といるの? 超うけるー! 今日も拒食ってんの?」
拒食る、と言うのは拒食症ぶってる、と私たちが言い始めた言葉だ。今更ながら、汚い言葉だと思う。わたしは、あまりにも無責任だ。
「ごめん」
わたしは、私への怒りを込めて言った。
「もう、それやめる」
周囲はしん、とした。が、すぐにニヤニヤ笑いだした。
「なにソレ。急に。キモイんだけど」
「正義ぶっちゃってんの? 死ねよ」
正義も何もない。正義感なんて高貴なものじゃない。ただただ、あの顔で笑っていた私が気持ち悪くて、それを拒絶したかった。
篠野江さんがわたしを、心配するように見た。眼には、何故か後悔の色が見えた。
わたしは痛む胸を、押えた。私は、こういう人間だったんだ。そして、私が友達だと思っていたものは、こういうものだったんだ。
考え方が変わっただけで、掌を返していじめるような、そういうもの。
わたしは、この三人と同じように、過去の私が気持ち悪い。
「・・・ごめん。そう言ってる、あんたらがすっごく気持ち悪い。もう付き合えない。ホントごめんね」
わたしは机にカバンを置いた。篠野江さんも、いたずらで汚された机に、荷物を置きに行った。
「・・・しらけるわー」
「なにあれきっも」
「いみわっかんねーし」
その時だった。三人のうちの一人、美雪が一瞬だけ教室の隅に目をやった。何気なく見ると、そこには見慣れない少年がいた。一瞬だけ違うクラスの子か、と思ったけど、違う。まず、どう見ても高校生じゃない。制服も着ていないし。それに、あんなに真っ白できれいな子金髪青眼の子がいたら、目立つし見たら忘れないだろう。そして、皆そうなはずなのに、誰もあの子に見向きもしない。と言うか、見えていない? そこまで考えて、思い当たった。あれは、あれは昨日の死神と同じものなんじゃないか、と。
なら、取り憑かれているのは・・・美雪?
わたしは美雪の手を見た。
僅かに掌が、黒ずんでいた。
ー4ー
一時間目、二時間目は、特に何もなかった。でも、先生たちの言葉が、不思議なくらい頭に入っていく。先生も、今日はわたしが真面目に授業を受けていると気付き、不思議そうに眺めた。私は睨むことも、タメで話しかけることもなかった。とても、とても自然に。
三時間目は、理科の授業だった。そこで、わたしはあの三人に仲間外れにされた。これ見よがしに、見せしめにされるように。私はそれが、どれだけつらいことなのかというのを、初めて知った。プリントを回してこない、話しかけても無視をする、班の回収でわたしの分だけ持っていかない、当たるとオエッ、と言われる。これが、意外にも心に突き刺さった。地味に溜まるダメージ、ってやつなんだと思う。よく保健室で休んでいた篠野江さんを仮病扱いしていたことを、かなり後悔した。こんなの毎日じゃ、頭もおかしくなる。
四時間目は体育で、バドミントンだった。ペアになって練習するから、相手がいない子はとても苦労するようで、例によってあの三人が私をハブる。この状態になって気付いたけど、篠野江さんに友人がいないのは、篠野江さんがあえて作らなかったからなのだ。篠野江さんはいじめの対象だ。その子と友達になったり、庇ったりすれば、私たちがいじめただろう。あのころ、篠野江さんは自分が好きで、自分に釣り合う人間がいない、だから一人でいるみたいな解釈を勝手にしていたが、ああ。その解釈すらも、酷く身勝手極まりない。
そういった偏見で、私たちは篠野江さんをいじめていた。・・・いや。
今となっては、それらはただの後付だったのかもしれない。ナルシストだ、だからいじめられて当然、みたいな、ある種の正義感もあった。でもそれは、自分の悪から見て見ぬふりをするだけのただの都合のいい見方に過ぎなかったらしい。
そして恐ろしいことに、私たちはその考えを共有していた。一端に考えている、みたいな風に思っていた。だから、あの子たちが今、わたしを疎外するのは、わたしが異物であり、正義感を振りかざす偽善者だからだ、だから罰を与えてもいい。と思っているからなのだろう。私だったら、そう考えていた。
だから、この行為は、あの子たちにとっては正義なのだ。本当は違うけど。本当は、自分の悪から眼を背けるために、自分が正義だと思い込んでいるだけなのだ。ああ、なんて幼稚で、可哀そうなんだろう。なんて自分勝手な考えだったんだろう。そして、私は今までそういう風に生きてきた。自分が間違っているかも、なんて、考え付きもしなかった。自分は間違っていない、と言うのが、真実であり当然のことだったのだ。
いじめられる側にも非がある、なんて思っていたけど。その「非」と、私たちがやってきたことが釣り合うわけがない。非なんて、誰にでもあるのに。それを、今まで言い訳にしてきたんだ。ずっと。
本当、恐ろしいぐらいまでに身勝手な生き方だ。改めて、体が震えてきた。
わたしは、迷うことなく篠野江さんに声をかけた。いつも先生とペアを組んでいた篠野江さんは戸惑って、「本当にいいの、大丈夫なの?」と聞いてきた。ああ、この子は、なんて優しい子なんだろう。恐怖に耐えながら、友達を作ることで人を巻き込まんとした、博愛的な優しさ。決して、わたしにはまねできない。この子、すごい子だったんだ。
今日はまだ始まったばかりと言っていい、はず。なのに。何度も驚くんだ、今日は。そして驚くたびに、実感として自分自身の無知を味わう。わたしは、自分が関わっていたこのことを、これほどまでに知らなかった。「友人」だった子たちの事も、自分の事さえも。
「大丈夫。わたし、もうああはなれないよ」と、思わず苦笑いをして言ったら、篠野江さんがくすっと笑った。ああ、この子、笑った方が可愛い。私はこの笑顔を殺してきたんだ。
練習中、あの三人が目に見えてわかるほど、妨害してきた。でも、わたしは、本当の意味でもう一人じゃなかった。あの三人と一緒にいたときの方が、おそらく孤独だった。あの三人は、お互いを認めているようで認めていない。私もそうだった。それに気付けなかった私が、とても恐ろしい。あのまま大人になっていたらと思うと、ぞっとする。
三人の妨害は幼稚なものだった。少し意識するだけで、鼻を明かしてやれるくらいには。だから、ちっともつらくなかった。楽しかったのだ。心から。
今までの「楽しさ」と言うものが、どれだけ中身のないものだったんだろう。多分それは、まるで綿菓子みたいに、溶かしたら消えていくような、軽い味だったんだろう。でも、今は、この楽しさは違う。今日で死んでしまうとしても、わたしは自分を誇れるだろう。
ー5ー
昼になった。わたしは、篠野江さんと誰も来ない場所へ行った。裏庭の、奥のベンチだ。今は冬も間近で、風も空気も冷たいけど、ここなら風が来ない。そして、日が当たる、ぽかぽかの特等席だった。
篠野江さんは、・・・深葉ちゃんは、自分の話をしてくれた。家の事、学校の事、つらかったこと。
親に虐待されていて、毎日ほとんどものを食べられないのだという。否定されるのは当たり前、酒とタバコに汚染されきった父と、パチンコにどっぷりと浸かった母。グレてしまった兄。今、家の家事を一人でほとんどやっているのだという。食べられるのは、母と父が荒く食べ残した残り物のカスだけ。兄は家にほとんど帰ってこないのだという。
そんなに辛い状況なのに、さらに学校でわたしたちがいじめを始めて、恐ろしく辛かったのだと言った。
そしてわたしは、今までのこと、家のことを話した。
そしてごく、ごく自然に話していた。今日、自分は死ぬのだ、と。
「・・・え?」
深葉ちゃんは言葉を詰まらせて、わたしを見た。わたしも、どうして言ってしまったのかが分からなくて、混乱した。
「え、えっと・・・その、自殺とかじゃないよ! その、運命っていうか、自業自得っていうか・・・その、自分のせい、で」
深葉ちゃんは声もなく、茫然と自分のおむすびを見つめた。なんとなく、おむすびのラップが震えている。風もないのに。わたしは誤魔化すように、自分のお弁当を出した。
「ねぇ、家族自慢をさせてよ。私が今まで嫌ってて、酷いことしちゃった家族の事なんだけどさ」
不思議と、自虐的な笑いが漏れた。
二段弁当の、おかずを開けた。今日は家にあるお弁当箱の、大きいほうのやつに入れてくれてる。わたしは、このお弁当箱が好きだった。
からあげと甘い卵焼きを一つずつお弁当箱の蓋に乗せ、アスパラをベーコンで巻いたおかずと、味付けのうずらの卵を刺してあるプラスチックの串も一つ、深葉ちゃんに差し出した。
「わたし、わたしね、このお昼御飯が、最期のお弁当になるかもしれなくて、だからね、自慢、したいの。わたしの家族、を・・・」
涙が腿に垂れる。あれ、どうしてだろう。覚悟、したはずなのに。喉の奥が鳴って、酷く痛みを感じる、
「一緒に、食べてくれる」
言うと、深葉ちゃんが頷いた。こんな話を、茶化さないで聞いてくれる。それが、ものすごくうれしかった。
もし、もしあの子たちにこれを話したなら・・・考えたくない。ぞっとする。
お昼を食べ終わって、わたしと深葉ちゃんは他愛ない話をした。服でも、化粧でも、いじめでもない話を。
その時、気配(というより、やたらと耳に障るような、思わずその方向を見てしまうような話し声だった)を感じて校舎を見た。美雪だ。美雪が、誰かと話をしている。酷く怒鳴るような声だ。
ああ、どうしてこの声はこんなに耳に刺さるんだろう。そう思った時、初めて気づいた。この声には、悪意と敵意が含まれているんだ。この声には、お前を攻撃するぞ、という色がついているんだ。
生物は、自分の命を守るために防衛本能がついている。その領域が、見えない部分が、攻撃される、危険だと警告を発するのだ。
だからイライラするし、不安になる。体を緊張状態にして、いつでも逃げられるように。だからこそ、耳につくんだ。
私も恐らくその声を今まで発してきただろう。ストレスという、オブラートに包んで。今までは単純に、それが自分に向いていないから気付かなかったんだ。
「ねえ、こずえちゃん」
見ると深葉ちゃんが柔らかく微笑んでいた。
「気になるなら、行っていいよ。さいごかもしれないなら、悔いを残してほしくないもん。・・・わたし、わたしね、あなたが謝ってくれたことがうれしかったんじゃないの。あなたが、やっと理解して、自分で考えられるようになったことが、凄くうれしいの。だからわたし、もうあなたを恨んでないよ。許すよ。だから、行ってきて」
わたしは言葉に詰まった。なんて、なんて優しい子なんだろう。今日はいろんなことに気が付く日だ。
わたしは死んでも、この子を誇りに思おう。この子はそう思われてもいい程の子だ。ずっと、凄い環境を生きてきたんだから。
わたしは包みなおした、空のお弁当箱を持った。
「・・・ありがとう。行ってくる!」
不思議と、胸が痛くない。なんだかすごく、大丈夫な気がする。
校舎に飛び込んで、美雪がいるであろう四階まで一気に駆け上がった。
ー6ー
四階に行くと、美雪が、朝見たあの白い男の子と向かい合っていた。わたしが上ってきた音に驚いたのか、わたしを見ている。
「・・・こず・・・」
美雪は一度深呼吸をした。で、わたしを睨み付けた。
「あんたの仕業なの?」
「・・・? 何が」
言いかけた瞬間、美雪がわたしに勢いよく掴みかかってきた。思い切り、激情に任せて揺さぶる。
「あんたが! あたしのこと呪ったのかって聞いてんだよ! この裏切り者が!」
「・・・は? え、それ、どういう事?」
その時だった。背後から、異質な声がした。それと、鈴の音。
「おーォ、面白れぇ事になってんなァー?」
聞き覚えのある声だ。振り返ると、昨日の「死神」がいた。
「・・・クソッタレ!」
美雪は乱暴にわたしの胸倉を突き飛ばすと、勢いよく走ってどこかへ行った。美雪にも彼が見えるんだ。
「・・・え? ・・・え!? ど、どういう事!?」
言うと、死神が可笑しそうに笑った。
「あいつも、お前とおんなじなのさ」
「・・・って、ことは」
あの子にも死神が憑いてる。そしてあの子は、わたしがあの子に死神を憑けたと思ってるのか。でも、どうして?
微かな溜息が聞こえ、振り返ると、白い少年が立っていた。彼は、酷く迷惑そうな顔をしていた。
「よーォ! フォーリン! 久しぶりだなァおい?」
死神の親しそうな声に、少年はいらだった様子で腕を組み、空中に腰かけて足を組んだ。
(・・・浮いてる?)
今更だけど、かなりびっくりした。
「黙れこの駄犬が。お前は地獄の底で鳥にでも喰われてしまえ」
とてもきれいな、瓶ラムネを振ったような声なのに、酷くトゲトゲしい。それが、死神に容赦なく飛ぶ。しかし、死神は一向に気にしていない様子で、まったく悲しそうに見えない声で「悲しいなァ、そう邪険にすんなよ」と言った。
「え? え? 知り合い・・・??? なの?」
思わず聞くと、死神が何故か得意げに「おう!」と言った。
「こいつとは超仲良しな同僚なんだよ。なァ?」
「一体誰がお前なんかと仲良しなんですかねぇ」
言い返した少年の言葉は、やはり棘だらけだ。しかし不思議と、美雪が出した声の様な悪意は感じない。
「美雪は? 美雪も、命がないの?」
言うと二人は少し黙り、互いに顔を見合わせた。やがて、白い少年が話し始めた。
「・・・今の彼女は、あなたと同じ。何人もの人を苦しめ、悲しませた報いを受けている」
「報い・・・」
「ええ。あなたも、心当たりがあるでしょう」
死神が大げさに肩をすくめた。
「おいおい、そんなクソガキに心当たりなんざあるわきゃねェだろ? そいつは根ッからの・・・」
「・・・ある。すごく」
言うと、二人は顔を見合わせた。少し、白い少年の目に、恐らく殺気と呼ばれる光が宿る。
「・・・対象の観察をさぼりましたね?」
「え、いやァ、俺様はちゃァんと・・・」
「さ ぼ り ま し た ね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きゅ、急用がだな、」
「言い訳無用! 大体、「この」仕事中に急用など発生するわけがないでしょうがこのクソ駄犬が。ええ? 大体お前はすぐに手を抜くし・・・」
「あ―――――――――ァい! さぼったよさぼりましたよ! 文句あっか!!」
「ありますが。何か?」
「ぐうっ・・・・」
ああ、なんだか力関係がわかった気がする。
すると、白い少年がわたしを改めて見て静かに告げた。
「・・・審判は、今夜の零時です。あなたはまだ、見込みがありそうだ。ですが、それですべての罪を清算し切れた訳ではないのですから、気を抜かないように。今日があなたの最期の日なのですから、決して悔いを残さぬよう。では」
そういうと少年は逃げ出そうとしている死神に向けて厳しい声を発した。
「おい駄犬!」
「おッ!? おお!」
そして、鬼のように恐ろしい顔をして、鋭い釘を突き刺した。
「報告を見逃してほしければ・・・わかっていますね?」
死神は青ざめたまま引き攣った笑い顔で「おっ、おお!」と返した。
白い少年はそのまま、窓からどこかへと行ってしまった。ふと、足元に光るものが落ちていることに気が付いて拾い上げると、とてもきれいな純白の羽根だった。
「あ―――ァ・・・・めんど・・・いやいや、くっそ・・・・」
「ねえ」
声をかけると、「あン?」と聞き返してきた。
「さっき美雪が言ってた「呪う」って?」
死神は思い出したような声を上げた。
「あーァ、あれか。ありゃァな、お前が呪うか何かしたから、自分に死神が付いたんだとおもってンのさ。なんでお前なのかァわかんねェけど」
ああ、そういう意味か。
一つ、考え方を変えてみた。すると、構図がすとんと呑み込めた。
美雪はまだ、自分が被害者のつもりでいるんだ。で、わたしにあの少年が見えたから、わたしが呪ったんだって考えたんだろう。少し前の私と同じで、身勝手な考え方だ。
実際は、わたしと美雪、どっちもあの世へ連れて逝かれるっていうのに。
「あの女ァ、面白かったぜェ! 授業抜けて何やってんだと思ったら、神社に祓いに行ってやがった! 傑作だよなァ! そんなモンがあいつの因果をどうのこうのしてくれるわきゃァねえってのによォ!」
死神はケラケラと笑った。同時に、鈴がコロンと音を立てる。・・・どうやら死神には、私たち人の行動が面白く映っているのかもしれない。でもきっと、美雪は死にたくなくて必死なんだろう。
「・・・わたし、学校を早退する」
言うと、死神は不思議そうな顔をした。今日はいろいろな人に不思議がられてばかりだ。
「なんだァ? 急に」
「じゃないと、間に合わない」
わたしは職員室に走った。普段なら、こっそり抜け出すのに、わたしは先生に行ってから早退しよう、と自然と思っていた。
担任の先生は、真剣に話を聞いてくれた。普通の先生なら、多分何があっても駄目だ、と言うだろう。でも、いつも無断が当たり前だった私が、先生に相談したからなのか、本当に真剣に聞いてくれた。
・・・そして、明らかに怪しくて不自然な格好をした死神に、誰もつっこまない。見えていないっていうのは、どうも本当みたいだ。なんでついてきたんだろ。
「・・・わかったわ。事情があるのね。・・・ねぇ、樫道さん」
「・・・なんですか?」
先生は目を細めて、わたしを見た。
「あなた、かわったわね。変われたね。ちゃんと。もう、大丈夫ね」
わたしは驚いて、「・・・え」と声を漏らした。
「先生は、ずっと樫道さんが心配だったの。いつも余裕がなさそうで、ずっと焦ってる感じがして・・・注意しても聞いてくれなかったし。・・・でもね、わたしからしたら、凄くつらそうに見えたのよ、樫道さんが。でも、変われたみたいね。よかった。・・・家の用事で早退、っていうことにしてあげるから。今回だけ」
「・・・ほ、本当ですか?」
「静かにね」
そういうと先生は、引出しから紙を取り出して、そこに私の苗字と名前、クラスと番号をそれぞれ書き入れると、理由の欄に「家の用事で早退」と書いて、担任のハンコを押してくれた。
「気を付けてね」
わたしは先生を見た。気づかなかったけど、先生にも多分、凄く迷惑をかけた。心配もかけていた。私は、知らない間にいろいろな人に迷惑をかけてるんだ。
「先生」
「? どうしたの?」
わたしは言いかけた言葉をのんだ。いままで、なんて。心配かけるだけ。
「・・・本当に、・・・ありがとう、ございました」
わたしは深く頭を下げた。きっとこの先生に会えるのも、これで最期だ。
「大丈夫ですよ。気を付けてね」
わたしは紙を受け取り、支度をすべく教室へと向かった。
ー7ー
教室に行くと、深葉ちゃんがいた。わたしは深葉ちゃんに事情を話した。
「そっか。分かった。・・・今日、楽しかった。すごく。お弁当、分けてくれてありがとう。ねえ・・・あのさ、その・・・」
「どうしたの」
深葉ちゃんは恥ずかしそうに首を振った。
「ううん、何でもない」
わたしは、深葉ちゃんが何を言いたかったのか、わかった気がした。
「・・・ね、深葉ちゃん。わたしたちは、もう友達だよね」
わたしが言うと、深葉ちゃんの表情が嬉しそうに輝いた。
「・・・うん! ありがとう、うれしい」
「たとえ、わたしが今日で最期だとしても、わたしは、あなたが友達だってこと・・・あなたと友達になれたこと、誇りに思うよ。あなたがそんなに優しい子だって、知らなかったから・・・」
深葉ちゃんは息を詰まらせたような、つらそうな顔をした。
「・・・・・・うん。わたしも、ありがとう」
深葉ちゃんは、少しだけ目を伏せた。少し、震えている。
「それじゃあね」
「・・・それじゃ」
最初で最期の、本当の友達との、挨拶だ。
わたしは覚悟を決めた。いこう。
最期まで、わたしはわたしに出来る事をしよう。
ー8ー
わたしは電車に乗っていた。
今から、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行く。
今日は確か、叔母さんが来てるはずだ。
チャイムを鳴らした。どくどくと、胸が鳴る。口が渇く。
「はーい」
ややあって、ドアを開けたのは、叔母さんだった。叔母さんはわたしを見た瞬間、複雑そうな顔をした。わたしは息を吸い込んで、喉を震わせた。
「お久しぶりです。叔母さん」
叔母さんの顔から、嫌そうな表情が消え、代わりに、怪訝そうな顔になっていく。
「・・・今日は、どうしたの」
叔母さんが聞いてくる。
わたしは、自分の手が震えていることに気付いた。
今更ながら、知った。人と会って話すことは簡単だ。でも、人そのものと向き合うっていうのは、ものすごく怖い。心臓は痛いし、震えるし、走って逃げ出せたらどれだけいいだろう、と思う。でも、だからこそやらなくちゃ。
「今日は、・・・謝りに来たんです。お小遣いがもうないから、菓子折りとかも用意できなかったけど・・・わたし、皆さんに謝りたくて来ました」
わたしは、叔母さんにとても失礼なことを言ったことがある。叔母さんは、子供のころの病気で、手が少し不自由なのだ。それで、不自由が故の失敗を見て笑い、あまつさえそれを貶して散々罵ったのだ。たしなめてきた祖父母さえも鼻で笑い、この祖父母の家を出て遊び呆けたことがあった。そしてその後、叔母さんに子供が生まれると、その子供に対してもひどいことを言った。将来は苦労するとか、同じようにしょーがいがどうのとか。
祖父母に対しても、お年玉が少ないと文句を言ったり、あからさまにうざがったりしたのだ。本当に幼稚だった。
「わたし、・・・今まで本当に、本当に馬鹿でした。どうか、あやまらせてください」
叔母さんは少し黙った後、「とにかく、入りなさい」と、わたしを祖父母の家に上げた。
わたしは居間に通された。そして、祖父、祖母、叔母さんの三人が座り、わたしの話を聞く姿勢になってくれた。
わたしは、少しずつ話し始めた。
「・・・わたし、わたしは、今まで、おじいちゃんとおばあちゃん、叔母さんに、叔母さんの息子さんにも、とてもひどいことをしていました。わたし、本当に馬鹿でした。それがどういう事なのか、まるでわかっていなかったんです。本当に・・・本当に、今までごめんなさい・・・」
わたしは言って、深く頭を下げた。
震えた。体も、声も。ああ、自分が情けない。気づくのが、あまりにも遅すぎた。今日、何度も後悔している。
自分のあまりの情けなさに、涙が出てきた。
しばらくの間、居間は沈黙していた。叔母さんが、最初に声を発した。
「・・・それは、どうしてそう思ったの? 謝って来いって、誰かに言われたの?」
わたしは首を振った。涙が、次から次へとあふれ出す。伝えるのって、すごく難しい。
「わたし、今日、初めて気づいたんです。自分で。私がしたことの意味、してきたことが、一体どういうことだったのか・・・何一つわかっていなかったんです。気づいて、とても恥ずかしくなりました。とても、自分が嫌になりました・・・」
「それで」
おじいちゃんが、静かに聞いた。
「それで、お前は、謝ってどうしたい。お前が今更、謝ってなんになる」
「ちょっと、お父さん」
おばあちゃんが言うも、おじいちゃんは止まらない。
「今までやってきたことは決して消えないんだぞ。結局、自己満足なんじゃないのか!」
「お父さん!」
叔母さんがたしなめると、おじいちゃんは座りなおして、「どうなんだ」と言った。
わたしは迷わなかった。だって、自分の答えがもう、そこにあるから。
「・・・わたしは、許してほしいと、思ったわけじゃないんです。確かに、自分がやったことは取り消せないし、なかったことにはできない。今日、それを痛感したんです。・・・でも、だからこそ。わたしは、やってきたことに気付いて、後悔しているのだと・・・伝えたいんです。同じことを思っていようが、伝えるのと伝えないのだと、全然違うっていうことにも気づいたんです。わたしには・・・もう、時間がないんです」
今は十四時。あと十時間だ。たった十時間で、わたしは死ぬ。泣きそうになって、目線を畳に落とす。両手は、もうだいぶ黒ずんできている。
「わたしは、いままでたくさんの人に迷惑をかけました。もちろん、お父さんとお母さんにも。だから、残りの時間全部をつぎ込んで、できる限りの事をさせてください。どうか、どうかお願いします・・・」
居間は再び、水を打ったように静まり返った。
ややあって、叔母さんが声を上げた。
「・・・ねえ、梢ちゃん」
震えた。声が、あんまりにも優しかったから。
「人はね。すぐには変われないのよ。あなたに何があったのか、私にはわからない。そして、あなたが変わったとしても私たちは、あなたがしてきたことは忘れられないし、あなたをすぐに見直すことは、できないの。それでもね、こずえちゃん」
叔母さんがわたしの手を取った。わたしは、驚いて顔を上げた。叔母さんは薄く笑っていた。眼には涙が溜まっている。
「うれしかったよ。梢ちゃんが、こうして自分から謝りに来てくれたんだもの。自分で考えて、自分が間違っていたなんて理解するだけでも勇気がいるのに、その上で本当に謝りに来れるんだもの。本当にすごい。あなたが変わったのは、私でもわかるわ。・・・あなたならきっと、素敵な大人になれるよ」
大人。その言葉は、胸に突き刺さった。わたしは明日で死ぬ。もっと、早くこうなっていればよかったんだ。だけどもう、遅い。でも、叔母さんの言葉はうれしかった。だからこそ、辛い。まだ自分のこころがぐちゃぐちゃしているんだ、と実感した。
わたしは、もう大人になることもできない。
叔母さんが、わたしの手を握りなおした。
「ね、なかなおりしましょ。私、したいわ、仲直り。ね」
ああ。
両目が熱い。
こんな自分を、受け入れてくれる。
今まで自分は、なんとなく一人だった。本当はさびしかった。周りが誰も、私を理解してくれなかったから。家族がいたのに、友人がいたのに、誰も認めてくれないし、理解なんかしてくれない。だから、さびしかった。
でも、きっと少しだけ違ったんだ。周りの人が理解してくれなかったわけじゃない。私が、自分で壁を作って、誰も寄せ付けないようにしていたんだ。壁を破って、自分を理解してくれる人を、勝手に望んでいた。だけど、そんなに強い人、そうそういない。自分で作った壁は、自分で破るか・・・自分が外に出るしかない。そういうことだったんだ。
わたしは、恵まれている。そう思った。姿を見せれば、声を上げれば見つけてくれる。話を聴いてくれる。間違えてもやり直させてくれる。そんな人がたくさんいた。それに、気づかなかった。ああ、わたしは本当に恵まれていたんだ。
その時、ふと思った。もし、家族がそうじゃなかったらどうなるんだろう。美雪のお母さんみたいに、子供を放っておいたまま気にもかけない親だったら。深葉ちゃんの親みたいに、ご飯を自由に食べる事すら許してくれない親だったら。・・・まるで私みたいに、どれだけ話しても話さなくても、自分勝手な解釈をして追いつめてしまうような親だったら。考えただけで、恐ろしかった。
勝手に壁を作ってさびしがっていたけど、もし想像したような親がいるんだとしたら、どれだけその子供は孤独なんだろう。目の前に、自分勝手というものがどれだけ恐ろしいことなのか、突きつけられたような気がした。自分勝手はいけないとか、相手の事を考えようとか、それだけ言われたってここまでは分からないよ。そう思ったけど、昔の私なら、ここまで説明してもゲームをやっていそうな気がする。それで、またふんぞり返って逆切れするんだ。「めんどうだ」って。
「今まで本当にごめんなさい、ごめんなさい」とひたすら言いながら、叔母さんの手を握ったまま泣いた。声を上げて。いつぶりだろう、こんなの。叔母さんは子供をあやすように、わたしの頭を撫でた。
「ねえ、梢ちゃん」
おばあちゃんの声。わたしは顔を上げた。
「そしたら、お願いを聞いてくれないかしら」
おばあちゃんは優しい顔をしていた。まだ、わたしを許してくれるんだ。
「今ね、由井子叔母さんが二階を掃除してくれているんだけど、手伝ってほしいの。私たちは体が悪くてね。できないことが多いからお願いしていたんだけど・・・やっぱり、一人じゃ大変だから」
わたしは頷いた。なんだ、それくらい全然できるよ。
そう思った瞬間、思い出した。わたし、前も同じお願いをされてる。その時、ゲームがしたかったから断ったんだ。何度も、何度も断ったんだ。
「ありがとうね。助かるわ」
その時、おじいちゃんが席を立った。
「あら、お父さん。どこへ行くんです?」
「散歩だ」
おばあちゃんはおじいちゃんの背をにこにこと見守った。
「あまり遅くならないようにしてくださいね」
おじいちゃんは返事もしないまま、家を出ていってしまった。
「・・・気を悪くしないでね。おじいちゃんも、気持ちを整理したいのよ」
わたしは頷いた。そして、叔母さんと一緒に二階へ行き、掃除をし始めたのだった。
ー9ー
掃除中、叔母さんの携帯に電話が入った。
「ね、梢ちゃん。叔母ちゃん、ちょっと出て来るね」
「え・・・どうしたんですか?」
わたしは埃だらけのアルバムを、一か所にまとめながら聞いた。
「うーん、ちょっとお父さん・・・梢ちゃんのおじいちゃんがね、話をしたいって。ごめんね、任せてもいい?」
「あ、はい。大丈夫です」
叔母さんは困ったように笑った。
「ごめんね、ありがとね」
そう言って部屋を出て行った。少しして、階段を下る音が聞こえ、すぐに玄関を開ける音がした。
わたしはしばらく、叔母さんが外を歩く音を聞いていた。
そして、汗をぬぐうと、また片付けを再開した。
すごい力仕事だ。わたしだって大変なのに、叔母さんはこれを一人でやっていたんだ。しかも、左手がちょっと不自由だなんて、もっと大変じゃないか。
そう思った時、急に、何の前触れもなく後ろの本棚が倒れてきた。
「・・・え」
凄まじい大きさの本棚。下敷きになったら、・・・。
思わず頭を庇い、しゃがんだ。驚きすぎて悲鳴も出ない。一瞬、聞き覚えのある鈴の音がした。
わたしはぐっと目を閉じて、少しの間うずくまっていた。
「・・・あれ・・・」
衝撃はこない。バサバサと、自分の周りに本が落下する音だけが聞こえる。時間が止まったわけじゃないみたいだ。そっと目を開け本棚を見ると、死神が片手で本棚を支えていた。
「おい、何してんだ? あぶねぇぞ」
わたしは呆然と死神を見た。
死神は当然のように本棚を立て直した。片手で。
「・・・なーんか。嫌な感じだなぁ」
死神は呟くように言い、コートの埃をバタバタと払った。さっき聞こえた、鈴の音がコロンと響く。
「あ・・・ありが・・・・とう」
死神は不満そうに答えた。
「おう。・・・ってか、腹立ってきた。誰かがなんか仕掛けてきてんだよ」
「・・・え」
「お前も見ただろ? これがイキナリ倒れてきたの」
わたしは呆然と頷いた。やっぱり、見間違いじゃなかったんだ。
「それより、こういうのが倒れ来たらその場から動けよ。逃げねーと、お前みたいなニンゲンだとつぶれちまうぞ」
「あ・・・うん」
死神は嫌そうな顔をした。そして、鈴を鳴らしながら、左右を見渡した。
「・・・だれだよ、俺様の仕事ボーガイしようとしてんのは。・・・食い千切ってやろうか」
死神から凄い殺伐とした気配が流れてくる。わたしはとりあえず立ち上がって、片づけを続けようとした。死神が、驚いたようにわたしを見た。
「おい、何してんだよ。こっから出ねーとまたなんか起きんぞ」
「だって・・・片付け、やらなくちゃ。叔母さんにこれ以上負担かけたくないし」
「はぁ? お前、そんな奴だったっけ?・・・まあ、死にてーなら勝手に・・・いや、それじゃ、俺様が困んじゃねーか! どうしてくれんだよ!」
「ええ? いや、えっと・・・あ」
わたしは一つ、名案を思い付いた。
「そうだ。手伝ってよ」
「はぁ!?」
「早く出てほしいんでしょ。なら、手伝って。いいでしょ」
死神が困ったような顔をした。
「冗談じゃねーよ。大体、俺様は人間にヒツヨウイジョーにカンショーしたら駄目なんだよ」
「そうか・・・できないんだ・・・じゃあ、しょうがないか」
死神があまりにも人間らしかったので、思わず頼んでしまったけど・・・そうだ。この人は人間じゃないし、仕事で来ているんだった。手伝ってもらう事を諦めようとした・・・が。
「ああ!? 人間に出来て俺様に出来ねー訳ねぇだろーが! 甘く見てんじゃねぇ!」
そういうと、死神は着ていたボロボロのコートを机に投げた。そして、ものすごく重いはずのアルバムの束をあっさり持ち上げると、アルバムをまとめていた場所に置いた。
「え、手伝ってくれるの?」
「ちげぇよ! 俺様にだってこれくらい出来るってのを見せつけてやんだよ!」
もしかして、彼はバ・・・いや、単純なのかもしれない。白い少年とのやり取りでもちょっと思ったけど・・・あれか。一部に人気な「アホの子」とか「愛すべき馬鹿」とか呼ばれる分類の・・・。
「おい、お前今かなり失礼な事考えてねーか!」
「えっ!? いやいや全然! ・・・むしろ若干褒め寄りというか・・・」
「うるせぇ! これどこに置くんだよ!」
「あ、ええと、それはこっち・・・」
死神は文句を言いながら凄まじい重さの物を軽々と運んでいる。この調子なら、大分早く進みそうだ。かなりありがたい。
わたしは片付けながら、コートを脱いだ死神をちらっとみた。フードでわからなかったが、耳が頭の高い位置についている。で、犬みたいな形だ。人間の耳の場所には耳がなく、短い暗めの赤ピンクの髪で覆われていた。あと、かなり驚いたのが、尻尾。髪と同じ色の尻尾があった。耳の形と尻尾の形は、なんとなくシェパードが近い気がする。
こんなのいるんだ・・・と驚いて見ていると、死神が視線に気が付いたのか振り返った。
「・・・あ? 何ジロジロ見てんだよ。片付けするんだろーが」
「あ、ああえっと、うん。ごめん」
わたしは幼い頃、かなりの犬好きだったことを急に思い出した。どうして、最近は思い出しもしなかったんだろう。
そう考えて、すぐに思い当った。そうだ。わたし、ここ数年ずっとお化粧とか洋服の話とか、都心の話とかしかしてなかった。あと、アイドルとか。だから、自分が何を好きだったのかも忘れていた。
その時、一冊アルバムを落としてしまった。
「あ・・・っと」
わたしは持っていたアルバムを置き、落としたものを取りに行って、思わず息が止まった。
そのアルバムは、わたしが幼稚園児くらいの時のアルバムだった。両親と祖父母、叔母さんがあっちこっちに映っている。みんな、わたしを中心にして笑っていた。
昔はこんなに笑っていたんだ、と思ってしまうくらい、みんなが笑顔だった。ぶれた写真も、わたしが転んだ写真も、水族館に行った時の写真も。わたしが忘れきっていた思い出たちが、みんなここにいた。
わたしは、ようやく息を吐いた。わたしは、何を不幸ぶっていたんだろう。そう考えた瞬間、わたしはわたしが出来損ないだって、勝手に思っていたことに気が付いた。テストでいい点が取れない。ちゃんとした友達に恵まれない。毎日退屈している。そうした代わり映えしない毎日に、ずっと絶望していたんだ。
わたしは、どこか自分を廃れさせた世界に対して、被害者のつもりで生きていたんだ。
だから、虐めを正当化した。家出を正当化した。悪いことを正当化した。無理やり面白いことを探そうとして、日常と少しでも違う物事にのめり込んだ。そうすることで、自分への絶望を忘れられたんだ。
わたしは、溜息を吐いた。そんなこともわからなかったんだ、わたしは。自分がどういう理由で動いていたのか、何に突き動かされていたのか。考えもしなかった。でも、わたしが見捨ててきた理由は、ちゃんとここにいた。ここにあったんだ。
わたしはアルバムを拾い上げた。両目に涙が溜まった。わたしを否定していたのは、見捨てていたのは世界なんかじゃない。家族でもない。友達でもない。
私自身だったんだ。
敵が見えないから、分かりやすいものを見立てて安心していたんだ。分からないものは怖いから。それで、わかったふりをしてきたんだ。
わたしは瞬きをした。暖色のカーペットに、涙が落ちて染み込んでいった。そんなわたしを、死神は黙ったまま見守っていた。
そして、片づけを再開した後途中何度か、「起こりえない事故」が何度か起きたが、すべて死神が何とかしてくれた。
そうこうしているうちに、叔母さんが話していたラインまで終わってしまった。一時間はかかると思っていたのに、二十分足らずで終わってしまった。
「ありがとう・・・本当に助かったよ。その・・・いろいろと」
「ケッ、俺様にもできただろう? な?」
とはいえ、彼は何度か置く場所を間違えたり、壊しそうになったりしたが、まあ、助かったからよかった。
「うん。すごい。本当。びっくりした」
そういうと、死神は得意そうに笑った。よく見ると、尻尾を左右に振っている。
動くんだこれ。いや、そりゃあ飾りじゃないだろうけど、びっくりした。
「へへ、そうだろ! さあ、分かったらこの家からさっさと出ろ。これ以上の災厄が来ると他の人間を巻き添えにすんぞ」
死神は言いながら、コートを羽織った。そして再び、フードを目深にかぶる。わたしはちょっとだけ残念に思った。
「・・・そっか」
わたしはとりあえず、汗を拭って階下に降りた。
「あら、お疲れ様、梢ちゃん。お茶飲む?」
わたしは少しだけ笑った。ごめんなさい。そんな時間ない。おばあちゃんを危ない目に合わせたくないんだ。
「あの・・・その、えっと」
その時。死神が目を丸くして何かを掴んだ。
「・・・ん? んー・・・」
声に、わたしは死神の方を見た。死神が持っているのは細長い、鞭の様なものだ。しかし、よく見ると先が、死神の手から逃れようとうねうねと動いている。
「えっ・・・!? なにそれ!?」
「梢ちゃん?」
おばあちゃんが不思議そうに、わたしの見ている方向とわたしを交互に見ている。おばあちゃんには見えていないみたいだ。
「え、えっと、お茶はまた後でね。少し、えーっと・・・そうだ、外の空気を吸ってくるね!」
おばあちゃんはにっこり笑って頷いた。
「わかったよ。車に気を付けてね」
「うん、ありがとう」
わたしは外に向かった死神を追って、家の外へと出た。
ー10ー
外に出ると、死神がニヤッと笑ってその鞭の様なものを思い切り引っ張った。すると、黒い大きな鼠のようなものが暴れながら出てきた。しかも、家の影から。死神が持っていた部分はどうやら尻尾の部分らしい。
「まさに尻尾を掴むってな!」
その言葉を掛け声のようにして、尻尾を思い切り引っ張り、振り回した。牛のように大きな鼠を、何度も地面に叩き付けている。相当凄い音が出そうなのに、死神の鈴が鳴る音しか響かない。そして死神は、その鼠を足で押さえつけた。
「ヒヒヒヒッ、よえェ悪魔だなァ? ああん? 俺様の仕事に手ェ出しやがって、どうなるかわかってんのかァ?」
巨大な鼠は暴れながら鳴き声を上げている・・・が、よくよく聞くと言葉だ。聞き取れる。
「くそ、こんな・・・冗談じゃねーさ! 放せえ!」
「放せだなんて、冗談じゃねェよ。・・・地味にうまそうじゃねぇかよ、お前」
そういうと、死神は唐突に鼠に口を近づけた。
その時、目の前にきれいな白い翼が降りてきて、視界をふさいだ。そして、後ろから細い手が二本、耳をふさいできた。
「・・・まったく、彼にも困ったものです。なんで可能性のある方を潰しかねない事を・・・」
わたしは、その声で誰だか気付いた。穏やかで投げやりで、どこか感情が欠落したような声。というか、今とても不思議な状態だ。彼の声しか聞こえない。
「えっと・・・白い死神さん」
「ええ、そうです。モザイク機能とかあればよかったのですが・・・相当酷い絵面なのでね。あなたが呪われたので来てみれば・・・食事中の彼は非常に興奮していましてね。見るのも近づくのも危険なんですよ。まあ、ご自身の運の悪さを呪いなさい」
「ああえっと・・・グロ系に耐性無いんで、助かります」
「いいえ。これも僕の仕事の一環なので」
そして、少ししてから白い死神が言った。
「・・・・そろそろ大丈夫でしょう。多少汚いですがまあ、覚悟してください」
そうして、目の前の翼が後ろに戻り、耳から手が外れた。
黒い死神は予想通り、巨大鼠(悪魔?)を食べていたようで、口元が血まみれだった。鼠は残骸すらなく、きれいになくなっていた。
「お? フォーリンじゃねーか。どうしたんだよ」
白い死神は酷く嫌そうな顔をしていた。
「どうしたんだじゃないでしょうが。人間の前で狩りをするんじゃないと、再三伝えたでしょう」
死神は口を拭った。
「あー・・・まあ、しょうがないだろ。今回はとらぶるってのがあってだな」
「ならば殺すだけで良いでしょう」
「はぁ!? そんなことしたら固まって不味くなるだろ!」
「このアホが!」
白い死神が黒い死神の頭を小突いた。
「いって!」
「食うなって言ってんですよ理解できますか?」
「う・・・」
黒い死神は叱られてちょっと萎縮した。
「・・・美味そうだったんだもん・・・」
「はい?」
「あ、や、なんでも・・・気ぃ付けるよ・・・ったく」
白い死神は呆れて溜息を吐いた。多分、あれが初めてってわけじゃないんだろうな。
「・・・あなたに死の呪いをかけたのは、向島美雪です。僕もちょっとした目くらましを食らってしまいましたよ。まあ、呪い自体は微弱だから駄犬でも対処できるだろうと思ったのですが・・・こいつの食欲を忘れていました」
わたしは少しだけどきっとした。昨日まで会話していた相手が、わたしの事を殺そうとした・・・って、こと・・・だったから。
だけど、昨日までのわたしなら、同じような事してたかもしれない。なんでわたしがこんな目に合わなきゃならないの、って。多分思ってた。
でも多分、当然の事なんだと思った。今時珍しい、因果応報っていうものなんだろう。正直、今は因果応報なんてめったにない。わたしだって、その理不尽の一端になっていた。その自覚すらないまま、苦しんでいる人もそうでない人も、さらに苦しめたんだ。
「少なくとも、向島美雪はもう、人を呪い殺せるだけの魂は残っていません。なので、後は死ぬまで安全ですよ」
白い死神がそっけなく言った。わたしは、とりあえず聞いてみた。
「・・・ねえ、白い死神さん。あの子は、美雪は、今どうしてるんですか」
白い死神はとても、冷めた目でわたしを見た。どことなく、憐れんでいるようにも見えた。
「彼女ですか。今は手袋をしながら娯楽に興じていますよ。「お友達」と一緒にね。時々、急にヒステリーを起こしているようで、周囲が慰めていますよ。・・・全部無駄なんですけどね」
わたしは黙って自分の両手を見た。朝よりもかなり黒くなっている。あの子の手もこうなっているんだろう。もう、現実逃避をするしか自分を保てないのかもしれない。
でも、それも当然かもしれない。わたしだって死ぬのは怖い。初めて、ちゃんとした友達が出来て、家族と仲直りできて、自分のしてきたことを知れたのに、明日にはそこにわたしはいない。あの子の隣にも、両親の家にも、誕生日会にも。わたしはもういない。
そう思うだけで、体の底から締め付けられるような痛みが湧き上がってくる。だけどそれは、全部自分が浅はかだったからだ。言い訳しながら、自分自身に向き合おうとしてこなかったからだ。
わたしは深呼吸をした。全部、私が招いた現実なんだ。手が震える。価値を知った今だからこそ、覚悟なんて出来るわけない。
「そう・・・ですか・・・」
辛うじて声を出した。ああ、わたしはなんて愚かだったんだろう。腕時計を見ると、十六時になっていた。
もう、時間がない。今日が終わってしまう。
その時、向こうの方から叔母さんとおじいちゃんが一緒に歩いてくるのが見えた。
「では、僕はこれで。また、日の終わる時に会いましょう」
振り返ると、もうそこに白い死神さんはいなかった。遠くの空に、早くなった夕陽に照らされた、白い鳥が見えた。
「あー・・・? なんか、今回当たりが緩いな、あいつ」
黒い死神が不思議そうに呟いた。
「あれ、梢ちゃん? どうしたの」
叔母さんがわたしに声をかけてきた。おじいちゃんは仏頂面だったが、それはいつもの事だった。アルバムのおじいちゃんも同じような顔をしていた。
「ああ、えっと・・・大分進んだので、外の空気を吸おうと思って」
「そうだったの。ごめんね、任せちゃって」
「いえ、いいんです。今まで断ってばっかりだったから」
そういうと、叔母さんは不思議そうな、でも嬉しそうな顔をした。
「あら、そう言ってくれるなんて。本当に変わったわね。何かあったの?」
わたしは少し、息を詰まらせかけた。それで、なんでもない風に答えた。
「いえ。何もないんです。・・・本当に」
その時、おばあちゃんが玄関から出てきた。
「あら、お帰りなさい。ちょうどお茶が入ったから、いらっしゃい」
今更気づいた。おばあちゃんと叔母さん、あら、という口癖が一緒だ。そういえば、お母さんもそうだった気がする。
なんだか、急にさびしくなった。
「どうしたの、梢ちゃん? 何か辛いことでもあったの?」
叔母さんが急に優しい声をかけてきた。わたしは、泣き出しそうなのを必死でこらえた。だって、話したところで、心配をいたずらにかけるだけで終わってしまう。
「いえ・・・大丈夫です・・・」
叔母さんはちょっとだけ笑って、わたしの肩を抱いた。そしてそのままあやすように、とんとんと軽くたたきながら、わたしを家に入れた。
ー11ー
「遅くなっちゃって、すみません」
時刻は十七時半になっていた。お茶を飲みながら叔母さんたちが、わたしの小さいころの話をしてくれた。聞き入っていたら、時間がだいぶ経ってしまった。親に心配を駆けたくないと話すと、叔母さんは嬉しそうに笑って、帰りの支度を手伝ってくれた。
「わたしも帰ってご飯作らなくちゃ。この調子だと、本当に遅くなっちゃうからね」
「はい。・・・ありがとうございます」
本当はもう少しだけ話を聞いていたかった。だけど、ちょっとできそうにない。
「お茶、ごちそうさまでした」
おばあちゃんに言うと、おばあちゃんは笑って答えた。
「いいのよ、片づけ手伝ってもらっちゃったんだから」
学校のカバンには、おばあちゃんがくれたお土産がたくさん入っている。こっそり、おじいちゃんがおこづかいをくれたりもした。全部、大事だった。多分、お土産もおこづかいも、全部なくなる前に時間切れになると思うけど、くれた気持ちが嬉しかった。
「またね、梢ちゃん」
「じゃ、また遊びに来なさい」
祖父母の言葉。わたしは、こんな些細な約束を守れない。
明日になったら、二人は悲しむだろう。叔母さんも、もちろんお父さんとお母さんも。あと、多分深葉ちゃんもだ。
・・・そうだ。悲しいのはわたしだけじゃない。いなくなることで悲しんでくれる人がいるって、とっても幸せなことなのかもしれない。もちろん、形だけとか、自分が可哀そうに見せるためだけとかじゃなくて、「わたしがいなくなる」っていうことが、本当につらいって感じてくれる人たちがいる、ってことが。
「じゃあ、さよなら・・・」
わたしはふたりに手を振った。そして、そのあと振り返れなかった。多分、二人はわたしたちが見えなくなるまで手を振るだろう。それを見たら多分、わたしは泣いてしまう。
帰りは、叔母さんが駅まで見送ってくれた。わたしは手を振りながら、改札の向こうへと足を踏み出した。
ー12ー
その日の夜。家に着いたのは、十八時を少し過ぎたくらいの頃だった。お母さんと、珍しくお父さんが帰ってきていた。今日やってきたことを話すと、二人とも喜んでくれた。
そして、まるで数年前の、あのにぎやかだった頃の誕生パーティの様な夕食会が開かれた。楽しいことを話して、面白いことをして。些細な言葉の一つ一つがすべて染み込んできた。こんなに楽しくて、笑ったのはいつぶりだろう。こんなに、こんなにさびしくて悲しかったのも、いつぶりだろう。
かなしくてうれしくて、わたしは訳がわからなくなって泣いた。でも、笑ったままだった。こんなに感情が溢れたのも、すっごく久しぶりだった。
夕食の時間は夜九時まで続いた。話して話して、それでもまだ話し足りなかった。お風呂に入って、また話して、十一時になったから、お休みの挨拶をした。全然、時間が足りない。急いでも急いでも、いつの間にか時間が過ぎていた。
結局、わたしが部屋に戻ったのは、十一時半だった。わたしはその間、両親にひたすら感謝を伝えた。言っても言っても、やっぱり言い足りない。結局、二人が部屋まで送ってくれたのだ。
一人になって、わたしは泣いた。ひたすら、どこからこんなに涙が出てくるんだろう、ってくらいに泣いた。
部屋のすべてに、両親との思い出がある。ぬいぐるみもかばんも、カーペットもベッドも、クッションからストラップに至るまで。
ここで、ようやく自分が死ぬことの意味を理解した。
「・・・そんなに、死ぬのが怖ぇのか?」
わたしがあまりに泣くので、死神が怪訝そうに聞いてきた。
わたしは泣きながら頷き、すぐに首を横に振った。
「そうだけど、違う。わたし、わたしが、みんなと二度と会えなくなることが怖いんだよ。もうこの部屋から朝日を見ることが出来ない、ってことが怖いよ。死ぬってことは、つまり死ぬことなんだ。いなくなるんだよ。わたし、いなくなっちゃうんだ。もう、おはようもおやすみも言えない。二度と、話すこともできない。触れることだってできないんだ。それが、その全部が怖いんだよ・・・」
それが、死。死ぬってつまり、そういう事。大事なもの全部と別れなくちゃいけないってことであり、大好きな人すべてと、大好きなものすべてと、永遠にさよならするっていうこと。もうバカ騒ぎも、遊びに行くことも、何もかもできない。二度と。
それをようやく思い知った。わたし、何回他人に「死ね」って言ってきたんだろう。わたしは、なんて恐ろしいことを言っていたのだろうか。それも、何の気なしに。
死神は分かったような、分からないような顔で、「・・・ふうん」と言った。
「とにかくほら、あと十分だ。悔いのない死に方をしろよ」
そんなの、無理だ。
でも、せめて、大好きなものに囲まれていたい。
わたしは、お母さんが選んでくれた、お気に入りのチュニックとパンツ、ブラウスを着た。そして、お父さんが選んでくれたお気に入りの帽子を抱いて、去年のお祭りで買った光るペンダントを付けた。あの時、わたしは子供っぽくて嫌いと言っていたけど、わたしは小さい頃こんな感じのおもちゃのペンダントが宝物で、壊れたときは大泣きしていたんだった。それを、二人は覚えていたのだ。
このペンダントは、他のおもちゃと違って、まぶしくピカピカと光らず、ずっと同じ色で光り続けるやつだった。だからこそ、両親はこれを選んでくれたのだろう。わたしは高校生になっても、こういうのがほんとは好きだったんだ。
そして、わたしはベッドに腰掛けた。大好きなぬいぐるみが、いまだに置いてあるベッドだ。
「・・・もうじき時間だ。きれいな死に方したいんなら、横になっておけよ」
わたしは黙って涙を拭い、ベッドに横になった。ああ、あと六十秒だ。
わたしの口から、思わず、祈りの言葉のように、早口で願いが漏れ出た。
「・・・お母さん、お父さん。今まで本当にありがとう。たくさん迷惑をかけて、ごめんなさい。わたし、二人の娘で幸せだった。深葉ちゃん、今までごめん。せっかく友達になったのに、もう死んじゃうなんて、それもごめん。どうか幸せになって。おじいちゃん、おばあちゃん。わがまま言ってごめんなさい。先に逝きます。叔母さんも、その息子さんも、酷いこと言ってごめんなさい。どうか皆さん、私が逝っても幸せでいてください」
そして、時計の針が一列にそろった時。わたしの意識は、眠るように遠ざかった。最期に、コロンと場違いな鈴の音がした。