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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

サンソンに出会いを求めるのは間違っているだろうか

作者: 左高例


 風の音。

 水の音。

 悲鳴。

 神への祈り声。

 感じた耳鳴りはそれら全てを合わせたようだった。



 ──幻聴のような耳鳴りに意識が覚醒した男はすぐに不明の焦燥感に襲われた。


 心臓が激しく動悸している。目を開けているはずなのに曇った視界は薄暗く、殆ど何も捉えられなかった。

 記憶が不明瞭であった。頭に霞が掛かっているようだ。なにか、酷く寒かった気がするが、体の感覚としては横に寝かされていて足の先から首まで布に挟まれている。ベッドの上で、薄布を被せられているようだと男は判断する。

 体がうまく動かない。身じろぎをしようとするが体中の、どこと特定出来ないほどあちこちから激痛が走り悲鳴を上げそうになった。

 

(私は、怪我をしている……?)


 その事を把握すると混乱した記憶が少しずつ蘇り、更に心が乱れる。

 焦りを感じる。なにか、とてつもない事態が差し迫っているのではないか。それを思い出そうとした。


(何処で怪我をした? ……怪我をする前に、私は誰と一緒だった?)


 彼の視界に、薄ぼんやりとした灯りが見えた。蝋燭の火だ。

 それを手にした女性がこちらを覗き込むように──


コロンブ(・・・・)!」


 咄嗟に彼はそう叫んだ。彼の知る女性の名だ。痛みに身が捩れる程だと云うのにそれを無視して無理やり体を起こして彼女の手を取った。

 たったそれだけの動作で男は息切れを起こすほどだった。酷く疲弊していることを自覚しつつも、相手の女性をじっと見つめた。

 体を起こしたことで視界の焦点があったのだろうか。驚きつつも蝋燭を落とすまいとして、こちらと目を合わせている女性の姿がくっきりと浮かんできた。


「──!」


 彼女は──コロンブという女性ではなかった。違いを男は意識する。


(コロンブは美しいブロンドの髪の毛をしているが、彼女はワインのような赤色の髪をしている。顔つきだって、両方共美人という共通点こそあるものの似ているとは言い難い……)


 別人だ。女性を観察しつつもその美しさを心の中で把握するのは、彼が生粋のフランス人だからだろう。

 

(ではコロンブは何処に? 気を失う前に私と共に居た彼女は……)


 男は片手で顔を押さえて、どうにか思い出そうと記憶を手繰る。


「あ、あの……」

「──っ! 失礼しました、お嬢さん。少し、動転していたようで……」


 手を掴まれたまま気が引けるように声を掛けてくる彼女に、男は慌てて手を離して謝った。

 女性に対して優しく。それは彼の誓いだった。彼が幼馴染のコロンブからずっと昔に約束させられたことでもある。

 彼女は男が寝かされていたらしいベッドの隣にあるテーブルに燭台を起き、心配そうな眼差しを向けて云う。


「気にしないでくださいでござる」

「ござる!?」


 いきなりの語尾に思わず男は聞き返した。彼女はしまった、とばかりに表情をこわばらせる。

 彼女の方も軽く驚いているので言葉がもつれて妙な語尾になったのだが、それを説明するといかにも情けないように思えたので誤魔化すことにした。


「すみませんなんでもないです。お父さん……ええと、その、治療してくれた人を連れてきます」

「ござるは?」

「……」


 彼女は質問に応えずに背を向けて部屋を出ていった。

 治療、と言われて改めて彼が自分の体を見下ろすと、薬の臭いが染み付いた包帯が胸に巻かれている。腕にはガーゼが当てられて、恐る恐る内側を見ているとざっくりと切れた傷跡を丁寧に縫った痕跡がある。片足も何処か捻ったようで足首が腫れていて熱を持っていて、湿布が貼られている。

 大きく深呼吸をすると酷く胸が痛んだ。恐らく、肋骨が折れたかヒビでも入っているのだろう。


(とすると、私は重傷の最中に医者の家族にでも助けられたのだろうか)


 それにしても、こんなに清潔なシーツを患者に与えている医者となれば、ひょっとして貴族御用達の医者かもしれないと彼は思う。シラミやノミの気配も無く白いシーツは物珍しかった。

 何より、看護婦……なのか不明だが、その医者の娘らしい先程の女性の姿を思い出す。年の頃はまだ17歳前後だろうか。


(服さえ質素でなければ何処かの姫と見紛うばかりに美しかったな……) 

 

 そのような事を考えていると、無遠慮に部屋の扉が開かれて男が入ってきた。 

 思わず身構えようとしなければ身の危険を感じる。そんな風貌の男だった。濃い髭面と不機嫌そうに眉根の寄った眼差し。ボサボサの髪の毛。太い首。手足や胴体もずんぐりとしていて、失礼ながら山賊の親玉のような印象を覚える強面である

 

「目が覚めたか。体の具合はどうだ」


 見た目通りの野太い低い声で、ぼそりと愛想の欠片も見せずに告げてくる。

 医者として患者の具合を心配しているというより、ただの義務で一応聞いているといった印象を覚える。


「ここは……?」

「俺の名はジュアンヌ。お前さんを嵐で倒壊した小屋から掘り起こして治療していた」


 ジュアンヌ、という響きと見た目が似合わないと彼は思ったが、ジュアンヌの一言でようやく混乱していた記憶が全て蘇るのを感じた。

 

「そうだ。私は嵐に巻き込まれて……彼女と一緒に──」

 



 *******



 時代は西暦1661年。

 フランスでは宰相マゼランが死去し、[太陽王]と呼ばれるルイ14世が親政を始めた絶対王政の時代である。


 怪我をしていた男の名はシャルル・サンソン・ド・ロンヴァル。

 フランスの都市ディエップに駐屯する軍の中尉をしている。歳は今年で二十六歳。明るい金髪をして背の高い、鍛えられた体をした青年である。


 アブヴィルという都市で生まれ育った彼には幼馴染にして従姉妹が居た。それがコロンブだ。小さい頃からいつも一緒で、いつかは結婚しようと無邪気に想い合っていた仲だった。

 しかしコロンブは伯父の決定でシャルルの兄と結婚することを决められてしまったのだ。

 この時代、父の決定を覆すことなど娘に出来はしないし、早くに両親を亡くしたシャルルとその兄は伯父の世話になっていたので逆らう不義理もできない。

 そもそも、その頃は彼の兄が既に下級裁判所の判事という立派な職に就いていたのだ。若造よりも固い仕事を持つ男へ娘を早く嫁にやろうと考えるのも、親としては当たり前だった。


 シャルルは兄と伯父のことも思ってコロンブを諦め、忘れようと軍に入り、それから三年余りは西にある新大陸に渡ってあちこちで転戦してきた。

 だが不幸が起こった。彼の兄が癲癇の発作で暖炉に倒れ込み大火傷を負い、それが原因で判事を辞職せざるを得なくなってしまったのだ。また、伯父も死去して財産分割で面倒なことになっていた。

 働けない兄と、何よりコロンブを養う為にシャルルはフランスに戻ってきて軍人をしながら夫婦に仕送りをしていた。


 そしてつい最近──火傷の具合が良くなかった兄がとうとう亡くなってしまった。

 それと同時に、兄夫婦が抱えていた借金によってコロンブは家を追い出され、着の身着のままでディエップの修道院へ向かおうとしていた。俗世の不幸が嫌になったのだろう。そのまま出家すると周囲には告げていた。

 シャルルは慌てて軍の馬を借りて急がせ彼女を迎えに行き──夫を失ったばかりの相手に対して非常に礼を失していたが、感情を止められず──どうか私と一緒になってくれるように頼んだのだ。

 すると、コロンブも頷いた。

 元々想い合っていた二人の気持ちは、今になっても変わっていなかったのだ。

 コロンブは父を失い、シャルルも兄を失ってお互いに家族が居なくなったが──遺された二人でこれから歩んでいこうと、そう誓いあったのだ。

 

 それで二人は幸せになりましたと締めれば、きっと孫あたりに語り継ぐ話だったのだが。


 二人でひとまずディエップの町に向かおうとしていたら、その日のうちに嵐に襲われたのだ。


  猛烈な風雨であった。立って歩けないほどの暴風は馬の手綱すら引きちぎり、風に追われるように乗っていた馬は走り去ってしまった。

 目も開けられず、音も風に紛れてすぐ隣に居るお互いの声すら通じない。握りあった手が無ければ見失ってしまうだろう。

 人里離れた場所で動けなくなった二人は、近くにあった半ば崩れかけている小屋に逃げ込んだ。

 身を寄せ合って雨風で建物が軋む音や怒号のような雷鳴、そして雨漏りでずぶ濡れになって震えながらも嵐が収まるのを待ち続けていた────





 ********

 

 

 

「すみません、私の他に女性がいませんでしたか!? 金髪の、小柄な!」  


 大声を出すのにも体が痛んだが、シャルルは聞かずにいられなかった。

 熊のような男は不機嫌そうな顔を崩そうとしないまま、ぶっきらぼうに告げる。


「居た。だが、既に死んでいた」


 明確な答えだった。誤魔化そうという気も無く、事実のみを淡々と告げる。

 耳にその声が入って、脳でもその事実を妥当だと認識したにも関わらずシャルルは呆然と聞き返した。 


「……嘘、です、よね」

「本当だ。崩れ落ちた木材が突き刺さり、出血が酷かった。一応遺体は運んできているが、お前が目覚めるのが一日遅かったら埋葬していた」


 信じられない。いや、信じたくない。

 だが、確かに。

 崩れ落ちる小屋の中、シャルルの意識が薄れゆく中……コロンブの悲痛な呻きと、彼女を抱きかかえた手にぬらついた血の感触があったことを覚えている。

 彼女は死んだのか。助けられなかった。自分は何のために駆けつけたというのか。シャルルは暗澹な思いで顔を覆った。

 

「どうか……彼女に……合わせてください」

「……いいだろう」


 ため息混じりにジュアンヌは頷く。


「おい、マルグリット。誰か肩を貸す男は居なかったか」


 彼が肩越しに、部屋の入り口から心配そうに見守っている赤毛の女性──マルグリットというらしい──に声を掛けた。


「その……今日は皆、町に買い出しに出て今は居ないわ……お父さん」

「お父さんじゃない。人前では親方(おやかた)と呼べ」

「……はい。親方」


 娘らしい女性はうっかりしていたとばかりに訂正をした。

 親方、とシャルルも声に出さずに口を動かしてみる。ジュアンヌ親方。まあ、確かに親方といった風貌の男なので名前よりは肩書が似合っている。

 

(親方というと職人か何かだろうか)

 

 ジュアンヌのいかにも頑固で無愛想な態度と、仕事によって鍛えられた体つきは鍛冶屋とか大工などを連想させた。

 だがそれを深く気にするよりも、コロンブのことで頭がいっぱいであった。どうにか立ち上がろうとシャルルは痛みに顔を引き攣らせながら身を起こす。

 すると親方が舌打ちをして、彼を制した。


「お前は動くな。マルグリットは遺体を置いた部屋に椅子を用意しておけ」


 言うが早いか、親方はシャルルの腰に手を当てると、まるで軽い荷物でも持つようにひょいと担ったのでシャルルも目を丸くした。そのまま親方はシャルルを持って部屋を出る。

 彼とて軍人で、怪我をした味方を担ぐこともあるがそれ故に人の重さはよく知っている。体格の良い成人男性を、背負うならまだしも腕の力のみで軽く持ち上げて運ぶなど大変に力が必要な上に、慣れていなければ難しい。重たいと同時に人体は持ちやすいとはいい難いのだ。

 やはり医者だろうか、とシャルルは思う。医者ならば怪我人を運搬することもあるかもしれない。医者で親方とは余り聞いたことは無かったが。

 ずんずんと親方は廊下を進む。それなりに広い間取りをした家だった。窓からちらりと見えた限り、都市の郊外にあるようで周囲に人家は見当たらなかった。


 少し離れた部屋に入る。簡素な部屋で、血の匂い──というより死の臭いがする。それを打ち消さんばかりに薬の臭いも混じり、澱んだ空気をしている部屋だった。

 その部屋の中央にある飾り気の無い、ベッドというより単なる木の台に女性が寝かされていた。

 それを見た瞬間に、シャルルは嗚咽が溢れる。 

 隣に置かされた椅子に降ろされ、力なくシャルルは台に眠る女性へ寄りかかるように体を寄せた。

 コロンブだった。肌色は既に血が抜けきったかのように青白く、恐らく無残に怪我をしていたであろう、腹部や手足には布を巻かれて隠されている。だが体は湯で拭かれたようで泥一つ付いておらず、髪の毛も綺麗に整えられていた。 

 死に顔は安らかだった。静かに目を瞑り、胸元で手を握っている。


「……コロンブ……」

 

 従姉妹であった。幼い頃に両親を亡くしたシャルルが引き取られた叔父の娘で、兄妹同然に過ごしてきた家族だった。

 急ぎ働きだして弟を養い一人前にならなければ、と励んでいた兄を尻目に、無邪気に同年代の子供同士として二人は遊び合い──

 いつか結婚しようと笑い合って約束をしていた相手だった。

 

 それは叶わず、彼女を忘れようと海を渡って軍人として戦い続け、それでも忘れられない大事な人だった。

 叔父と兄の不幸に対して不謹慎なことだが──ようやく、二人は結ばれると思った矢先の別れであった。


「なんでだよ……これからだっただろう……今度こそ離れないって約束したじゃないか……」


 座った体勢では、じぐじぐと傷が痛んで包帯に血が滲み出す。

 コロンブの手に触れても彼女の温かだった肌は氷のように冷たくなっていて、もう二度と戻ることはない。


 彼女が起き上がることはもうないのだ。


 シャルルに微笑むことも、幸せになることも、悲しむことも、子供に囲まれることも、声を聞かせてくれることも。


 あらゆる可能性が死ということで摘み取られ、不可逆になってしまっていた。


 幾ら嘆こうが彼女が生き返ることもなければ、喜んでくれることもない。


 それでもシャルルは彼女の手に縋り付いて、ひたすら涙を流して嗚咽を零していた。

 



 いつの間にか部屋からは親方は居なくなり、シャルルの後ろで心配そうにマルグリットが見守っていて。

 

 それから暫くして、体力の限界を迎えたシャルルが気を失い、椅子から崩れ落ちるように倒れかけた。

 近くに控えていたマルグリットは慌てて支えてやり、親方を呼んでベッドに戻させるのであった。





 ********** 




 シャルルはベッドで目を覚ますと、何もかも無気力になっている自分に気がついた。このまま眠って、全てを夢にしてしまいたかった。

 彼女を忘れる為に軍人になり、彼女を養うために軍人の稼ぎを費やしていたのだ。全ては彼女のための人生だった。それが全て過去へと消えた。


「お目覚めになられましたか」


 だが、慮る様子で静かに声を掛けてくるマルグリットを無視することなどできなかった。

 恐らくは自分がここで倒れている間に世話をしてくれたのは彼女だろうし、コロンブの遺体を綺麗に湯灌し整えてくれたのもマルグリットだろう。無愛想な親方が進んでやるようには思えなかった。


「ごめんなさい。本当は、もっとゆっくり休んで頂きたいのだけれど……親方がお話があるようで。少しお待ちくださいね」


 そして、再び起きたシャルルにマルグリットは水差しで水を与えて、親方を呼んできた。

 彼はすぐさまシャルルの脈を測って体調の具合を確かめた。その慣れた手付きは、やはり医療の心得があってのものだ。

 それからむすりとした鉄面皮の男は低く事務的な声音で、ご愁傷さまとも言わずにシャルルに問いただした。


「あの娘の埋葬のことだ。明日には聖職者が来て、近くの集団墓地に埋葬される。だが故郷に一族の墓などがあるなら、遺物を持ち帰るか?」


 旅先で死んだ場合、その土地でのやり方に従って埋葬されるのが常である時代だ。それでも片割れであるシャルルは生きているので、一応聞いたのだろう。

 彼女は墓に埋められる。それを意識しただけで、シャルルは心が潰される気持ちだったけれど。

 それでも少し考えて、首を横に振った。


「いえ……コロンブにはもう家族がおりません。彼女が……ここで死んだのは、天命だと思いますので……この地に埋葬をお願いします」

 

 アブヴィルには兄と叔父の墓がある。だが、シャルルはそこへ埋葬しようとは思わなかった。

 二人共決して悪い人間ではない。シャルルは恨みにも思っていないし、尊敬もしている。しかし、結果としてコロンブは二人の元を離れて、この地で自分と再会して死去した……そういう感傷があったので、ここに墓を作るのが良いと思えたのだ。


「……とにかく、明日には聖職者が葬式を上げてくれる。俺は参加しない。お前もベッドに寝ていろ。起きて倒れられでもしたら迷惑だ」

「いえ、しかし私は──」


 凄まじく恐ろしい眼差しで親方から睨まれてシャルルは口を閉ざした。

 どちらにしても、体を動かそうとしてもまったく力が入らず、親方に担がれでもしなければ這っても移動できそうになかった。

 というのも実のところ、彼に飲ませた水には薬草を煎じた鎮静剤が含まれていて、それの副作用として眠気や倦怠感で動けなくなっているのだ。

 そうしなければ勝手に動き出して余計に傷を悪化させると判断した親方の指示である。


 暫くして、シャルルは意識を混濁させて再び眠りについた。



 夢の中で会えたコロンブは、幸せそうに笑っていて──



『ありがとう! 最後に会えてよかったわ。わたしの分まで、幸せにね……シャルロ』


 

 そう彼女が口にして、シャルルの目が覚めた頃には、葬式も全て終えていた。





 ******





 傷が塞がり、体力が戻るまではシャルルはその家に逗留することになった。

 人が良いわけでもない態度の親方だが、さすがに怪我人を追い出すような真似はしないようだ。

 しかめっ面でシャルルの脈を取ったり包帯を変えたりして、葬式の話もせずに(そもそも親方も葬式に出て居ないのだが)さっさと部屋を出ていく。


(私も起き上がれるようになって、墓に花でも捧げないとな……)


 コロンブは神から迎えが来て、安らかに眠ったのだ。ぐっすりと眠って泣いたシャルルは夢も思い出して、そう納得することにした。現代よりもずっと人が死にやすい時代だ。悲しくても人は必ず何処かで死ぬものだと、当時の人らは当然ながら受け入れていたのである。

 シャルルがそう考えていると、部屋に控えめにノックがされてマルグリットが粥を持ってやってきた。

 柔らかい麦粥にベーコンとニンニクが入っている。ニンニクは血の巡りを良くする食べ物として、病人によく出された。

 

「あの、食欲はありますか?」

「……はい。いただきます、マルグリットさん」


 シャルルは草臥れたような微笑みを浮かべ、頷いた。

 確かに空腹であった。何日寝ていたのか時間間隔もおかしくなっていたが、少なくとも二日三日は食わずに寝たきりだったはずだ。 

 マルグリット、と名を呼ばれた娘は意外そうに目を開閉させて、小首を傾げる。その仕草は街などで見かける年頃の娘よりもまだ幼く見えた。スレていない純朴な反応とでも言えようか。農家の娘ともまた違って、土臭さも感じられない不思議な雰囲気の娘である、とシャルルは思った。

 彼女からしたら滅多に他人に呼ばれない名前を口に出されたので、返事をしようと思ったのだが……


「マルグリットさん?」

「あ、すみません……お名前を伺って居なかったもので、どう返そうかと……」

「こ、これは失礼しました」

 

 まったくもってあの親方は、そんな事に興味が無いとばかりに名前すら聞いてこなかったので名乗りそびれていたのだ。

 一方的に親方が呼んでいたからマルグリットの名を知っていたが、相手ばかり知っているというのも不躾だろう。


「私はアブヴィル出身のシャルル・サンソン・ド・ロンヴァル。今はディエップで軍人をしております。この度は、コロンブ……連れの女性共々、お世話をして頂いて感謝の念が尽きません」


 ディエップ、というこの一番近くの都市名を聞いて、マルグリットは少しだけ顔を曇らせた。

 彼は──シャルルは自分たちを知らないのだろうか? ジュアンヌ親方の仕事を。そうに違いない。だが、それを告げるのも気が引けた。少なくとも、彼が自由に動けるようになるまでは。


「いえ、そんなことありませんよ、サンソン殿。怪我をしている方を助けるのは当然のことですから……お連れ様のことは、お悔やみ申し上げます」

「あなた方のような優しい人達に供養されたのですから、彼女も幸せだったでしょう……もし、よろしければ」


 シャルルは部屋に一輪飾ってある、花瓶を指してマルグリットに頼んだ。


「あそこに飾ってある花を、私の代わりにコロンブの墓へと置いて頂けないでしょうか。もちろん、花代はいずれお返しします」

「そのようなことでしたら、構いませんよ。お金も結構です。ただ、あれはお父さ……親方が狩猟にでかけて、気まぐれに取ってきただけの花ですから」

「あの親方が?」


 思わず取り繕わぬ声音でシャルルは返してしまった。厳しい強面の熊めいた親方が、綺麗な花を摘んでくる姿がなんとも奇妙なイメージになったのだ。

 そんなポカンとした彼の様子に、思わずマルグリットは微笑んだ。はっとシャルルが我に返るほど、美しい笑顔であった。

 驚いたようにシャルルが視線を向けてくるので彼女は咳払いをして取り繕い──その仕草がまた少女らしかったのだが──彼に麦粥の入った皿とスプーンを渡す。

 それから花瓶を持って、


「では、ゆっくり食べてくださいね。サンソン殿」


 一度振り向いてそう告げ、部屋を出ていった。

 シャルルは暫くぼーっとしていたが、慌てて顔を振る。

 

(いかん、いかん。コロンブが死んだばかりだというのに私は。フランス男といえども、節操がなさ過ぎるぞ!)

 

 そう自分を叱咤して、温かな麦粥を彼女の言う通りゆっくりと頬張った。

 涙が出るほど優しい味で、体が温まり、生きていることを実感できて──また悲しくなった。

 



 *******




 それから数日、シャルルは親方の家に寝泊まりしていた。

 とはいえ殆ど寝たきりだったが、シャルルも早く起き上がろうと気合を入れて頑張った。何せ、寝たきりでは自分の汚物も処理できない。どうにか大きいのを催す前に立ち上がれるようになった。尿瓶は淡々と処理してくれるマルグリットに羞恥から頭を抱えつつ諦めた。

 この家は親方とマルグリットの二人暮らしのようで、ただし毎日のように親方の弟子がやってきて共同で食事を取っているようだった。

 そして時折親方は弟子を連れて仕事で街に向かっているようだ。親方は一日一回の定期検診以外にはひたすら無愛想な態度でシャルルに接し、取り付く島もない様子だ。

 時折彼から、軍人時代に覚えのあった血の臭いがしたのも、


(医者として街に呼ばれているのだろう)


 と、シャルルは納得した。瀉血という『悪い血』を排出する治療法は広くヨーロッパで信じられていたので、医者に血の臭いが染み付いているのも不思議ではない。

 無愛想な親方と、またその弟子らもシャルルに興味も示そうとしないので、必然的に彼の世話や介助は娘のマルグリットの仕事であった。

 

 どうにか立ち上がれるようになったシャルルは、片手に杖を、もう片方の腕にマルグリットの支えを必要としてコロンブの墓へと向かった。

 郊外にある墓地の一番外れに、行き倒れや身元不明の死者を埋葬した場所がある。 

 初めにコロンブの墓を見たシャルルは、てっきり別の墓かと思ってきょろきょろと他を探した。


「あの……ここですよサンソン殿」


 マルグリットが指し示し、改めて簡素な十字架のある墓へ注目すると、確かに土を埋めた後が真新しい。

 なぜ、違う墓だと思ったかというと──その行き倒れた親族も友人も誰も居ないコロンブの墓には。

 色とりどりの花が捧げられていたからだ。無縁仏の墓地で、ただそこだけに。


「これは……まさか……マルグリットさん」


 シャルルは、ふと思い出した。ここに花を置く人物。

 数日前に、マルグリットに花を頼んでいたのだ。一輪の花瓶にあっただけの花を。

 彼はすぐ近くに立っているマルグリットへ顔を向けると、彼女は神妙に頷いた。


「ええと……親方が置きました」

「嘘だろ!?」


 声が裏返った。あの熊みたいな男がいそいそと花を摘んで置いている場面が、どうしても犯罪的に思えたのだ。恩人にそう考えるのは失礼だが、それほど似合っていなかった。

 するとマルグリットは、恥ずかしそうに頬を赤くした。


「ご、ごめんなさい。嘘です。わたしが置いたのですけど……サンソン殿が驚いているので、置きすぎたかと思ったら恥ずかしくなりまして誤魔化そうかと……滅多にこんな事はしないので、加減とかわからず……」

「いえ、あの、怒っているわけじゃなくて……マルグリットさん、ありがとうございます。本当に、ありがとう」


 恐縮してシャルルはマルグリットと二人共向かい合いペコペコと頭を下げあった。

 彼はただ嬉しかった。コロンブの墓にこれほど花を置いてくれるマルグリットの優しさが心を癒やしてくれるようだった。

 それから墓の前で深く祈り、二人は家への帰路についた。


「マルグリットさん。この御恩は必ず返します」

「いえ……そのようなことは考えなくていいのですよ。お礼など、サンソン殿が元気になられることだけで十分です」

 

 帰る途中で体を支えてくれるマルグリットにシャルルは礼を告げたが、やんわりと拒まれた。

 だが、シャルルは返しきれないほどの恩を感じてしまっている。もちろん、無愛想な親方にもだが。





 ********





 更に数日が経過した。

 基本的に親方は、仕事で街に出るか、狩猟で森に行くかしていたので、家事及び怪我人の手伝いはマルグリットが担当している。

 狩猟、という趣味にシャルルは少し意外に思った。狩猟を行うのは貴族や聖職者などの身分で、一般人は殆ど行わない。だが親方は、本格的に犬も使った狩猟を弟子らと出かける様子が見受けられた。

 その際に、家で飼っている猟犬に「頼んだぞ」などと声を掛けて抱きかかえ、頭を撫でている親方はどこか和らいだ表情で、遠目で見かけたシャルルが思わず唖然とした。


「親方は……犬が好きなんですか? マルグリットさん」

「そうですね……だって犬は、素直ですもの」

「素直?」


 シャルルが聞き返すと彼女は頷いて応える。


「人の見た目が綺麗とか怖いとか、身分が高いとか低いとか、お金持ちか貧乏かとか……そういう目では見てこないですもの」


 そう答えるマルグリットは何処か寂しそうにしていた。

 

「こちらが優しく信頼を持って接すれば──言葉は通じなくても好きで居てくれるのですよ」

「なるほど……」


 確かに、強面の気難しい職人では人から怖がられるだろうなあとシャルルは失礼ながらそう考えた。

 しかしながらシャルルからしても、親方は真面目な性格をした腕のいい医者なのだろうと思っている。行き倒れを助け、見返りを求めず、毎日の検診も欠かさず行っている。彼が調合したという薬も効き目があるように感じた。

 本当はいい人なのだが、あの無愛想さで人付き合いが悪いためにこうして郊外の一軒家で娘と暮らしているのかもしれない。ただ、弟子や使用人の家も近くにはあるようだったが。


 さて、そうしたシャルルの生活ではその世話の大部分をマルグリットが献身的に補助していた。

 考えても見よう。

 心身ともに弱っている状態の男を、甲斐甲斐しく世話してくれる優しく美しい若い娘。重要なことだがバストも豊満であった。


 幾ら最愛の女性が亡くなってすぐでも──というかその寂しさもあってからか──シャルルがマルグリットに好意を持つのはあっという間であった。


 節操が無い男だと思われるかもしれないが、彼も大いに悩んだ。自分の事を不実な男だとすら思って羞恥に食事が喉を通らなかったら、マルグリットに余計に心配されてしまった。

 だがコロンブと死に別れをしたこの場所で出会ったマルグリットに運命のようなものすら彼は感じていた。これだけ優しい娘だ。コロンブも許してくれるのではないか、と夢に現れた彼女の笑顔を思い出して考えた。

 ただし──それはあくまで、シャルルの一方的な好意のようであった。


「マルグリットさん。『サンソン殿』という呼び名では堅苦しいでしょう。シャルルか、シャルロとでも呼んでくださって結構ですよ」

「いえ……そのようなことは出来ませんわ、シャンソン殿」

「サンソンですよ!?」

「すみません、噛みました……」


 と、あだ名で呼んで貰って親しくなろうかと思ったら断られた。だが頬を染めているマルグリットは非常に魅力的であった。


「マルグリットさんはディエップの街によく出かけられますか? よい魚料理の店があるのですが……」

「すみません……わたしはあまり街には出たくないのです。人が多いのが苦手で……」

「もちろん私がエスコートをさせて頂きますから大丈夫ですよ。たとえスペイン軍が道を阻んでも店へとお連れしましょう!」

「お店も苦手なんです……すみませんサンシャン殿」

「サンソンですよ!?」


 食事に誘っても断られた。シャルルは軽く落ち込んだが、まだ出会ったばかりの怪我人に誘われたところで怪しまれるのは当然だと思い直す。

 少なくとも嫌われては居ない。シャルルが話す新大陸の話や、航海の苦労譚、失敗話や笑い話などには反応してくれて綺麗な微笑みを見せてくれる。嫌っている相手にはそうはいかない。ただ、距離を縮めようとすると困ったような顔をするだけだ。

 徐々に親しくなればいいのだと、自分を納得させた。

 




 ********




  


 やがてシャルルの体力も回復し、街に戻しても問題無くなった。

 マルグリットとの会話を惜しみつつも、いつまでも世話になっていては迷惑になるのと、仕事のことも考えてディエップの街へと帰ることにした。

 彼は軍人で、この前の怪我した日は職場から馬を借りて大慌てで飛び出していったので行方不明ならまだしも脱走扱いになっていては困る。赴いて事情を説明しなければいけなかった。

 親方は街へ送る荷馬車も用意してくれて、杖も作ってくれていた。

 帰り支度に丁寧に洗濯された軍服を着てサーベルを腰に下げた姿をしたシャルルは、その心遣いに感動して親方の手を握って礼を告げた。


「本当にお世話になりました! 親方のような素晴らしい医者には出会ったことがありません。この御恩は救われた命に替えてもお返しします!」

「命に替えるな。礼もいらん」


 ぶんぶんと手を握って振ってくるシャルルにぶっきらぼうに告げて無理やり手を引き剥がし、親方は自分の分厚い皮に覆われていた掌をじっと見下ろした。

 握手などしたのはいつぶりだろうか。そう考えながらも、鉄面皮をわずかに顰めた。


「マルグリットさんも、貴女の優しさがとてもありがたかった。貴女のように心の綺麗な女性に出会えて光栄でした。必ずやお礼に参ります」

「本当に、気にしないでください。その言葉だけで十分ですわ……シャンシャン殿」

「サンソンですよ!?」

「シャララ・シャンシャン殿……」

「歌い上げるように!?」


 何故か名前を間違えられたが。

 荷台に乗って馬車で街に向かうシャルルは見えなくなるまで、二人に大きく腕を振っていた。  

 それを見送るマルグリットは離れていくと、やがて寂しそうな顔になっていく。


「……結局、サンソン殿が気づくことも、言い出す機会も無かったねお父さん」

「どうせいずれ気づくことだ。その時になってあいつは後悔をするだろう。手を握ったことも、言葉を交わしたことも。そういうものだ。仕方がない」

「うん……わたしも今のうちに嫌われようと、名前をわざと間違えたりしてみたんだけど……」

「……お前はちょっとズレてるな……いや、友達も兄弟姉妹も居ないから仕方ないのかもしれんが……少し対人能力がトンチキというか……」

「ううう……そ、そうかな……」


 他人どころか弟子たちにすら無愛想な父から言われるとは余程のことだと、マルグリットも軽くショックを受けている様子だった……

 

 



 *******






 それから、街に送ってもらったシャルルは入り口で親方の使用人と別れ、杖を突いて軍の駐屯地へと向かった。

 怪我をした様子のサンソンに同僚や上官らは驚いたが、彼が嵐に巻き込まれて暫く親切な家で治療を受けていたことを説明すると、


「心配してたんだぞ」

「お前が乗ってた馬だけ見つかってなあ……何人も捜索隊を出したんだが、良かった良かった」

「探し回った連中に酒でも奢れよ」


 と、皆に歓迎されてあちこち上官から兵卒まで知人が顔を出して無事を祝った。

 なお、郊外にある医者親子の話は適当に誤魔化して話した。助けられた家の娘がとても美しいなどと漏らすと、フランス男の中でも行動力が無駄にありモテたいという願望から入隊している軍の男連中がちょっかいを掛けに行くかも知れないからだ。


 このシャルルという軍人、明るくて誰とでも仲良くなれる性格をしており、部下にも親切な男であった。

 また、新大陸の戦場帰りという経歴も他から一目置かれ、多くの人からその話をせがまれて語り聞かせた。実戦経験から腕前も中々のモノだ。

 更にド・ロンヴァルという姓を持つシャルルは貴族でこそ無いが、先王ルイ13世の時代には彼の一族から国家顧問官を出していて、王を自宅に招いたこともある家柄である。

 若くて戦歴があり誰にでも親しい中尉殿は軍の中でも人気者の男だったので、大勢から帰ってきたことを喜ばれた。


 ひとまず軍で挨拶を終えた彼は自宅へと戻った。小さな一軒家を借りて使用人を雇い住んでいたのである。

 家に入ると、ムッとしたような酒の臭いに顔をしかめる。

 奥へと進むと、テーブルにもたれ掛かるようにして自分と同じぐらいの年頃をした無精髭の男が、酒瓶を手に寝ていた。

 有ろう事かその最近普及し始めたガラス製の高級瓶に入れられたワインは自分が戸棚に入れて後で飲もうとしていたものである!


「ポール! ポール・ベルト! また君は勝手に私の酒を!」

「んごっ……うおっ、シャルル!? 帰ってきたのか!? ぐびっ」

「飲むな!」


 酒で顔を赤らめた男、ポールは頭をふらつかせながら焦点の合わない目でシャルルを認めてそう返した。

 彼の名はポール。シャルルの従弟に当たる親戚筋で、行商人をしている。年齢はシャルルの一つ下で、25歳になる。

 あちこちの都市を回って仕入れた品を売買するのだが、ここディエップに立ち寄った際には宿ではなくシャルルの家に宿泊するのが常であった。

 だがしかし、その度にこの手癖の悪い男はシャルルの金で酒を飲んだり、悪ければ家に娼婦を連れ込んだりもする。

 厄介な身内といったところだろう。

 彼は酒臭い口を半開きにして媚びたような眼差しを向けて言う。


「いやいや、心配していたんだぜ。シャルルが急に飛び出して以来行方不明になってるって聞いて、居ても立ってもいられないからこうして家で待っていたってわけだ……ぐびっ」

「白々しいことを……飲むな。使用人のヨハンはどうした?」

「んーほら、家の主人が居ねえのにやる仕事も無いから、来るだけ金の無駄だろ? だから俺が無期限休暇を言い渡しておいたぜ~? ぐびっ」

「留守番をいつも任せているんだよ。だから飲むな!」


 大きくため息をついてシャルルは家の散らかりようを睥睨する。

 そしてポールも自分の親戚なので、一応報告をした。


「……私が飛び出した嵐の夜に、この街に向かっていたコロンブが亡くなったんだ」

「あらま」


 ポールは軽い声音で言う。


「そりゃあ~なんつーの? ご愁傷サマァ……あーあ。コロンブもいい女だったのに勿体ねえ……あんまり落ち込むなよシャルル。残念だったなあ」

「心無い同情はしなくていい」

「正直一回ぐらいヤッておきたかったぜ~」

「素直な意見が聞きたいわけでもない! この飲んだくれめ! 海軍に水夫として引き渡すぞ!」


 叱りつけるが暖簾に腕押し、この従弟がまともに説教を聞いた試しがないのはシャルルも知っている。

 そもそも一処に長く居るといろいろと問題を起こすため、住所も定めずに行商という仕事をしている男だ。実家から勘当同然の扱いを受けている。

 酒瓶の高級酒を飲みきって未練がましくフチを舐めながらポールは言う。


「まあその割にはシャルルそこまで落ち込んで無いじゃん? 前までだったら後追い自殺でもしかねないのに」

「それは……」


 言い淀むシャルル。

 確かに、もしも何もシャルルが関わることなくコロンブが死去していたとすれば、一気に彼は無気力になっていただろう。軍人を続けているのも稼ぎで兄と彼女を養うためだった。仕事さえ手がつかなくなっていたかもしれない。

 だが今は、少なくとも仕事を続ける気力を持てている。そしてまたあの親子に会いに行こうという目標があった。

 ひらひらとポールは手を振って言いにくそうなシャルルの言葉を遮る。


「気にすんな気にすんな。男ってのは新しい恋に生きるものだ。恋人が死のうが親兄弟が死のうが、可愛い子を好きになって何が悪い? お前もいい相手を見つけろよ~」

「むう……」


 恋。

 と言われると気恥ずかしくなる。確かにマルグリットに好意を抱いていて、彼女と仲良くなりたいと思っているがこれは恋なのだろうか。シャルルにもよくわからなかった。

 彼女は決して嫌悪感や悪意を抱いて見ることのできない、心の優しい美しい少女だ。妙に対人不審なところがあるが、そこがまたおっちょこちょいな可愛さを感じる。

 彼女と親しくなって、自分はどうなりたいのかシャルルはふと考えてみた。今までは単に、もっと親しくなりたいという気持ちだけがあった。


(……よくよくは彼女と結婚して子供に囲まれ犬を飼って幸せな老後を……医者になるのもいいかもしれない……)


「はっ!?」


 シャルルは我に帰った。一緒になった老後まで想像してしまっている! 完全に結婚したがっているではないか。

 従弟の前だというのに頭を抱えて悶える。相手は十ぐらい年下の子だというのに、完全に惚れてしまっていて自分の人生になっているのを自覚した。

 なにやら苦悩しているシャルルを見てゲラゲラ笑いながらポールは別の酒瓶を持って飲み始める。


「ぐびっ。ま、俺も今に見てろよ。この前とんでもない美人を見つけてな。今に落として自慢してやるよ」

「……ポールがぁ? 美人を落とす?」


 胡散臭げにシャルルは彼を見た。

 金も無ければ酒浸りで性格も割とクズ。そんなポールは酒場の給仕女にすら嫌われている。

 これで石の裏に住む虫のようにひっそりとしていれば問題はないのだが、無駄に行動的で喧嘩やらナンパやらが大好きなのである。


「……頼むから犯罪はするなよ。弁護には行かないからな」

「あー大丈夫だっつの。俺だってちゃんと考えてるって」

「それならいいが……」

「……手篭めにした相手が未婚で処女な場合、世間体を考えて訴訟は起こされにくいこととか」

「そんな事を考えるな馬鹿!」

「あいたァー!? てめっ殴りやがって決闘するかコラー!」

 

 ポールとぎゃあぎゃあと喧嘩をし始めたシャルルは、傷の痛みがぶり返して翌日寝込んだという。




 ********



 

 

 それからシャルルの日々は充実をしていた。

 居心地のよい駐屯軍で仕事を真面目にこなし、休みの日には誰にも告げずに親方の家へとお礼という名目で土産を持ってやってきた。

 マルグリットには色とりどりの花を。街で栽培されていたり、フランスでも随一の港町なので外国の花も買うことができた。

 気難しい親方には何が喜ばれるかまるで想像できなかったので骨付きの肉やチーズ、ワインなどの良い物を持ってきた。少なくとも夕飯は豪華になるだろうし、肉は犬にも与えられるだろうという判断だった。

 親方は当初ひたすら迷惑そうにしていたが、少なくとも受け取りを拒否されることはなかった。


 シャルルはまるで十代の恋する少年のように熱心に、かつ繊細な距離を置いてマルグリットに接していった。

 ただし親方が居るとき近寄ると追い返されるので、そのときは会釈だけして土産を置いて行った。

 余り急に距離を縮めようとしたり、マルグリットや親方について詳しく聞こうとすると彼女が悲しそうな顔をして拒むので、世間話やシャルルのこれまでの話をして自分を知って貰おうと思った。

 街にも殆ど行かず、旅行など一度も経験がないマルグリットはシャルルの語る船旅や新大陸の冒険譚などを語ると興味深そうに聞いてくれた。

 

 自分の話を聞いて微笑みを見せてくれるマルグリット。

 言葉を交わすだけで幸せだったシャルルだが、そんな彼女の美しい笑顔を見るたびにどうしようもない程に胸が高鳴った。

 彼女の存在は自分の生きている理由だとさえ彼は思った。

 マルグリットの方も、迷惑そうにすることもなく、会話を心から楽しんでいる様子はシャルルにもわかった。

 

 そしてある日。

 親方がその日は仕事で居ないことを確認して、シャルルは花束と共にとうとうマルグリットに想いを伝えた。


「マルグリットさん」

「どうしました? サルガッソー殿」

「サンソンです。それはこの前話した新大陸近くの魔の海域の名前です──ってそうじゃなくて」


 シャルルは花を差し出して、唾を飲み込んで緊張と共に告白をする。


「お慕い申しております。どうか私めに、貴女の側に永遠に寄り添い、共に生きる権利をください」

「……」

「いかなる苦難があろうとも、私は命尽きるまで貴女を守ります。マルグリットさん、結婚しましょう」


 ──沈黙が訪れた。

 シャルルは喉がカラカラだった。短い告白だったのに一時間は喋り続けたように感じた。耳の奥から血がどくどくと流れる音がした。

 大丈夫だと自分に言い聞かせる。マルグリットの元へ通うようになって暫く経つが、自分以外に彼女に親しいといえる他人は居ない。親方の弟子ですら、薄暗い顔をしてあまり興味が無さそうにしていた。

 マルグリットだって自分の事を──少なくとも、告白に拒絶しない程度には好感を持っている、と思った。


 だが。



「……そのようなことをしたら、サンソン殿が不幸になってしまいます」



 マルグリットは無表情でそう告げた。

 心臓が縮むような思いをしながら慌ててシャルルが言う。


「私はっ!」

「サンソン殿。お帰りください。そして──どうか、わたしに恩を感じているのでしたら」


 彼女の顔は酷く無機質な、優しさの表情が張り付いた仮面のようだった。

 言わないでくれ、とシャルルは思った。彼の目に涙が浮かびそうになる。

 

(そんなことを言われたら、私は──)



「どうか、どうか……ここにはもう来ないでください。お願いします」



 ──その言葉に抗うことはできなかった。

 恩も礼もかなぐり捨てて、彼女が悲しむのも無視して居座ることなど、恥も義理も持ち合わせているシャルルには不可能だったのだ。

 マルグリットに迷惑をかけることだけはしたくなかった。

 自分がフラれたとしても、それで彼女が不幸にならないのならばそれでいいのだと自分に言い聞かせて。

 肩を落とし、死人のような顔で歩いて帰っていった。

 

 

 そんなシャルルを家の窓からマルグリットが見送っていた。


「ごめんなさい……」


 かすれるように呟いて謝り、先程までの無表情を崩して涙をぼろぼろと零している。

 シャルルは初めて親しくなった他人だった。マルグリットには兄弟も友人も居ない。そもそも、この家で過ごして街にも出かけない。

 数年前まではマルグリットも親方も、ディエップの街で暮らしていた。だがその時から、マルグリットは外に出れば石を投げられ心無い言葉を言われ、誰も目を合わせようともせず、店では何一つ物を売って貰えなかった。

 自分だけではなく強面の父親も同じで、汚らわしいものを見る目を向けられ、誰からも好かれることはなかった。

 ある日、母が倒れた。市場に売っている薬さえあれば治る病気だ。だが、幾ら金を積み上げようと誰もその薬を売ってくれず、母はそのまま亡くなった。

 それから親方は郊外にあるこの家へと引っ越した。恐らく、娘に向けられる迫害を受け止め、彼女を慰めていた妻が死んだことで娘が耐えきれなくなるのを恐れたのだろう。おかげで、毎日静かに過ごせている。

 そんな二人のところに現れたのがシャルルだった。元々外科技術は持っていた親方が、妻のこともあって薬の調合も独学で覚えていたので彼の命を助けられたのだ。


 マルグリットは、恋人が亡くなったことで嘆く彼を見て羨ましいと思った。自分が死んでも誰も泣かないだろうと思った。

 マルグリットは、つらいことがあっても明るく振る舞う彼を強いと思った。自分は母が死んだら半年ほども立ち直れなかった。

 マルグリットは、饒舌に話しかけてくる彼に混乱した。そんなに言葉を沢山掛けられた経験はなく、話を聞いて理解するだけで精一杯だった。

 

 彼女は『何を考えているかわからない怪しい娘』だと囁かれたことを覚えている。シャルルは『やさしくて心が綺麗だ』と言った。

 彼女は『血のように赤い不気味な髪の毛』を引っ張られたことを覚えている。シャルルは『ワインのように赤い美しい髪』と言った。

 彼女は『呪われた一族の親子』だと称されていたことを覚えている。シャルルは『こんなに親切な親子は見たことがない』と言った。


 シャルルが自分のことを好きなのは幾ら自己評価が低いマルグリットでもわかった。

 シャルルが底抜けに良い人で裏もない、誰からも好かれる太陽のような人だということもわかっていた。


 だからこそ彼が、自分たちの正体に気づいて──好意全てが反転するように、他の大勢と同じように蔑んで来るのが耐えきれなかった。

 必ず彼はいずれ気づく。騙しているわけではなく、言いそびれて黙っていただけだが、ディエップの街で暮らしている限りはいずれ知る。

 そうなる前にもう二度と合わない方が良いと、マルグリットは思った。


 彼女は両手で顔を覆った。この手すら、誰一人として穢れた手だとして触れてはくれない。彼は親方と握手したことすら後悔するだろう。


 シャルルのような良い男とは決して今後出会えないことをマルグリットは知っていた。

 彼女の方も、シャルルを好きだった。嫌いになる要素なんて無い。彼を遠ざける際に無表情を貫けたのは、いつも彼と会うたびに厳しく父親からあまり親しくしないようにと言い含められていたからだ。




「……でも仕方ない。処刑人一族が、出会いを求めることは間違っているから……」




 彼と一緒になるということは、彼を処刑人の一族に招くということだ。不幸な人生を永遠に歩ませるということだった。


 処刑人ジュアンヌ親方の娘、呪われたマルグリットは多くを諦めていた──。






 *******






 シャルルはフラれたショックで寝込んだ。丸一日寝込んだ。

 まずは彼女にもう会えない絶望感。次に何かしらトンチを使って彼女の機嫌を直せないだろうかという悪あがき。

 嫌よ嫌よも好きのうち、という単語がひたすら脳内で主張してくるが、どう考えても完全拒絶だった。

 次第に自分の愛がストーカーじみた暴走していることを自覚してまた落ち込んだ。

 何を優先すべきか。


(彼女の幸せだ)


 それ以外にない。彼女を不幸にしてでも、無理矢理にでも迫るなどもってのほかだ。連れ去る? それこそ恩人である親方への裏切りである。

 だがしかし、自分はこれからどうして生きればいいだろうか、とさえシャルルは思った。

 寝てもマルグリット覚めてもマルグリット。そんな具合に彼女が愛しくてたまらない。

 

「いっそ、また新大陸にでも行って戦場で散るかな……」


 などということまで考え始めた。

 そうしていると使用人のヨハンが控えめに話しかけてきた。

 いい年をした大人が家でウジウジと十も年下の女の子相手への恋心で悶えているのだから、見なかったことにしたいのだったが報告することがあったのだ。


「あの……旦那様」

「どうしたヨハン。いや、どうすれば良いと思うヨハン」


 知らねえよ。そう言い切りたかったが、それよりも一大事である。


「ポール様のことです。実は今晩、目を付けていた婦人のところに行くらしいのですが……」

「はあ」

「話を立ち聞きした限り、どうやら父親が居ない夜に向こうの家の使用人を買収し、婦人に一服盛って無理やり関係を結ぼうと……」

「それは許しがたいな……」


 言うが、どうも気力が湧いてこない。

 許せぬ犯罪を見逃すことはできないのだったが、シャルルは打ちのめされてまるで死人のようだった。

 

「それで? 警邏にでも通報するか。場所などはわかるか?」

「そこまでは……ただ」


 ヨハンの言葉に、シャルルは耳を疑った。



「その女性の名は、マルグリットと言う人らしいです」



 シャルルは血相を変えて剣の鞘を引っ掴み、家から飛び出した。






 *********





『行商の途中で見かけたんだが、とんでもない美人でな。まあ見たところ男慣れしてないからチョロいだろうと思う』


 ポールが自信有りそうにシャルルへとそう語っていたことを思い出す。

 彼の話を聞いていてもシャルルはマルグリットに夢中だったので、彼が落とそうとしている女性に興味など殆ど無かった。

 だからまさか、同じ相手だったとは思いもしなかったのだ。

 シャルルは給料をはたいて購入した、彼女の家に土産を積んで通うための馬に跨って大急ぎで向かっていった。上着も帽子も身に着けていない。腰に剣を一本持っただけだ。

 そして今この瞬間にも、薬を盛られたマルグリットが従弟の毒牙に掛かっているかもしれないことを想像すると、歯がガチガチとなり掌に爪が食い込んで血が滲んだ。頭が狂いそうだった。

 明るい月夜の晩だった。松明を持たずとも木陰以外ならば青白く照らされている。

 シャルルが馬の足音を響かせて親方の家にたどり着いた。何度も窓辺で語らったマルグリットの部屋の窓が開け放たれていて、近くに男が立っていた。


「ポオオオオオオオオオオルッ!!」


 地獄の底から響くような憎しみの篭った叫びに、慌ててポールが言い返す。


「シャルル!? ちっ……止めに来たのか!?」

「恥を知れ! 女性に恋をするのは自由だ! だが薬を使い、眠っている相手を無理やり手篭めにするだと……!」

「へっ! どうせ気持ちよくなる薬で一時間もすりゃあ向こうから腰を振って誘ってくるぜ! 事後承諾だがお互い同意の上になるだろうよ!」


 マルグリットが。

 薬で意思を奪われてこの男の物になる。

 それを想像してシャルルは猛烈な吐き気に襲われた。頭に血が昇って爆発しそうだった。


「なんならお前も一緒にここの娘とお楽しみ──」

「もういい」


 殴りつけなかったのは、殴り飛ばすと彼女の部屋の窓に向かうかもしれなかったからだ。シャルルはポールの襟首を掴むと、思いっきり自分の後方へと引っ張り倒して地面に尻もちをつかせた。

 そしてマルグリットの部屋を背に守るように位置取り、シャルルは鞘から剣を抜き放った。

 月光に白く反射する細身の長剣だ。見た目は細いが非常に頑丈に作られていて、戦場で人間を切ったこともある。


「私は彼女とその父に命を救われた。故にこの命を掛けて、彼女の全てを守る」


 そう告げると、ポールの方も腰に差していた刃渡り40cmほどの小剣を抜いて構える。


「ナイト気取りのクソ童貞野郎が……! 気に食わねえなおい!」

「抜いたならば冗談では済まさなくなるぞ、ポール。これは警告だ」

 

 睨みつけながらシャルルは言う。ポールは街の喧嘩慣れしたチンピラで、行商で盗人に襲われても反撃をする程度には腕に覚えがあるのだが。

 シャルルは軍人であり実戦経験もある。軽い喧嘩程度ならまだしも、武器を持った戦闘ではポールが勝てるはずもない。

 だがポールは不敵に笑っている。


「てめえを叩きのめして目の前でパコってやるぜ! おらあああ!」


 不意打ち気味にポールは片手で何かを投げつけた。転んだ時に持っていた砂だ。

 だが何かしらの薬物か、目潰し粉かと思ってシャルルは動きを止めて砂が入らぬように目を細め正面のポールを警戒する。

 妙な悪寒がして、シャルルは咄嗟に身をよじった。


 ──その瞬間、シャルルの肩に刃が深々と食い込んだ。


「ぐううう!?」

「いつタイマンっつったよナイト様ァー?」

「ざまぁー!」


 ポールの仲間がもうひとり居た。どうやら先に窓から部屋の中に入って隠れていたようである。

 部屋を守るため背中を向けていたシャルルは気づかずに、ポールを警戒していたところで背後から刺して来たのだ。

 勘にしたがって身を避けなければ首筋に刺さっていたかもしれない。シャルルは咄嗟に、刺された肩の腕から力が抜けるのを感じて、無事な方の手で剣を背後に振るった。

 剣が当たらぬようにポールの仲間は飛び退り、正面に回ってポールと並ぶ。

 右肩には骨にまで達するほどの深い刺し傷が出来ており、血が溢れている。右腕に力を入れるたびに激痛が走り、握力がまともに出ない。

 ニタニタとした笑みで短剣を手にこちらを見てくるチンピラ二人。それと相対して、シャルルは頭に昇っていた血が流れて醒めたように冷静になっていった。


「形勢逆てーん、だな良い子ちゃんのクソガキ」

「オレら二人に掛かれば楽勝だっつーの」

「二人……そうか、もう他に援軍は居ないな?」


 シャルルは左手一本で剣の重さを測るように軽く振って構えた。


「ああん? 右手が使えねえ上に二対一で、なんでそんな強気になれるわけ」

「今すぐ地べたにキスして命乞いすりゃ──」


 ポールの友人が短剣を持っていた手の指がぼろりと四本落ちて、短剣も地面に転がった。


「あ……え?」

「惜しいな。手首を狙ったんだが」

「兄弟!? てめえシャルル──」

 

 仲間の様子に慌てたポールが短剣を振りかざし──片手の手首がずるりと切断された。シャルルが振り抜いた剣に、わずかに血が付着している。関節の一番切れやすいところを、抵抗もなく綺麗に切り抜いたのだ。


「あああああああ!?」

「なんで強気か、だと。別に強気も何も無い。ただ戦場では、怪我をして万全じゃない状態も、複数の敵と戦うこともよくあるだけだ」


 確かに不利な条件だったが──精々街で厄介者扱いを受けているだけの素人と、戦場を生き抜いた軍人ではその程度では覆せぬ戦いの経験があった。

 ポールは血が吹き出る手首を、切り取られた手首とくっつけようと必死に押さえている。もうひとりも夜闇の地面に散らばった自分の指を拾い集めるのに必死で、戦うどころじゃなかった。

 そんな二人を前にシャルルは剣を片手に構えて悪鬼の如き凄絶な表情で言う。


「私はマルグリットを守る。いつでも、何度でも、誰が相手だろうとだ。貴様らが諦めずに不埒な考えを持ち彼女を害するつもりならば、次は素っ首を切り落としてやる」

「クソボケがあああああ!!」

「い、行こうぜポール! あんなやべえやつ相手にしてまで関わるような女じゃねえよ!」


 重傷を負ったポールは口汚く罵るが、戦うことは到底出来ない状態なので二人でこそこそと背中を向けて逃げていく。

 その際に、


「やり捨てるならまだしも、格好つけて守ったことを後悔するぜ、シャルル!!」


 そう叫んだが、シャルルは決して後悔などしないだろうと自分に言い聞かせた。

 


 二人をどうにか撃退したシャルルはひとまず来ているシャツを破いて縛り、肩を止血する。

 これもまた戦地で応急手当程度の医療は身につけていたので、傷も比較的深くても小さかったおかげでどうにか塞がりそうだ。

 次に、ポールの仲間がマルグリットの部屋に侵入していたという事実から室内を確認しなければならなかった。

 ひょっとしたら手遅れで──マルグリットの身に何かあるかもしれない。それに居ないとは思うが仲間が他にも潜んでいる可能性を潰すべきだった。

 

 室内には花の香りに紛れて嗅いだことのない香のような臭いがした。使用人が言っていた薬の臭いかもしれない。  

 部屋の中に、マルグリット以外の気配は無い。彼女の、何処かうなされているような寝息のみが響いていた。

 

(他に狼藉者は潜んでいないようだ……よかっファーッ!?」


 考えている途中で思わず小さい声が漏れた。

 月明かりが部屋に差し込み、マルグリットの寝ているベッドが照らされていた。

 彼女は背中と胸の谷間が見えるネグリジェ姿で、暑苦しそうにワンピースの裾を太腿までたくし上げて寝ていたのだ。

 自分の想い人のエロチックな寝姿に思わず顔を赤らめてシャルルは目線を逸らす。


「ひっふーひっふー……落ち着けシャルル・サンソン。助けに来た自分が彼女を厭らしい目で見てどうする……寝ているところを襲う悪漢の手から救い出しに来たんだ……」


 ぶつぶつと呟いて自分を鎮め、改めて念のためにマルグリットの姿を再度確認した。

 本当に乱暴されていないか着衣の乱れのようなものを調べるためだ。

 彼女は赤い髪の毛を綺麗に纏め、白いうなじにはわずかに汗が浮かんでいた。シャルルが前々から大きいと思っていたバストは布が下半分程度しかカバーしていないネグリジェの状態で確認すると、実に男としてありがたい大きさのバストをしている。

 薄いネグリジェは腰のラインに沿うように体に張り付いている。どうやら寝汗を掻いているらしい。寝返りを打つように太腿をこすり合わせている。

 

 シャルルはおっきしてきた。



「いかああああん……コホーコホー落ち着けマイ息子(サンソン)。王のありがたい言葉でも心に念じて冷静さを取り戻すのだ」


 ルイ13世『チンが硬化(コウカ)なり』


「違う違う! いいか……私は彼女を救うんだ。寝ている彼女に欲情するなど、恥を知れ恥を! せめて正面から告白をして受け入れられ、双方同意の上でならまだしも……ポールの最低野郎のようなテイルズオブクズめいた真似はしてはいけない」


 シャルルは部屋をウロウロしながらどうにか落ち着こうとした。

 無駄にシャドーボクシングなどを初めて肩の痛みを利用して妙なところに血が回るのを防ぐ。


「狼藉者が居ないか部屋に入ったのに、自分が狼藉者になってどうする。いっそもう帰るか……いや! 思い直したポールがまた今晩やってこないとも限らない……見張りは必要だ」


 危険なポールという仮想的を強く念じ、憎しみを持つことでシャルルは正義感を取り戻した。今晩は親方も居ないらしいのだ。自分が守らねばならない。


「んっ……ふぅ……」

「!」


 なまめかしい声が聞こえて、シャルルはぎこちない動きで部屋を見回す。

 当然ながらシャルル限定ポルノ音声発生源はマルグリットである。

 人形劇の人形のような動きで、止せばいいのにシャルルがマルグリットへと近づいた。そして念には念を入れてと確認をする。

 つい露出した胸元にばかり注目が行っていたので気づかなかったが、マルグリットの顔は若干紅潮しており、少しだけ息苦しそうに呼吸が荒い。

 

「そういえばあの卑劣漢共、薬を使ったと言っていたが……くっ、マルグリット! 無事なのか……?」

 

 さすがにこれから行為をしようという相手に、危険な毒は飲ませないだろう。睡眠薬か興奮剤か……


「はぁ……ぅ……

「あああ……マルグリット……どうする? 起こして水でも飲ませた方がいいのだろうか……」


 シャルルも頭がクラクラしてきた。

 マルグリットの直ぐ側に跪いて彼女の額に手を当て熱などを測っているのだが。

 なんというか、彼女の体から甘い体臭がしてシャルルの精神を強烈に削っていくのである。

 熱い吐息をこぼす唇から目が離せない。あと一部がおっきしていた。

 

「自制……! 自制だシャルル……! マルグリットの寝顔が如何に超絶可愛くてうわあ私彼女にフラレてるんだった死にたい……いやとにかくこの状況は客観的にとんでもない悪役だ。マルグリットにフラれた腹いせに薬を盛って夜這いを掛けているその現場に居るのが私じゃないか……マルグリットが起きたらなんて言うか軽蔑されるかも」


 ぶつぶつと呟いていると、彼女の濡れた唇から寝言が漏れ聞こえた。


「んっ……サンソン殿ぉ……」


「ヤバイヤバイヤバイヤバイ」


「……わたしも……ぅん……好きです……」


   

「双・方・合・意──……!」



 シャルルは優しい心を持ちながら激しい愛によってなにかに目覚めた。





 この日の事をシャルル・サンソンは記録に残している。


『ポールにあんなに説教していたのにそれが全部頭から吹っ飛んでしまった』


『私は従弟と同じぐらい抑制心を失い、同じぐらい下劣な存在に成り下がった』


『神よ、来世においては我が罪を許したまえ。現世において我が罪を償う故に』


 



 ********





 まあとにかく、それはそれとしてマルグリットも後はどうにでもなれとばかりにシャルルに身を許して、お互いに愛を確かめあった。

 多分スケベ系のヤクがキマっていて多少自制心が緩んでいたこともあったのだろう。

 マルグリットが引いていた一線を越えたのだが、二人の関係は悪くならずにむしろ良好であったらしい。

 やっちゃったのはシャルルの落ち度ではあってもお互いに好きあっているのは間違いがなかったのだ。



 朝になってマルグリットをベッドで寝かして、シャルルはかなり名残惜しかったがいつ親方が帰ってくるかもわからないし、その日は仕事があったので駐屯地に帰った。

 ルンルン気分であった。世界が美しく見えた。全能感が自分の体に満ちて、肩の傷はちっとも痛くなかった。

 マルグリットに愛が通じたのだ。彼女も自分のことを好きだったらしい。そう思うと幸せで胸がホワホワした。

 

「よし! 今日も一日頑張るソン!」


 謎の掛け声を出して気合も十分。きっとこれから何もかも上手いこと行き、自分とマルグリットは幸福になれると信じ切っていた。




 ──その日の軍務は、貴族の処刑で処刑場を警護することだった。


 当時、公開処刑というのは貴人庶人問わず多くの人間にとって娯楽的な理由から見物人が多い時で数千人も集まる行事であった。

 割と平穏な暮らしをしている中で、人死にというスパイスが受けたのだろう。

 シャルル本人は軍人として前線に立ち、敵も味方も死ぬところを間近で見ているので好き好んで処刑など見に行くことはこれまで無かったのだ。 


 そして彼は見た。処刑台に上がる貴族と、エクスキューショナーズソードと呼ばれる斬首剣を手にしたジュアンヌ親方の姿を。


 処刑人といえば覆面を被っているイメージがあるかもしれないが、それらは弟子や下人が多く──必ず処刑人本人が立ち会わないと処刑を執行できないという法律もあり、また処刑人の姿を大衆に見せることで、間違えて一般人が彼らに近づいたりしないようにという理由から、素顔であった。

 呆然と、シャルルはそれを見ていて頭に情報が追いつかなかった。

 

 親方が一刀の元、貴族の首を見事に切断するまで──なんで彼があそこに居るのだろうと不思議に思ってしまっていたぐらいだ。


 彼は医者ではなかった。処刑人はその仕事上、人体に関して多くを把握しており、また一族は医者から診察治療を拒否されるので独自の医療技術を持ち合わせていることが多かったのだ。

 首を見事に切り落として喝采があがる観衆の中で、親方と目があった気がした。

 そこからシャルルは自分がどのように歩いて家に戻ったか覚えていない。

 彼はベッドに倒れ込み、頭を抱えた。


「マルグリットは……処刑人の娘……」


 恐ろしい、と感じた。

 これは別段彼が差別主義者なわけでも、冷たいわけでもない。

 この時代で普通に生まれ、普通に育ち、至って善良である倫理観と常識を持ち合わせている人からすれば──処刑人一族は穢らわしくおぞましい人種であるということが正しい価値観なのだ。

 処刑人なんて全然気にしない、尊敬するなどと言う者は頭がおかしい扱いだった。

 街を歩けば目を合わさぬように全員が顔を背け、その手に触れては死の汚れが移ると処刑人が持つ銀貨にすら嫌悪感を覚えるのが当然だったのだ。 

 彼らは単に先程親方がやったように首を切るだけではなく、想像するに恐ろしい拷問や、手足を潰して溶けた鉛を注ぐなどの苦痛を与える罰を平然とした顔で行う精神性は化物のそれと思われていた。 

 シャルルとて軍人として人を殺したことはあるが、軍人が人を殺すことは称賛されても処刑人が人を殺すことは蔑まれるのである。


 処刑人は恐れられる。

 処刑人は嫌われる。

 処刑人は関わってはいけない、呪いの穢れを受けた一族なのだ。

 それが当たり前の世界だった。


「私はどうすれば……」


 シャルルは体を震わせながら呻いた。

 知らなかったとはいえ、処刑人の娘に近づいて親しげに言葉を交わし、命を掛けて身を守った挙げ句に抱いてしまったのだ。 

 ある意味王女を抱くよりも罪深い行いだった。まあ、数十年前にマルグリットと同じ名前のフランス王妃がお忍びで街に出かけては行きずりの男を引っ掛けて抱かれまくっていたことを考えれば。

 処刑人と触れ合うのがどれほど忌避感を覚えることか? 例えば、とある処刑人が身分を隠してレストランで食事をしていたときに、同じ店に居た貴族の夫人が声を掛けて語らったことがある。その後別れた後で夫人は彼が処刑人だと知ったら、訴訟を起こして裁判沙汰になったぐらいである。汚らわしい処刑人が黙って貴人に近づくのは罪であるとして。

 まあその時は処刑人が自己弁護で勝訴したのだが、そういうことをされるほどにおぞましい存在だと言える。

 シャルルが愕然として頭を抱えるのも当然であった──

 

「どうすれば……マルグリットと幸せな暮らしができるのだろうか……」


 ……おぞましい一族ということ以上に、既にマルグリットの事を愛しすぎであった。

 確かに処刑人は怖い。恐ろしい。言っては悪いが、賤業だとシャルルは認識している。

 だがそれはそれとして、もはや彼の心はマルグリットを諦めるという選択肢は取れないぐらい進んでしまっていた。

 

「マルグリットを……連れて……誰も知らない土地に逃げて暮らす……か?」


 少なくともこのディエップでは暮らせないだろう。彼女を悪意に晒したくはない。

 そうなれば親方に黙って連れ出すわけにもいかない。説得が必要だ。なんなら、親方も一緒に連れて行き、三人で処刑人とは関係の無い仕事を始めるのもいいかもしれない。

 きっと親方だってマルグリットだって好きで処刑人の一族になったわけではないのだとシャルルは考える。

 

「……行こう。とにかく、マルグリットと話そう。これからの事を」


 シャルルは強い意志を目に込めて立ち上がった。

 もう彼女を諦めないと決めていた。いかなる困難だろうと。





 *******




 シャルルは馬で郊外へ赴き、親方の家の玄関前でウロウロとしている。


「よ、よし……なんと親方に説明したものか……とにかく誠意を伝えるしか……」


 などと躊躇っていると、中からマルグリットの悲鳴が聞こえた。

 泣き声の混じった苦痛に喘ぐ悲鳴である。明らかに尋常なものではなく、何らかの危害が加えられていることは間違いなかった。

 シャルルは玄関の扉を開けようとするが、中から錠前で閉まっているようだった。窓の方へと回り、閉じられている雨戸を蹴破って中に押し入った。緊急事態だった。

 家の廊下を駆けて声の聞こえる部屋へと向かう。そこはかつて死んだコロンブが寝かされていた部屋であった。

 大きな音を立てて部屋の扉を開くと──中には縛られているマルグリットが椅子に座らせられて、涙をぼろぼろと零し泣いていた。その足には『編み上げ靴(ブロドカン)』と呼ばれる拷問道具が嵌められている。これは木製の万力で足を挟み、徐々に潰していくことで大人の男でも気絶せんばかりの苦痛を与える器具である。

 マルグリットのような娘が耐えられる痛みではない。

 彼女は拷問を受けていたのだ。

 目の前にいる父──暗い無表情をしたジュアンヌ親方から。 


「なにやってんだ!? 今すぐ止めろ親方!! あんたの娘だろう!?」

「お前か」


 拷問の現場を見られたというのに、無感情な声音で親方は言う。


「マルグリットが狼藉を受けた」

「……!」


 心臓を鷲掴みにされたような気分にシャルルはなった。 

 地獄の閻魔めいた恐ろしい顔をした処刑人は淡々と事実を告げていく。


「未婚の娘が他人に犯される。これは許されざる犯罪だ。下手人は捕まえ、法に照らし合わせて絞首刑に処する。だがマルグリットはその相手を明かそうとせず、罪に問おうとはしない態度を見せた」

「だ、だからって、拷問をするのか!? 実の娘に!」


 シャルルが聞くが、親方の目には正気そのものの光が強く灯っているようで、強い迫力を声から感じた。



「これは処刑人の『秩序』と『誇り』の問題だ。

 我々処刑人は人から嫌われる。当たり前だ。人は人を殺す者を恐れる。それは自然な感情だ。故に、仕方がないことだと『納得』している。

 人から悪意を囁かれるのも、子供に石を投げられるのも、店が必要な物を売ってくれないことも、医者にも掛かれず、学校にも通えず、友人の一人も作れないことも『納得』はしよう。それらは全て、怯えた人の感情によるものだ。

 だが、だがな。そんな処刑人でも『秩序』を守り生きている。我らに対して法に背く行為を許してはおけない。我々は賤業でも决められた正義を執行しているという『誇り』がある。罪人に向かって最後に振るうべき刃を託されたという『名誉』がある。

 もし娘が自らが受けた犯罪を、自分は被害にあっても仕方がないと受け入れてしまったらどうなると思う? 処刑人の娘は犯しても罪にはならないのか?

 ことが知れ渡れば──フランス中のどの街にでも居る処刑人の一族に居る娘全てが、犯されても仕方がない存在だと娘が肯定したことになる。

 それだけではない。これから未来にも続く全ての処刑人一族の娘が『そう』なってしまう。


 その責任はマルグリット一人の命よりも遥かに重たい。先祖を、処刑人全てを侮辱する行為だ。


 故に必ず聞き出して下手人は処刑する必要がある。俺の命に替えても。娘の命に替えても。必ずだ。必ず捕まえて必ず殺す」


 ジュアンヌ親方は本気だった。シャルルはここに来るまで、自分が遥かに甘い認識をしていたことを実感させられた。

 親方を説得して彼女を連れて逃げることなど許されるはずもないぐらいに、彼は処刑人という仕事に誇りと責任を持っていたのだ。

 つらいこともあり、蔑まれる悔しさもあり、それでも彼は処刑人として自ら選んで生きている。


 親方の手には幅広のエクスキューショナーズソードが握られ、シャルルに視線を向けながらもマルグリットの首元にそれを添えていた。蝋燭の灯りに、鍔元に彫られた[秩序(Commande)]という文字が見えた。

 一歩でもシャルルが動けば首を引き切るような気がして、まったく動けなくなってしまった。

 圧倒されていたシャルルはその場で跪いてうなだれる。マルグリットが下手人の事を喋らないのも、彼を庇っているからなのはすぐに知れた。

 フラれたのに夜這いに来てなんか流れでいい感じになったみたいな、どうしようもない男を守るために拷問まで受けていたのだ。

 シャルルがその事実に耐えきれるはずもなかった。


「親方! マルグリットに狼藉を働いた下手人はこの私です! とても気高い彼女には何の罪もありません! 罰を受けるべきは私なのです!」

「サンソン殿! ダメです! お父さん止めて!」

「止めない。処刑人一族の誇りを守ることはこの男の命よりも優先される」


 自分が犯した過ちだ。ツケを払う責任がシャルルにはあった。彼女が恐ろしい拷問を受けて可哀想な目に会うぐらいならば、自分が縛り首になるべきだと思った。

 うつむいたシャルルの頭近くの床に剣が突き刺さる。幅広の剣に映る自分の頭は、断首させられたように絶望的な顔をしている。

 マルグリットが泣き叫んでいる。そんな娘の涙も、秩序と誇りを守る親方を止めることはない。

 だが、


「お前には進むべき二つの道がある。一つはディエップにて裁判を行いその場で、罪を認めて絞首刑になることだ。少なくとも苦痛は与えずに処刑すると誓おう」

「……」

「もう一つは……責任を取りマルグリットの夫になることだ」

「!?」


 驚いてシャルルは顔を上げるが、親方の表情は暗い。


「それは処刑人一族に入るということだ。シャルル・サンソン。この選択はお前にとって大きな苦痛を伴い、深い後悔に満ちた人生を送ることになるだろう。今まで普通に得てきた普通の日々を全て失い、今後手に入ることは無くなる。

 処刑人一族に一度入れば、もう抜けることはできない。例えばこの地を逃げ出して他の土地で暮らそうとも、必ず話は伝わるだろう。今までに幾人も一族を抜けて商売を始めようと試みた者は居るが、一度素性が知られれば暮らしは決して成り立たなかった。

 一生を蔑んだ目で人から見られ、人を殺し、拷問し、鞭を打つ。罪人が泣きわめこうが、或いは明らかに無実の女子供が刑を受けようが、処刑人が拒むことも逃げることも決して許されない。

 そういった日々はお前ひとりではなく、生まれた子供……そして更にその子供も処刑人として育て、先祖に対する誇りと敬意を教え、同じような普通ではない人生を送らせる責任を持たねばならない」


 身分の違う二人は、真実の愛で結ばれてハッピーエンド……になるのは物語の中だけだ。

 現実には、そうでない者がある日から突然処刑人の生活を送るというのはそれこそ死んだほうがマシな苦痛を受け続けることは間違いが無かった。

 逃げることも隠れることもできずに街中から蔑まれた視線を向けられて暮らすことの大変さなど、普通の人間には想像してもそのつらさの何分の一も理解できないだろう。

 故に、処刑人一族では婚姻を、他の土地で同じ仕事をしている一族から出し合って結婚することが普通だった。

 生まれつき処刑人一族である者同士ならば価値観も似ているし、子供への教育方法も心得がある。そして何より、結婚相手が自分を処刑人だと蔑むこともない。

 シャルルが何も言えないでいると、親方は言う。


「俺は絞首刑をお勧めする。苦痛は一瞬で済む。罰により罪は贖われる。死んだお前を俺は憎まない」


 親方からすれば、一般人が──軍人といえども──処刑人の一族に新たに入ってやっていけるとは思えなかった。

 物心ついたときから処刑人の一族として過ごしてきた自分ですらつらいことばかりなのだ。強面の無表情を仮面にしなければ生きていけないほどに、自らの仕事に誇りと同時に罪深さを親方は感じていた。そんな重荷に他人が耐えられるはずがない。

 実際に死罪を受けるか、処刑人一族に入るかという選択肢を与えた場合多くの者は死を選ぶか、仮に一族になってもすぐに逃げようとする。


「それでも……私は!」


 そう叫びシャルルは斬首剣を杖に立ち上がった。


「マルグリットと一緒になるためならば処刑人になります! つらくても辱められても、マルグリットが受ける憎悪を分かち合えるなら……彼女の涙を止められるなら、私はなんでもします!」


 そしてシャルルは縛られたままのマルグリットへ近づき、跪いて彼女の顔をハンカチで拭った。


「君の不幸や孤独や悲しさを分けて欲しい。少しでも君を幸せにする手伝いをさせて欲しい。マルグリット、結婚しよう」

「サンソン……シャルロぅ……ごめんなさい……大好きです……」

 

 マルグリットは嬉し泣きと申し訳無さと様々な感情の折り重なった不思議な笑顔で涙を流していた。

 処刑人一族として生まれたからには、自由な出会いも恋愛も諦めていた人生だった。義務のように結婚し、義務のように同じ人生を送らせる子供を作る未来に望みなんてものは無かった。

 だがこうして、底泥の中に自ら浸かり手を差し伸べてくれるシャルルと出会うことができたのが、まさに天のさだめのように思えたのだ。

 

 そんな娘の表情を親方は見たことが無く……自らもああいう嬉しそうな顔をしたことがない。

 小さくため息をついて、認めざるを得なかった。新たな一族を。処刑人シャルル・サンソンの誕生を。





 ********





 ここで終わればハッピーエンドなのだが、容赦なく現実はシャルルに襲いかかってくる。


 まずディエップの街でシャルルが処刑人の娘に手を出したという話が広まった。邪魔されて手首まで斬られた従弟のポールが腹いせ紛れに、シャルルの名誉を貶めようと広めたものだ。 

 その噂はすぐに彼の職場である軍にも伝わった。


「何を考えているんだ、サンソン中尉!」

「薄汚い処刑人の女に手を出すなど!」

「汚らわしい! お前も同類なら近寄るな!」

「見ろよ……あいつが噂の」

「よっぽど飢えてたか、頭でもおかしいんじゃないか」

「新大陸から梅毒を持ち帰って自暴自棄になってるって噂だぞ」

「汚い」

「気持ち悪い」


 ──職場で人気の中尉だったシャルルの評判は一瞬でどん底に落ちた。

 処刑人の娘と関係するとはそういう扱いになることを意味するのだ。ポールの場合はやり逃げするつもりだったし、行商であちこちに行くので気にしない算段だったのかもしれない。

 そしてとうとう上官に呼び出され、


「その処刑人の娘と関係を断つか、軍を辞めるか選ぶのだ中尉」


 そう命令を出された。

 シャルルは上官の目の前で自らの官給品であるサーベルを抜き放ち──


 その場で膝でへし折って彼に返し、軍を辞めた。




 そしてシャルルが街を歩くと、指を向けられてヒソヒソと噂された。

 行きつけのレストランに入ると、


「処刑人の一族が入ったなんて言われると商売上がったりなんだ。帰ってくれ」


 そう言われ、以前までは談笑していた店主から追い出された。

 家に帰ると使用人は居なくなっていた。また、家の貸主から使いが来て、


「処刑人に家を貸すわけにはいかない。借りるやつが居なくなる」


 ということで家すらすぐさま追い出された。

 商人の間では、間違っても処刑人一族に関わらぬように話が組合経由で広まっているようだった。

 市場に出ても果物の一つも、ワインの一杯すら買うことはできなかった。

 シャルルはあの二人や処刑人の弟子たちはどうやって生きているのか不思議になったぐらいだ。

 何より、前まで明るい気持ちで通っていた街の通りは──全て冷たい目線をシャルルに向けるようになり、とても気持ちが沈んでいった。

 もし道端で突然の発作に倒れても誰ひとりとて助けてくれないだろう。


 この時代に一般人が処刑人の一族に入るというのは、全財産を失うどころではなく両手両足を奪われるほどに生きるのが難しくなるのだ。



 結局シャルルも親方の家に居候して暮らすことになった。

 食料品などはこっそりと、かなりの割高で処刑人一族に売る商人が居るらしい。それに頼らねばいけないという。

 そして当然ながらシャルルは処刑人見習いの一人として、次から処刑台に立つことになった。 

 最初は親方の指示に従って動くだけだ。だがシャルルが他の処刑人らと共に処刑台に立った瞬間、目眩を感じた。

 数千の瞳がじっと彼らの処刑を見守っているのだ。一挙一動全ての動きが彼らに見られている。それも、演劇の舞台ではなくこれから殺人をする動きを。

 戦場で敵を殺す際にはこれほど見られることは決して無い。

 結局シャルルははじめての処刑場で、途中で気絶をして親方に助けられた。


 また、処刑人の収入としては市場で徴税することが許可されていた。

 これがまた普通の精神をしていたらつらいのである。

 市場の商人らは、汚らわしい処刑人共が売上の上前をはねていくのだから面白いはずもない。

 しかしながらこれを拒否することはそのまま法律違反に当たるので誰も拒否できず、このときばかりは処刑人らも尊大な態度になる。

 というかオドオドと徴税するなど不可能なのだ。強面で無表情なジュアンヌ親方が羨ましかった。



 親方であるジュアンヌの娘と結婚するのは娘婿になるということだ。

 それは即ち、処刑執行人である親方候補になるという意味だ。

 処刑というものは一人で行うわけではなく、何人もの弟子や使用人を使う。中には鞭打ち専門や拷問専門の弟子も居て、彼らに任せることもある。

 だが処刑執行人は全てを監督しなければならない。故に、いざやれと言われたらたとえ他に専門の者が居ても自分でも刑や拷問を実行できなくてはならないのだ。

 故に拷問の方法も処刑の方法も全て親方から教え込まれることになる。


 死刑を受けた死体を持ち帰り、それをナイフで腑分けして臓器の位置を確認させる。

 何処を殴れば骨が折れて、何処を殴ればより苦痛を与えられるか。

 どれだけ突き刺せば死ぬか、逆に死なないか。

 傷口に溶けた鉛を流し込む方法。

 足を万力で砕く方法。

 死なないように傷口を焼いたり縫い合わせたりする方法。


 シャルルは何度も嘔吐して、夢でうなされて、死人のような顔色になった。マルグリットも酷く心配したが、決して彼女や親方の前で弱音や泣き言は吐かなかった。だが、楽しく明るい新婚生活どころではなかったのは仕方がないことだ。

 同時に医療術も叩き込まれた。身内が怪我をした、病気になった場合に医者を頼れないから覚え無くてはならない。幸いなことに外科は、人体を切り開いたことで深い理解を得ていたので習得は容易であった。

 他の処刑人一族も医療で副収入を得たりしているので、情報交換や医学書の貸し借りをして勉強を重ねていった。





 結婚して9年の月日が流れた。常人ならば逃げるか発狂するかしていた日々を耐えきり、シャルルはその真面目さで親方として遜色のない腕前を身につけていた。 

 嬉しい知らせとして、待望の長子が誕生した。子供が生まれるまで長く掛かったのも、精神的にかなり辛い日々を送っていてそれどころではなかったからだろう。



 悲しい知らせとして、産後の肥立ちが悪かったマルグリットが死を迎えつつあった。

 そこらの医者でも敵わぬ医療の知識と技量を持つシャルルとジュアンヌでも彼女を助けられない。この時代では、出産の際に母子が死ぬことは珍しくないのだ。

 

「……ごめん、なさい……あなた……あなたを……大変な生き方に巻き込んだのに……わたしが先に逝くなんて……ごめんなさい……」


 眠る幼子を抱きながらベッドで横たわるマルグリットの手を握って、シャルルは祈りながら訴えていた。


「謝らないでくれ。君は私の事に関して謝らなければいけないようなことは何もしていない。私は……シャルル・サンソンは君と出会えて、間違いなんかじゃなかった。後悔などしていない。だから……」


 シャルルがそう言うと、マルグリットは泣き笑いを見せながら彼の手を握り返した。


「あなたに出会えて良かった……ありがとう……シャルロ……先に待っているから」

「マルグリット……マルグリット……まだこれからだったのに……これからもっと幸せにしてやれると……」

 

 シャルルは遺体に抱きついて、一晩泣き続けた。

 彼が人生の全てを棒に振ってでも愛した女性とは、僅か9年間の結婚生活だった。

 それが終えても彼が失った普通の人生は二度と訪れない。大きな代償のみを背負ってしまった。

 あまりに目の前の娘婿が哀れでならず、ジュアンヌも三日あまり悩みに暮れた。

 それから。シャルルは親方に呼び出された。


「サンソン。話がある」

「……はい」

「パリの街で処刑人が不祥事を起こして首になった。急遽処刑人を募集している。お前はそこに行って親方になれ」

「私が? しかしこの……」

「……ここに残っていてもつらいことばかりだろう。大丈夫だ、ここの跡継ぎは他に頼む」


 知り合いの多いディエップの街ではシャルルは無駄に有名で──そして扱いが悪い。

 元々処刑人である者よりも、一般人からわざわざ処刑人になった者の方が不気味で気持ちが悪いのだ。

 それにここは彼の愛した女性が二人も死んだ土地だ。暮らしていればどうしても思い出す。


「推薦状を出しておいた。まったく知らない土地で、一からやってみろ」

「……わかりました。ありがとうございます、親方」

 

 シャルルもその気遣いがわかって、素直に話を受けた。


「サンソン。神は人に十字架を背負わせるものだ」

「だけどその重さは、必ずその人に合わせたものにしてくださる……ですよね」

「そうだ。押し潰されそうな巨大で、耐え難い重さの十字架でも……苦しみ、つらさに耐えているうちに持てるようになる。そして最期には良い結果が訪れると期待することだけが我らには許されている。忘れるな」

「はい」

「……娘と出会ってくれて、感謝する」


 ジュアンヌ親方はそう言って背中を向けた。

 シャルルも彼に背を向け、幼い息子を連れてパリへと旅立つ。


「とりあえず……犬でも飼おうかな。そうだな。マルグリットと出会ったことが間違いじゃなかったと証明するために……今日も、明日も頑張るソン」


 彼はかすれた声で、空元気を出した。


 こうして『パリの処刑人(ムッシュ・ド・パリ)』のサンソン一族という処刑人一族がここに生まれることになったのであった。

  

 サンソンが出会いを求めたのは間違っていただろうか? 


 シャルル・サンソンは後に残した記録にこう書いている。



『──子供たちが現にある自分の境遇と、本来私から期待していいはずの境遇の奇妙な違いに直面し、自分たちが生を受けた人間に対して内心の不満を感じるのではないかと、私は恐れるのである。

 そこで神に慈悲を乞う前に、私は自らの過ちを告白し、自分を処刑人という惨めな境遇にした理由を述べたいと思う。子供たちが、許すべき理由があると思うなら私を許し、非難するのが相当だと思うなら私を非難できるように』

 


 サンソンが出会いを求めるのが間違っているのか。



 ──それは彼の子孫のみが判断できることだろう。







 **********







「サンソンが出会いを求めるのが間違っているだろうか……か」



 処刑人サンソン一族が四代目、シャルル=アンリ・サンソンは先祖である初代の大サンソンが残した記録を読みながら、そう呟いた。

 自分の今の状況と重ね合わせて、なんとも感慨を覚えたのだ。

 奇しくもこの記録を目にした彼の歳は、大サンソンがマルグリットに出会った頃に近く──そして、状況も似ている。


 シャルル・アンリは一般人の女性に恋をしてしまったのだ。


 趣味である狩猟の帰りによく休憩に立ち寄る農家の娘、マリー・アンヌという相手である。

 シャルル・アンリはパリの処刑人としてかなりの収入を得ている。年収は数万リーブルに及び、普通の労働者の百倍はあるだろう。

 シャルル・アンリはかなりの二枚目である。貴族の夫人すら彼に一目惚れすることもあった。もちろん、身分を隠しての彼だったが。

 年齢も収入も顔も悪くないのだが、処刑人という人生のみが大きな問題として立ちはだかっていた。


「だけど……出会いを求めるのは間違いじゃない。そう信じているよ、ご先祖様」


 それに処刑人といえども、少しずつ世間の風当たりは良くなっていっている気がしていた。

 死刑の数は父親の話では年々減っていっているし、八つ裂きなどの残虐な刑は滅多に行われない世の中になっていった。

 近頃は人を殺すよりも、医者として治す人数の方が多くなったぐらいである。

 代々医療技術を伝え、そしてより勉強してきたサンソン一族はパリの医者が匙を投げた患者すら治し、今では貴族の客すらやってくるようになった。

 シャルル・アンリが街に出て、人々から目を逸らされるのは前からだが……医者として助けた者とすれ違うと、中には帽子を脱いで挨拶をしてくる者まで居る。

 ほんの少しずつ、未来は良くなって行く。

 重たい十字架もやがて未来には軽くなっていくかもしれない。

 そう信じて生きていかねばどうしようもないのだ。


「よし! 明日は結婚を申し込みに行こう! 頑張るソン!」


 シャルル=アンリ・サンソンは握りこぶしを作って、先祖に恥ずかしくないように精一杯生きていく。




まあこの数十年後にご先祖様もびっくりレベルでシャルル=アンリ・サンソンは曇るわけだが……


シャルル=アンリ・サンソン「……それにしてもご先祖様。恋愛小説とか参考に話盛ってないよな?」


※この物語はシャルル・サンソン本人が記した記録『初代サンソンの手記』を元に書かれています

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[良い点] 頑張るソン! [気になる点] 作者様の体調。 [一言] 江戸も面白かったですが、この初代サンソンも面白かったです。シャルルアンリサンソンもなかなか波乱万丈ですが初代様も全然負けて無くてびっ…
[一言] かなり忠実に生涯を追っていて安心してたところに ルイ13世『チンが硬化コウカなり』 電車内で…また電車内で読んでしまった俺のバカ…。
[良い点] 頑張るソン! [一言] 左高例先生が世界史や歴史の先生なら全て面白い授業なんだろうなーって思ってしまいました。 今回も面白かったですというか( / _ ; )イイハナシダナー。 今日も明日…
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