8
翌日。
家にずっといるわけにもいかず、ディーノは朝食後、マックスと一緒に街へ出た。
猟師小屋に行く気分にはなれなかった。アベラルドに会いに行くかどうかも決めかねたまま、ぶらぶらと通りをそぞろ歩く。
二人とも口数は少なく、ディーノはマックスの少し後ろをついていく。
マックスはいつも、小柄であることを感じさせない、堂々とした足取りで歩のだが、今日の歩調はゆっくりしていて、一歩一歩が重たげに見えた。
本人は認めないだろうが、気落ちしているのは明らかだ。そんなマックスを見ているのは忍びなかった。
雑貨屋の前を通りかかる。ふと思いついて、ディーノは前方のマックスを呼び止めた。
「マーくん、ソーダ飲む?」
努めて明るく尋ねる。振り返ったマックスは、どうでもよさそうに頷いた。
「待っとって、そこで買うてくるわ」
そう言ってディーノは、雑貨屋に駆け込んだ。
店に入るや、奥のドリンクコーナーへ行き、ケースからライムソーダのボトルを二本取り出しす。
レジカウンターには太った中年の男性店員がおり、「これください」とソーダを置くと、ぶっきらぼうに会計金額を告げた。
ディーノはまだ携帯端末を持たせてもらえてないので、買い物はすべて現金だ。お金を出そうと財布を開けたとき、カウンターの内側に設置されたテレビが視界に入った。
街のどこかで事件が起こったらしく、マイクを握ったレポーターが、しきりと何か喋っている。
カメラに映し出された景色に、見覚えがある気がした。
木が生い茂った場所だ。たくさんの警察官とマスコミが集まっている。彼らの向こう側に、古びた小屋が建っているのが見えた瞬間、ディーノの心臓は大きく跳ね上がった。
(まさか……)
ディーノが支払いを忘れてニュースに釘付けになっていると、男性店員が苛立たしげにテレビを消した。
「テレビ見るなら家で見るこっちゃ。金払うてさっさと行き」
野良犬を追い払うように、ぞんざいに手を振る。
「お、おっちゃん。今のニュース、何て言うてはったんですか?」
「あ? なんでも林ん中の小屋で、男が死んどったそうや。身元不明の、なんてゆうてたか……、絵描き? まあええから早よ金……」
ディーノはもう聞いていなかった。カウンターにソーダを置いたまま雑貨屋を飛び出す。外で待つマックスにニュースのことを話すと、彼は血相を変えて走り出した。
身元不明の男が、林の猟師小屋で死んでいた――。
絵描きの。
ただの偶然だ。彼ではない。あの人のはずがない。
急いで現場に向かうのは、彼ではないことを確かめるためだ。
心にそう言い聞かせても、あの悲しげな笑顔が脳裏に浮かんできてしまう。
猟師小屋に到着したマックスとディーノは、現場の様子に愕然となった。
小屋は警察が完全に包囲していた。舗装されていない場所にも関わらず、警察車両が我が物顔で乗り入れている。
立入禁止のホロラインが小屋を囲い、見張りの警官が数名立っていた。それ以外の警察官は休みなく動いており、小屋をひっきりなしに出入りしている。
ホロラインに沿うようにして、マスコミと野次馬たちが群がっていた。レポーターはマイクを握りしめ、カメラから目を離さない。野次馬たちの交わす言葉が耳障りだ。
ディーノはこの瞬間、あの猟師小屋がもう自分たちだけのものでなくなってしまったことを理解した。
これほど多くの人々に存在を知られたのだ。もう秘密の場所ではない。
それよりも、小屋の中で死んでいたという男性が気になる。
マックスが近くにいた若い女性を見上げた。
「なあ、ここで何があったんや!? 誰が死んだて?」
女性はいきなり尋ねられて面食らったようだが、一呼吸置いて答えてくれた。
「さあ、何があったか知らんけど、男の人が死んだ、ていうか、殺されたて話みたい」
「殺された!?」
マックスとディーノは顔を見合わせた。マックスは女性の方に向き直り、すがりつかんばかりに詰め寄る。
「殺されたって、誰にや!? 何でや!? なあ!」
「そんなん知らへんよ、うちに訊かんといて!」
女性は迷惑そうに顔をしかめ、足早にその場を離れていった。
マックスは女性に見切りをつけ、周辺の野次馬に誰彼かまわず聞き回った。人々は、おかしな質問をする子どもに怪訝そうに一瞥するだけで、ろくに相手をしてくれなかった。
ディーノも彼に倣ったが、消極的な性格が災いして、マックス以上に無視された。
そうこうしていると、急に野次馬たちがどよめき、同じ方向に注目した。ディーノとマックスも、つられてそちらに顔を向ける。
猟師小屋の中から、複数の警察官の手で、何かが運び出されようとしている。キャンプで使う寝袋のようなものに包まれた、長い何かだ。
その“何か”の正体を察したディーノとマックスは、もっとよく見える場所に行こうと、野次馬たちを押しのけた。
ホロラインの手前で見張りの警察官に止められたので、それ以上前にはいけなかったが、運ばれる“何か”をはっきり見ることはできた。
「こら、こっから先には行ったらいかん!」
見張りの警察官が、更に前に出ようとするマックスの肩を掴む。
「離せ! あれ誰や! 誰が死んだんか教えろや! 誰なんか教えろやァ!」
マックスは制止の手を振りほどこうと、叫び暴れた。が、相手は与太者だらけの街に務める警察官だ。さすがにびくともしない。
そんな攻防を続けているうちに、寝袋のような“何か”を乗せた警察車両は、落ち葉を巻き上げながら走り去っていった。
ディーノとマックスは、その無骨な後ろ姿を、呆然と見送ることしかできなかった。
やがてマスコミが徐々に引き上げ始めた。野次馬たちも散っていく中、二人はしばしその場に立ち尽くした。
先に我に返ったのはディーノだ。周囲を見回し、警察以外の人間の姿がなくなりつつあることに気づいて、マックスに呼びかける。
「マー君、行こ。ここにおっても、僕らにできることあらへんよ」
マックスは無反応だ。寝袋を運ぶ車両が去った方向を、じっと見つめている。
Tシャツの袖を引っ張ったり、何度も肩を揺さぶったりして、マックスはようやくディーノに向き直った。
「その、おっちゃんと決まったわけやないし……、な?」
ディーノが口に出したのは、そうであってほしいという願いからだ。
だが、願いが天に届くことはなかった。
その晩、事件の続報がテレビで流された。
死亡した男性の名前は、アベラルド・コルテス。死因は、銃で腹部を撃たれたことによる失血死。何らかの事件に巻き込まれたのではないかと、警察は見ているという。
事件発生から二日後、街の東にある小さな教会で、アベラルドの葬儀が行われた。
この教会は、身寄りのない死者の葬儀を執り行う指定教会だった。参列者は、アベラルドの知り合い数名だけで、その中にディーノとマックスも含まれていた。
マックスの母親の姿はなかった。
棺に横たわるアベラルドを、ディーノは直視できなかった。遺体を見るのが怖かったのだ。これでお別れなのだから、ひと目だけでも見なければ。頭ではわかっていても、心が拒絶していた。最期の姿を目に焼きつけるどころか、瞼が痛くなるほど涙があふれて、ろくに前も見えない。
反対にマックスは、変わり果てたアベラルドをいつまでも見つめていた。その顔に表情はない。
棺が墓石のそばに穿たれた穴に沈められていく。大人の参列者の手で土が被せられ、アベラルドはついに、土に還った。
神父が、葬儀の終了を慎ましやかに告げ、参列者が墓地をあとにする。そのときディーノは、マックスがいなくなっていることに気づいたのだった。
アベラルド亡き今、マックスの行き先は限られている。
ディーノは、さんざん止められていたにも関わらず、再び貧困街カレゲリスに踏み入り、マックスのアパートを訪ねた。しかし、何度ドアベルを鳴らしてみても、マックスの名を呼んでも、誰も出てこなかった。
アパート全体が静まり返り、幽霊館のようにひっそりとしていた。
ひょっとしたら家に電話をかけてくるかもしれない。ディーノは淡い期待をこめて待っていたが、夜十時になっても電話は鳴らなかった。
仕方なくベッドに潜り込んではみたものの、マックスの身が気がかりで眠れない。
起き上がってベッドの縁に腰かけ、ぼんやり窓の外の夜空を眺めていると、なにやら蠢く黒い影が見えた。
どきり、と心臓が跳ねる。野良猫でもいるのだろうか。それにしては大きすぎる。
おっかなびっくり窓辺に寄り、ガラスに顔を近づけると――、
バン! 窓の外側に人間の手が張りついた。
「わああっ!」
叫ぶと同時にのけぞったディーノは、その勢いのまましりもちをついた。
窓の外の手が、何度もガラスを叩く。
「ノンちゃん、オレや」
「えっ、えっ、なに?」
ガラス越しに聞こえてきたのは、耳慣れた声だ。慌てて腰を上げ、窓辺に駆け寄ると、ガラスの向こうにマックスがいた。
ディーノは部屋の明かりを点け、鍵を外して窓を開ける。
「マー君、なんでこんなところに」
マックスは窓のすぐ下の、狭い屋根で中腰になっていた。ディーノの部屋は二階にあるので、この場所に立つなら、梯子を架ける必要がある。が、見たところ梯子はない。
家のてっぺんを越すほど成長した木が、庭に一本生えているのだが、どうやらマックスはその木に登り、枝をつたってここまで来たようだ。
「今までどこにおったん? 心配したんやで」
ディーノの言葉に、マックスはうなだれたものの、すぐに顔を上げた。
「すまん。けど、大事なことがわかったんや」
「大事なことって?」
「おっちゃん殺したの、誰かわかった」
「えっ? ほんまに?」
マックスは暗い目つきで頷く。
「おかんに喋らせた。フリオや」
「フリオて?」
「うちにおるあのカス男や。あいつがおっちゃん殺して、オレらの小屋に置き去りにしたんや」
「で、でも、それほんまなん? ほんまにあの人が、おっちゃん殺したんか?」
ディーノは、マックスのアパートで出くわした男の姿を思い出した。いかついスキンヘッド、タトゥーの入った筋肉質な両腕、こちらに向ける不穏な目つき。いかにも悪事を働きそうな人相ではあった。
「もしそうなら、なんの理由でおっちゃん殺したんや。犯罪グループの事件に巻き込まれたんやないかて、テレビでは言うてたけど……」
マックスは悔しそうに下唇を噛んだ。
「はっきりした事情は、おかんも知らんかってん。フリオがオレらの小屋を見つけて、オレがそのことを知った。その日におっちゃんが殺されて、オレらの小屋に運ばれた。フリオがなんの関係もないって、オレには思えんかった。せやからおかんに訊いたんや、おっちゃんが殺されたこと、フリオになんか関係はないかって」
「ほんで、おばちゃんはなんて?」
「よう知らん、て。けど……」
マックスは視線を落とし、一呼吸おいて続けた。
「おっちゃん、フリオに会いに行ったらしい。あのあと」
あのあと、というのは、アベラルドの小屋でマックスの母親と鉢合わせたあと、という意味だろう。
「会いに行ったって、なんで?」
「わからん。そこだけはなんべん訊いても、おかん答えてくれんかった。ずーっと泣くばっかりでな」
その涙は、アベラルドを偲ぶものだろうか。それとも、不幸な身の上を嘆いたものか、反抗的な息子を恐れたからか。
せめてアベラルドのための涙だと思いたい。
「なあ、マー君。その……おっちゃんとおばちゃんて、どういう関係か訊いた?」
スケッチの女性は。
彼女の涙は。
マックスは首を横に振った。
「それも言わんかった」
「そっか……」
会話が途切れ、ぬるい風が吹く。ささ、と木の葉の呟きが聴こえた。
マックスが顔を上げた。何かを決意したような、強い光を目に宿している。
「フリオはいつも、街外れの溜まり場におる。オレ明日、そこに行くわ」
恐ろしい計画を口にするマックスに、ディーノは目を見開いて反対した。
「あかんあかん! そんなとこ行ってどないすんの? 警察に言うた方がええんちゃう?」
「警察はあてにならんて言うたやろ。誰が信用できて、誰が信用できんかわからん。そんなら、オレが直接やった方がマシや」
「や、やるって、マー君、何する気ィや……」
嫌な予感しかしない。ディーノの問いに答えないまま、マックスは身体の向きを変えた。
「おっちゃんに何があったんか知りたいんや。もしオレがいつまでも戻らんかったら、そん時は警察に言うて」
「い、嫌やそんなん! 僕も行く!」
ディーノは、屋根を降りようとするマックスを、Tシャツの裾を掴んで引き止めた。マックスは眉根を寄せる。
「来たらあかん、ノンちゃん巻き込まれへん」
「巻き込みたないんやったら、始めからここに来んやろ。僕もおっちゃんと友達やったんや。お葬式にも行った。何があったか知る権利はある」
「せやけど、相手は銃持っとるし、人殺したかもしらんのやで」
「そんなん、マー君も同じ立場やろ。一人で行かせたないんや」
ディーノはマックスが逃げないよう、Tシャツを掴む手に更に力を込めた。
「マー君、なんで僕に『一緒に来い』て言うてくれへんの。僕何もでけへんけど、一人より二人の方が、いくらかええと思う」
本心を晒すなら、人殺しがいるような場所に行きたくない。だがそんな危険な所へ、マックスだけを行かせるのはもっと嫌だった。
マックスはいつもそうだ。一人で決めて、一人でどんどん先に行く。
何も役に立てないだろうが、もっと頼ってほしい。いつもそう思っていた。
「ノンちゃん、死ぬかもわからんで?」
「し、死なんように逃げたらええやん」
「土壇場で『やっぱ帰る』とかせえへんで?」
「え、ええよ」
いざというときは、マックスを抱えて全力で逃げよう。ディーノはひそかに誓った。
マックスはしばしディーノを見つめていたが、やがて表情を和らげると、右手の拳を差し出した。
「わかった。一緒に行こ」
「うん!」
ディーノも右腕を上げ、マックスの拳と打ち合わせた。
少年たちが決意を固めるそばで、夏の虫と秋の虫がハミングしている。
あと一週間で、夏休みが終わる。