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カナ=カルツァコでは、犯罪は日常茶飯事だった。街の至る所で事件が起きている。
窃盗、強盗、暴力沙汰は言うに及ばず。発砲事件、性犯罪、殺人すら珍しくなく、よほどの大事でなければ、いちいち口の端にかかることもなかった。
子どもたちが集う学校地区や、繁華街から離れた住宅地区は、比較的安全な方だった。とはいえ、女性や子どもの夜の一人歩きは厳禁である。
裏稼業者となってようやく、ディーノはカナ=カルツァコの闇の深さを思い知った。あの街は当時、裏取引の一大中継地のひとつだったのだ。
テノクティラ・シティと周辺地域のみならず、大陸南東部の闇物流の大半が、カナ=カルツァコを経由していた。麻薬、密造武器、盗品、人身売買から臓器まで、あらゆる金の素が、あの街を経て各地へ散る。
安全な地区に住んでいたとはいえ、そんな深潭を抱えた街で、よくぞ生きていられたものだと、あとになって肝を冷やしたディーノである。闇のすぐそばで暮らしていたマックスにしてみれば、「何をいまさら」だったが。
先達て、ディーノとマックスが、アトランヴィル・シティの〈管理者〉の一人を狩った。これにより〈帝王〉ジェラルド・ブラッドリーは、ポストの見直しを図るはずだ。
末端地域といえども、その影響を受けないとは限らない。おそらく近いうちに、テノクティラ・シティの裏勢力に変化が訪れるだろう。
手狭なあの街が、裏社会でそれなりの地位を築けたのは、警察との癒着によるところが大きい。本職の稼ぎでは物足りない警察官らが、逮捕すべき相手から袖の下を受け取り、数々の罪を見逃していたのだ。
ブラッドリーは闇の頂点に立つ人物だが、表社会は「クリーンで正常な環境」であることを良しとしている。表の秩序が保たれていればいるほど、裏治世が安泰だという証になるからだ。
ブラッドリーの人事改革が実施されれば、汚職に関わった警察官にも累が及ぶ。そうなれば癒着は解消され、裏取引には新たなルートが敷かれる。カナ=カルツァコの中継地としての機能は、失われる可能性があった。
街の治安も、多少は改善が望めるだろう。
その治安改善が、十二歳だったあの夏に行われていれば、未来は違うものになったかもしれない。
運命は残酷で、皮肉に満ちている。
繁華街の古い雑居ビルで銃撃戦が繰り広げられた、というニュースが耳に入ったのは、夏休みも後半にさしかかった頃だった。
犯罪者グループと、汚職に手を染めていない警察官たちの対立で、両陣営に数名の死傷者が出るほど激しかったらしく、大きな話題となった。
子どもには関わりのない、別次元の話だったので、ディーノはあまり気に留めていなかった。
ただ、珍しく父親が「危ない所に行ったらあかんで」と、気にかけるそぶりを見せたので、そのときやっと、大事件だったのかと実感した。
その日も、丘の林の猟師小屋で、マックスと待ち合わせの約束をしていた。合流したあと、アベラルドのプレハブ小屋を訪ねるつもりだった。
この夏休み、ディーノが楽しそうに出かけて行くのを、両親は不思議そうに見送っていたが、理由を尋ねてくることはなかった。面倒を起こさない限り、下の息子に干渉するつもりはないのだ。
ディーノにとっても、その方がありがたい。アベラルドの素姓を知れば、両親は必ず、世間体を保つために交流をやめるよう説教するに決まっている。
兄のシルヴァノは、弟が楽しげにしているのが気に入らなかったらしい。出かけるのを邪魔したり、意地悪な言葉で気分を殺ごうとしたり、何かとちょっかいをかけてきたが、ディーノはことごとく回避した。
兄に何を言われても、以前ほど傷つかなくなっていた。マックスとアベラルドと過ごすうちに、心が強くなったおかげだと思う。どんなにささやかであっても、兄よりうまくできることが一つある、という事実が自信に繋がったのだ。
意地悪な兄を尻目に、足取りも軽く猟師小屋へ急ぐ。
小屋の前で、マックスが待っていた。というより、入り口に立ち尽くしている。
「マーくん、どないしたん?」
声をかけながら近寄っていくと、マックスがしかめっ面で振り返った。
「小屋ん中、何か変や」
「変て?」
マックスは小屋の中を睨めつけ、唇を歪ませる。
「オレら以外の誰かが、ここにおったんや」
「えっ?」
慌ててディーノも室内を見回した。二人で集めたガラクタは無事なのか、盗られたり壊されたりしていないのか、心配になった。例え他人には価値のないものでも、ディーノとマックスの大事な宝物なのだ。
心配は杞憂に終わり、室内に荒らされた形跡はなかった。何もかもこれまでどおりの状態だ。ディーノはほっと胸をなで下ろした。
「何ともなってへんやん。マーくんの気のせいやろ」
しかしマックスは、険しい表情を崩さない。右手を上げ、壁際の床を指差す。
「あそこに足跡がある」
彼が示す場所に、ディーノは目を凝らした。たしかによく見れば、靴底のような形の土埃が床に付着している。意識して見なければわからない程度の、かすかな足跡だ。マックスはよくあれに気づいたものである。
サイズからして、大人の足跡のようだ。ディーノは背筋が凍ると同時に、不快感を覚えた。
自分たちだけの秘密の場所だったのに、どこかの誰かが勝手に入り込み、汚していった。大切に守ってきたものを踏みにじられた気分だ。
マックスも同じ気持ちだったろう。いや、顔つきからするに、ディーノ以上に機嫌を損ねていた。
眉間にシワを刻み、両の拳を固く握りしめ、見えない侵入者を睨み続けている。
「あいつと同じ臭いがする……」
マックスの様子に変化が起きたのは、その頃のことである。
いつもどおりのようでいて、ときどき浮かない表情をしているのだ。声をかけても、上の空ということもしばしばだった。
ディーノははじめ、毎日続く暑さにさすがの彼もまいっているのだ、と思い込んでいた。
そのうち、どうもそうではないらしいと、察した。アベラルドも似たような状況になっていて、二人の間に少しよそよそしい空気が漂いだしたのだ。
挟まれたディーノにとっては、居心地悪いことこの上ない。もし喧嘩をしたのなら、早く仲直りしてほしかった。
とはいえ、まったく会話がないわけではない。よく話はする。ただ、以前のようななごやかさが欠けているのだ。喧嘩が原因ではないのだろうか。
あまりに据わりのよくない状態が続くので、ディーノは痺れを切らし、アベラルドと何かあったのか、マックスに尋ねた。
そうして彼は不服そうに唇を尖らせ、アベラルドがもうじきカナ=カルツァコを去るのことを、ディーノに打ち明けたのだった。
「えっ? おっちゃん、どっか行ってしまうん?」
思いもよらない告白に、ディーノは目を瞬かせた。マックスがふてくされたまま頷く。
「言うたやろ、おっちゃんは季節ごとに移動してんねん。夏はここ。もうすぐ秋や。それからすぐ冬になる。おっちゃん、秋から冬は西の方に行くんや」
「それで最近、マーくん機嫌悪かってんなあ」
ディーノが納得すると、マックスのふくれっ面に拍車がかかった。
「それでってなんやねん。オレ、別に機嫌悪ないわ」
「悪かったやん」
「悪ない!」
マックスがむきになるので、ディーノはそれ以上掘り下げなかった。
夏が終わると、アベラルドが旅立ってしまう。その寂しさから、よそよそしい態度が滲んでしまったのだ。
それを指摘すると、マックスのことだ、全力で否定するだろう。本当に素直じゃない。
アベラルドが去ってしまうというのは、ディーノにとっても悲しい知らせだった。また来年の夏に会えるのだろうけれど、一年も待たなければならない。
(マーくんが頼りにできる大人が、いなくなってしまう)
アベラルドという盾がなくなれば、マックスはまた、彼を傷つける大人だけに取り囲まれてしまう。
(マーくん、おっちゃんと一緒に行きたいんとちゃうやろか)
その方がいいような気がした。彼を大事にしない実の親より、アベラルドの方がよほど親らしいことをしている。
(もし……、もしマーくんがおっちゃんについて行くって言ったら)
自分も仲間に入れてくれないだろうか。
叶うことのない漠然とした願いだが、ディーノは空想してみる。油と絵の具の匂いのするリュックを背負い、ロールプレイングゲームのように 三人で旅する光景を。
森を抜け、谷を下り、河を越え、海を渡る。世界は広く、自分たちを縛るものは何もない。目にするすべてを、思うがままキャンバスに描き、ぜんぜん売れないことを嘆きながらも笑い飛ばす。
そんな暮らしでは、いつ、どんなふうに死んでもおかしくないだろう。けれど大自然が棺となって、躯を受け入れてくれる。
それは、狭苦しい街の中で迎える死より、ずっと素晴らしい死に方だと思えた。
いつものように河原に赴き、アベラルドのプレハブ小屋を訪ねる。去ることに悲しみと寂しさを覚えつつも、彼のもとに足を運ぶのは、それでも一緒にいたいからだ。
この夏の間、共に過ごしたアベラルドは、ディーノにとっても大切な存在になっていた。実の父や兄よりも、親しみを感じている。
「いらっしゃい、今日も暑いなァ」
額の汗をぬぐいながら、アベラルドが迎えた。マックスは仏頂面で彼の横を通り過ぎ、小屋の壁に立てかけていた釣り道具を掴むと、無言のまま岩場に向かった。
小さな後ろ姿を見送るアベラルドが、ふう、とため息をつく。マックスとアベラルドには、ディーノ以上の絆がある。それを羨ましく思うことはあっても、邪魔する気はない。
「あの……マーくん、寂しいんやと思う。せやからあんな態度になんねん」
ディーノが口を開くと、アベラルドは振り返った。
「聞いたんか」
返事の代わりに頷いたディーノは、自分の目線がアベラルドより上にあることに気づいた。夏休み中に、また背が伸びたようだ。
「いつ出発するん?」
「九月に入ったら、すぐにでも行こうと思とる。ぼちぼち荷物をまとめだしてるとこ。まあ、来年また戻ってくるつもりや」
ディーノは一瞬ためらったあと、唇を舐めて言った。
「ずっとここにはおられへんの? 九月になっても、まだしばらくは暑いし、移動せんでも絵は描けるやん」
アベラルドはいつものように、悲しげに微笑んだ。
「そうでけたらええねんけどな。季節が移り変わる時期んなると、じっとしてられへんのよ。よそに旅立ちとうてしゃーなくなる。性分やねん。画家としてのなんか、本来のかはわからんけど。そういう人間やねん、僕は」
自虐的ともとれる彼の言葉に、ディーノはどう返していいかわからなかった。
にわかに訪れた沈黙を破ったのは、アベラルドの方だった。さきほどとは打って変わった明るい口調である。
「なあ、もしよかったら、気に入った絵、なんでも持ってってええで」
「ほんまに? くれるの?」
「うん。ノンちゃんは僕の絵を、もったいないくらい評価してくれはったから、そういう人に持っててほしいねん」
沈んだ心に、明かりが灯った気がした。どれでも好きな絵をもらえるのなら、初めて見せてもらった、あの老猟師の絵がいい。
アベラルドは「そう言うと思たわ」と笑った。
「けど、あの絵どこにしまったやろなあ。片付けサボってたから、すぐに見つからんかもしれん」
「ええよ。僕、自分で探すわ」
「そうか? まだちょっと散らかっとるさかい、探すの骨折るで」
「平気や。その代わり……て言うのも変やけど、おっちゃん、マーくんと話してきて」
「え?」
アベラルドは怪訝そうに眉をひそめた。が、ディーノの言わんとすることを察したのか、表情をひきしめて頷き、マックスのいる岩場へと歩いていった。
プレハブ小屋の中は、アベラルドの言うとおり散らかっていたが、いつもより整っていた。
基本的に画材以外のものは片付けられない、散らかし魔であるアベラルドの住まいが、ここまで整頓されているのを見て、彼はもうじき本当に旅立ってしまうのだと、改めて思い知らされる。
ディーノの胸の内を、寂寞とした思いが、木枯らしのように過ぎていく。
気を取り直し、老猟師の絵を探すため、画材とキャンバスに囲まれたスペースに足を踏み入れた。
油と絵の具の匂いに包まれながら、目当ての絵を探す。
キャンバスは相変わらず雑に保管されており、作品タグすら付いていないが、老猟師の絵はサイズが小さめなので比較的探しやすく、五分とかからず発掘した。
久しぶりに目にした絵を、惚れ惚れと眺める。やっぱりいい絵だ。
探したあとの片付けをしていると、スケッチブックの束を見つけた。マックスがおつかいで買っていたスケッチブックと同じものが五冊、違うメーカーのものが七冊ある。
一冊を手に取り、ぱらぱらとめくった。さまざまな野草のスケッチが、名前とともに描きこまれている。別の一冊には、針葉樹林と鳥。また別の一冊には、廃墟が描かれていた。対象ごとにスケッチブックを分けているらしい。
ページの裏には、描いた場所と日付が記入してある。どれもディーノの知らない土地だった。もちろん、カナ=カルツァコのスケッチブックもある。
写実主義のアベラルドのスケッチは、モノクロに切り取られた世界の分身だ。
風景スケッチはたくさんあるが、人間は少ない。
ディーノは一番古そうな一冊を取り上げた。角が折れたり変色してしまっているが、状態はいい。
表紙をめくった瞬間、ディーノの目は釘付けになった。
若い女性が描かれている。
線の細い美人である。笑顔や憂い、横顔、後ろ姿。様々な角度と表情が、触れればぬくもりを感じられそうなほど、リアルに描写されていた。
次のページも、その次のページも、同じ女性のスケッチだった。一冊の半分が、その女性の絵で埋まっている。残りの半分は白いままだ。
他のスケッチブックと違い、ページの裏には何も記されていない。
ディーノの目が奪われた理由は、その女性に既視感を覚えたからだった。
(この人、どっかで見たような……)
見かけたのは、そう昔のことではない。おそらく最近だ。知り合いではないが、知っている。
スケッチブックをじっと見つめていると、やがて脳裏に実像が浮かんできた。
浮かび上がった人物が誰なのか分かった途端、ディーノは反射的にスケッチブックを放り投げた。
アベラルドの大事なスケッチブックなのに、なぜそんなことをしたのか自分でも説明できない。ただ、“それに触れてはいけない”気がしたのだ。
(マーくんの、お母はんや……)
マックスのアパートを訪ねたときの不健康そうな彼女と対照的に、スケッチブックの中の女性はとても溌剌としていた。
どうしてアベラルドは、マックスの母親をスケッチしているのだろう。たまたま出会ってモデルを頼んだ? それにしては枚数が多すぎるのでは?
心臓が早鐘を打っている。鼓動のたびに、言い知れない罪悪感が身体中を駆けめぐった。