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 マックスが大人に心を開いているのを見るのは初めてだった。

 親や教師を含めた大人全般を信用していない彼が、くだけた様子でアベラルドに寄り添う姿は、ディーノの目に新鮮に映った。

 なにより、おつかいを引き受けている時点で、マックスがいかにアベラルドに気を許しているかが分かるというものだ。小柄な友人は、教師の指示にさえ素直に聞き入れないのが常である。

 

 アベラルドはマックスから手渡されたショッピングバッグに片手を突っ込み、中身の一つを取り出した。ノートほどの大きさのスケッチブックである。

「おー、ちょうどええサイズやな。これこれ。ありがとう」

 アベラルドに優しい微笑みを向けられたマックスは、欠けた歯を見せて得意気に笑う。

 彼が大人に対してこんなふうに笑うことも、今まで一度もなかった。


 たしかにアベラルド・コルテスという人物は、言葉遣いや物腰が柔らかく、その印象どおりに誠実なのだろうとディーノは思う。胡乱な大人ばかりに囲まれて生きてきたマックスにとって、アベラルドは貴重な存在に違いない。


 スケッチブックをショッピングバッグに戻したアベラルドが、ディーノに顔を向けた。

「キミ、マックスの友達ゆうことは、同級生か。えっらい背ぇ高いなあ。何センチあんの」

「えっと、170センチです、たぶん」

 少なくとも春の身体測定のときは170センチだった。あれからまた伸びた気がする。たまに節々が痛むのだ。

 アベラルドは感心しきりといった様子で頷いた。

「ほおー、170センチ。じゃあ僕とそう変わらんなあ。男の子は成長早いさかい、夏休みの間に追い越されてしまうかもしれんわ。なあマックス、あんたはいつ大きなんの」

 アベラルドがちょっと意地悪げに目配せすると、マックスは彼の脹脛ふくらはぎに蹴りを入れた。

「うっさいねん、そのうち二人とも追い越したるわ」

「痛い痛い。正確にローキック入れるのやめなさい」

 マックスが大人とふざけ合っている。ディーノにとっては天変地異にも等しい光景だった。起きたまま夢でも見ているのではないかと、一瞬疑ったほどだ。


「なんやねんノンちゃん、くちポカーン開けて、酸欠のボラか」

 マックスに声をかけられるまで、ディーノは自分が口をあんぐり開けていたことに気づかなかった。慌てて閉じ、両手で顎をさする。

 何かに気づいたように、アベラルドが「あっ」と声を上げた。

「そうや、まだ名前言うてなかったな。おっちゃんはアベラルド・コルテスといいます。キミと同じ、マックスの友達や」

 差し出された手は指が長く、爪の中に絵の具らしき汚れが付着していた。ディーノはその手をじっと見つめ、ゆっくりと握り返す。

 かさついていて、少しひんやりしていたが、不快には感じなかった。

「ディーノ・ディーゲンハルトです」

「ディーノ。せやから“ノンちゃん”か。よろしゅうな」

 自己紹介後のアベラルドの笑顔は、やはりどこか悲しげに見えた。



「暑いから、中に入り」

 アベラルドに手招かれ、ディーノはマックスに続いてプレハブ小屋に入った。蒸し暑いだろうという予想に反し、室内はエアコンが効いていて、涼しい風が巡回していた。

 プレハブ小屋の裏側に自家発電機があり、そこから電気を引いているのだそうだ。一つしかない窓から外を覗いてみれば、なるほど、外壁に沿って設置された発電機が、低い唸り声を上げている。

 小屋の中は雑然としていて、さながらキャンピングカーのような内装だった。キッチンと呼ぶには簡素すぎる流し台、小型の冷蔵庫、小さな食卓とテレビ、クッションの破れたソファ。床には色あせたラグマットが敷かれている。

 

 何よりもディーノの目を引いたのは、部屋の半分を占領している画材の山だった。

 造り付けの棚にぎっしりと置かれた絵の具やスケッチブック、大小さまざまなサイズのキャンバスに、何かを描きかけている紙の束。無造作に並べられた筆立て。壁には隙間なく、写真やイラストが貼られていた。

 それらが放つ独特の匂いが部屋中に満ちていて、どこか非現実的な空間を築き上げている。


「うわあ……」

 あまりの特殊な空間に、ディーノは思わず感嘆の声を漏らした。

「おっちゃんな、絵描きやってん」

 ぽかんと口を開けるディーノの横で、マックスが自慢気に言った。

「全然売れてへんけどな。なんやったっけ、シャジ? シャジュツ?」

 マックスが首を傾げると、アベラルドは苦笑いを浮かべた。目尻にカラスの足跡が刻まれる。

「写実主義や。“売れてへん”は余計やで。売れる今風の絵も描けんねんぞ」

「画家さんなんですか!? すごいですね!」

 画家などという存在は、図工の時間で習う歴史上の人物しか知らない。現代にも画家がいるとは、考えもしなかった。

 ディーノが敬意の眼差しを向けると、アベラルドは唇をもぞもぞ動かし、照れ臭そうに視線を落とした。

「うん、まあ、そんなすごうないねんけどな。さっきマックスに言われたけど、売れてないのはホンマやねん。せやから名前も知られてへんのよ。たまにな、たまーに、ウケ良う描いた絵が売れることもあるけど、そっちの絵は僕の本分やないから」

「じゃあ、どんな絵描いてはるんですか?」

 ディーノの疑問に応えたのはマックスだ。

「すごいリアルなやつ描いてんねん。ホンマ、昔の絵描きみたいなん」

「教会に飾ってあるような?」

「そうや。おっちゃん、何か見したって」

 アベラルドが「ええで」と許可を出したときには、マックスはすでにいくつかの小振りなキャンバスを選んでいた。

 勝手に作品を漁られ、アベラルドが怒るのではないかと危惧したディーノは、恐る恐る彼の様子を確認した。

 画家は眉尻を下げて苦笑いしていたものの、その表情はまるで、いたずら盛りの子犬を見守るように柔らかかった。

 しばらくキャンバスを品定めしていたマックスが、やがてその中の一枚を選び、ディーノに差し出す。

 ディーノはキャンバスを受け取り、そこに描かれたものを見て、再びため息を漏らした。


 縦三十センチ、横四十センチほどの大きさの木枠に張られた画布の中に、一つの世界が広がっていた。

 穏やかな海の上に、一艘の漁船が浮かんでいる。船では老人と思われる猟師が一人、海中の網をたぐり寄せていた。

 老漁夫の肌は日に焼け、チョコレート色に染まっている。むき出しの手足には、筋肉の流れが細かく描き込まれ、触れると太陽に照らされた肌の温もりが伝わってきそうだ。縮れた白髪や服の皺も、立体的に表現されている。

 特筆すべきは背景だ。

 漁船と老人を受け入れる海の、深く濃い青。

 遥か天頂にたたずむ空の、澄んだ鮮やかな青。

 キャンバスのほとんどを占めている青い景色が、主役の老漁夫と船を霞ませることなく、しっかりと引き立たせている。

 一枚の小さな画布の上で、これらが緻密に描かれているのだった。

 写真さながらの臨場感だ。さざ波や風の音、海鳥の鳴き声が、今にも聴こえてきそうなほどに。

 だが無機質な写真との違いは、人の手で世界のいち部分から抜き出された、ということだ。精密機械の技ではなく、線の一つ一つ、色の一色一色が、画家の感性によって、キャンバスに構築された世界。

 どこか不完全ながら、せつなく美しい。

 初めて手を触れた絵画を、こんなふうに感じることができるのかと、ディーノはすっかり魅入っていた。


「これ、すごいです! 昔の画家さんみたいや。何で売れへんのですか?」

 ディーノにとっては、当たり前の疑問だった。凝った彫刻を施した額縁に入れれば、お金持ちの家に飾られていてもおかしくない出来栄えだ。

 しかしアベラルドは、またしても苦笑するのだった。今度は本当に困ったように。

「今はな、こういう写実派の絵は、あんまウケへんねん。今は何ちゅーか、こう、より現代的で先進的で、新しさのある……要するに“おしゃれな絵”が喜ばれるんや。僕の絵は古臭い画風やさかい、芸術品商売の人には、あんまウケ良うないねんな。それに、僕くらいの描き手はぎょうさんおるし」

「でも、僕はこの絵、好きです」


 ディーノには、芸術の善し悪しは分からない。子どもの落書きとしか思えない変な絵や、粘土で適当な形を作ってくっつけたような奇抜なモニュメントを見ても、意味が分からないし、心も動かされない。

 けれどアベラルドの絵は分かりやすい。素直に「きれいだ」「すごい」と思える。

 それは、自分がまだ子どもで、芸術の知識がないから言えることなのかもしれない。でも、心にすとんとはまる気持ちが生まれたのなら、それが自分にとっての正解であるはずだと、ディーノは思うのだ。


「ノンちゃんもそう思うか? オレもおっちゃんの絵、うまいと思うわ」

 欠けた歯を見せて、マックスが嬉しそうに言う。

「売れへんのは、おっちゃんの押しが弱いからやんな。もうちょい自己主張せなあかんで」

「あんなあ、押しの弱い強いの話やないんやで」

 眉尻を下げたままのアベラルドの腰を、マックスがつんつん突いている。アベラルドはくすぐったそうに身をよじった。

 マックスが、特定の大人を我が事のように褒めるのも、きっと彼が初めてだろう。ディーノは二人のふざけ合いを見ながら、マックスの母親にまとわりついていた、あの男を思い出していた。


 同じ大人の男の人なのに、どうしてこうも違うのだろう。


 将来どんな大人になりたいかと尋ねられたとき、あの男とアベラルドを参考に示されたら、ディーノは迷わず後者を選ぶ。

 例え生活が苦しくても、弱い立場の人間をいじめるような大人にだけはなりたくない。あの男や、兄のようにだけは、決して。


        *


 退屈で憂鬱なだけだと諦めていたその年の夏休みは、マックスとアベラルドのおかげでずいぶんと改善された。

 アベラルドはたいてい、午前中はプレハブ小屋で作業をしている。ディーノは朝食後、その日の分の宿題を済ませてから、マックスと待ち合わせて彼の小屋に遊びに行った。

 アベラルドが小屋にいれば、彼の作業を見物したり、すぐそばの川で遊ぶ。いなければ、いつもどおり、二人で適当に時間を潰した。

 アベラルドは午後になると、よくスケッチのために外出する。行き先は川の上流や下流、森の中や岩山、遠くナデイ砂漠が少し臨める丘の上。

 街外れの古い教会や、小さな駅舎、廃屋に足を運ぶこともあった。

 マックスとディーノは、彼のスケッチ散歩に同行し、先々で新しい遊びを思いついた。周りではしゃぎ回っても、アベラルドは決して怒らず、柔らかな微笑みで見守っていた。

 ふざけすぎてスケッチの邪魔をしても、静かに一言注意するだけだ。

 ディーノがそんなアベラルドを好きになるのに、時間はかからなかった。大人嫌いのマックスが、彼にだけは心を開いたというのも頷ける。

 アベラルドもディーノと同じように、ただ黙ってマックスに寄り添っているのである。

 知り合った経緯も同じだ。

 つまり、どちらも一人きりだったとき、互いに行く所がなく、自然な流れで共に時間を過ごした。

 それがとても居心地がよく、以来、年の離れた友人同士になったのだ。

 

 アベラルドは、マックスの家庭事情を把握しているようだが、同情しているふうではない。もしアベラルドが、単に情けをかけているだけなら、マックスは絶対になつかなかったはずだ。

 だとするなら、アベラルド・コルテスは、真に優しい心根の持ち主であり、他の大人のように家庭環境だけでマックスの人物像を決めつけない、思慮深い人なのだろう。

 マックスを傷つけない大人がいてくれたことに、ディーノは大きな安心を覚えたのだった。



 アベラルドは季節によって土地を移る放浪者だ。旅の目的は絵を描くことだった。

 テノクティラ・シティの東西南北に、彼は住居を持っている。住居といっても、河川敷のプレハブ小屋のように、誰も使わなくなった小さな建物を譲り受けたもので、暮らしぶりはホームレスと大差ない。

 時おり、作品が展示される機会がやってきて、流行の絵柄で描いた絵がたまに売れる。有名な画家やアーティストの収入には遠く及ばないし、本領である写実画はほとんど売れないのだが、自分はまだ恵まれている方なのだと、アベラルドは頬を掻きながら話してくれた。

 夏の生活の場は、ここカナ=カルツァコだ。絵に描くほどの何がこの街にあるのかと、ディーノは首を傾げたが、

「ここはここで、ええとこもあるんやで。夏場は特にな」

 アベラルドは笑ってそう言うのだった。


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