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 ディーノはマックスを家に呼びたいと思っていたが、マックスはディーノを自宅に呼びたがらなかった。

 アパート周辺や家庭内環境を鑑みると、それも無理からぬことではある。

 多くを語らないマックスの気持ちを汲んで、「家に遊びに行きたい」などと言わないようにしていたディーノだったが、一度だけ、やむをえず彼の自宅を訪ねたことがあった。


 

 学期が終わり、翌日から夏休みという日。

 放課後の校門は、笑い声に満ちあふれていた。

 子どもたちの表情は明るい。これから始まる長い夏休みの過ごし方を考え、期待と夢に胸を高鳴らせているのだ。

 しかし、ディーノにとっては憂鬱でしかない。夏休みにしろ冬休みにしろ、学校に行かないということは、そのぶん家で過ごす時間が増えてしまうからだ。

 今年は兄の受験勉強も大詰めなので、家族でどこかに行く予定はない。浪人したくない兄は一発合格のために、勉強漬けのひと夏を送ると決めた。

 シルヴァノの集中力を散らせないよう、ディーノを独り暮らしの母方の祖母に預ける計画もあったらしいが、足腰のよくない祖母に子どもの面倒は見られないだろう、と断念された。

 父方の親戚も頼れず、結局ディーノは、肩身の狭い思いをしながら、長い休暇をやり過ごさなければならなくなった。

 

 学期最終のこの日、マックスは登校しなかった。日頃から理由もなくサボる癖があったので不思議ではないのだが、教材用の端末タブレットが教室に置きっぱなしになるのが気がかりだった。

 小学校で使用する教材用端末は市からの支給品だ。紛失してしまうと、二台目は実費で用意しなければならない。そのため本来なら毎日持ち帰ることが原則なのだが、教室に置いたままにしている児童が大半だった。

 長期休暇中は夜警もいなくなるので、このときばかりは全員が、素直に端末を持ち帰っている。

 ディーノは悩んだ末、マックスの端末を彼に届けることにした。万が一、学校に泥棒が侵入し、盗まれでもしたら大変だ。端末も安くはない。

 通学用のバックパックにマックスの端末を入れ、真っ先に向かったのは丘の上の小屋である。

 ここで一人で遊んでいるのだろうと思い、扉を開けたものの、小柄な友人の姿はなかった。

「あれ、どこにおるんやろ」

 小屋の周りを巡ってみたが、野うさぎの影すらもない。

 しばらく待ってみたものの、マックスが来る気配が一向にないので、ディーノは決意した。あまり気が進まないが。

 


 行ってはならない、来てはならないと言われてきた貧困街カレゲリス。

 ひしめき合う集合住宅の間を縫う通りは、埃とゴミが散乱し、カビのようなすえた臭いが漂っている。

 道を歩く人の姿はまばらで、たまにすれ違うと、誰もが胡乱な眼差しでディーノを見やる。この街の住民でないと、一目で分かるのだろう。 

 向けられる視線に含まれた不穏な空気を察し、ディーノは早足で通りを抜けた。

 マックスの住む集合住宅がどのあたりにあるのかは、地図で把握しているので、行けば分かる。

 似たり寄ったりの区画や住居が延々と続く街で暮らしていると、自然に方向感覚が鍛えられる。カナ=カルツァコの住人に、方向音痴はほとんどいないと言われていた。大半の人は、地図をひと通り見ただけで、進むべきルートが頭の中に描かれるのだ。

 ようやく探し当てた友の家は、十階建ての古びたアパートメントだった。

 味気ない灰色のコンクリート造りで、外壁には大きなヒビがあちこちにあり、その隙間から雑草が好き勝手に生えている。住人はいるはずなのに、その気配が感じられず、まるでゴーストハウスだ。今にも崩れ落ちそうな佇まいに、ディーノは怖気づいてしまった。

 しばらく玄関前でぐずぐずしていたが、いつまでもこのままではいられない。勇気を奮い起こし、おそるおそるアパートメントに足を踏み入れた。


 玄関ホールは吹き抜け構造になっていて、見上げれば遥か高い天井が最上階まで続いている。壁に沿ってぐるりと巡らされた通路には、転落防止の手すりが設置されているものの、ちょっとでも体重をかけようものなら、折れてしまいそうなほど傷んでいた。何があっても絶対に寄りかかるまいと、ディーノは固く心に誓った。

 マックスの自宅は四階にある。玄関ホールにはエレベーターがあったが、古くて乗る気になれず、急な階段を昇ることにした。

 途中の踊り場で、背中を丸めてうずくまる人がいた。一瞬死んでいるのではないかと思って恐怖を感じたディーノは、その人の肩が小さく上下していることに気づき、安堵のため息をついた。

 やっぱり来るのは間違いだったかもしれない。マックスが家に呼びたがらないのは、家庭の内情を見られたくないからだと思っていたのだが、そもそも子どもが気軽に来ていい場所ではなかったのだと、身に染みて理解した。

 そして、このような場所で暮らしているマックスを思い、ずきりと胸が痛んだ。

 自分よりマックスの方が、よほど世間を知っている。今後は彼の意見を素直に聞き入れよう。


 汚れとヒビだらけの壁に並ぶドアは、どれもひっそりとしている。時折どこからか、男女の言い争う声が聞こえてきて、アパートメント中に響き渡った。何かが割れる音もした。

 おっかなびっくり進んで、ようやくマックスの自宅である412号室にたどり着いた。

 青い塗料の剥がれた鋼板ドアの前に立ち、大きくゆっくり深呼吸する。それから、ドア横のベルを鳴らした。

 反応がない。もう一度鳴らす。しばらく待っても、インターホンからの返事もなければ、ドアが開く様子もない。

「誰もおらへんのかなあ」

 マックスだけでなく、母親も、同居人の男もいないのだろうか。ドアの向こうは沈黙し続けている。

 ディーノは顔をドアに近づけ、

「あのー……、マーくん?」

 囁くような声で呼びかけた。

 厚みのありそうなドアなので、もっと声を張らねば聞こえないかもしれない。もう一度呼んでみようとディーノが息を吸い込んだとき、ドアノブが動いた。

 ギイイイ、と軋む音を立てて、ドアが内側に開く。姿を見せたのは、痩せぎすの女性だった。

 女性は長身のディーノを見上げるや、薄い眉毛を歪めた。


「……誰あんた」


 マックスと同じ色の目をしたその女性は、もとは美人だったのだろうけれど、不健康そうな体格のせいで、せっかくの美貌を台無しにしていた。

 タンクトップとショート丈のジーンズから伸びる女性の手足は、見ていて気の毒になるほど細く、血色の悪い肌は灰色に近かった。あまりに痩せているためか、それともサイズが合っていないのか、タンクトップの胸元が余って下着のレースが覗いている。ディーノは反射的に目をそらした。

 女性はドアの縁に片腕を預け、疑り深げな目つきでディーノを眺める。

「学生やろ。お金持ってるんか? うちじゃ営業してへんのよ、一応子どもおるさかい」

 女性が口を開くたびに、お酒と甘い匂いの混ざった吐息が、ディーノの顔にかかる。

「え、えっと、あの……そやのうて」

「裏手のガレージで待っとき。もっと人目につきにくいとこがええなら……」

 何の話をしているのか分からない――分かりたくもないが、友達の母親であろう女性の口から聞きたい内容ではないと察したディーノは、声を振り絞って彼女の言葉を遮った。

「マ、マックスいてますか! 僕、同じクラスのディーノです!」

 吐き出すように言うや、マックスの母親が両目を見開いた。

「同じクラスて……。あんた、あの子の友達なんか?」

 ディーノが頷くと、母親はばつが悪そうに目を細めた。改めてディーノの顔を観察するその表情は、さっきより優しくなった気がする。

「あの子の友達が来るやなんて初めてやわ。そんな背え高いから、てっきり……。変なこと言うてしもた。聞かんかったことにしといて」

「あ、はい」

 言われなくてもそのつもりだった。

「そんで、何しに来たん? マックスならここにはおらへんよ」

「え? ホンマですか?」

「嘘ついてどないすんの。まだ帰ってへんよ。クラス一緒やったら、学校で会うたんやないの」

 学校に来ていなかったことは、言わない方がいいような気がしたので、ディーノは問いには答えなかった。


(せやけど、そんならどこにいてんねやろ)


 小屋や自宅以外にマックスがいそうな場所を、ディーノは知らない。


「おい、誰が来とんのやケイト。客か?」

 部屋の奥から、しゃがれ声の上半身裸の男がぬっと現れた。スキンヘッドで両腕にタトゥーを入れた筋肉質の男で、マックスの母親――ケイトに近づくと、折れそうな細い腰を背後から強引に抱く。

 男の身体からは、ケイト以上に変な匂いが漂ってくる。煙、アルコール、甘みと酸味。いろいろな匂いが混ざり合って、嗅いでいると頭が痛くなりそうだ。

 男はケイトの肩越しにディーノを睨み、頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように目を動かした。自分に向けられるねばつく視線が不快で、ディーノは無意識に身じろぎした。

 男の目は、弱った小動物を狙うハイエナの如くぎらついているが、命の輝きが宿っていない。人を不安の沼に突き落とす、悪い人間の目だとディーノは思った。

 ケイトはディーノの視線を気にしながら、男の腕を腰から引き剥がした。

「あほ、客やないわ。マックスの友達や」

「あァ? チビ犬の友達? そんなんおったんか」

 粘着質だった男の視線に、あからさまな侮蔑が含まれ、ディーノはますます彼への嫌悪感を募らせる。

 この男もシルヴァノも一緒だ。自分の見えている範囲だけが、世界のすべてだと考えている。まるでこの街――カナ=カルツァコと同じ。狭い空間だけで、物事が収まりすぎているのだ。

 自分はどうだろう。そうなりたくはないと思っているけれど。

 男はケイトから離れ、知らぬうちに後じさりしていたディーノに顔を近づけた。

「チビ犬のトモダチゆうんなら、お前も小学生か。はッ、えらいデカいが、どこもかしこもちゃんと成長してんねやろな」

「ちょっとあんた、子どもにそんな物言いせんといてよ!」

 男の下品な言い草に気色ばんだケイトが、彼の肩を押した。それから困ったように眉根を寄せ、ディーノの顔を見る。

「あんた、マックスになんか用があってここに来たんやろうけど、今あの子はおらんさかい、今日は帰ってんか。な?」

 ケイトの言葉は、ディーノに帰ることを提案するというよりは、ぜひそうしてもらえないだろうかという、懇願の意味が込められているような気がした。

 ディーノ自身、この場に居続けることにそろそろ限界を感じていた。男の厭らしい視線や言葉、ケイトから漂ってくる、むせ返るような“大人の女性の空気”は、十二歳の彼には耐えがたいものだった。

 そしてそんな空気を、友達の母親から感じ取ってしまったことに罪悪感を覚え、息をするのさえ苦しい。

「あ、あの、それじゃあ……帰ります」

 ケイトを直視できないディーノは、俯いたまま更にと後退し、廊下の壁に背中が触れる寸前、身体の向きを変えて走り出した。

「オイ帰んなやガキ! 戻ってこいコラ!」

 背後から男の怒鳴り声が追いかけてきた。慌ててたしなめるケイトの声も背中で受けつつ、ディーノは階段を駆け下りる。

 マックスの教材用端末のことなど、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。




 アパートメントを飛び出し、無我夢中で通りを走る。誰かに追いかけられているわけではなかったが、一刻も早くこのカレゲリスから逃げたかったのだ。

 ただ友達に会いに来ただけなのに、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。それとも自分が悪かったのだろうか。あれほど来るなと言われていたのに、よけいな気を遣ったのが間違いだったのか。

 カレゲリスを出て人通りの多い場所に戻ってくると、ディーノは走る速度を緩め、やがて立ち止まった。

 胸がざわざわする。悪いことをしたつもりはないのに、咎められているような気がしてならない。

 責めているのは誰? 自分? ケイト? それとも……。


「ノンちゃん? なにしてんねん」

 急に名前を呼ばれたディーノは、弾かれたように顔を上げた。声のした方を振り向くと、サイズの大きすぎるTシャツとチノパンを着たマックスが立っていた。

 右手にショッピングバッグを提げている。すぐそこにあるマーケットから出てきたところのようだった。

「マーくん……」

 マックスを見た瞬間、ケイトと男の姿が脳裏をよぎり、胸のざわめきが一層強くなった。

 なんとなく顔を合わせにくくて、ディーノはまた視線を落とす。マックスはそんなディーノの顔を、不思議そうに覗き込んだ。

「なんやねん、暗い顔して。腹痛いんか」

「そ、そういうんとちゃうけど」

「なんでこんなとこおんの。今日、学期の終了日やろ。サボったんか?」

「サボったんはそっちやろ。マーくんが学校ーへんかったから、僕……」

 端末を届けにアパートに行ったと言いかけ、ディーノは慌てて口をつぐんだ。

 それを見逃すマックスではない。

「オレが学校行かへんかったから、なんやねん」

 片方の眉毛を器用に上げ、マックスが詰め寄る。ディーノは首を振って何でもないふうを装うとしたが、今さら幼稚なごまかしが通用するはずもなかった。頭の回転の早いマックスは、ディーノが白状するより先に事情を察したらしい。


「教材用端末か? オレんち行ったんか?」


 マックスの口調が尖っている。言い逃れはできない。ディーノは観念し、弱々しく頷いた。

 その途端、マックスが苛立たしげに大きなため息をついた。


「行くなってゆうたやんけ! あのへんは頭おかしい奴がよーさんおんねんて。オレんち行ったんやったら、あのカスとうたやろ。あんなんがそこへんゴロゴロしとんのや。オレんち見せたないから来んなて言うてたんとちゃう」

「うん、ごめん」

「端末届けよー思てくれたんは嬉しいけど、それやったら小屋に隠すとかでもよかったやんか。どうせあそこにはオレらしか行かへんのやから」

「うん、そやね。それ考えつかへんかった」

 言われて初めて、そうすればよかったと後悔した。


「端末どうした? オレんち置いてきた?」

「ううん、まだ持ってる」

 ディーノが背負ったバックパックを指で示すと、マックスは表情を和らげた。

「そんなら許す。あのカスに渡せへんかっただけええわ。あいつにそんなん渡したら、売り飛ばすに決まってんねん」

「でもこれ、学校で使うものやん」

「そんなんあいつに関係ないわ。金になるならなんでもやるアホやで」

 マックスは、すぐそばにあの男がいるかのように表情を歪める。Tシャツの襟元から覗く鎖骨の下に、黒く丸い痕が見えた。

「ま、えっか。行こノンちゃん」

 マックスは唐突にディーノを手招きし、通りを歩き始めた。ディーノは先頭に立つ小さな背中に問いかける。

「行くってどこに? 小屋?」

「ちゃう、別んとこや」

 なんとなくだが、マックスの様子がいつもと違う。足取りは軽やかで、どこへ行くのかと尋ねてもまともに答えてくれないが、謎の目的地に向かうのを楽しみにしているようだった。

 ディーノは首を傾げつつも、おとなしくマックスについていくことにした。



 

 たわいのない会話を続けながら、それでも肝心な目的地は告げられないまま歩いて、たどり着いたのはディーノの知らない郊外の川沿いだった。

 街の中を流れているコドリコ川の支流のようで、川岸は舗装されておらず、ヨシやカヤ、ガマなどの多年植物が鬱蒼と茂っていた。名前の分からない白や黄色の小さな花が、絵の具を散らしたようにポツポツと見える。

 背の高い雑草に覆われた中、一箇所だけ、明らかに人の手で掻き分けられている場所があった。マックスは迷いなくそこに滑り込むと、ディーノを手招きした。

 小柄な友人の背中を追い、緑薫る草の通路を抜けて広い河川敷に出る。するとそこには、小屋が一軒ぽつんと建っていた。

 小屋は今どき見かけるのが珍しいプレハブで、テラスやポーチが増築されていた。思いついたままに改造を繰り返した結果なのだろう、今にも倒れそうな外観なのに、奇跡的にもバランスが保たれている。

 小屋のそばには洗濯物が干されたポールや、石を積み組んでこしらえた簡単なかまどがあった。

 一体誰がこんな所に住んでいるんだろう。ディーノが少し不安を感じていると、

「おっちゃん、買って来たでー」

 マックスが、開きっぱなしの小屋の入り口から、中に呼びかけた。

 ぼさぼさの髪をした男が、ひょこりと姿を見せる。日に焼けた身体は痩せていて、よれたグレーのスウェットの上下を着ている。スウェットのあちこちについているカラフルな汚れは絵の具だろうか。

 男が髪をかき上げると、みすぼらしい格好とは裏腹の、人懐こそうな朗らかな笑顔があらわになった。

「おかえりマックス、おつかいおおきにな」

 目尻にしわを寄せて笑う男の口調は、穏やかで優しいものだった。

 マックスからショッピングバッグを受け取る男は、ディーノの存在に気づいて顔を向けた。

「友達つれてきたんや」

「そうか。マックスの友達か。そうか」

 男はゆっくりと頷き、柔らかな微笑みを浮かべた。

 優しいけれど、悲しげに笑う人。

 それが、アベラルド・コルテスに対する、ディーノの第一印象だった。

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