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ディーノとマックスの故郷は、大陸東エリアの南西部テノクティラ・シティにある。
テノクティラはアトランヴィル・シティよりも歴史の古い市だが、経済・産業面における発展レベルは比べるべくもない。総人口約80万人の小規模都市だ。
そんな市のさらに南のカナ=カルツァコが、彼らの生まれた街である。近代化の波に乗り遅れた、離れ小島のような狭い街だった。
郊外には南エリアとの境界線があり、春と夏には南に広がるナデイ砂漠の砂が、風に乗って運ばれてきてしまう。ただでさえ埃っぽくいじけた街並みなのに、乾いた砂にまみれて一層みすぼらしくなる季節が、ディーノは好きになれなかった。
冬は冬で、たまに降り積もる雪も、たちまち砂と混ざって灰色に汚れる。秋は何もない。
四季の景色のうつろいが、本当はもっと儚く美しいものだと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。
ディーノ・ディーゲンハルトが生まれたのは、ごくごく普通の一般家庭である。古いけれども一軒家に住み、貧しいとまでは言わないが特に豊かでもない、ありふれた一家だ。
ありふれた家庭に似つかわしく、ディーノもまた、ありふれた子どもだった。勉強と運動、どちらも平均的な成績で、社会科と理科がほんの少しできる程度。
目立つ点といえば身長くらいなものだ。小学校の頃から他の子より抜きん出て背が高く、しょっちゅう高校生と間違われたものである。引っ込み思案で自己主張の弱かったディーノにとっては、迷惑極まりない特徴だった。
図体のわりにおとなしい性格は、からかいの格好の的だ。いじめにまでは発展しなかったものの、学校では存在を軽んじられていたと自覚している。
学校は嫌いではなかった。ただ、いまいち自分の居場所を掴めず、自分一人だけ浮いているような気がしてならなかった。
それは家でも同じことが言える。
ディーノは平凡な両親に似て、何につけても平凡な結果しか出せない子だったが、五つ年上のシルヴァノはとても優秀だった。
成績は常に学年トップ。フットボールの花形選手で、教師の受けはいいし、女子生徒にも人気があった。
「お前とシルヴァノは、背ぇ高いとこしか似てへんな」
ことあるごとにそう言われ、比較され続けた。近所からも、両親からも。
父と母にとっては、長男だけが自慢の種であり、次男はおまけのようなものだったのではないかと、ディーノは今でも思う。
だからといって、兄を嫌っていたわけではない。比較されることに辟易はしたが、たった二人の兄弟なのだから、できれば仲良くしたかった。
兄も同じ思いだったかどうかは別だが。
シルヴァノの弟に対する興味は薄かった。兄という立場にあるから義務で世話をするが、いてもいなくてもどちらでもいい。
そんな目つきで、兄はディーノを見ていた。
十七歳になったシルヴァノが、大学受験に向けて勉強に打ち込んでいた時期は、家での居心地が本当に悪かった。
シルヴァノは大陸北エリアの代表都市アイデンにある名門医大を目指しており、両親は長男を医者にするべく、生活基準をすべてシルヴァノに合わせたのだ。
「お兄ちゃんがお医者の学校に行くまで我慢し」
合言葉か何かのように押し付けられる言葉をもって、十二歳のディーノは、あらゆることに対し我慢を強いられた。
親には甘えられず、宿題も見てもらえない。部屋で遊ぶときは、兄の集中力を途絶えさせないために物音をたててはならず、好きなアニメ鑑賞も制限される。
広くはない家の中で、ディーノだけが、誰の気にも留められなかった。
家は狭くて息苦しい。部屋にいても気が休まらない。なら自分はどこにいればいいのだろう。ここは本当に、自分の居場所なのだろうか。
家の中に身の置き場がなくなると、ディーノはいつも外に飛び出し、丘の上の林に向かう。
おやつの残りをかき集め、兄が捨てた漫画雑誌を拾い、兄のお下がりとして与えられた自転車に積んで、ペダルを漕ぐ。
丘の林の中には、親にも兄にも内緒にしている、秘密の場所がある。管理を放棄された猟師小屋で、見つけたときからオンボロだった。それでも、子どもの秘密基地としては充分だった。
小屋の前に自転車を止め、おやつと雑誌を抱えて扉を開ける。
すると小屋の中の先客が、読んでいた漫画本から顔を上げた。
「なんや、今日は来るの遅かったな」
にっと笑うと、歯が一本欠けているのが見えた。左頬には痛々しい青痣がある。数日前の傷が、まだ癒えていないのだ。
先客は、ディーノと同じ小学校に通う少年で、この秘密基地を共有するただ一人の友だちである。
少年の名前はマックス――マキシマム・ゲルトー。
彼もまた、どこにも居場所を見つけられなかった子どもだった。
「お菓子持ってきたで。それと、兄ちゃんが捨てた漫画も」
ディーノが手土産を入れたトートバッグを掲げると、マックスは読んでいた漫画本を脇に置いて立ち上がった。
「お、ええな。ちょっと腹減っててん。何があんの」
「あんなあ、ポテトチップスとナッツチョコがある。どっちも食べかけやねんけど」
マックスは、ディーノが差し出したトートバッグからチョコレートの包みを取り出し、さっそく口に含んだ。どこの店でも売っている駄菓子だが、マックスは至福の表情で味わっている。
二人向かい合わせで胡坐をかき、決して多くはないお菓子を分けながら食べる。慣れ親しんだ味も、こうして一緒に食べると、不思議なことにいつもよりおいしく感じた。
息苦しい家から離れ、自分たちだけの秘密の場所で、自由に過ごせるからだろう。両親の小言も、兄の冷ややかな目も届かない。ここにいていいのは、ディーノとマックスだけだ。
打ち捨てられた小屋に、ゴミ捨て場で見つけた椅子やソファ、クッションを持ち込み、誰にも邪魔されない基地を作った。拾ったおもちゃや漫画本もたくさんある。必要とされなくなったモノたちを集めたこの小屋は、自分たちにぴったりだった。
ディーノはちらりとマックスの顔を見た。正確には、彼の左頬の青痣を。
数日前はもっと色が濃くて、見るからに痛そうだったが、今はだいぶ薄くなっている。それでも、触れればまだ痛むはずだ。
以前はマックスの生傷に気づくたび、なるべくそれを見ないようにしていた。子ども心に、見てはいけないものだと思ったからである。
ところがディーノの気遣いは、マックスにとってはありがたくないものだったらしい。
「目ぇそらすくらいなら見んな、見るならちゃんと見いや」
と、怒られた。
マックスが怒った理由は、いまいちよく分からなかったけれど、こそこそされるのが嫌だったのだろうと受け取ることにした。以来、傷が気になったら「それどないしたん?」と素直に訊くようにしている。
そうすると、マックスはあけすけに答えるのだ。
「いつものやつや。あのカスに殴られた」
カス、というのは、マックスの家にいる男のことだ。一緒に住んでいるのに、父親ではないらしい。マックスの母親がある日連れてきたそうで、いつの間にか住み着いたのだという。仕事もしないで、日がな一日ぶらぶらしている与太者のようだ。
左頬の痣は、その男に殴られた痕だった。
頬だけではない。マックスの服の下には、同じような痣や火傷、何かで切りつけられたと思しき傷跡が隠れていることを、ディーノは知っている。
ディーノの家がある住宅街から北側の、通りを挟んだ区域はいわゆる貧困街だった。戸建ては少なく、味気ないコンクリートの集合住宅がひしめいている。
道路にはゴミがあふれ、素行の悪い男たちが何組もたむろし、毎日のように犯罪が起きていた。
両親からも学校からも、あそこには近づくな、と釘をさされている。
そんな貧困街に、マックスは住んでいるのだ。
マックスの母親がなんの仕事をしているのか、ディーノは知らない。父親はいないというから、母親が働きに出ているのだろうが、マックスに訊いてもはっきり教えてくれないのだ。ただ、
「知らん男と変なことしよるらしいねん」
とだけ答えてくれたことがある。変なこととは何かと尋ねると、知らん、と突っぱねられた。ディーノはそれ以上訊かない方がいいと判断した。
凡庸なディーノの家よりもお金がないらしいことは、それとなく察せられた。
マックスはいつも、大人ものの服を着ている。袖も裾も長すぎて、常に折っているし、靴はぶかぶかだ。そして常に汚れている。洗濯もろくにできていないようだった。
ディーノが同年代の子どもより、発育がよく長身であるのと逆に、マックスは他のどの子よりも小さな身体の持ち主だった。同じ歳だというのに、二つ三つ年下に見えるほど顔立ちも幼く、手足は小枝のように細い。
貧しく、身なりも整わず、ひ弱そうな外見となれば、格好のいじめの標的だ。
案の定マックスはいつも、同級以上の男子のターゲットにされていた。
しかしいじめっ子たちは、外見だけで人を判断してはいけないと、すぐに思い知ることになる。
誰よりも華奢で小さなマックスは、誰よりも気が強く、それに見合う剛毅な心を備えていたのである。
手を出されたら、相手が自分よりも背が高く体格のいい上級生だろうと、関係なく立ち向かう。鉄の棒を振りかざされようが、飛び出し式のナイフを突きつけられようが、絶対に降参しない。
小さな身体を武器にして、まさしく体当たりで果敢に挑む。ひっかき、噛みつき、急所潰し。あらゆる方法で敵を痛めつける。
なにより彼は、泣かないうえに、誰かに助けを求めようともしなかった。
マックスの不屈の闘志を前にしては、いじめっ子らの方が音を上げる。
小型爆弾のようなマックスにちょっかいをかける子どもは、もういない。彼を恐れずそばにいられるのは、ディーノだけなのだ。
いつからマックスと仲良くするようになったのか、よく覚えていない。
いつものように家に居づらくなって、公園で暇を持て余していたある日、顔じゅうに傷を負ったマックスと鉢合わせた。
あっちいけや、と睨まれたような気がする。でもディーノはそのとき、他に行くあてがなく、家にもまだ帰りたくなかった。だから、行くとこあらへん、と答えたのではなかったか。
思い返せばその日から、ずっと一緒だったかもしれない。
友だちと過ごす時間は、経つのが早い。太陽が西に傾き、空が青と金のグラデーションをまとい、雲がオレンジ色に染まる頃、ディーノは重い足取りで帰路についた。棄てられた小屋よりも、居心地の悪い家へ。
帰りたくない気持ちは、マックスの方が強いだろう。家には暴力をふるう赤の他人がいるのだ。
だが、マックスが帰るのを渋ったことは一度もない。
「帰りたないと思ったら負けや。あんなカスにオレが負けるかい」
マックスが男にひどい目に遭わされても、母親は何もしてくれないという。口では男を諌めるが、身体を張って息子を庇ってくれることはない。
母親は幼い弟の世話で手いっぱいらしい。二歳のその子は、マックスとは半分しか血が繋がっていなかった。
弟のことは好きになれないと、彼は言う。理由は、顔が暴力男に似ているからだそうだ。
知識が増えて、世の中のことが少しずつ理解できるようになるにつれ、マックスがこれまで語ってくれた話が何を意味しているのか、徐々に見えてくるようになってしまった。
そのことに気づいたとき、ディーノは腹の底で、正体不明のどろどろしたモノが渦を巻くのを感じた。
ディーノに理解できたことを、賢いマックスが分からないはずがない。
けれど彼は、はっきりした表現で家庭の事情を話さなかった。
ディーノはいつも、ただ黙って隣にいて、静かに聞くことしかできないのだが、マックスにはそれで充分らしかった。
玄関ドアを開けると、キッチンから夕食の匂い――おそらくツナとトマトのキャセロール――が漂ってきた。次男にほとんど興味を持たない母親だが、料理上手ではあった。
家にマックスを呼んで、一緒に食事ができたらいいのに。
これまでに何度もそう思ったが、家族にもマックスにも言い出せずにいた。
手を洗いに洗面所に向かう途中、二階から降りてきたシルヴァノと出くわした。兄はいつもの冷ややかな視線を弟にくれ、鼻に皺を寄せる。
「お前、まだあの野良犬とつるんでんのか」
シルヴァノのいう野良犬とはマックスのことだ。家族は皆、彼を嫌っており、ディーノの友だちとして認めてくれない。
「の、野良犬とか呼ばんといて。マックスて名前があんねん」
突き刺さる兄の目に怯みながらも、ディーノは主張した。自分の友だちには、ちゃんとした名前があるのだ。それを否定させるわけにはいかない。
ディーノにとっては精いっぱいの反抗だったが、兄には響かなかったようだ。シルヴァノの目つきは、ますます険しくなる。
「どうせ犬みたいな名前やんけ。ゴロツキの子どもなんぞと付きおうても、ロクなことにならんわ。誰とでもヤらせて金取る女の子どもやぞ。いくらお前がアホでも、付き合う奴は選べや」
シルヴァノはディーノの目の前に立ち、覗き込むように顔を近づけた。
「ヤらせるて意味分かるか?」
ディーノが首を振ると、兄は薄ら笑いを浮かべて鼻を鳴らした。
「ガキやな」
短い侮蔑の言葉を残し、キッチンへ向かう兄の後ろ姿を、ディーノは無言で睨みつけた。
言い返せなかった自分が情けない。なにより友だちを馬鹿にされたまま、話を一方的に終わらせられたことも悔しかった。
「マーくんはそんなんやない。兄ちゃんよりも、大人よりも、強いんや」
言えずじまいの主張をぽつりと呟く。
子どもの小さな声は誰にも届かず、ため息とともに空気中に消えた。