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相方の拳が男の顔面にめり込むのを止められなかったのは、ディーノ・ディーゲンハルトの失態だった。あっと思った次の瞬間には、男の赤ら顔の中心に小振りな拳骨がクリーンヒットしていた。
その拳を止めるつもりで伸ばしたディーノの右手は、虚しく空を掴む。
鼻から赤い筋を噴き出しながら、男は背後のテーブルに仰向けに倒れた。贅肉で膨れた男の体重に耐えられなかったテーブルは、真っ二つにへし折れ、男もろとも床に倒れる。
ディーノと相方を囲む野次馬たちが、やんやの喝采を上げた。もっとやれと煽る声が聞こえるが、火がついた相方にそんな檄は不要だ。
「誰がチビや! もいっぺん言うてみい!」
このバーに集う男たちの中で、ひときわ小柄でありながら、誰よりも居丈高に見事な巻き舌を披露するのは、ディーノの相方――マックスことマキシマム・ゲルトーだ。
「俺にそういう口利いて無事に済んだアホはおらんぞ、シバき回したるからかかってこい!」
「ちょっとマックス、やめーや」
マックスはディーノの制止を無視すると、殴り飛ばしたばかりの男に歩み寄り、胸倉をむんずと掴んだ。まだ威勢を保っていた赤ら顔男は、小馬鹿にするように血まみれの鼻を鳴らす。
「東の〈帝王〉に引き抜かれるほどの賞金稼ぎコンビがいるってェから、いったいどんな奴らかと思ったらよ。こんなちっちぇえお子様とウドの大木たァな。〈帝王〉の審美眼もたかが知れるぜ」
たしかに二人の身長差は、周囲の目を引いた。“最大”の意味を持つ名に反して身長は160センチ弱という、少年のような体格のマックスと、190センチ超えの長身を誇るディーノが並べば、さながら巨人と小人である。それでなくともマックスの身長は、同年代男性の平均値をやや下回っているのが実際のところだ。
では背の高低と胆力の大小は正比例するのかというと、必ずしもそうではないことをディーノはよく知っている。
「なんやとゴルァ」
マックスの目つきが変わった。獲物である賞金首を追いつめたときと同じ、“狩る側の者”の目だ。
(あ、これはあかん。殺る気や)
ディーノは本気の殴り合いに発展する気配を察し、慌てて仲裁に入った。マックスのコートの襟首を掴み、赤ら顔男から引き剥がす。
「マックス、そこまでにしとき。あんたもエエ加減にせえ」
相方を抑えつつ、赤ら顔の男にも苦言を呈した。男は鼻頭にしわを寄せ、襟の乱れを正している。
「つまらんことでからかわんといてくれ。マックスもいちいち反応したらあかん、もう行こや」
これ以上騒ぎが大きくなる前に、この二人を完全に引き離した方がいい。そう判断したディーノは、マックスの背中を押した。小柄な相方は、まだ赤ら顔を睨みつけていたものの、ディーノが背中を押し続けると、渋々ながら歩き出した。
ディーノはほっと胸を撫で下ろした。周囲の野次馬に対し、喧嘩はここまでという意味を込めて手を振ると、彼らはつまらなそうに散っていく。
これで平穏にこの場を立ち去れる。そう思っていたのだが――、
「ウドに飼いならされてんのかよ。さすが“凶悪チワワ”だな」
マックスの歩みが止まると同時に空気が凍りついたのを、ディーノは肌で感じ取った。胸中であほたれと罵りながら振り返り、言ってはいけない言葉を口にした男を睨む。
その、振り返る動作をとる隙に、マックスがディーノの手から逃れた。翻る彼のコートを掴んで引き戻そうとしたが、裾の端にさえ触れられなかった。
「マックス!」
名を呼んだときにはもう、相方は何を言っているのかよくわからない罵詈雑言を発しながら、赤ら顔男に跳び蹴りを食らわせていた。再びテーブルを破壊しながら崩れ落ちる男。割れるグラスと、飛び散るドリンク。活気を取り戻す野次馬たち。倒れた男を今度は投げ飛ばそうとするマックス。
ディーノは頭を抱えたくなった。この店に来る人らは、一日一回は騒動起こさな夜寝られへんのやろか。
そのとき、耳を聾する破裂音が室内に鳴り響いた。馬鹿騒ぎに鉄槌を下す轟きに、居合わせた全員が身をすくめる。
皆が示し合わせたかのように動きを止め、同じ方向に顔を向けた。マックスでさえ、赤ら顔男を投げる手を止めている。
吹き抜け二階の通路に、男たちの視線を一心に集める壮年の女性がいた。
女性は、赤みの強い巻き毛を一つに束ね、ややサイズの大きなフランネルシャツの袖をまくり、細い腕にショットガンを抱えていた。彼女がショットガンの先台をスライドさせると、ガシャンという音を立てて次弾が装填される。
破裂音の正体が何だったのか、誰にも説明は不要だろう。
「あたしの店で暴れんなって、何度言わせれば覚えるんだいこのボンクラどもが! 今度やったら貧相な股に風穴が開くよ!」
ミセス・ターシャ・エディントンを怒らせたら、二度と彼女の店の扉はくぐれない。ただし、即座に警告に従い、よいこになると誓えば、多少は大目に見てもらえる。
この店に集まる連中は、彼女にとっては商売相手であり、家族同然の存在でもある。逆もまた然り。
ミセス・ターシャの経営するショットバーには、脛に傷持ち、叩けば埃の出る裏社会の住人たちがたむろする。彼女が、裏稼業者に仕事を斡旋する〈窓口〉の一人だからだ。
ここレムル・シティの裏社会は、女性の〈長〉が支配している。そのためか、〈窓口〉のような仲介役や〈管理者〉も女性が多かった。
「まったく、挨拶にくるっていうからずっと待ってたってのに、なかなか来やしないと思ったら、店ん中で喧嘩沙汰とはいい度胸じゃないか」
ターシャは彼女のオフィスのデスクに腰かけ、グラスにブランデーを注ぎながら言った。田舎の事務所然とした垢抜けないオフィスは、書類やターシャの私物にスペースをとられ、雑然としている。荒くれ者たちの手綱は難なくとれるのに、整理整頓は嫌いなのだ。おまけにコンピューターも苦手で、紙面の情報をデータ化するのを面倒くさがっている。
ITに詳しい彼女の息子が、定期的にファイリングしているそうだが、そのデータに目を通しているかは怪しいものである。
マックスとディーノは、ターシャの前に並んで立ち、彼女の小言を聞いていた。しかし、ずっと黙ってはいられないのがマックスである。
「あんなあ姐さん、喧嘩しかけてきたんはあのボケやで。いらんこと言うから、ちょっとシバいたっただけや」
「だから、店ん中で喧嘩すんなって言ってんだろ! どっちが先に仕掛けようが関係ない、やるなら外に出てやりな!」
「俺だけやのうて、あのボケに文句言うてえな!」
「ガキみたいなことぬかしてんじゃないよ!」
マックスが歯をむき出し、なおも言い返そうとするのを、ディーノは慌てて止めた。相方の頭を手で押し、力ずくで下げさせ、自分も低頭する。
「姐さん、店のルール破ってすんませんでした。止められへんかった俺にも責任があります」
マックスは即座に「なんやねん!」とディーノの手を払いのけた。無理やり頭を下げさせたのが気に入らず、腹いせにディーノの脹脛を蹴った。八つ当たりはいつものことなので、この程度は取り合わないディーノである。
そんな二人を見て、ターシャがふっと笑みを浮かべた。手にしたグラスの中で、氷がカランと音を立てる。
「あんたらはつくづく、いいバランスのとれたコンビだと思うよ。お互い知り合えて運がよかったと思いな。でなけりゃ、ここまで名が売れなかっただろうからね」
ターシャの言葉には一理も二理もある、とディーノは頷く。
マックスとディーノは裏稼業の〈賞金稼ぎ〉を生業にしている。この稼業は競争率が高く、高額賞金首を狩るためには、とにかく実績を上げて名を売り、いい案件を優先的に回してもらう必要があった。
二人はまだ若手の部類に入るが、すでに名実ともにベテランの域に達している。二十代の若さでそれを成しえたのは、幼なじみ同士という、他のコンビにはない特別な絆があるからだろう。
少なくともディーノはそう信じている。
「まあ、あんたらの名が広まったせいで、〈帝王〉に目をつけられたわけだけどね。“例の仕事”がどうなったのか、聞かせてくれるかい」
ターシャの言う“例の仕事”というのは、つい昨日片付けたばかりの案件のことだ。
賞金首を狩るのではない。ある人物を始末してくれという依頼があったのだ。
それは〈殺し〉の仕事ではないか、自分たちの専門外だ、と一度は断った。しかし先方は、マックスとディーノ以上の適任はいないと一歩も退かず、仕事の報酬を、名目上は懸賞金という形にして支払う、という提案まで出してきた。
そこまで能力を買われたのなら無下にはできない。仲介したターシャの顔を立てる意味も込め、今回限りという約束で仕事を引き受けた。
依頼人が大物だった、という点も大きかった。
大陸東エリアの裏社会に君臨する〈帝王〉、ジェラルド・ブラッドリーその人である。
帝王が始末してほしいと指定した人物は、悪名高き〈管理者〉ヴェン・ラッズマイヤーだった。
仕事を請けてアトランヴィル・シティへ赴き、そこで起きた事の顛末を、ディーノはかいつまんでターシャに話して聞かせた。こういう説明ごとを、マックスは一切やらないので、自然と彼の役目になっていた。
ラッズマイヤーはアトランヴィル内で密かな取引を行っており、帝王の目を欺こうとしていたこと。取引相手はブラッドリーの腹心の一人であったこと。首尾よくラッズマイヤーは始末し、裏切り者の身柄はブラッドリーに引き渡したこと。必要な部分だけを、ターシャに語った。
対象と接触するために、ある男をダシに使ったことは伏せておいた。ちょっとした因縁のある相手だったので、マックスは嬉々として賛同したが、ディーノは少し抵抗を感じている。帝王の指示があったとはいえ、結果的にかの人物の古傷をえぐることになったからだ。
おそらくディーノたちが、その人物と少なからず縁があったために、帝王はこの仕事を回してきたのだろう。
ディーノが話し終わると、ターシャは頷き、グラスを傾けた。
「それで、あんたたちは帝王のお眼鏡にかなって、あっちのゾーンに引き抜かれたってわけだね」
ゾーンというのは〈長〉が支配する裏社会の区画分離の名称である。裏稼業者は必ずどこかのゾーンに所属しており、全員が〈長〉の“所有物”だ。ゾーンの広さは〈長〉の権威の象徴。ブラッドリーの治めるゾーンは、東エリアの四分の三であり、彼は大陸屈指の権力者といっても過言ではない。
そんなブラッドリーが今回の仕事の見返りとして、ゾーンの移籍を持ちかけてきた。ゾーン間でのワーカーの移籍はままあることだ。〈長〉とワーカー、双方に利益をもたらせる可能性が見出された場合に行われる。
今回の移籍の話を、マックスとディーノは熟慮の上、受けることにした。今所属しているゾーンでやれることはやった。より広いゾーンに移り、キャリアアップを図る時期がきたのかもしれない、と考えたのだ。
ターシャにも、このゾーンの〈長〉にも恩義はあるが、引き止められはしないだろうと思っていた。裏社会は「来るもの拒まず、去るもの追わず」。どこでどのように生きるかは自由に選べる。掟さえ破らなければ。
バーに立ち寄る前、ターシャに電話をかけたとき、引き抜きの件も伝えた。ターシャは「そうかい」とだけ答えていた。
マックスがようやく口を開く。
「ま、俺らここでさんざん稼がせてもろたし、もう俺らがトップみたいなもんやからな。そろそろよそに移って、腕も名前ももっと上げてかなあかん思うねん」
「なーにがトップだ、うぬぼれんじゃないよ。あんたら程度のワーカーくらい、それこそアトランヴィルにはゴロゴロいるだろうさ」
マックスの軽口を鼻で笑うターシャだが、その表情はどこか誇らしげに見える。
ターシャはブランデーのグラスをデスクに置いた。
「うちのゾーンは広くない。帝王に仕事を依頼された上、引き抜きまでされたワーカーはあんたらが初めてだ。噂が広まるのも早かっただろ。店に来た途端、ダグに絡まれてさ」
「けっ、あんなしょーもないアホとやりおうたら、こっちの格が下がるわ」
「最後の喧嘩だ、大目に見てやるよ。で、もうあっちに行くのかい?」
このあとすぐアトランヴィルに移動するのか、と訊いているのだろう。ディーノは軽く首を振り、マックスを一瞥した。
「いや、この仕事終わったら休暇もらうて言うてましたやろ? せやからちょっと休んで、そんであっちに移ろうと思ってましてん」
ブラッドリーから破格の報酬を支払われており、懐はかなり潤っている。しばらく休みなしで働いていたので、多少の骨休めもいいだろうと、ディーノから休暇を提案したのだった。
ややワーカホリック気味な相方を休ませる、いい機会だ。
「そうかい。じゃあ、そのときになったらまた顔見せるんだよ」
言ってターシャは、話はここまで、というように手を振った。マックスとディーノは踵を返す。ドアに近かったディーノがノブに手をかけたとき、
「あ、……ちょっと待ちな」
一度だけ呼び止められた。
振り向くと、ターシャが複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「姐さん、どないしました。まだ何か?」
ディーノが尋ねると、ターシャは赤い巻き毛をぐしゃぐしゃと掻き回した。言わなければならないことがあるけれど、それを口にするのを迷っているふうだ。いつもの彼女らしくない様子に、ディーノはマックスと顔を見合わせる。
「なんやねん姐さん。言うことあんねやったら、さくっと言うてくれや」
マックスがしびれを切らすと、ターシャは決意を固めたらしい。髪を掻く手を止め、ひたとマックスを見据えた。
「マックス」
「なんや」
「あんたの母親、亡くなったらしいよ」
瞬間ディーノは、時間と空気が止まったような気がした。予想もしていなかった言葉に呼吸を忘れてしまったせいだ。
「心筋梗塞だそうだ」
ターシャの視線はマックスから揺らがない。マックスは彼女を振り返った姿勢のまま、微動だにしない。相方がどんな表情をしているのか、背を向けられているディーノには伺い知ることができなかった。
数秒の沈黙ののち、マックスは肩をすくめた。
「そうか。どうでもええわ。ほな姐さん、またな」
片手を軽く上げて、ターシャにそれだけ言った相方は、ディーノの横をすり抜け部屋を出て行った。
「マックス」
あとを追おうとしたディーノだが、すぐには足が動かなかった。母親の死を告げられたにしては、マックスの態度があまりに淡白だったのが引っかかったのだ。しかし、彼がそんな反応しか示さなかった理由には、心当たりがある。それゆえ、ディーノに相方を薄情だと責めることはできなかった。
「まあ、あんな感じになるだろうとは思ったけどね」
小さく首を振ターシャは、残っていたブランデーを一気に飲み干す。
「悪いねディーノ。たとえどんな親だったとしても、死んだことをいつまでも子が知らずにいるってのは、どうにもよくないと思うからね、あたしは」
「はあ、まあ……、よう分かってるつもりです」
ディーノは浅く頷く。机に肘を置いて頬杖をついたターシャが、物憂げなため息をついた。
「あたしも人の親さ。どっちの気持ちも分かるさね。ただそれでも、あの子の母親には同情できないが」
ターシャの部屋を辞してから、車に乗り込んでしばらくの間、マックスは一言も喋らなかった。話題がなくなって自然と訪れるいつもの沈黙と違い、どこか陰気で座り心地の悪い静けさだ。
車窓の縁に肘をつき、過ぎ行く景色を眺めているマックスの横顔は、心ここにあらずといった様子である。
銃を持てば怖いものなしのマックスといえども、母の死を知らされたのだから致し方ないだろう。
ターシャの前では無関心な素振りを見せたものの、まったく何も感じないわけがないのだ。たとえ、良き母ではなかったとしても。
だが、相方が本当に思いを馳せている相手は、母親ではないかもしれない。
母親をきっかけに、脳の奥から引きずり出される思い出が、彼にはあるからだ。
それはディーノにとっても忘れがたい出来事で、当時のことが脳裏をよぎるたび、苦味を伴う悲しさが胸を覆う。
一生残る瘡蓋のようなものだ。もうだいぶ薄くなってきているけれど。
薄れてしまっていいのか。瘡蓋のまま残すべきなのか。ディーノはいまだに分からないでいる。マックスも同じ気持ちだろうか。