EPILOGUE
大陸きってのエンターテイメント観光地ギャレスで過ごした休暇は、それなりに楽しめた。
名門カジノで、イカサマをしていた対戦相手と喧嘩になったマックスが、暴れて出禁をくらった以外に、大したトラブルもなかった。
ぶつくさ文句を垂れていたマックスだが、ギャレスのかわいい女の子たちと楽しくおしゃべりしているうちに、機嫌を直したようである。
ホテルのサービスや食事、温泉も申し分ない。
マックスは終始、いつもの調子を崩さなかった。それが表面上の態度であることを、ディーノはよく心得ている。
マックスは、亡くなった母親を話題に持ち出さなかった。母の訃報などなかったかのようにふるまい、気分の落ち込みなど、微塵も見せなかった。
休暇を終え、レムル・シティの塒に戻ってすぐ、二人は移動の準備を始めた。ジェラルド・ブラッドリーの領域に移籍するので、活動拠点である住処も移さなくてはならない。
マックスとディーノが住処にしているのは、東国料理店の二階と三階だ。マックスは三階、ディーノは二階を使用している。
広くはないが住み心地はいい。階下の料理店で不逞を働く客がいたら、追い出してやるなど用心棒のような役目も果たしていたので、その礼に何度も食事をごちそうになっていた。おかげで今は二人とも、すっかり東国料理好きになっている。
それぞれの部屋で、荷物をまとめる作業を進める。荷物といっても、必要最小限にとどめるので、大した量ではないが。
荷造りをあらかた済ませたディーノは、最後に、ベッドの下に隠していたものを引っ張り出す。
長方形の木製の箱である。これを取り出すのはいつ振りだろうか。ディーノはベッドの縁に腰かけ、埃を払い落として蓋を開けた。
箱の中身は中性紙に包まれている。それを丁寧に広げると、一枚の油絵が姿を見せた。
大きさは縦三十センチ、横四十センチほど。
穏やかな海上に浮かぶ一艘の船と、網をたぐり寄せる老猟師の絵。
何もかも捨て置いてきたカナ=カルツァコから、唯一持ち出したものだ。
今にもさざ波の音が聴こえてきそうな絵を眺めていると、懐かしい思いが、胸の疼きとともにこみ上げてくる。
フリオとガスパルがあのあとどうなったのか、結局ディーノたちが知ることはなかった。
アベラルドが死に、内縁の夫とも言えたフリオも消息不明になったためか、マックスの母ケイトは精神的に不安定になり、保養施設の出入所を繰り返した。最終的に、ケイトは長期入院を余儀なくされ、マックスと幼い弟は擁護施設に預けられた。のちにマックスは、弟を残して出て行くのだが。
ベンセスラス老人は、腐り果てたテノクティラ・シティ裏社会の建て直しのため、老体に鞭打って尽力し、八十九歳で人生の幕を降ろしたと、風の便りで耳にした。
ベンセスラス亡き後、管理者の地位を受け継いだのはギジェルモである。彼とは、ディーノたちが賞金稼ぎとして一角の成果を挙げるようになってから、再会を果たした。
自分の前に現れた新進気鋭の裏稼業者二人組が、かつて「危ない道を行こうとするな」と忠告した少年たちだと知ったギジェルモは、「こうなるような気がしていた」と呟いた。あのときの彼の、呆れたような納得したような表情が、なぜか印象に残っている。
ギジェルモはアベラルドの事件を、話題に持ち出したりしなかった。ディーノたちも、そこにはあえて触れなかった。
もう終わったことなのだ。過去のほとんどは、カナ=カルツァコに置いてきたのだから。
結局、アベラルドを殺した犯人が誰なのか、はっきりしたことは分からずじまいだ。フリオではなかったことが判明しているだけで、真相は闇の中に沈んでしまった。
アベラルドが、何の用があってフリオに会いに行ったのか、その真実も、もう明かされることはないだろう。
ディーノは自分なりに答えを推測している。
アベラルドはきっと、マックスの件でフリオと話をつけに行ったのだ。日々暴力の餌食にされているマックスを見かねて、自分がどうにかしなければ、と思ったのではないか。
その決意には、おそらくケイトも関わっている。彼女はいい母親ではなかったかもしれないが、彼女なりにマックスを愛していたに違いない。だからアベラルドに助力を乞うたのだ。どうか息子を守ってほしい、と。
ケイトがアベラルドに助けを求めたのも、アベラルドが危険を顧みずフリオのもとへ行ったのも、すべてはマックスのためだった。
そうであってほしいと、ディーノは願っている。
マックスはアベラルドにとって、大切な存在だったはずだから。
彼らの関係性についても予測はしているが、ディーノは一生、己の胸の内に秘めておくつもりだった。
触れずにそっとしておいた方がいい。今さら明るみに出して何になろう。
マックスが何も言わないのだから、ディーノに口を出す権限はない。
ディーノに予測できたことが、マックスにできないはずがないのだ。
胸の片隅に眠らせていた寂寥感を、絵の中の青色に溶け込ませ、物思いにふけっていると、部屋のドアがノックもされずに開かれた。この部屋の訪問者は一人しかいない。ディーノは驚きもせず、開け放たれたドアに顔を向けた。
「ディーノ、下行こや。店長が俺らの壮行会したるって。高級蟹づくし振る舞ってくてんねやって。蟹やで蟹!」
東国の海鮮料理に目がないマックスは、やや興奮気味にせわしなく手招きしている。
ディーノはそんな相方をほほえましく思いながら、頷いて腰を上げた。
「ん? 何持ってんねんソレ」
マックスは、ディーノの手にあるものを指差した。
ディーノは少しためらい、しかしすぐに心を決めて、何も言わずに油絵をマックスに差し出した。
怪訝な表情で受け取ったマックスが、絵を見た瞬間に息を呑むのが聞こえた。
無言のまま、相方は絵を見つめ続ける。キャンバスの縁を、親指がゆっくりなぞっているのは無意識なのだろうか。伏せた顔からは感情が読み取れない。
何か言葉をかけようかと、ディーノが口を開いたとき、マックスが顔を上げた。
マックスは笑っている。哀惜も後悔もない、朗らかな笑みだ。
「やっぱ、おっちゃんは絵うまいな」
相方が彼のことを口に出すのは、河川敷で故郷を捨てる誓いを立てた、あの日以来だ。
ディーノは目の奥がちりちりと熱くなるのを感じて、瞼を大きく開ける。今まばたきをしたら、きっと零れ落ちてしまうだろうから。
どこへ行ってもいい。どこにいてもいい。
いたいと願った場所こそ、自分だけの居場所になる。
それさえわかれば。
また新しい一歩を踏み出せる。