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 山のような巨体の男は、ギジェルモと名乗った。それ以外の素姓は一切明かさなかった。

 マックスとディーノは、子どもの目にも高級とわかる、黒塗りの電動車の後部座席に乗せられた。

後部座席の窓は黒いスクリーンで覆われ、景色が見えないようになっている。おまけに、運転席側との間には衝立ついたてが設置されており、フロントガラスから外を見ることもできない。

つまり、これからどこへ行こうとしているのか、二人に教える気はないのだ。

 

 座席のシートはなめらかな革張りで、クッション性が高く座り心地は抜群だ。クーラーも適度に効いていて、車内は非常に快適だった。

 だが、ディーノの心中は穏やかではない。ギジェルモという男が何者なのかわからないまま、いったいどこへ連れて行かれるのだろう。

 ギジェルモは、フリオやガスパルを知っているようだ。彼らが悪人であることも承知しているだろう。そんなギジェルモが、自分たちになんの話があるというのか。

 本来なら居心地がいいはずの車内は、歯医者の待合室よりも落ち着かなかった。

 車に乗ってから緊張しっぱなしのディーノは、そわそわと膝をさする。

「な、なあ、マー君。僕ら、どこ連れて行かれるんやろ」

 ざわつく心を鎮めたくて、隣のマックスに声をかけた。だが彼は、景色を遮断された窓に身体を傾け、ぼんやりと虚空を見つめている。

 ディーノはもう一度名前を呼ぼうとしたが、思い直して口を閉じた。

 

 マックスと友達になって、その一挙手一投足をつぶさに見守っているうちに、彼の感情がどんなかたちになって現れるのかわかるようになっていた。

 普段のマックスはよく喋る。怒っているときも、よく喋る。そんな彼が黙り込んでしまうのは、悲しんでいるときだ。

 思い返せばマックスは、アベラルドの死を知ってから今日まで、彼がなぜ死ななければならなかったのか、その真相を探るという信念に突き動かされていた。葬式のときは口数が少なかったものの、それでもまだ、きびきびと行動していた。

 フリオとの対決を終えた今、マックスはようやく、アベラルドの死を心から悼むことができているのかもしれない。

 フリオの口から、アベラルドとの関係を聞くチャンスを奪ってしまったことを謝ろうと思っていたのだが、今は静かにしておこう。

 あのことについては、申し訳ないと思いつつも後悔はしていない。あれでよかったのだと、ディーノは自分に言い聞かせた。



 沈黙が続く中、車がようやく止まった。ドアが開き、ギジェルモが「降りろ」と手招きする。彼に従い、おとなしく車から降りた二人が目にしたのは、城と呼べそうなほどの、豪奢な屋敷だった。

車が止まっているのは、中心に噴水を据えた円形ロータリーで、屋敷の周りには色とりどりの花が咲いている。カナ=カルツァコにこんな大きな屋敷があるとは知らなかった。

 ギジェルモに連れられて踏み入った屋敷の内装も、絵に描いたような豪華絢爛さだった。だが、あちこちじっくり見るような、心の余裕はない。

 いったいこの屋敷は誰のものなのだろう。なんのためにここへ連れてこられたのか。ひょっとして、もう帰れないなんてことにならないだろうか。気になることが多すぎて、この非現実的な空間を堪能する気分になんてなれない。

 

 屋敷の中は静かで、歩く三人分の足音が、広い空間に響く。どこか遠くの方から、スローテンポの音楽が聴こえてくるので、誰かはいるのだろう。けれど、その誰かが姿を見せる気配はない。

これだけ大きな屋敷なら、使用人もたくさんいるだろうに、そういった人々も一人も見かけなかった。

 ギジェルモは、赤い絨毯の敷かれた階段で二階に上がり、更に奥へ進む。ディーノは彼の歩幅に、さほど苦もなくついていけたが、小柄なマックスはほとんど小走りに近かった。

 やがてひときわ大きな両開きの扉の前までくると、ギジェルモはようやく足を止め、四回ノックした。

 ややおいて、重そうなオーク材の扉の片側が開かれる。現れたのはごま塩頭の初老の男性だ。細身に燕尾服を着ている。本物の執事を、ディーノは初めて見た。

 執事の男はギジェルモに会釈をし、マックスとディーノに視線を移した。そして扉を大きく開け、

「どうぞ中へ。御前様がお待ちでございます」

 三人に入室を促す。入れ替わりに、執事が廊下に出た。

 中は豪華な家具調度に彩られた応接間である。ディーノの家のリビングとキッチンを足したよりも広いだろう。

 ビロードのようにつややかな絨毯が部屋の中央に敷かれており、磨き上げられた石材のテーブルが置かれ、黒い革張りのソファがその周りを囲んでいる。ソファの上座には、一人の老人が座っていた。

 長く伸ばされた髪は灰色、頬はこけて不健康そうに見えるが、双眸に宿る光に曇りはない。貫頭衣に似たゆったりした服を着た老人は、ディーノたちを見るや、髪と同じく灰色の眉毛の片方を、くい・・と吊り上げた。

「ギジェルモ、その子ォらか、さっき電話で言うてたんは」

 紙が喋った――。老人の声を聞いたディーノは、瞬間そう思った。乾いた紙同士がこすれ合うような、かさついた声だ。

 ギジェルモが老人の近くへ寄る。

「はい、ベンセスラス。さきほど電話でお知らせしましたとおり、この子どもたちが、フリオとガスパルを捕らえました。正確には、この子らが奴らを追いつめたところに、我々が乱入した、ということになります」

「ほんで、肝心のフリオとガスパルとは」

「しかるべき処理を。すでに手配は整っております」

「さよか」

 ベンセスラスという名らしい老人は、ゆっくり頷いた。

 しかるべき処理、という表現に、ディーノは身じろぎせずにはいられなかった。十中八九、知らない方がいい内容だろう。ひょっとすると殺されるのかもしれない。さんざんマックスを痛めつけ、アベラルドを死なせたフリオには、罰が与えられて当然だ。けれど、殺されればいい、とまでは思えないのは自分が甘いのだろうか。

 ディーノは横目でマックスを見た。マックスは黙って老人を見つめている。

 ディーノの心中を察したのか、ギジェルモが言った。

「お前たちが気にしているようなことはしない。だが、今日限りであの二人のことは忘れろ。今後二度と、お前たちの前に現れることはない」

「ほんなら、それ、おかんになんて言えばええねん」

 ようやくマックスが声を発した。いつもの溌剌とした口調はなりを潜め、感情の掴めない淡々とした物言いである。

「おかん? あんたのおかんがどないしたっちゅうんや」

 ベンセスラスが、少し身を乗り出した。

「フリオがおらんようになるのは、オレはかまわん。けど、おかんが気にするかもしらん」

 マックスの言葉の意味を、最初に理解したのはギジェルモだった。

「そうか……お前、フリオの女の息子か」

 すると老人も合点がいったようで、ほほう、と唸った。

「ほしたらあんた、フリオが裏で何やっとったか知っとるのか?」

「そんなん知らん。あいつのせいでウチン中めちゃくちゃンなった。おらんようなんねんなら、せいせいするわ」

「せやったらあんたら、なんで奴らの溜まり場に行ったんや。家めちゃくちゃにされて、おかんも取られた。その腹いせやないんか」

 ベンセスラスは、真実を一粒残さずもぎ取ってやらんとばかりに、マックスを睨みつけた。その眼差しがディーノに向けられていたら震え上がっただろうが、マックスは微塵も動じない。

「腹いせなんかとちゃう。おかんもどうでもいい。オレらはただ、アベラルドのおっちゃんがなんで死んだんか知りたかっただけや。おっちゃんは、フリオに会いに行ったあと、誰かに殺された。あいつが何か知っとるはずやと思ったから、溜まり場に行ったんや」

「アベラルド? 誰やそれ」

 老人が問いかけと、ギジェルモは彼の方にかがみこんで、それに答えた。

「先日殺された、河川敷の画家のことです。フリオとガスパルが関与しています」

 やはり、アベラルドの死には、フリオが関わっていたのだ。色めき立った少年たちは、互いに顔を見合わせた。

 ギジェルモが二人を気遣うように、一瞬だけ視線をくれた。

「フリオたちの動向を掴むために、その事件についても部下に探らせました。事件当時、奴らは林の中の猟師小屋におり、そこにアベラルド・コルテスなる人物がやってきた、と」

「その、コルテスて誰や」

「季節ごとに住処を変え、夏の間だけ、コドリコ川支流の河川敷の小屋に住んでいた、流れ者の画家です。はっきりした身元が判明していないので、フリオらとの関係性はわかりません。なぜ奴らのところへ行ったのかも不明です。が、それらしい話を一切聞かないので、堅気の者でしょう」

「誰が殺したんかは、わかっとるんか?」

 ベンセスラスの核心を突く問いを受けたギジェルモは、もう一度ディーノとマックスを一瞥した。

「まだわかっていません。他にも仲間がいたようです。現在逃亡中ですが、部下たちに追わせています」

「さよか。小物の分際で、管理者であるわての目ぇ欺いて勝手に取引しようとしたんや。捕まったらどうなるか、ようわかってるやろ。三下に出し抜かれたままやったら、わての沽券に関わる。逃がしたらあかんで」

「万事抜かりなく」

 ギジェルモの応じに、ベンセスラス老人は満足げに頷いた。それからマックスとディーノに、鷹揚な眼差しを向ける。

「どこの誰ともわからん流浪の画家がなんで死んだのかを知りとうて、あんな場所へなあ。小物とはいえ、あれでも一応悪党なんやで」

 老人の目つきは、異国の珍しい小動物を前にしたかのように、好奇心に満ちていた。

「さっき、このギジェルモから連絡もろたときは、どういうこっちゃようわからんかった。フリオとガスパルはな、ちいと前から、許可も得んと勝手に商売しだしてな。あんたらは知らんでええことやけども、こっちにもいろいろルールがあんねや。そのルールを破ったさかい、ギジェルモに見張らせとった。ほしたらそこへ、まい子どもと、大けな子どもが来て、奴らをしばきよったから、とりあえず連れて行きます~言うてな。ほんで連れてきたのが、あんたらや」

 ベンセスラスは片腕を膝に置き、痩せた身体を前に倒した。彼の視線を追うと、マックスの怪我をした手に注がれている。

「そうまでして、なんでコルテスとやらの死因を知りたいねん。なにがあんたらをそこまでさせんねや」


「オレらの友達やからや」

 マックスは間髪入れず、はっきりと、そう答えた。


 迷いのない言葉に、ディーノは胸の内が震えるのを感じた。

 アベラルド・コルテスは、マックスとディーノの友達。

 それでいいのだ。


 ベンセスラス老人は、ふうむ、と小さく唸った。思案顔で細く尖った顎をさすり、やがてギジェルモに向けて片手を上げた。

 主の合図を受けたギジェルモは、部屋の隅に置かれたオークの机に歩み寄り、抽斗ひきだしを開けた。


「あんたらの心意気、ようわかった。わてはこの地位について、もう四十年は越す。これでもそれなりに有能やってんけどなあ、寄る年波にはかなわんわ。ちいと前に心臓悪うしてな。そのせいか、下っ端どもがつけあがるようになってもうた。わてはもう長うない思て、たがが外れたんや。目ぇ離した隙に、秩序を乱されてもうた。管理者として情けない限りやでホンマ」

 ベンセスラスは少し咳き込み、自虐的な笑みを口元に浮かべる。

「この上は、命が尽きるまでに体制を戻さんと、ジェラルドのぼんに嫌味言われながら墓穴に突っ込まれるわ。老体暇なしやな」

「あの御方なら、冗談抜きでやりかねません」

 ベンセスラスに同意しながら、ギジェルモがこちらに戻ってきた。手には封筒らしきものを持っている。老人はその封筒を、ディーノたちに渡すよう、手振りで指示した。

 ギジェルモに差し出された封筒を、マックスが受け取る。何が入っているのか知らないが、手紙にしては厚みがありすぎる。

 マックスはディーノと顔を見合わせたあと、封筒の口を開けた。

「うわ……っ」

 少年たちは一瞬言葉を失った。封筒の中身は札束だったのだ。

 金額がいかほどになるのか数えなければわからないが、何事もなければ一生拝むことのない大金であるのは間違いない。

「えっと、あの、これは?」

 ディーノがおずおずと尋ねると、老人が答える前にマックスが噛みついた。

「口止め料か。金をやるから全部忘れえって言うんか」

「気の強い子やなあ。そやない、早合点すな」

 マックスの言葉を弾き飛ばすように、ベンセスラスが手を振る。

「あんたらを子どもやと侮っとるわけやない、その逆や。よう聞きなはれ、ええか」

 二つ咳をして、老人は話を続ける。

「ちょうどあんたらが、フリオとガスパル相手に立ち回っとる間に、わては奴らに懸賞金を懸けたんや。奴らをとっ捕まえたら金を払うっちゅーてな。あの二人は賞金首ゆう立場で、それをあんたらが捕まえた。つまりこれは、正当な報酬や」

「オレらは金なんかいらん。そんなつもりでやったんとちゃう」

「わかっとる。せやけどな、そのつもりがあってもなくても、これがわてらの世界の掟や。成果に対する報酬は、必ず払わなあかんねん。それが誰であろうと。まあ、本来なら、仕事は窓口を介さなあかんのやが、今回はわてが懸賞金かけたさかい、そこはちいと融通利かす意味でな。せやから、わては掟を守って、あんたらに金を払う。その金をどうするかは、あんたらの好きにしたらええ。ゲーム買うなり、うまいもん食うなり、いらんのなら寄付するとか、なんならほかしてしもてもかまわん。そういうこっちゃ」

 ベンセスラスの態度は、あくまでも飄々としている。マックスとディーノを侮っていないとは言いつつも、軽く見ているのは明らかだ。

 大物そうではあるが、しょせん他の大人と同じで、お茶を濁そうとしているだけだ。そう感じて、ディーノも気分が悪くなった。

 マックスが歯を剥き出して怒鳴る。

「何が“そういうこっちゃ”や! オレらが知りたいんは、おっちゃんが殺された理由と犯人や言うてるやんけ! 偉そうにしとれる立ち位置におるんやったら、そんくらいすぐわかるんとちゃうんかジジイ!」

「マ、マー君、そない言わんでも」

 マックスの悪態を聞いたギジェルモが、どんどん顔つきを険しくするので、ディーノは慌ててなだめた。マックスの怒りはディーノの怒りでもある。だが、ベンセスラスたちの機嫌を損ねてしまうのは、さすがにまずい。

 しかし、ベンセスラスは怒らなかった。ギジェルモも、表情を曇らせただけである。

「小まいの、忘れろとはよう言わん。せやけど、コルテスが殺された理由と犯人を知ろうとするのは、もう諦めえ。この屋敷から出た瞬間に、あんたらとわてらは何の関係もなくなる。たとえわてらが、事の真相を突き止めたとしても、それをわざわざ、あんたらに教えるようなことはせん。今のあんたらに、これ以上できることはあらへん。引き時やで。その金持って、帰りなはれ」

 もう行け、とばかりに、ベンセスラスが手を振る。ギジェルモがディーノとマックスを扉に向かわせようと背中を押す。マックスは抵抗したが、山の体躯を持つギジェルモの力には逆らえなかった。

 扉の前に立つと、タイミングよく開いた。廊下で待機していた執事が開けたのだ。

 ディーノとマックスは、文字通り、廊下に押し出された。

「その子の手当てを。それが済んだら、望む場所まで送ってやれ」

「かしこまりました」

 執事が折り目正しく一礼する。

 扉を閉める前、ギジェルモは一度だけ、ディーノとマックスを顧みた。

「ではな、二人とも。もう二度と会わんだろうが、くれぐれも危ない道を行こうとするんじゃないぞ」

「どこへ行ってどうしようが、オレらの勝手や」

「ならば強くなれ、戦えるように。さもなくば何もするな」

 ギジェルモはその言葉を最後に、扉の向こうへ姿を消した。


        *


 屋敷に連れてこられたときと同じ、窓に黒いスクリーンが貼られた車に乗せられ、ディーノとマックスはベンセスラスの屋敷をあとにした。

 どこでも好きな所で降ろしてやるというので、マックスが希望の場所を運転手に告げた。

 

 そうして二人は今、河川敷にいる。

 

 目の前には、アベラルドのプレハブ小屋が建っている。帰る主を失った小屋の佇まいは、捨てられたペットのように寂しげだった。

 

 ここにいると、アベラルドがもう帰ってこないのだという事実が、本当は嘘なのではないかと思えてくるディーノである。

 たった数日前まで、ここで一緒に過ごしていたのだ。それなのに、もういないなんて信じられない。笑い声が、まだ耳の奥に残っているのに。

 

 大切な誰かを失うというのは、こういうことなのか。心の一部が欠けて、冷たい隙間風が吹きつけてくる。虚しくて悲しいのに、もう泣けない。届かない声で何を語ればいいだろう。

 どこかで秋の虫が鳴いている。


(ああ、もう終わりやな、夏休み) 


 一番幸せで、一番辛い夏休みが、終わろうとしていた。


 マックスは、無理やり持たされた賞金入りの封筒を、じっと見つめていた。河川敷に到着してから、彼は一言も喋っていない。

 だがようやく、ぽつりと呟いた。

「なんぼ入ってんねやろなあ、これ」

「お金?」

「うん」

 封筒を持つマックスの右手は、ベンセスラスの執事が手当てを施したので、白い包帯が巻かれている。

「賞金首やて。フリオを捕まえたら、こんだけもくれた。あいつが今まで食い潰してきたオレんちの金より多いかもしれん」

「マー君……」

「軽いなあ、なんやねんこれ。軽すぎて笑うわ」

 口元を引き攣らせて、マックスが嗤った。


 一時いっときの沈黙のあと、マックスは封筒を握りしめた腕を高く上げ、力いっぱい地面に叩きつけた。封筒の中からはみ出た紙幣が、ひらひらと灰のように舞う。

 マックスは膝から崩れ落ち、両腕も地面に投げ出す。伏せた顔と丸めた背中が小刻みに震え、くぐもった嗚咽が聞こえてきた。

 押し殺しきれず、泣き声は少しずつ大きくなる。ときどき混じるのは「おっちゃん、おっちゃん……」というかすかな呼びかけ。


 ディーノには声をかけることも、肩に手を置くこともできなかった。

 

 マックスが泣くのを見たのは、あとにも先にもこれきりだ。




「オレ、カナ=カルツァコを出るわ」

 洟をすすり、腕で目をこすって涙を拭いながら、マックスが立ち上がった。深呼吸してディーノを見上げたその顔には、強固な決心がみなぎっている。目は赤く腫れているが、瞳に宿るのは迷いのないきらめきだ。

「今すぐやないけど。強うなって、自分の力だけで生きていく」

「街を出て、どこへ行くん?」

「それはまだ決めてない。けど、どこへでも行く。どこへ行っても、どんな場所でも、オレがいたいと思うた所がオレの居場所や。もう誰にも盗られたりせん」

 そうやな、とディーノは胸中で同意する。

 人はもっと自由でいいはずだ。家や土地に縛られがちだが、それは思い込みで、行きたい所で生きていいのだ。お前はここで生きろと、誰かに指示されたわけではないのだから。

 生まれる場所も、時代ときも選べない。

 けれど、生き方は自由に選んでいい。

 河川敷の流浪の画家は、そう教えてくれた。

 ただし、選びとった居場所を守るために、戦う力は必要だ。

「じゃあ、僕も一緒に行く」

 その選択は、ディーノにとってごく当たり前のことだった。ディーノの居場所もこの街にはない。マックスがいなくなるなら、カナ=カルツァコで生きる価値はない。

 ディーノの存在を認めてくれるのは、マックスだけなのだ。

「ええんか? オレ、街を出たらもう戻るつもりないねんで」

「ええよ別に。僕ももう決めたんや」

「家族を置いてくことになんねやで。ホンマにええんか」

「ええて。マー君かて、お母はんと弟、置いてくやん。同じや」

 そう言うと、マックスはにやりと笑った。いつもの彼が戻ってきた。

「よっしゃ! そんならオレらは今日から、友達やのうて相方や」

「相方? 友達とどう違うねん」

「全然ちゃうわ。相方はな、お互いに命預けあうねん」

 マックスは訳知り顔で胸を張る。

「命を背負いあうコンビや。友達より強い結びつきやで、特別なんやからな」

「へえ。なんや、映画とかドラマみたいでかっこええな」

「せやろ? かっこええやろ?」

「うん。ほなら、僕らコンビやね」

「おう! いつか絶対、最強コンビになるんやで」

「うん! で、なんのコンビ?」

「それはまだ決めてない」


 

 生き抜くための知識と体力を身につけ、ディーノとマックスがカナ=カルツァコを旅立ったのは、十五歳になってからである。

 世間に立ち向かうには若すぎたが、怖くはなかった。

 二人でなら誰にも負けない。

 たとえ負けて倒されても、何度だって立ち上がれる。

 支え合える肩が、すぐそばにあるのだから。

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