七十四話② 躁と鬱
『七十四話① 躁と鬱』の続きです。
食事姿を観察されるというのは、どうやらあまり気分の良いものではないらしい。
しかし体は正直なもので、当然ながら自制することもできず、スープの一滴まで飲み干すだけの食欲を見せつけてしまったのであった。完――
「で、どうだ」
「どう、とは」
とはならず、食べ終えるのを待ってから声を掛けられた。
声を掛けてきたのはロニーを一回り小さくした感じの男性の呪人。イヴと名乗っていた、私の命を救ってくれた魔術師の方。
「診察って奴だよ。布団、剥がすぜ」
さよならまいおふとぅん。
白日の下に晒される私の肢体は……いや、普通に服着てますけども。誰が着替えさせてくれたんだろうか。
ていうかなんか臭いような。
「んだよ、そんな目で見んな」
「いや、えーっと、そのですね」
ああ、私はもう失ってしまったのですね……なんてふざけて考えてるうちに、オウトウの手が足に伸びた。なんか押したり擦ったり抓ったりしてるように見える。
言っとかなきゃまずいやつでは?
「ちょっと寝起きで痺れてて……」
「起きてからどのくらい経つ」
「半時とかそのくらいかなと」
「……」
あれ、イヴの表情がなんか険しい。私としてはツッコまれるかなー程度にしか考えてなかったのに。
「ゼロ・ゾエロ、今使えるか?」
「え? 使えますけど……ゼロ・ゾエロ」
使ったと分かりやすいようにちゃんと詠唱してみた。……あれ、変だな。足の感覚が遠いままだ。なんでだろ、ゾエロ使えばすぐに戻ってくるはずなのに。
イヴの視線もちょっと気になる。この人、多分魔力見えてるな。
「うつ伏せになって、服を少し上げてくれ」
「はぁ」
今度は一体何の指示なのじゃ? もうちょっと患者さんには優しくだな……具体的には何を目的としてるのかの説明をだな……。
ま、別にいいけどさ。……ん? 腰の辺りにもなんかかさぶたみたいなの付いてるぞ。
「オウトウ」
「じゃないでしょ」
「ああ、悪い、メルナ」
と今度は背中もいじられた。ちょっとまって、メルナって何? ていうかもしかして腰以外……例えば足とかなんかにもかさぶたみたいなのできてんの? ていうか一体これは何なのさ。あ、ちょっとそれ気持ちいいかも。
ん、待て待て、徐々に手が下の方に……具体的には尻の方に……あ、足ってか下半身全体が痺れてたのか。よく分からんくなってきた。
「19だと思うよ」
「そうか、サンキュ」
「……えっと、話が読めないんですが?」
「今からするさ」
私は一体何をさせられているのやら。と聞いてみれば診察は既に終了したらしい。さすがスペシャリストじゃない療術師様だめちゃくちゃ早い。イヴが医者だとは聞いてないし、あんまり詳しくは診れないだけかもしれないけどさ。
「はっきり言うぞ。アンジェリア、アンタの下半身は麻痺してる。
寝起きで足が痺れてるとかじゃない。こりゃ療術が不完――」
……麻痺?
麻痺って、それ……え、半身不随ってこと? 私が? なんで?
え、さすがに何かの冗談でしょ? だって動かそうと思えば普通に動くし……。
「いやいやまたまた」
「……」
嘘だって言えよ。
そんな目で見るなよ。
これじゃまるで、本当の話みたいじゃないか。
ティナも、レニーも……。そっか、知らなかったのは私だけなのか。
「……でも、動かせますよ」
「魔人だからな。筋肉は魔力でも動かせる」
「治らないんですか」
「アンタはまだ若いし、治らないとは限らない。
だが治るとは間違っても言ってやれな――」
起きて早々、なかなかに重い報せを受けてしまった。
こういう時は目の前が真っ白だか真っ暗だかになるとか読んだことがあるけど、実際は違うらしい。
世界にはちゃんと色がついてるのに、景色の理解を放棄しているような。
この声はちゃんと耳に届いてるのに、言葉の理解を放棄しているような。
何を言ってるのか、何が起きているのかが分からないような不思議な感覚。
こういう時、私の頭は外の情報をシャットアウトしてしまうらしい。
……なるほど。引きこもりこそすれ情報の処理だけは続けるらしい。
前世なら完全に動かせなくなってるはずの下半身を、魔力で無理やり動かしてるって状況だってことが予想できた。
神経と違い、魔力は血管のような器官である魔管を通って全身を循環している。だから背骨とは全く関係が無いのだと。
魔力があるから動かせてて、麻痺しちゃってるから感覚が無いのだと。そう考えれば確かに辻褄が合ってしまう。
……足、分からなくなっちゃったのか。なんだろう、死ぬって言われた時よりもショックがデカい。今後のことを考えてしまったせいだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐる。
天井が倒れ込んできた。
◆◇◆◇◆◇◆
「どうぞ」
部屋にはレニーしか残っていなかった。相変わらずというべきか、口は開けずにただチラ見する程度。お互い無言。
こういう時、普通は涙が出たりするもんだと思うんだけど……今回は泣かずに済んだ。まだあんまり現実感が無いからかもだけど。
私にしては珍しく、ほとんど何も考えずに過ごした。だからどれくらい経ったかも分からない。
ふと顔を上げてみると、茶か何かを持ったオウトウが立っていた。
受け取って、口に含んでみる。人はあんまりにもショックだと味が分からなくなる……だなんて聞いてたけど、ふつーに味わえる。
匂いだって分かるし、熱さだって分かる。なのに、
「なっ!」
足にこぼしてみたけれど、こっちは何も感じない。
「こんな熱いのにさ、なんにも分からない」
「抓ってみても、別に痛くないし」
「叩いてみても、全然分からない」
「強く押してみて、ようやくちょっとだけ分かる」
「これ、私?」
自分の体って感じがしない。
冒険者なんてやってた以上、こういう状態になる危険性は常にあったのに。
冒険者とは関係のないところでなるとは思ってなかった。
いや、あのクエストを受けていなければこうはならなかった。
……いまさら。
「いつか治るかも――」
「いつかっていつ。絶対って言い切れる?」
「……」
他人にイライラをぶつけるだなんて私らしくもない。
命の恩人達に文句を言うだなんて、厚顔無恥とはこのことだ。
「……出てって。レニーも」
でもちょっとだけ、今だけは1人にさせてほしい。
これ以上惨めになりたくない。
◆◇◆◇◆◇◆
どこの世界にも空気の読めない人間ってのは一定数存在するわけで。
それを許容するか、理解するか、迫害するか、……今回の場合、私はそのどれでもなかった。
「よぉアンジェリア、入るぜ」
最初に選んだのは傍観。
ズカズカと入り込んだこの男に、あんまり大きな感情を抱けなかった。
「あんまり時間もねえからよ、さっさと説明だけすんぞ。――」
言葉の処理を頭が拒否しているような、あの感覚にまた襲われていた。
この時に何を言われていたのかが未だにほとんど思い出せない。
「――それから、療術はもう無しだ」
なんとなく、体調がよくなってからまた療術を使えばいいんじゃないかと考えていた。
しかし、あの重苦しい空気が妙に気になっていた。
だからかこの言葉だけははっきり聞こえた。
「……どうしてですか」
「その目の回りもだが、お前さんには"できかけの魔石"ができちまってる。
タイナは魔石と相性が悪い。聞いたことないか?」
……確かに聞いたことはある。
外傷治療の療術が込められた魔法陣というのは非常に珍しく、量産なんて全くできない。だからこそギルドでも買えなかったし、闘技場の魔法陣にも驚いた。
イヴの言う通り、タイナと魔石は相性が非常に悪い。他の魔言と違い、タイナは魔石からの魔力を受け付けてくれないのだ。なんなら魔力暴走を引き起こすとすら言われている。
魔力とは不思議な力でもなんでもなく、魔素という比較的安定している物質を利用する際の通称だ。他の元素に成り代わるという特異な挙動こそあれど、ただの物質である以上、その姿は温度や圧力なんかによって様々に変化する。
低温や高圧に晒せば凝華するし、高温や低圧に晒せば昇華する。低温下で急速に加圧した場合では、魔力は「氷解石」と呼ばれる焦げ茶色の固体として表れることは知識として持っていた。
実物を見たことはなかったけど、私の体に浮き出ているかさぶたは確かに焦げ茶色。そして、この固形物が非常に不安定だということも知識として持っている。
「その魔石自体も問題だ。
不変魔言や無変魔言なら問題は無いはずだが、可変魔言やデルア、アルアを含む術式には絶対に触れさせるな」
「可変魔言?」
「シュ、ガイ、トウ、マ、ウニド、これに加えて全ての座標現象詞のことだ。
こいつらはその魔石を不安定にさせる。それから衝撃にも気をつけろ」
初めて聞いた区分だけど、話自体には納得できる。
触ってみた感じ、この"できかけの魔石"は私の体の内側から生えているように感じる。魔素が他の元素に成り代わるってのは結構有名で、だからこそほとんどの物質に混ざっている。
今回の場合、私に混じっていた魔素の一部が勝手に結晶化してしまったというわけだ。私の魔力は多いらしいから、混じっていた量自体も元から多かったんだろう。でも……。
「どうしてこんなことに? 高圧低温下での相ですよね、これ」
「お前さんが氷の魔術をよく使うってのはあの2人から聞いてたし、実際に目にもした。
必死になって魔術を使う時、人は自然と得意な属性に頼る。無意識にイメージしちまったんだろう」
確かに私はウィニエルやリズをよく使うし、あの時は必死になってた。だから無意識にイメージしててもおかしくはない。
でも、それだけじゃ条件を満たせない。
イヴが「できかけの魔石」と呼んだこの氷解石は、自然界では海中くらいでしか見られていないらしく、天然物の研究はほとんど進んでいない。
私が知っているのは、冷凍庫のような魔道具が開発されるまでの話を読んだ中に出てきたことがあったからだ。
氷解石の名はあの録石でしか聞いたことがないし、テルーは氷解石ではなく「一次低温結晶」と呼んでいたから、多分あまり一般的な呼び方ではないんだと思う。
氷解石は魔石と違い、安定的・連続的に魔力を取り出すなんてことはできない。魔力を引き出そうとしたりすると、周囲の熱を奪うと同時に一瞬で全体が昇華する。分かりやすく言うと爆発する。
私の体に生えてしまっている氷解石とは、要するに爆弾だ。私の体には爆弾が生えてしまったということになる。
起爆する危険性のある魔言は、アルア、デルア、シュ、ガイ、トウ、マ、ウニド、フィール、リニズ、レンズ、タイナ、ソルド……それからもう1つの知らない魔言。
マという魔言は初耳だけど、イヴが唱えていた術式に確かに含まれていた。真名は「共に」とかだろうか? リーヴェンという方の魔言も知らないから、あんまり適当なことは言えないけどさ。
そうじゃない、もう1つの条件でもある"高圧"の方だ。あんまり研究の進んでいない原因の1つがこれで、結構深いところまで潜らないと見つからないらしい。
氷解石は魔力だけでなく、単に強い衝撃を与えるだけでも爆発してしまう。一度爆発させてしまうと周囲の氷解石までがそれに反応することになり、一帯の海底全体が大きな爆発を起こすことになる。
その危険性の割にあまり知られていないのは、生身の人間が活動できるような領域には存在していないからだ。仮にある領域の氷解石が一斉に爆発したとしても、ほとんどの人間は単なる地震だと考えてしまう。実際、それはある意味では正しいんだけども。
ともかく、ある程度の深度以下でしか確認されていないはずの固体だ。にも関わらず私から生えたこれを説明するには、死に際のある現象が関係してるはず。
魔力というのは一定以上の圧力を加えると凝華し、その際の温度によって様々に姿を変える特性を持つ。つまり、地下資源としても見つかるだろうと予想されている。
通常魔石と呼ばれる緑っぽい半透明の固体は、周囲の温度が12℃から78℃の場合に表れる形態であり、それを超えるとしばらく安定する形態は存在せず、212℃くらいからは粘っとした液体のような形態になることがある。これ以上の高温は不明。
低温の場合は6℃まで安定する形態はなく、そこから-67℃くらいまでの間に発生するのがこの氷解石。それ以下では魔石によく似た固体が表れるようになるけど、結晶構造が変わるのか立方体ベースではなく六角柱ベースになり、また魔石とは違い"剥がれやすい"。
全ての魔力を持つ生物は、死に際に極短時間の「死終圧縮」という現象を引き起こすとされている。死んだ魔物に魔石が作られるのは、この現象によって魔力が瞬間的に高圧になるからだ。
もちろん、一括に生物だなんて言ってもその種類や個体毎に持つ魔力は違うし、魔物と呼ばれない生物に至っては魔石を作られるだけの圧縮を引き起こせない。つまりこの死終圧縮というのはその生物が持つ魔力の大きさによって規模がかなり変わる。
さっきの温度は全て成体の布人によって導かれた数字であり、つまりは無数の布人を様々な温度で殺し続けたことになるが、しかし誰も咎めはしない。ダニヴェスでは布人とはアノールというただの魔物に過ぎないのだから。
私の場合、どうだろうか。
あの時は確かに枯渇しかけていたが、"魔力を補給する魔術"とでも呼ぶべき術によって、ある程度は回復した状態だった。
死終圧縮は通常生命活動が終了した際に発生する現象で、だからこそ生きている間に魔石は作られない。しかし何事にも例外はあり、生きているにも関わらず魔石が作られてしまう魔石病というものがある。
自らで自らの死を予見できるような、十分に知能が発達した生物だけが罹る心の病。当然魔人も発症することがあり、意味が含まれる魔人語の文字では「死を知る病」と綴られる。
あの時、私は死という概念を完全に頭から取り払うことができていただろうか。当然、そんなはずはない。
死と隣り合わせである冒険者として活動してて、人を殺した直後で、死ぬ寸前まで追い込まれ、ようやく助かったと思ったら「このままだとアンタ死ぬぞ」だ。考えるなという方が無茶な話だ。
本来は魔石病に罹るところが、無意識のイメージとやらで"氷解石病"に変化してしまった。
私に用意された材料から導き出された結論としては、これ以上ないほどに合点がいく。いってしまう。
慢性の魔石病には根治的治療が存在しておらず、ゆっくりと長い時間を掛けて治すべき病だとされている。治療薬は時間と安らぎだけだとも。
一方の姑息的治療は十分に認知されている。生えてしまった魔石は定期的なデルアの行使によって除去し、その穴はタイナによって塞がれる。
私の場合、どうだろう。
一度にここまで表れたってことは、おそらくは急性のものであり……これが本当に魔石病であれば、体に負担を掛けないよう何回かに分けてデルアの療術で蒸発させるだけで済む。だけど、残念ながらこれは氷解石のように思う。
魔石とは真逆、氷解石に対してのデルアやタイナは絶対に使ってはいけない魔言だ。……これの除去方法を、私は知らない。そしてこれを除去しない限りは、魔法使いでも見つけない限りは一生このままだ。
「"できかけの魔石"って、魔石病の魔石みたいには除去できないんですか?」
「魔石病……仮面病のことか? 死にかけたりすると顔に魔石ができるやつ。
あれでできる魔石とは違うと思うが、……確かに似てるかもな。
だが言った通りだ。デルアなんて使った日には、お前さん死ぬぞ」
「また死ぬって……。やっぱりこれ、爆発するんですか?」
「あんまり有名じゃねーはずだけど……そ。あんまり雑に扱うと爆発する。
だからまあ、なんつーか……静かに余生を過ごせ。
足だってちゃんとは動かせないだろ。転ぶだけでも命の危機だ」
病気の名前はともかく、言ってることはきっと正しい。
誰かを全面的に信用するなんてこと、私は滅多にしないんだけど……この人の言葉は不思議と信用できるような気がしてる。なんだろう、ちょっとカクっぽいからかな。
……ティナのことチョロインとか言うのやめよ。私もかなりチョロいんじゃなかろうか。
足、か。
確かに感覚はほとんどないし、これを魔力で動かしたところで何かしら不都合が出るのは目に見えてる。
人体に備わるセンサーとは1つ1つは小さなものだが、それらを組み合わせて莫大な情報量を送り出し、脳はそれらを組み合わせて凄まじいまでに解析する。
発現させた魔力であれば、一瞬の接触やその崩壊に関してはそこそこのフィードバックになるが……、発現させてない魔力のフィードバックなんて、人体の前では比べることすら烏滸がましい。
魔力が全く無意味だとは思っていない。しかし補いきれるとは思えない。
ドイ・ゾエロによる強力な感覚鋭化ですら、人体由来のセンサーを活用してるだけにすぎない。センサーを増やすなんて所業は魔術ではほとんど不可能で、闘気の領域だ。
そういう意味じゃ、私の魔力視なんてのはある意味闘気に近いのかな、なんて……思考ですら逃げ出し始めてしまっている。
「さて、今後の話だが……アテはあるか?」
「……いえ」
「ならしばらくはここを使えばいい。一応は俺らの家だ。
ま、元からあんまり使ってねーしな。ちょっと埃っぽいだろ」
優しさなのか、それとも――。
……邪推するのはやめておこう。今はただの好意として受けるべきだ。
実際、私のお金は心許ないんだし。……でも少しくらいは聞いてみたい。
「……どうして?」
「俺はレニーが気に入った。レニーはお前さんを好いてる。じゃあ俺も好いとこうってな。変か?」
それはどう考えても
「変ですよ」
「なら単なる出来心ってやつだ。
どっちにしろ、俺らが心変わりするまでは好きに使えばいい。
明後日には俺もメルナも出るからな。
なんか聞きたいことがあったら今のうちだぞ」
「なら……まずは安全に歩く方法を教えて下さい」
聞きたいことは、たくさんある。
でもまずは、行動範囲を広げるところからだ。
◆◇◆◇◆◇◆
レヴィとメルナは予定通り去っていった。
レヴィとメルナというのはそれぞれイヴとオウトウの名前のことで、ここではそう名乗っているらしい。本名なのかもしれないし、いくつか持ってる名前のうちの1つなのかもしれないけど、まあそれはどうでもいい。
私が使ってるのはオウトウ改めメルナの部屋の方。妙に小物が多いと思ったら、これは彼女の趣味らしい。……悪趣味なものが結構混じってるけど、これは一旦置いておこう。
レヴィの部屋の方はベッドが置いてあるだけで、メルナの部屋とは対照的な、究極のミニマリストって感じだった。……せめてカーテンくらいはつけておいても良いんじゃないかと思ったり。
「んじゃ、行ってくるぜー」
ティナは今日からクエストに復帰するらしい。
レニーはもうしばらく後にすると言ってたけど、ティナ1人では出歩くことすら厳しいはずなので追い出した。
「さて、やりますか」
感覚が無いって言っても、別に筋肉が全く使えなくなったというわけでもなく、大きめの筋肉であれば今もいくつかは動かせる。多分これが「魔人は常にゾエロを使っている」といわれる所以だと思うし、ティナも似たような感覚なのかもしれない。
しかし細かい筋肉となると話は別。小さい筋肉は元々魔力を使って動かすことなんてしていなかったらしく、例えば指なんかは無言を貫いている。
それ以外にも筋肉同士の同調は神経の仕事だったらしく、普通に動かしてるつもりがいつの間にか勝手にひねりが入ってることがある。そして私の頭はこれに気付くのが少し遅れる。
だからって諦めるわけにはいかないけどさ。ティナは杖も買ってきてくれたし。……もちろん、魔術用の杖じゃなくて、松葉杖みたいなのだけど。結構立派な奴貰った。
1番最初の目的地はトイレ。
習慣や個人差なんかである程度の違いはあるけど、最初は2時間に1回くらいは行っとけと言われた。そして魔人の睡眠時間は大体12時間程度。
今も尿意は感じてないけど、それでもいかなくてはならない。感じないからといって溜まっていないわけがないし、それに寝てる間は筋肉を動かすことはできていない。……つまり汚物の処理がある。
昨日1日で体を動かす方法を教え込まれた。何がカクに似てるだ、レヴィはめちゃくちゃ怖い。そしてメルナはもっと怖い。
普通怪我人にはもうちょっと優しくするもんだろ……まあ良いけどさ。変に労られるよりはそっちの方が気が楽だし。
よし、ベッドの端っこから足を下ろしてっと。
「エレス・ゾエロ」
こういう時、自分が魔術師で良かったと思う。予め怪我防止用の魔術を使うことができるし、咄嗟の時も多分なんか出る。まだ咄嗟の場面に出会してないから知らんけど。
転倒した際の怪我防止はもちろんのこと、知らぬ間にぶつけてたりなんかの対策でもあるらしい。
この世界の魔術師はタンスの角に小指をぶつけて悶える現象に対しての対処術を作ってしまったのだ! ……もちろん冗談。ていうか靴脱がないし。
欠点として、エレス・ゾエロは見た目も悪ければ動きも悪い。だってめちゃくちゃ重いのだ。硬化させてないだけまだマシだとはいえ……それでもすっごくおもたい。多分私の体重よりある。
ウィニェルは鎧にならないからダメだけど、リズなら代わりとして使うこともできる。けどまぁ、最初のうちは言われた通りにしておこう。できるようになってから変えればいいだけだ。
……これ、傍から見たら泥沼から這い上がってきた人みたいだなぁ。まあ外に出るわけじゃないけどさ。
私が感覚的に動かせる太ももの筋肉は1種類で、表側にある4つの筋肉にだけに対応してる。裏側と内側の奴は直接命令してあげないと動かせない。
ふくらはぎの方は足底筋以外を動かせている。これより下に動かせる筋肉は残ってないから、私の感覚に対応してるのはここまでだ。
とはいえ魔力による筋肉の操作とは補助的なものにすぎなかったらしく、完璧に動かせるわけではない。あくまで"多少は動かせる"程度。やはり他の筋肉同様個別に命令を送る必要がある。
他の筋肉……つまり1つ1つの筋肉に対しては、この魔術を使う。
「イロドイ・レズド」
発現させている土纏を通して魔力を流し込み、筋肉自体に直接電気信号を送る。
要するに、これは私の第2の神経だ。まあ感覚なんかは残念ながら通っていないけど……ある種の外骨格生物みたいな感じだろうか。
魔力による電気だとしても、筋肉はちゃんと縮んでくれる。ここらへんは前世と変わらないらしい。
……しかし私はドイが苦手だ。めちゃくちゃ苦手だ。それに弱体詞なんてのもほとんど使ったことがなかったし、考えることも多いしで、ていうかドイの制御も大変だしで、もうパニック寸前だ。
昨日メルナに叩き込まれた時には、情報量多すぎて意味分かんなすぎて爆発した。なぜかティナからも色々教わった。というか大先輩ティナ様の説明が存外分かりやすくてびっくりした。
そもそもとして、魔人の前衛連中は無意識レベルでこれを行なっているらしい。……こんだけ色々な処理を同時に行なってるとか、魔人の前衛連中は全員頭おかしいと思う。あいつらをバカだという方がバカだ。
レヴィからはもう1つの方法、筋肉に頼らず完全に魔力だけで体を動かす手段を教わった。こっちの方が楽だとも言われたけど、最終手段だとも。だから今はまだやらない。
杖を両手に持って、慎重にベッドから立ち上がる。
やっぱり傾きの制御は難しく、前後左右に大きく揺れる。
そのたびに魔力を調整して細かく電気を流す。強すぎれば焼ききれてしまいかねないし、かといって弱すぎては意味がない。
両足を地面につけて、膝や股関が変に曲がらないように調整して、気付けば世界が傾いてて。
5秒としないうちに、ベッドに倒れ込むことになってしまった。
後ろ側に傾いた時の対処が特に難しい。
本来なら無意識に体重を前に動かしたり、足首を少しだけ前に傾けたり……意識的に足を後ろに動かしたりと、人体ってのは結構優秀なはず。それに頼り切ってしまっていたせいか、細かいバランスが全く取れない。
咄嗟の時、動かないはずの体を動かそうとしてしまう。まだ体を動かせるものだと思ってしまっている。
もう動かせないのに。
……泣いてる場合じゃないな。そんな暇があったら少しでも体の制御の獲得にあてたほうが良い。
動かさなければ動かさないほど、分かりやすいほどに体は衰える。だからこそレヴィは最終手段だと言っていたし、動かせているうちはこっちにするべきだとも言っていた。それに健康にも良いらしい。
最後のは半分冗談だとしても、それでも言ってることはごもっとも。
さ、まずは座るところから。
ハスアールとスアは同じ語源を持つ言葉です。