七十二話 望める私と望んだ私
2021/06/11 誤字修正(シト・ウィーニ→プート・ウィーニ)
あの魔術は"魔力を食らう"魔術なのだという。
なんでも魔力というのは2種類あるらしく、それらの配分を上手く合わせると互いに消滅するらしいが……俺は専門家じゃないんだ、理解できるわけがない。
魔力封じの魔法陣にも使われているものでもあるらしく、……つまりは魔力を消し去るための魔術であるようだ。それだけ分かれば十分だろう。ただでさえ頭痛がしているのに、これ以上は勘弁してほしい。
「――ってわけよ。感謝するんだな」
「ああ、イヴを連れてきてよかった」
「俺もそうだけど、あいつにさ」
あの感覚が忘れられない。
気が遠くなるほど輝いていた。空気ですら鮮やかに、人の体をもすり抜けて。
俺の見る世界とは違っていた。同じ人間だというのに、同じ世界を見てるとは限らない。
……本来の魔力視を持つアンとは見え方も違うのかもしれない。なら、カクの覚える世界も……いや、ティナと俺ですら、実は全然違うのかもしれない。
もしお互いの体を入れ替えられたとしたら、どれほどの世界が広がっているんだろうか。
「おーい、どした? ボーッとして」
「ん……ああ、魔力酔いって奴らしい」
多分、だが。アンによると魔力切れには2段階あって、アンは初期段階の方をそう呼んでいる。だから多分、だ。
「魔力酔い?」
「魔力使いすぎるとなるんだって。アタシにゃ分からん」
「お前さん、確かに魔力は多いもんな。使い方はアレだが」
「んだよ、魔人が全員魔術師だと思うなよ」
ああ、なるほど、確かに頭に響く。大声は勘弁してもらいたい。
これもまた経験、だろうか。図ったわけではないものの、人を知ることができた。
1歩1歩、進んでいこう。
◆◇◆◇◆◇◆
さて、ここからどうしようか。
大きな音は鳴らなかったはずだし、ということは時間的な余裕がかなりある。
もちろん無為に過ごしてしまえばまた捕まるだろうし……いや、捕まるだけならまだマシか。
……さて、本当にどうしようか。
金目の物を漁る、なんてのも真っ当な選択肢だと思うけど、残念ながら私が持っているのは魔力視であって、鑑識眼ではない。
この魔石がどのくらいで売れるのかなんてのはさすがに職業柄覚えたけど、だからといってアンティークな家具に詳しかったりだとかには繋がらない。そりゃなんとなく「高そうだなぁ」くらいは分かるけど……とにかく、これはなし。
でもまあ服くらいは貰ってもいいだろう。サイズが合わなかったりだとか色々問題はありそうだけど、素っ裸な現状よりかは全然マシになるはず。
ビンゴ。やっぱりこの扉はクローゼットだった。あんまり広くはないし、数も多くはないし、ていうか服以外も入ってるしで選ぶのは大変だけど……さすがに下着は無しだな。しかしノーパンノーブラて。子供かよ。いや子供でもパンツは履くわ。ぐぬぬ。
もんぺみたいにダボッとしてる薄茶色の無地ズボン。それから若草色の特徴らしい特徴のないシャツ。……お、なんか毛皮のクロークみたいなのがある。私が着たら腰丈だけど、あいつなら……つまりケープか。寒いしこれも使おう。
よし、とりあえず服はゲット。じゃあ次は周囲の確認。
カーテンを開けずに外の様子を見れたら良いんだけど、残念ながらガラス窓らしい。つまりは窓までしか透視はできない。
……どうしようか。このまま直接覗いたとして、外に監視員的なのがうろついていたら確実にアウトだ。いくら影になるとはいえ、あいつと私では明らかにシルエットが違う。
では明かりを落とすか? いや、これもこれでどうなんだろう。もしあいつがあんまり明かりを落とさない人間だとしたら、違和感を持たれてしまうかもしれない。……うーむ、でも外を確認しないってのも"なし"だよなぁ。
結局、明かりはそのままにカーテンの隙間から覗き見た。
外に人間らしいものは見えない、というか辺り一帯木々が生い茂っていて地面が見えない。せいぜい右の方に山脈があるかなってくらいだ。一体どこなんだここは。
窓を開ければ魔力視でもっと正確に探知できるはずだけど……さすがになしだな。とりあえず、周囲には特に何も居なさそうってことが重要だ。
それから、月が綺麗に見えていた。
この世界の地球の月であるマルトは、東からではなく西から昇る。空を通過するのに掛かる時間は日によって変わり、ほとんどの日には2回昇り、2ヶ月周期で上下が陰り、1ヶ月周期で暗月が見れる。毎月1日は暗月の日だ。
別にこれはマルトが逆行してるってわけじゃなく、単にティリムの自転よりもマルトの公転の方が速いってだけ。んでそんな速さにも関わらずどっかに行かないってことは、きっとかなり近い軌道を回ってる。火星とフォボスみたいなもんかな。
何度か空を見ていれば、マルトの公転がティリムの自転と3:2で同期していることにも気付く。マルトの1日はティリムでは0.67日でしかない。
マルトは常にこちらに同じ面を向けてもいる。ついでにいうと、真円ではなくちょっと歪んでる。潰れた雫型って感じだから、つまりはそんなに大きい衛星ではなく、自転と公転が同期しているということになる。
これらは前世の知識ベースの話であって、今世と前世での違いの多さを考えるに絶対とは言い切れないけど、想像で楽しむ分には関係無い。そのうちマルトはティリムに落ちるか、あるいは砕けて輪っかにでもなるんだろう。
と月を見て思い出したけど、別にこれは無駄じゃない。
月の見た目と軌道を知っているなら、より正確な日時と位置を算出することができる。
だから"マルトが見えている"というのは重要なのだ。
今は3時前後で、この窓は南向きで、それから西には山脈が見えている。空を見上げるだけで、これだけの情報が手に入る。捕まってからも日付を数えていて良かった。
もちろん、これが絶対に正しいとは限らない。もし私が南半球に……つまり緯度が逆なら方位情報は当てにならないし、経度はズレればズレるほど正確な時間の算出を難しくする。
もしティリムの裏側にテレポートしてるとかならばお手上げだ。そうなったらそれを知るのに時間が掛かる上、もはや周辺情報は陳腐化してしまう。だからこれは考えないことにする。ここは呪人大陸のどこかという前提での話だ。
私の頭の中には、大雑把にではあるものの呪人大陸の地図が入っている。
詳細に覚えてるのはあくまで東側だけだが、ある程度止まりでいいならば呪人大陸の地形は大体覚えている。
まず木々が生い茂っているという時点で、ここらへんが極北・北部地域でないことが分かる。極北には私の知っている"木"は生えていないらしいし、その少し南である北部地域は広大なステップが広がっていると聞く。
つまり、ここはレネット山脈以南の地域だ。
南部地域はピューエル・レネット山脈南側の広大な領域であり、大まかには3つに分けられる。
1つ目である南西地域は、砂漠と湿地というあべこべな組み合わせの地帯で、肥沃な土地は限られている。言い換えるなら木々が生い茂る……なんて表現はあまり似合わない地域であり、また西側に山があったりはしない。
2つ目はフラッピア内海を中心に広がる沿岸地域。開けた土地は少ないが全体的に肥沃であり、木は普通に生えている。今回受けたクエストの目的地である「ファー・ユーヴィンピア」もここにある。でも西側に山があったりはしない。
3つ目はピューエル山脈周辺。南東地域とも呼ばれ、名前は忘れたが2つの大きな川に挟まれた地域。ここの東部なら西側にはピューエル山脈が見えるが、その東部には塩害からかあまり木々は生えていないらしい。だからこれもなし。
残念ながらいうべきか、僥倖というべきか。どちらにせよ、ここは南部でも北部でもないらしい。沿岸地域の北部辺りならギリギリ西側に山脈があってもおかしくはないかもしれないけど、ピンポイントすぎるので一旦置いておく。
つまり、ここは東部地域だということだ。
東部地域はゲーン・ピューエル山脈の東側であり、大まかには2つに分けられる。
1つ目はビネットとも呼ばれる北東地域。ハルマ森の北側を指し示す言葉であり、北にあるくせにそこそこ暖かいらしい地域。
西側にはゲーン・ピューエル山脈が広がっているが、森と呼べるのはサラバ・ダ・インセンビウンの南側にも広がっているジーニャ森くらい。ここである可能性は十分にあるが、本命ではない。
2つ目はエトラとも呼ばれる南東地域。東側に大きく突き出ている半島のほとんどがこちらに属し、やっぱりこっちも細長い。大体はハルマ森の南側という認識でいいらしい。
西側に山が見える森とくれば1番可能性が高い。というのも西ハルマもジーニャ同様ピューエル山脈と接続しているのだ。だからと言うべきか、東ハルマ森よりも西ハルマ森の方が若干強めの魔物が出るらしい。
移動距離を考えても、この"エトラ"という地域である可能性は極めて高いだろう。だからここはエトラ、それも西ハルマ森であると考えてみよう。
ここが西ハルマ森ならば、ほとんどの位置からはピューエル山脈は南南西に見えるはずだ。にも関わらず西に見えているということは、ここが西ハルマ森でもかなりの東部、なんなら森の切れ目の手前辺りである可能性が高い。
つまりここを脱出して北に向かえばエルムニト、南に行けばアルムーア、そして東に進めばキネスティットに辿り着くことができるということになる。
向かうなら、南かな。
北のエルムニトは行ったことがないし、アルマニアットとヘクレットのどちらからも遠い町であるという情報しか持っていない。
東は悪くない選択にも思える。キネスティットには行ったことがあるし、道も少しは覚えている。だけど、なんというか……正直、ヘッケレンには疲れた。嫌な国というイメージで固定化されつつある。
南のアルムーアには行ったことはないが、本来の目的地の1つであるし、ある程度の地理も頭に入っている。そして何よりヘッケレンから脱出できるし、魔人への差別も弱いとか聞くし、ていうかレニー達が私に気付かず向かっている可能性もある。あいつらドジだし。
なんだかんだと理由を付けてみたが、つまりはアルムーアに行きたい。そしてそれを止める理由もほとんどない。
ついでにいうと、ヘッケレンでは行動しづらい。これがアルムーアに行って改善されるとは限らないが、かといって悪化するとも限らない。ま、少なくとも"魔人"としては生きやすいとは聞いている。
……少し考えすぎた。とりあえずここを脱出した後は南に向かい、海が見えた辺りでアルムーアを探すことにしよう。
その後はレニーとティナを探して見つけられたらそこでゴール。ダメならダメで、ファー・ユーヴィンフィアにでも向かってみよう。あののぺっとしたクエスト依頼人――名前は忘れたけど、あそこらへんが手がかりになりそうだし。
大丈夫だ、きっとレニーもティナも無事だろう。悪い可能性ってのは考えちゃうからダメなんだ。考えなければきっとフラグも立てられない。……大丈夫だよね? あの2人、なんだかんだ結構強いし。いやレニーはある意味弱っちいけどさ。
よし、もう十分だろう。捕らぬ狸の皮算用とならないように、次は"狸を撃ち抜く"ことを考えよう。
この建物の中には最低でも"後18人の魔物"が居る。"顧問"が死んだことにはまだ気付いていないだろうけど、だからといって無限に時間があるわけでもない。
扉を抜けると右手側に階段がある。その階段は途中で180度曲がっていて、つまりは1階から2階への視線は通っていない。
この部屋の右隣にはもう1つの部屋があり、向かい側には3つの部屋がある。3つといったが1番右のものはトイレか清掃用具入れか、どちらにせよ他とは雰囲気が違っていたし、なんかちょっと汚らしい。
つまり、この階には未探索の部屋が3つ、それから小さな部屋が1つということになる。といっても隣の部屋は無人のようで、耳を当てても特に音は聞こえてこない。
防音対策が施されている……なんて可能性も考えてみたが、少なくとも変な魔力は流れていない。多分、本当に無人なんだろう。或いは単に寝てる可能性もあるが、どちらにせよ今は敵では可能性が高い。
残る部屋は後2つ。正面の2つの部屋を掃除し終えれば、無事に2階はクリアだ。
ほぼほぼ安全だとは思うが、とはいえ確実な安全だとは言い切れない。だからまずは隣の部屋を覗いてみよう。
しかしさすがに壁は透視できないし、廊下に出るのも危険だ。だからここは。
(風よ、溶かせ)
シュ・プート・ウィーニ、またはシュ・ウィーニとプート・プート。
シュとプートは本来相性が悪く、1つの術に同時に込めるのはほとんど無理……なはずなのだが、無詠唱では問題なく行なえる。詠唱の際には魔言同士の接続が一次元的なのに対して、無詠唱での接続は二次元的なのが原因だろうか。
「魔言の接続が二次元的」だなんてのはあくまで私のイメージでしかないんだけどさ。でも魔術ってのはイメージが重要なのだ。だから二次元接続をイメージできてる以上、私の無詠唱に"順"という制限は掛からない。シュとプートを重複して発現させればいいだけだし。
ま、私の無詠唱は魔言、というか真名ベースだから"数"という制限を突破することはできないし、"魔法の魔術"ってやつにも届きそうにはないけども。……ロニーが使ってた「魔言に囚われない魔術」のことを魔法の魔術と呼ぶんだけど、それはまあ後回しだ。
うだうだと考えているうち、壁の一部が溶け始めた。
考えるのにリソースを割いてしまった分、発現具合はあまりよくない。もちろん私とプート・ウィーニの相性が悪いというのもあるかもしれないが……さっきは考えながらも綺麗に発現できてたし、何が違うんだろ。
まあいいや、開いた穴から隣を覗いてみて……うん、真っ暗だし、特に誰かが寝ているなんてこともない。ほとんど確実な安全だろう。
残るは2部屋。ここから先は廊下を渡らなきゃいけないし、それに向かい側の部屋には誰かが居ることを知っている。この部屋に連れられる最中に音が聞こえてきたんだ。
さて、どうしようか。
どうしようかというのは、殺すか隠れるかということだ。
正面切っての戦闘は魔術師である以上分が悪い。しかし正面からでなければ……魔力が尽きない限り、私は強い。
だからバレないよう、1人1人確実に処理をしていく。これが前者だけど、リスクは高い。途中で1人にでも声を上げられた時点で終わりだ。
こっちを選ぶ利点としては、後方の安全を確保できる点が挙げられる。一度通った道にはもう敵は居ないのだ。最悪、2階に駆け上がってそのままガラスをぶち破れば多分逃げられる。
後者は文字通り。バレないように地下まで進んで、もう1人のアンを確保して、余裕があれば他の牢も解き放って、そのまま脱出するというもの。
やっぱりリスクは十分にある。後方の安全を確保できない上に、途中で1人にでも……これは一緒だな。つまりは安全を確保できるかできないかの差がある。
こっちを選ぶ利点としては、正面の部屋で致している奴なんかをわざわざ処理に出向かずに済むこと。単純な話、短時間で済む。
……地下には魔力が届かないんだよね。ってことは、地下での戦闘は考えたくない。前者を選ぶのであれば、地上階を掃除した後は敵をおびき寄せる必要がある。
後者を選んだ場合、どこに潜むかも分からない敵に怯え続ける必要がある。……いやこれは前者でもある程度は存在するか。まあこっちの方が数は圧倒的だけども。
地下で見かけていた人間は8人。そのうち案内人以外を地上階で見かけていない以上、彼らはほとんど"地下専"ってことだ。つまり敵は最低でも25人と。……多いな。まあいいけどさ。
どちらにせよ、ある程度はバレずに動く必要がある。姿を消す魔術……地点になら掛けられるけど、個人に掛けるってのは無理なんだよね、あれ。音の方なら掛けられるのに、ちょっと不便だ。
それに、地下に入ってしまえば魔術はほとんど使えない。もちろん、案内人を見かけたらあのアクセサリーを奪うつもりではあるけど、本当に効果があるのかは分からない。いざ地下に突撃して「魔術使えませんでした!」なんてのはテヘペロじゃあ済まされない。
……地下に関しては一旦置いておこう。今優先して考えるべきは地上階だ。それはつまり、どちらを選択するかということだが――。
◆◇◆◇◆◇◆
ああ、疲れた。
本当に疲れた。ここまで魔力が枯渇してるのは虎を運んだ時以来かもしれない。
そして今も魔力を消費し続けている。発現ではなく維持な分消耗は軽いけど、それでも後3時間が限界といったところ。
まだ魔術は発現させるはずだから、実際には20分とか……そこらへんになるかな。うわ、絶対厳しい。あいつの魔石を削っておいたほうがいいのかもしれない。
結局、私は1番目を選択した。
1人1人処理をするだなんてまだるっこしい方法ではないが、とはいえ選んだのは皆殺し。だから1番目だ。
この建物に生き残りがどれくらい居るのかは分からないが、今のところそれらしい気配は感じない。
闘気が使えない私だが、それでも例えば足音だったり、呼吸音だったり、生物特有の魔力の流れだったり……別に闘気が使えなくったって、探る手段は多分にある。
っと、これで9体目……いや、これ足が4本生えてるな? なら9体目と3人目だ。うわーすごい格好。……この死体は探る必要無いかな、服着てないし。そしてもう1人の方は――
「ごめんね」
この顔には見覚えがある。私とは別の牢だったが、同じく地下に押し込められていた人のはずだ。
だから、彼女はただの被害者だ。私の勝手で殺してしまった。だからごめんなさいと言う。
ま、別に死体に喋ったって意味なんてないんだけどさ。これは単なる私の問題だ。いただきますとごちそうさまみたいなもので、言う癖を付けておかないといざというときに言い忘れる可能性がある。
……でもさすがに喋ったことはないし、名前なんてのも当然知らない。この死体もここに放置でいいかな。あ、ダガーが置いてある。これは護身用に持っていこう。
カチカチに凍りついた死体とはさようなら。
先程拾ったダガーで手の暇を潰しつつ、建物の探索を続ける。
お目当ては例のアクセサリーだ。多分地下にはこの魔術は及んでないだろうし、一応入手しておきたい。
それからもう1つは魔法陣。既に3つ潰したが、後1つか2つくらい残っているらしい。まだ微妙に魔術が使いづらい。
私が使った魔術は単純で、しかし強力なあの術だ。本来予定していた魔術は使えなかったが、代わりの術をすぐに構築できてよかった。
◆◇◆◇◆◇◆
よし、やりますか。
悩んでても仕方ない。そんな事に無駄な時間を裂きたくないし、とりあえずやってみて、結果を見てから後悔しようじゃないか。
アン達には被害は及ばないと思うけど、もし死んじゃってたらごめんなさいをしよう。ちゃんと焼いて、骨も砕いて、そして遺石は届けてあげよう。彼女らは私の敵ではないのだから。
ふぅ。
ちゃんと発現できるかな。この規模の魔術を使うのは久々だ。ダンジョンで使った一帯凍結よりも消費魔力は絶対に多い。気絶しないと良いんだけど。
ここは素直に詠唱しよう。さて、結構な長さだ。深呼吸深呼吸。……すぅ、はぁ。
イメージするのは録石で読んだ高風牢。球体状に魔力を広げていくが、しかし内側に魔力は満たさない、あの独特の魔法。少し難しい調整だが、だからといって投げる理由にはならない。
縦に少しだけ伸ばしてから、私の魔力を広げていく。1m2、2m2、5m2、10m2、20m2、40m2、80m2、160m2、240m2……ああ、限界だ。これ以上広げると霧散してしまいそうだ。でもこれじゃ、さすがに狭すぎる。
……諦めるか。今の練度じゃまだ使えない。魔力領域の限界は以前よりも少し伸びてるけど、それでもここらへんが限界だ。……悔しいけど、賭けに出るのは好きじゃない。
うーん、どうしよう。
この建物自体を真空パックみたいに減圧する予定だったんだけど……ま、無理なものは無理なのだから仕方がない。気付かれてしまうのを前提で、凍結に切り替えるとするか。
「エル・フィール・クニード」
まずは展開した魔力を全て水に変換する。
一旦魔力を展開する必要がある分、フィールの実行には時間が掛かる。レンズよりも更に掛かる。
しかし発現さえできれば比類のないほどに強力な魔言だ。
そして私は気付かれていない。ならフィールを使わない理由が見当たらない。
「ゲシュ・プート・リチ」
あまり得意ではないリチだが、"火"以外のイメージでなら十分に扱える。
この詠唱は熱を加えるものなのだから、苦手だとか考える必要はない。ひたすらにエルの温度を挙げていく。
ああ、なんだか部屋の外が騒がしい。バケツをひっくり返したような、が比喩ではないような水が降ってきて、ついでにその水がなんか湯気を上げている。騒がない方がおかしいか。
でも喧騒は足元からしか聞こえてこない。元凶が2階に居るとは考えもしていないようだ。魔術師の牢に1人居ないことに気付かないだなんて……とは言わないけどさ。そっちのほうが都合がいいし。
よし、そろそろかな。
水は十分に蒸発して、周囲には私の魔力が色濃く漂っている。ここまでくれば魔力の発信源を見つけることは難しいだろうし、ついでに領域を展開する魔力の節約にもなる。
「プート・リズ・フィール」
――ああ、なるほど。
領域展開に魔力を節約できたと思ったが、甘かった。
それ以上に範囲を広げすぎた。
意識、飛びそう。
◆◇◆◇◆◇◆
気分が悪いし、ていうか邪魔だし、魔力も無駄になるし……というわけで例のアクセサリーを探しつつ、おそらく最後の魔法陣があるだろう部屋に向かっていた。
私の鼓動と呼吸、それから足音だけが響いてた。
音速というのは一定ではない。
物体を伝う都合上、その分子がより振動していた方が、より速く伝わることになる。
雑に言うと、暑いと音は高くなり、速く伝わり、一瞬で過ぎ去る。寒いと音は低くなり、遅く伝わり、時間を掛けて通過する。
といってもこの建物の温度は絶対零度とは程遠い程度の温度だし、そもそも温度で生まれる差なんてのは本当に微々たるもの。聞き分けられるなら調律師にでもなるべきで、私にはさっぱり分からない。
だから、物音に気付けたのは温度じゃない。単に他に音を発するものがなかっただけだ。
ドアを開けようと触れた瞬間、ノブ伝いに音が聞こえた。
ドアの向こうに誰かが居る。そう気付けたのは本当に単なる幸運だ。
でも油断してた。それまで他に音は聞こえていなかったし、誰も生き残ってはいないんだろうなと思いこんでいた。
やっぱり私は詰めが甘い。
反射的に手を引いたが、それと同時にドアが押し倒された。
咄嗟のことに、私は「蝶番は何をしているんだ」なんてどうでもいいことを考えてしまった。
私はこんな時のためにゾエロを使っていたわけだが……ドイ系でないとしても、ゾエロには多少感覚を強化する効果がある。つまりいつもより痛い。
居ないはずの人間が居て、突然扉が倒れてきて、全身に強い痛みが走る。
無防備だ。
現在私は馬乗りになられていて、ついでに何度も殴られている。
こんなにボコボコと殴られるのはいつ以来だろうか。少なくとも今世では該当する記憶がない。なのになんとなく慣れている感じがするのは、前世での体験からだろうか。
こう冷静に考えられるのは、自分が少しだけ遠いから。
ただでさえ魔力が足りなくて意識が遠いってのに、何度も何度も殴られたせいでもうよく分からないことになっている。
自分を眺めているような感覚だ。
腕は、折れた。
乗られると同時に足で踏み折られた。両腕だ。
よく分からない。でもとりあえず痛い。
足は、感覚がない。
ということは背骨とかそこら辺も折れてるってことなんだろうか。
よく分からない。でもとりあえず痛くはない。
息は、できる。
でもそれだけ。声を出す余裕はない。
口中に溜まる血が流れ込まないようにするので手一杯だ。この体勢じゃちゃんと呼吸するのも難しい。
頭は、動く。
そうだ。こんなことを考えてる暇はない。
この暴漢を処理しなければ。最適な魔術を考えなければ。
魔術?
魔術が効くとは思えない。
この男だけが凍ってない。この男だけが生きている。
右腕には例のアクセサリー。やっぱり鍵はこれだった。
あ。
なんだろう、息ができなくなった。
理由は分からない。でももう酸素が確保できない。
咽るような感覚がある。血が気道に入っちゃったのかもしれない。
少しだけ右腕を動かしてみる。
肘から先は普通に動く。当然だ。折られたのは上腕骨なのだから。
でもその時にダガーを離してしまった。少し伸ばせば届きそうなのに、その数cmが異様に遠い。
私に乗る男を見てみる。
まあ、もうほとんど目は見えてないんだけど。
こんだけ私を殴りつけているというにも関わらず、特に感情らしい感情は感じ取れない。
なのにさっきから変な魔力が漂ってる。
ああ、もう限界だ。
もう十分戦ったでしょ。最期の戦果としては十分でしょ。
無理矢理に起き続けてるだけだもん。
私の意識なんてのは、もはや風前の灯でしかない。
少しでも気を抜けば、すぐにでも私は消えてしまうだろう。
そうしてしまえばきっと楽だ。多分、もう痛みも感じない。
反省会は、次の私にでも押し付けて――
「エル・ウズド・ダン!」
「がっ! ハッげほっ」
突然、私に乗っていた男が吹き飛んだ。
次の瞬間、思考を歪められるほどにひどく咽せ返った。
体は必死に酸素を取り込もうとしていた。
私は虚ろだったのに。私は諦めていたのに。
だのに私の体は諦めてない。今もまだ捥がいてる。
なら私が諦めたのは、それは体に失礼だ。
筋の通る話ではない。道理に適わない。
ありがとう、ごめんね。私ももう少しだけ頑張るから。
「アン!」
私の名を叫ぶ声。
何度も何度も聞いた声。
カクよりも低い声。
少し泣きそうになってる声。
こんなひどい姿なのに、私だと分かってくれたらしい。
でも、いつもの盾はどこに行ったの?
「エ、ニー」
呼吸を整え、必死に音を紡いでみた。
それなのに、上手く喋れた気がしない。口の中もボロボロだ。