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野田さんの話  作者: おーの
2/2

5月

 何日後に行くかが問題だった。

 一週間後ならちょうどいいだろうか、少し早いだろうか。というか意識しすぎだろうか。早かろうがなんだろうがなんとも思われてない可能性の方がイチバン高い。むしろそうに決まっている。でもひょっとするとひょっとするかもしれないし。

 などと考えていると仕事が忙しくて休みもゆっくり休めなかった。

 行けないとなると早く行きたくなってくる。水曜日の研修が終わったところで、どうも次の休みも潰れそうな気配だったのでちょっと早起きして出勤前に寄ることにした。10時に行って、最悪12時に出ればとりあえず間に合う。いい顔はされないが。仕事をなるべく減らしておくために水曜の夜は最後まで残って働いた。

「開いてない可能性もあるよなあ」

 朝9時に起きたところで気が付いた。定休日も営業時間も知らない。

「まあそのときはそのときか。早く行って仕事しとけばいいし」

 10時に着いてみると営業中だった。入るとカウンターには違う女性が立っていた。

「いらっしゃいませ」

 30代半ばくらいの、眼鏡をかけた髪の長い女性だった。一瞬立ちすくみそうになったが、ここで踵を返して出ていくわけにもいかず、前回と同じ席に座った。

 何でそこまで気が回らないかなおれは。ちょっと考えれば分かることだから余計にげんなりした。

彼女が大学生だとしたら、平日の午前中にいるとは考えにくい。そりゃそうだ。

「ちょっと一休み、ですか?」

 店長の風格があるようにも見える店員さんが、水を出してくれた。「営業のお仕事とか」

 スーツ姿だから聞いているらしい。いきなり踏み込んでくる人だなと思ったが、異性だからか人柄のせいか、いやな感じはしなかった。

「いえいえ、これから出勤なんですよ」

「そうなんですか、じゃあ夜遅くまで大変じゃないですか?」

「そうなんですよー。いつも日付変わるまで仕事おわんなかったりして」

「塾の先生とか」

「せ、あ、そうです。そのとおりです。え、よく分かりましたね」

「なんとなく雰囲気ですけど。仲のいい友達も昔先生やってたんですよ。今正解って言いかけました?」

 ばれましたか、と笑う。なんだか気持ちのいい人だなと思った。店員さんはカウンターに戻ったが、まだお喋りする姿勢だった。

「先生、子どもに好かれそうですね。合ってると思います」

「はは、ありがとうございます」

 子どもよりも、オトナに好かれなくて困ってるんだけど。

「じゃあ今日は、急ぎ目で食事したい、とか?」

「あー、いえ、そういうわけじゃないんですけど。ちょっとゆっくりしようかなと」

「じゃあコーヒーですか」

「時間かかる方で、お願いします」

 あ、という顔になった。

「いつもご利用ありがとうございます」

 ちょっと芝居がかった感じも出しつつ、笑顔に押しつけがましさがない。独特の愛嬌がある人だった。

 このあいだの店員さんに会いに来ました、くらいの冗談(実際は本音)を言っても笑って許してくれたかもしれない。素敵な店員さんばかりなのでまた来ちゃいました、とか。両方を持ちあがるのであれば、社交辞令みたいなものでいやらしくはない、んじゃないかな。そう言っておけばあの子の話も聞けたかもしれない。言えばよかったな。もう一回タイミングがあったら言おう。言っても自然なタイミングが、奇跡的に訪れたら。

 こういうところがダメなんだよな、と思う。ふと職場のことを思い出して憂鬱になりそうだった。

 今回のは、まあ言わなくてもいいことで、言わなくて正解かもしれない話だが、言うべきことを言えたはずなのに言えない、そんなことばかりだ。後になって後悔するけど取り返すこともできなくて、ますます上手く話せなくなる。まるで、溜まった言葉がどんどん口を塞いでしまうかのように。

「行きたくないなー、仕事」

 思わず口に出してしまった、わけではなかった。

「ていう顔してますよ」

 店員さんの目線は、もうこっちを向いてなかった。はは。よく分かりますね、ほんとに。

「いやー…」

 なんて答えようかな。今のは、ちょっとほっといてほしかったな。でも、上手いこと返したいような気もするし。いやー、違うんですよ、ちょっと気になってる子に会いたい気持ちで切なくなってたんですよ。おもしろくないな。

「行くたく、ないんですよねー…」

 笑って、冗談めかしていうつもりが、まったくできなかった。口が引きつっていた。重くて暗い溜息が言葉の後をついて出て行った。

 はじめて会って、ちょっと喋っただけの人の前で、何言ってんだろうね。

 店員さんは、何も答えなかった。表情は見なかった。表情を見られたくないから見なかった。

 いつの間にか、コーヒーの香りがふわりと漂って、いい匂いだった。

 冷蔵庫の扉を開けて、すぐバタンと閉じる音が聞こえた。

「これ…」

 店員さんが、丸いチョコが3粒乗った小さい器をテーブルに持ってきた。

「よかったら、どうぞ…。サービスです」

「え、いや」

 背もたれに預けていた体を不意に起こす。そんな気を遣わなくても、と思ったが、断るのも変だった。

「すいません、なんだか」

 手を差し出して受け取った。店員さんの手が離れなかった。

「えっと」

「これは私の楽しみだからと思って、誰にも取られないように取っておいたんですけど、食べてください。人にあげたくないくらいおいしいんですけど、好きなんですけど」

「ええ! いやいや、いいですよ!」

「いいんです、食べてください。どうぞ食べてください」

 二人で笑った。

「聞かなくていいこと聞きました。ほんとごめんなさいね」言いながらカウンターに帰っていった。

「いえ、気にしないでください。じゃあ、すいません、いただきます」

 チョコは確かにおしかった。

「すごいおいしいですね、ほんとに」

 店員さんは手を動かしたままただ笑って応えた。そういえばさっきからカラカラと音がしている。

「ありがとうございます」2粒目を口にする。

「…1粒くらい、返してくれてもいいのよ」

 声を上げて笑った。

 カウンターまで持っていく。

「どうぞ。食べてください」

「ありがとう」

 にっこり笑って、本当に食べた。

「なんだか、素敵な店員さんばかりですね」今がタイミングだと気づいた。「また来ます」

 女性に向かって素敵なんて言い慣れないのでドキドキした。

「ふみちゃん、かわいいでしょ」

 今気づかれたにしてはあまりに切り返しが早かった。

「はい、かわいいです」勢いで正直だった。「ふみさん、て言うんですか?」

「ふみかちゃんだけどね」

「なんでもお見通しですね、店長さんは」

「今は二人しかいないしね。私とふみちゃんと」

 店長と言われて否定しなかった。

「お客さんは?」

「ぼくですか?」

「お名前、なんていうんですか」

「あ、すみません、野田です」

「野田さん最初、ここ入ったとき、私見て一瞬帰ろうとしたでしょ」

 距離の近さが不思議と心地よかった。

 時間のかかるコーヒーは、生豆を煎るところから淹れているということだった。よく分からないけど、気分的にはとてもおいしかった。たしかにふみちゃんの言う通りだった。

「ごちそうさまです」

「いってらっしゃい」

「はい。行ってきます」

「一度、夜に来ませんか?」

「ここですか?」

「そう、ときどきだけど、夜はお酒を出してて、えーと、次は金曜かな」

「仕事のある日は、早くても11時くらいになっちゃうんですよね、夜来るとしたら」

「そう、残念。日曜は休み?」

「はい」

「じゃあ、気が向いたら次の日曜にでも。話し相手くらいは、いるはずだから」



「ほんとに来てくれたんですね!」

 と言って迎えてくれたのは店長ではなく、ふみちゃんだった。それだけで、迷ったけど来てよかったと思った。店内には、10人以上のお客さんがいた。

「こんばんは。えーと、ふみかさん」

「どうぞ、座ってください」

 入り口近くのカウンターに背の高い椅子があった。

「来るかもしれないって古谷さんから聞いてました。あ、店長のことです。何飲みますか? 一杯目はサービスしていいよって言われてますんで」

「え、ほんとですか。ありがとうございます。じゃあ、ビール、かな」

 ふみちゃんが口調が、饒舌というかちょっとあわただしく感じた。テンション高め? ぼくが来たから、とはさすがに思わないけど。それより名前を呼んでみたのをスルーされたのが軽くショックだった。けっこう勇気要ったんだけど。

 カウンターの前と、テーブルの周りに椅子が追加されている。自分以外にお客さんが座っているところは、そういえば初めて見た。

「どうぞ」

「いただきます」

 店長の顔は、探してみたが見当たらなかった。

 三分の一ほど飲んだビールグラスを置いたところで、すでに会話がなかった。意識しすぎて何を話せばいいか分からない。

「店長さんは、今日はいないんですか?」

「今は、奥で料理中です」

「食べ物、頼めるんだ」

「はい、今は注文できませんけど」

「へえ…。そう、なんだ」

 なんでだろ。

 ちょっと待ってみたが、説明はなかった。

 ものすごく食べ物を頼みたがっていると思われるのもなんなので聞けなかった。

 そうしてみると、会話が続かずに黙りがちな二人になりそうだったのでとりあえず口を動かした。

「じゃあ、何か、おつまみないですか」

「あ、すみません、ちょっと取って来ますね」

 そう言うとふみちゃんは食器棚から皿を一枚出し、カウンターを出てテーブルの上の皿からあれこれとつかんで回った。

「え、ちょっと…」

 聞こえもしないのについ声と手が出た。まさかお客さんのを奪ってくるとは。

「もらって行きまーす」とふみちゃん。

「はいよー」と振り向きもしない男性。

戻ってくると皿には何種類かのおつまみやお菓子が乗っていた。あからさまにチーズ率が高かった。

「お客さんじゃなかったの?」

「え、なんですか?」

「いや、取って来ちゃって、よかったの」

「あー」6Pチーズの包みをはがすふみちゃん。「大丈夫ですよ。みなさん知り合いというか、身内みたいな、いや親戚とかじゃないんですけど。まあ仲いいんで、大丈夫です」

 自分だけよそ者であると知った。へえ、そうなんだ。それはちょっと聞いてないな、という気持ちになった。

このままふみちゃんが相手してくれるならいいけど、輪に入るみたいな展開はちょっと遠慮したかった。

「いつもこうやって集まるの?」

「そうですねー」糸を一本一本ひきはがすようにチーズをさくふみちゃん。「ときどきだったり、たまーにだったりですね。いつって決まってるわけじゃないんですけど、おーたさんが帰ってきたときに」

「太田さん?」

「はい、おーたさんです」

「へえ…。そっか」

 何者なんだろう。

 ちょっと待ってみたが、説明はなかった。

 紹介しますよ、とか言われるのも困るので聞けなかった。

「チーズ好きなんだね」

「そうなんですよー!」えへへ、といった感じの屈託のない笑顔だった。どういう子なのかちょっと分かってきたような気がした。

「チーズって」

「ぎょうざできたよー」

 店長さんが大きな皿を持って現れた。奥のテーブルの上に置かれる。ふみちゃんが椅子が降りてそっちへ向かう。手前のテーブルに座っていた二、三人も餃子を取りに立ち上がった。

「あら」店長さんがこちらに気づいた。「野田さん、こんばんは。来てくれてありがとう」

 ふみちゃんはどうやら餃子を取りに行ったわけではないらしかった。店長さんのそばに立って声をかけるタイミングを待っている。

「いえ、こちらこそ。ごちそうさまです」

「いいえー。あ、お願いね」ふみちゃんが何ごとかを言って店長さんの横を通り抜けて行った。「じゃあ、野田さんにも手伝ってもらおうかな」

「え?」じゃあ?

「こっちこっち」とまた奥へ消えていく店長さん。

 ビールをどうするか一瞬迷ったが、もったいないのでとりあえず飲んだ。全部は飲みきれなかった。

 テーブルと椅子をすり抜けて奥へ向かう。途中、女性一人とだけ目があった。こんばんは、といった感じで、目だけで挨拶された。餃子を食べていた。会釈して返す。思った以上にみんなこちらに無関心だった。

 奥には6畳ほどの和室があった。ふみちゃんがすでに座っていて、テーブルの上で餃子を包んでいた。靴を脱いで上がると、店長さんが隣の台所から現れた。手に皮の乗った皿を持っていた。

「いきなりこんなこと手伝わせて、悪かったかな」と笑いながら店長。

「悪いよ」台所の方から声が飛んできた。女性の声だった。

「えー、いいじゃない。楽しいでしょ」

「はい、大丈夫です」勢いで適当だった。

「ほらあ。さすが、野田くん」言いながら台所に消えていく店長。

「いやだったら帰っていいのよー」

「ゆきちゃん、それ逆にちょっと冷たい」

「え、うそ。どうしよ。手伝ってくれたら餃子食べられるよー、おいしいよー。たぶん」

「野田さん、こちらにどうぞ」

 ふみちゃんが指してくれたところに座る。餃子を包むのは初めてだった。見様見真似でとりあえずやってみる。

「ふみちゃん、めっちゃ上手だね」

「ありがとうございます。たくさんやってるんで」

「早いね、しかも」

「こう、片側だけ折りたたむんです。こんな、感じ、です」

「どうも、はじめましてー」女性が顔だけをのぞかせる。「太田です」

「あ、はじめまして。なんだか、お邪魔してます」

 この人が太田さんか。年齢は店長さんと同じくらいに見えた。

「すみません、手伝ってもらって。よろしくお願いしますね」と言って太田さんは消えて行った。

「野田さん」とふみちゃん。

「はい」

「チーズって万能ですよね」

「え?」

「何に入れても合いますよね」

「あ、そうですね」

 さっきの話の続きだった。

よく、見ると、いつの間にかテーブルの上にはとろけるチーズの袋があった。タネにチーズを加えて餃子を包んでいる。

「それいいね」

「ですよね!」

「おいしいね」

「間違いないですね!」

「なんにでも入れたくなるね、チーズ」

「そうなんですよー」とうれしそうにふみちゃん。「でも高いんで、やっぱり作るしかないなって思うんですけど、でも低温殺菌の牛乳も高いなーってなって」

「そうなんだー」よくは分からない。

「そうすると牛飼いたくなっちゃいますよね」

「牛かー。それはすごいねー」ちょっと変な子だな、とは思った。

 どうにか包んでいるうちに皿がいっぱいになった。

「ゆきこさん、これお願いしまーす」ふみちゃんが立ち上がって持っていく。

「はーい」と、おそらく太田さんの方が受け取った。

「じゃあもう一回お願いしまーす」新しい皿を持って戻ってきた。

「できたよー」焼きあがった餃子を持って店の方へ行った店長さんの声が聞こえる。

「どうも、はじめましてー」戻ってきたのは男性だった。

「あ、はじめまして」立ちかけて、中途半端に腰を浮かせたところで頭を下げた。

「太田です」と言ったので、「野田です」と返した。

「お邪魔してます」

太田さんはどうやら夫婦らしかった。

「すみません、手伝ってもらっちゃって。よろしくお願いしますね」

 夫婦というのはやはり似てくるのだろうか。

「ふみちゃん相変わらずうまいなー」

「たくさん作ってますからー」

「おれたくさん作ってもそんな上手にならないよ」

 店長さんが帰ってきた。

「じゃ、よろしくお願いします」入れ替わるように太田さんが戻っていった。

「餃子の王将とか?」

「え? 何ですか?」首をかしげるふみちゃん。

「バイトで餃子たくさん作ってるとか?」

「ああ、違いますよ。太田さんちでよく餃子焼くんですよ」

「あー、そうなんだ」

「おいしいですよ。皮が」

「皮が」

「ふみちゃーん、ありがとー」太田ゆきこさん(推定)の声。「でも中身はあんまりおいしくないみたいでごめんねー」

「おいしいです! 特に! 皮が!」

「食べる?」店長さんが台所から小さめの皿を持ってきた。「ていうか、食べてください。どうぞ」

 川がもちもちしておいしかった。

「あ、めっちゃおいしいです」

「皮が?」太田さんと店長さん。

 みんなで笑った。

 楽しい、とだけは言わないように気を付けた。


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