ー 3 -(織上)
昇降口から、すぐ近く。まるで生徒の出入りを見張るように存在する職員室の扉へと手をかける。汚れ1つないその扉は、奏が力を込めるより先に向こう側からガラリと開かれた。
「うわっ」
「うお……あー、なんだ奏かよ」
突然扉が開いた奏も驚いたが、扉を開けた先に人がいた相手のほうも相当驚いてる様子を見せた。
アメシストのような瞳が奏を一瞥して、右へ左へとさ迷う。ぴょこりと猫耳を模した帽子を被った若い男は、目を丸くしたあと大して興味もないように嘆息した。
奏よりも15cm以上低い背丈の彼は、不思議部顧問にして国語及び近接武器担当教員。猫山雪汰である。じゃらりと鎖を垂らしたパンクな格好に、ややもすれば高校生にすら見えそうな教師であるが、こう見えてもうすぐ30代も後半に差し掛かろうというのだから驚きだ。
目の前に奏がいるため動くに動けないでいる雪汰は、上目使いに奏に視線を向ける。
「帰んねーの?」
「あ、部室の鍵を返しにきたんすけど……」
「あーはいはい、確かに返されましたー。じゃああとは俺が戻しとくからさっさと帰れよー」
ひらひらと手を振られ、奏が曖昧に頷いて道を開けるために動くと、雪汰は鍵を乱雑にポケットへ突っ込んで歩き出した。
「そんじゃ、俺は宵斗……先生を探しに行かなきゃなんねーから。じゃーね」
奏の脳裏に、雪汰と腐れ縁の仲だという英語教師の姿が思い浮かぶ。いつだったか中庭で寝ているのを見たことがあった。
自分よりも小さい背中に浅く頭を下げて、奏は足早に帰路についた。
当然のことながら、孤島に位置するこの学園の生徒は皆寮生活である。校舎を出て左へ行けば教員寮、右へ行けば奏の目指す生徒寮だ。生徒寮は3階建てで、食堂を中心に女子寮と男子寮に分かれている。
3階にある自分の部屋の扉を開けて、奏は深くため息を吐いた。風呂やトイレへと続く扉がある短い廊下を歩き、奥にある部屋へ入る。部屋の中には左右対称にベッドと机が置いてあり、奏は向かって右側のベッドへと鞄を投げた。
そして誰もいない左へのベッドへと視線を向ける。
「…………は?」
無人であるはずのそのベッドに、ベージュのカーディガンを羽織った男が腰掛けていた。窓から差し込む夕焼けの光を受けて、男の茶髪がオレンジ色に輝く。
そいつはぼんやりとどこかを見つめていて、奏が入ってきたことには気がついていないようだ。
見覚えのないその男に、奏は静かに首を傾げる。あの、と控えめに声をかけると男のまんまるな瞳が奏を捉えて細くなった。どうやら微笑んだらしい。
「あ、おかえりなさい」
「……ただいま? え、いや……? 誰、っすか」
「あれ、僕のこと知りませんか? 僕は君のこと知ってるんだけどね!」
男は跳ねるように立ち上がると、ゆっくりと奏に近付いてきた。その顔から、微笑みは消えない。揺らがない。
「僕、2年B組の飯村勇気といいます。今はかくれんぼ中なんです、ちょっとだけ隠れさせてくださいね?」
「えっあっはい……?」
ほぼ反射的に頷いた奏に、勇気は満足に口元を綻ばせた。とはいえ、彼の顔にはデフォルトで微笑みが浮かんでおり、その表情の変化は微々たるものである。
奏の身長が平均より高いせいもあるが、目の前にいる先輩は自分よりも10cmほど低い。だというのに、彼からは不思議な威圧感が滲み出ている。
自然と強ばるの感じながら、奏は不自然に勇気から視線を逸らした。
気にした様子もない勇気は、また先程と同じくベッドへと腰掛ける。その瞳が、無人のベッドの上に置かれた埃を被ったブラシや鞄、その鞄から飛び出している教科書を捉えた。
教科書に記された名前は『山城早月』
「……お部屋の前の表札には如月くんの名前しかなかったはずですけど、この山城くん? というは誰でしょう」
初対面の人間と2人きりという気まずさに、逃げ出そうとしていた奏は、勇気の言葉に錆び付いたように動きを止めた。ひゅっと息が詰まる。
パクパクと口を動かしてみるものの、奏の口からは音が漏れることはない。どうにか視線だけを動かせば、変わらぬ優しげな笑みの勇気が見えた。
「彼の荷物を置いたままにしても、彼が戻ってくることはありませんよ」
部屋の空気に溶けていくようなひっそりとした勇気の声。それをかき消すように大きな音をたてて部屋の扉が開いた。
勇気は初めて嬉しそうに目を輝かせると、勢いよく立ち上がる。「見つかっちゃった、もう行かなきゃ」という彼の目は奏へと向かない。
他に誰もいなくなった1人の部屋で、奏はふらふらと無人のベッドへ近づき崩れ落ちた。聞こえないはずの声が聞こえる。おっとりとした声が、奏を呼ぶ。
「早月……」
静寂に包まれた部屋に、奏の苦しそうな呼吸音だけが残った。