神に選ばれた聖女
神殿の最奥にある大聖堂には、静かな緊張感が漂っていた。床一面に描かれた巨大な魔法陣を囲むように、白い法衣をまとった神官たちが並ぶ。
その場に立つことを許されているのは、ごく限られた者だけだった。
聖女召喚の儀式は、この国でも最高機密とされている。
儀式に参加できるのは神官長をはじめとする一部の上級神官のみ。召喚された聖女のお世話も、選ばれた数名だけに任される。位の低い神官の多くは、聖女に直接会うことすらない。
その列の最後尾で、セシルは小さく息を吸った。
神官となって五年。
今日、初めて聖女召喚の儀式に立ち会う。
世界を救う聖女を迎える神聖な儀式。
選ばれた者しか参加を許されない名誉ある役目だと、幼い頃から教えられてきた。
「儀式を始めます」
神官長の厳かな声が響く。
全員が祈りを捧げるように目を閉じると、魔法陣が淡い光を放ち始めた。
やがて光は眩い輝きへと変わり、大聖堂全体を包み込む。
セシルは息をのんだ。
(これが……聖女召喚)
胸の鼓動が早くなる。
光がゆっくりと収まると、魔法陣の中央には一人の女性が立っていた。
セシルと同じくらいの年だろうか。
黒い髪に見慣れない服装。
現れた女性は辺りを見回し、不安そうに目を見開く。
「……え?」
戸惑った声が静まり返った大聖堂に響いた。
「ここ……どこですか?」
一歩、また一歩と後ずさる。
「どうして……」
突然知らない場所に放り出された恐怖が、その表情から伝わってきた。
しかし、それとは対照的に神官たちの顔には喜びが浮かんでいた。
神官長は穏やかな笑みを浮かべ、彼女の前に進み出る。
「おめでとうございます。聖女様。あなたは神に選ばれました」
神官たちが一斉に頭を下げる。
女性は神官長の言葉の意味が分からないというように、呆然と立ち尽くしていた。
「ま、待ってください」
震える声が響く。
「私は会社に行く途中だったんです。ここはどこなんですか? どうしてこんなところに……」
神官長は優しく微笑んだまま答える。
「どうかご安心ください。これからゆっくりご説明いたします」
その穏やかな声に、彼女は少しだけ表情を緩めた。
セシルは思わず女性を見つめた。
突然知らない世界に連れてこられたのだ。
混乱するのも無理はない。
(きっと、大丈夫だ)
この方も、周りの支えがあれば少しずつこの世界に慣れていくだろう。
この時のセシルは、彼女が幸せになれると本気で信じていた。
◇◇◇
聖女のために用意された部屋は、神殿内でも特に上等なものだった。
柔らかな寝台には清潔な寝具が整えられ、室内には上質な調度品が並んでいる。窓の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、小鳥のさえずりが聞こえていた。
けれど、美香の表情が和らぐことはなかった。
「……帰してください」
部屋に案内したばかりのセシルに、美香は震える声で訴えた。
「お願いです。私はただ会社に向かっていただけなんです。家族もいますし、大切な人だっているんです」
今にも泣き出しそうな瞳を向けられ、セシルはすぐに答えることができなかった。
「……申し訳ありません。今すぐ元の世界へお帰しすることはできません」
「今すぐ、ということは……後なら帰れるんですか?」
美香が縋るように問いかける。
セシルは言葉に詰まった。
召喚された聖女を元の世界に帰す方法について、セシルは何も聞かされていなかった。
ただ、聖女はこの世界を救うために神が遣わす存在だと、幼い頃から教えられてきただけだった。
「それは……私からは、何とも申し上げられません」
「そんな……」
美香の顔から血の気が引く。
「じゃあ、誰なら分かるんですか? 私をここに呼んだ人なら、帰し方も知っているんですよね?」
「神官長から、改めてご説明があるはずです」
そう答えながらも、セシルは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
美香を召喚したのは神殿だ。それなのに、帰還について何も知らされていないことを、今まで疑問に思ったことすらなかった。
「……申し遅れました。私は神官のセシルと申します。本日から聖女様のお世話を担当させていただきます」
深く頭を下げる。
美香はしばらく黙っていたが、やがて力なく口を開いた。
「……美香です」
「美香様、ですね」
「聖女じゃなくて、名前で呼んでください」
その声は弱々しかった。
「私は聖女なんかじゃありません。……ただの会社員です」
セシルは返す言葉を失った。
神に選ばれることは、誰にとっても喜ばしいことだと信じていた。
けれど、美香にとっては違うのだ。
望んでもいないのに故郷から連れ去られ、突然知らない役目を与えられたにすぎない。
「……分かりました。美香様とお呼びします」
少しの沈黙の後、セシルは、美香から少し離れた椅子に腰を下ろした。
「これから一か月後、美香様には浄化の儀式を行っていただくことになっています」
「浄化……ですか?」
「はい。この世界は瘴気に蝕まれています。聖女様の力で土地を清めていただくのです」
美香は戸惑ったようにセシルを見つめた。
「私に、そんな力があるんですか?」
「召喚された聖女様には、浄化の力が宿ると伝えられています。これから力の使い方や、儀式の手順を覚えていただきます」
「その儀式が終わったら、帰れるんですか?」
やはり、美香が知りたいのはそれだけなのだろう。
セシルは胸が痛んだ。
「……申し訳ありません。私には分かりません」
「分からないのに、儀式だけはしろと言うんですか?」
責めるような言葉だったが、その声には怒りよりも恐怖が滲んでいた。
「私が嫌だと言ったら、どうなるんですか?」
セシルは答えられなかった。
聖女が儀式を拒むなど、一度も考えたことがなかったからだ。
美香は俯き、両手を強く握りしめる。
「……すみません。あなたを責めても仕方がないですよね」
「いいえ。突然このような場所に連れてこられたのです。混乱されるのは当然です」
セシルはできるだけ穏やかな声で続けた。
「分からないことは、私も神官長に確認いたします。生活のことも、言葉のことも、私たちがお手伝いします。美香様が安心して過ごせるよう、私たちで支えますから」
「……ありがとうございます」
美香は小さく答えた。
けれど、その表情が和らぐことはなかった。
窓の外に視線を向け、消え入りそうな声で呟く。
「帰りたい……」
その一言に込められた寂しさを前に、セシルは何も言えなかった。
召喚から十日が過ぎる頃には、美香も神殿での一日の流れを覚え始めていた。
朝になると侍女が身支度を手伝い、食事を終えた後は、この世界について学ぶ。
召喚の力によるものなのか、会話にはほとんど困らなかった。しかし、文字はまったく異なるため、簡単な読み書きから覚えなければならない。
午後には、浄化の儀式に向けた練習が行われた。
祈りの言葉や儀式の手順を教わり、聖女の力を引き出すため、魔法陣の上で何度も祈りを繰り返す。
「力を感じますか?」
指導を担当する上級神官に問われ、美香は困ったように首を横に振った。
「よく分かりません」
「焦る必要はありません。聖女様のお力は、儀式の日が近づくにつれて目覚めると伝えられています」
上級神官は穏やかに答えたが、美香の表情から不安が消えることはなかった。
「本当に、私にできるんでしょうか」
「もちろんです。聖女様は神に選ばれたお方なのですから」
迷いのない言葉に、美香はそれ以上何も言わず、小さく頷いた。
練習を終えた後、セシルが部屋を訪れると、美香は机に向かっていた。目の前には、この世界の文字が書かれた教本が開かれている。
「本日の練習はいかがでしたか?」
「何も感じませんでした」
美香は教本から顔を上げ、力なく笑った。
「祈り方が悪いのかもしれません」
「まだ始まったばかりです。上級神官も、焦る必要はないと申していたのでしょう?」
「はい。でも……」
美香は視線を落とした。
「もし、私に力がなかったらどうなるんでしょう」
召喚された者は必ず聖女の力を持つ。そう教えられてきたため、セシルは答えに詰まる。
「そのようなことはありません」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「これまで召喚された聖女様は、皆、浄化の儀式を成し遂げたと伝えられていますから」
セシルの言葉に、美香は少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
安心したというより、自分に言い聞かせているような返事だった。
セシルは話題を変えるように、机の上の教本に目を向ける。
「文字の勉強は進みましたか?」
「少しだけです。でも、似た形が多くて難しいですね」
美香はそう言いながら、一枚の紙を差し出した。
そこには、まだ不揃いながらも、この世界の文字が並んでいる。
「これは……私の名前ですか?」
「はい。セシルさんの名前を書いてみました」
「もう書けるようになったのですね」
思わず声を弾ませると、美香は少しだけ笑った。
「何度も練習しましたから」
その笑顔を見て、セシルはほっと息をついた。
召喚された直後は、言葉を交わすことすら難しいほど塞ぎ込んでいた。けれど最近は、短い時間ではあるものの、こうして笑うことも増えてきた。
「今日は私の世界の話をしてもいいですか?」
美香が遠慮がちに尋ねる。
「もちろんです」
それから美香は、自分が暮らしていた世界について話してくれた。
鉄でできた大きな乗り物が空を飛ぶこと。
夜になっても街が昼のように明るいこと。
手のひらほどの小さな機械で、遠く離れた人と話したり、姿を見たりできること。
「そのような便利なものが、本当にあるのですか?」
「ありますよ」
美香は少しだけ得意そうに笑った。
「最初は、信じてもらえないと思っていました」
「いえ。もっと聞かせてください」
セシルは思わず身を乗り出した。
知らない世界の話を聞くのは、純粋に楽しかった。
美香も故郷について話している間だけは、不安を忘れられるようだった。
家族や友人のこと、仕事のこと、大切な人とよく待ち合わせをした店のこと。
話が進むにつれ、その声も少しずつ明るくなっていく。
けれど、話が途切れると、美香の笑顔はすぐに消えた。
「……みんな、どうしているかな」
机の上に視線を落とし、小さく呟く。
「急にいなくなったから、きっと心配していますよね」
「……そうですね」
軽々しく大丈夫だとは言えず、セシルはそれだけ答えた。
「帰る方法のこと、神官長に聞いてくれましたか?」
「はい。ですが、今は話す時ではないとのことでした」
それでもセシルは、浄化の儀を終えれば、神官長も帰還について説明してくれるのではないかと思っていた。
美香の指先が、膝の上で強く握られる。
「……そうですか」
それ以上、美香は何も聞かなかった。
ただ、窓の外に視線を向ける。
召喚から二十日が過ぎた。
美香は神殿での生活にもすっかり慣れ、儀式の手順も迷うことなくこなせるようになっていた。
それでも、浄化の力が現れることはなかった。
毎日のように魔法陣の前で祈りを捧げる。
上級神官は「焦る必要はありません」と繰り返すが、美香の表情は日に日に曇っていった。
以前は熱心に教本を読んでいた机の上には、開いたままの本が置かれていた。ページは朝からほとんど進んでいなかった。
「美香様」
部屋を訪れたセシルが声をかけると、美香はゆっくりと顔を上げた。
「あ、セシルさん」
微笑む。
けれど、その笑顔はどこか無理をしているようだった。
「最近、お食事の量が減っていますね。お口に合いませんか?」
「そんなことないですよ」
美香は首を横に振る。
「少し疲れているだけです」
そう答えながらも、食事は半分以上残っていた。
セシルは少し考え、静かに口を開く。
「何か召し上がりたいものがあれば、ご用意できるよう料理人に相談してみます」
その言葉に、美香は困ったように笑う。
「ありがとうございます。でも……」
一度言葉を切り、窓の外に目を向けた。
「この世界には、ないんです。……仕事帰りによく、おにぎりを買って帰ったんですよ」
懐かしむように目を細める。
「母が作るカレーも好きでした。休日には友達とカフェに行って、おしゃべりして……」
美香は小さく笑った。
「その頃は、毎日同じことの繰り返しで、退屈だなって思うこともあったんです」
少し間を置き、ぽつりと続ける。
「でも、今なら分かります」
窓の外を見つめたまま、小さく呟いた。
「あれが、一番幸せな時間でした」
セシルは何も言えなかった。
美香が話すのは、いつも元の世界のことばかりだった。
大切な人たちのこと。
通勤途中に見ていた景色。
よく食べた料理。
ここに来てからの話は、ほとんどしない。
いつの頃からだろう。
美香は『帰りたい』と口にしなくなっていた。
セシルは、この世界での暮らしを少しずつ受け入れ始めたのだと思っていた。
けれど違った。
帰りたいと願わないのではない。
口にしても帰れないと、諦めてしまっただけだったのだ。
そのことに、セシルはまだ気づいていなかった。
「美香様」
静かに声をかける。
「浄化の儀式まで、もう少しです」
「はい、頑張ります」
美香は穏やかに頷いた。
その一言に、セシルは少しだけ安心する。
だが、その安心は長くは続かなかった。
窓辺に歩いていく美香の背中は、召喚された日よりもずっと小さく見えた。
日に日に痩せていくその姿を見つめながら、セシルの胸には拭いきれない不安だけが残っていた。
◇◇◇
召喚から一か月。
ついに浄化の儀の日がやってきた。
朝早く、美香は緊張した面持ちで身支度を整えていた。
扉が控えめに叩かれる。
「美香様、お迎えに参りました」
聞き慣れた声に、美香は小さく息を吐いた。
「はい」
扉を開けると、そこにはいつものようにセシルが立っていた。
二人は並んで神殿の奥へと歩き始める。
廊下を歩きながら、美香はぽつりと呟いた。
「……今日が終われば、本当に何か変わるんでしょうか」
その言葉に、セシルは足を止めそうになった。
帰れるかどうか。
その答えを、セシルは知らない。
けれど、不安そうな美香を前に、何も言わないこともできなかった。
「神は美香様をお選びになりました。浄化の儀が無事に終われば、きっと道は開けます」
美香はその言葉を聞き、小さく笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、セシルもほっと胸をなで下ろした。
やがて二人は、大聖堂へと辿り着く。
召喚の儀が執り行われた場所だった。
白い法衣をまとった神官たちが静かに並び、その中央には天井まで届くほど大きな一本の神樹が立っている。
世界の浄化を司る神樹。
淡い光を放つ葉には、ところどころ黒い染みが浮かび、太い幹にも黒い筋が走っていた。
「どうぞ、聖女様」
神官長に促され、美香は神樹の前に進む。
両手を幹に添え、静かに目を閉じた。
次の瞬間、美香の足元から魔法陣が浮かび上がる。
淡い金色の光が腕を伝い、神樹へと流れ込んでいった。
光は幹から枝へ、枝から葉へと広がっていく。
黒く染まっていた葉が、次々と鮮やかな緑を取り戻した。
大聖堂全体が眩い光に包まれる。
セシルは息をのんだ。
(これが、聖女様の力……)
やがて光が弱まり、静かに消えていく。
神樹の葉の多くは緑を取り戻していた。
けれど、幹の奥に残る黒い筋は、完全には消えていなかった。
そのことにセシルが気づくより早く、美香の身体が大きく揺れる。
「美香様!」
セシルは慌てて駆け寄り、その身体を支えた。
「大丈夫です……少し、力が抜けただけです」
美香は苦しそうに息をしながらも、小さく笑った。
神官長が二人の前に進み出る。
「お見事でした、聖女様。世界は再び清められました」
その言葉を合図に、神官たちから安堵の息が漏れた。
「神に感謝を」
「聖女様のお力に感謝いたします」
次々と向けられる言葉に、美香は少し照れたように頭を下げる。
「お疲れでしょう。今日はゆっくりお休みください」
「はい」
神官長が視線を向けると、控えていた侍女が美香のそばに進み出た。
「お部屋までお送りいたします」
「あの、私も——」
セシルが付き添おうとすると、神官長に呼び止められた。
「セシル。あなたは残りなさい」
思いがけない言葉に、セシルは振り返る。
「……承知しました」
美香は少し不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにセシルに笑いかけた。
「また後で」
「はい。後ほど、お部屋に伺います」
侍女に付き添われ、美香はゆっくりと大聖堂を後にした。
重い扉が静かに閉まる。
その音が響いた途端、先ほどまで大聖堂を満たしていた穏やかな空気が消えた。
神官たちの顔から笑みが失われる。
誰も言葉を発しない。
重苦しい沈黙の中、神官長は静かに神樹を見上げた。
「やはり、足りませんでしたか」
一人の神官が低い声で尋ねる。
「ああ」
神官長は、幹に残った黒い筋を見つめたまま頷いた。
「表面の穢れは祓われたが、根にまで浄化の力が届いていない。このままでは、遠からず再び瘴気に蝕まれる」
セシルは耳を疑った。
「お待ちください」
思わず声を上げる。
「先ほど、世界は清められたと……」
神官長はゆっくりと振り返った。
「あの場で聖女を不安にさせる必要はありません」
あまりにも平静な返答だった。
セシルの胸がざわつく。
神官長は最初から、浄化が不十分だと分かっていたのだ。
「では、美香様は……」
続く言葉を口にするのが怖かった。
神官長は周囲の神官たちに視線を向ける。
「皆は下がりなさい」
神官たちは静かに頭を下げ、一人ずつ大聖堂を出ていった。
やがて残されたのは、神官長とセシルだけになる。
「こちらへ」
神官長に促され、セシルは大聖堂の奥にある小さな控え室に入った。扉が閉められる。
窓のない室内には、息苦しいほどの静寂が満ちていた。
「セシル」
神官長は向かい合うと、静かに口を開いた。
「あなたは聖女の世話係として、最後まで関わる立場です。本来なら、浄化の結果が出た後に知らされることになっています」
「何を、ですか」
神官長はしばらくセシルを見つめていた。
「聖女の召喚は、美香様が初めてではありません」
セシルは目を見開く。
「……え?」
「これまでにも、神殿は異なる世界から何人もの聖女を召喚してきました」
思考が追いつかない。
そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
「では、以前の聖女様たちは、今どこに……」
神官長は表情を変えないまま答える。
「皆、浄化の儀に臨みました」
「それでは、今は……?」
問いかけながら、セシルの声が震える。
神官長は迷うことなく告げた。
「十分な力を示せなかった聖女は、処分されます」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……処分?」
「次の聖女を召喚するためです」
セシルの全身から血の気が引いていく。
「そんな……」
「聖女の魂がこの世界に存在する限り、新たな召喚の門は開きません」
神官長は淡々と続ける。
「神樹を救える力を持つ聖女が現れるまで、召喚を繰り返す必要があります」
「では……」
さっきまで笑っていた美香の顔が、脳裏に浮かぶ。
「美香様も、処分されるのですか」
「その可能性は高いでしょう」
神官長の声には、少しの揺らぎもなかった。
「今回の浄化では足りませんでした。このまま神樹の穢れが広がれば、世界中に瘴気が満ちることになります」
「ですが、美香様は一生懸命やっておられました!」
思わず声が大きくなる。
「毎日練習を重ね、文字も儀式の手順も必死に覚えて……今日だって、立っていられなくなるほど力を使ったのです!」
「努力だけで世界は救えません」
静かな声が、セシルの言葉を遮った。
「この世界には何百万という民が暮らしています。一人を救うために、そのすべてを危険に晒すことはできません」
「だから、何の罪もない方を殺すのですか」
神官長は静かにセシルを見つめる。
「必要な犠牲です」
あまりにも簡単に告げられた言葉に、セシルは爪が食い込むほど手を握った。
「元の世界へ帰すことはできないのですか」
「できません」
迷いのない返答だった。
「帰還の術は存在しません」
その一言が、胸に深く突き刺さる。
美香はもう二度と故郷へ帰れない。
家族にも、友人にも、大切な人にも会えない。
最初から、帰る道など用意されていなかったのだ。
「では、なぜ美香様にそのことを伝えなかったのですか」
「伝える必要がないからです」
「必要がない……?」
「帰れないと知れば、多くの者は絶望します。儀式に協力しなくなる可能性もある」
神官長は淡々と続ける。
「聖女には希望を持ったまま、浄化に臨んでいただく方がよいのです」
セシルは愕然とした。
美香が何度も尋ねた言葉を思い出す。
帰れるのか。
儀式が終われば何かが変わるのか。
自分は何も知らず、きっと道は開けると答えてしまった。
「……美香様には、処分についても伝えないのですか」
「もちろんです」
神官長は静かに答える。
「残された時間を、少しでも穏やかに過ごしていただきます」
それは本当に優しさなのだろうか。
何も知らされないまま、最後の時を迎えさせることが。
「セシル」
神官長の声が低く響く。
「今聞いたことを、美香様に話してはなりません」
その声音には、有無を言わせない重みがあった。
「これは神殿の決まりです。破れば、あなたも処罰の対象となります」
セシルは俯いた。
握りしめた拳が小さく震える。
美香を救いたい。
せめて真実を伝えたい。
けれど、それをすれば、自分も美香のそばにいられなくなるかもしれない。
「……承知しました」
絞り出すように答える。
返事はした。
だが、胸の中では激しい葛藤が渦巻いていた。
◇◇◇
神官長との話を終えたセシルは、気づけば美香の部屋に向かっていた。
何を話せばいいのか分からない。
いや、何も話してはいけない。
頭では理解している。
それでも足は、美香の部屋に向かっていた。
扉の前で深く息を吸う。
ノックをすると、すぐに返事が聞こえた。
「どうぞ」
部屋に入ると、美香が穏やかに微笑んだ。
「セシルさん」
その笑顔を見た瞬間、胸が締めつけられる。
「聞きたいことがあったんです」
美香はゆっくり立ち上がった。
「あの……」
少しだけ緊張したように笑う。
「私、帰れますよね?」
その一言に、セシルは言葉を失った。
答えられない。
答えてはいけない。
唇を動かそうとしても、声にならなかった。
視線が床に落ちる。
長い沈黙が部屋を包んだ。
美香はその様子を見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……帰れない、んですね」
セシルは顔を上げることができなかった。
沈黙だけが、その答えを伝えていた。
「……そうですか」
美香は小さく笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも儚かった。
セシルは俯き、震える手を法衣の中に隠した。
初めて美香と出会った日。
『安心して過ごせるよう、私たちが支えます』
そう言った自分の言葉が、胸の奥で何度も繰り返されていた。
浄化の儀から数日が過ぎた。
その間も、セシルは欠かさず美香の部屋に通っていた。
「失礼します」
扉を開けると、美香は窓辺の椅子に腰掛けたまま、庭園を眺めていた。
振り返るだけでも力を使うように、その動きはゆっくりだった。
「セシルさん」
微笑もうとする。
けれど、その笑みにはもう以前の明るさは残っていなかった。
机の上には、ほとんど手をつけられていない食事が置かれている。
「ほとんど召し上がっていませんね」
「……あまり食欲がなくて」
小さな声だった。
「少しでも召し上がらなければ、お身体がもちません」
「そうですね」
そう答えながらも、美香は皿に手を伸ばそうとはしなかった。セシルは食事を勧め、ときには元の世界の話を聞こうとした。
しかし、美香は日に日にやつれていった。
食事の量は減り、話す言葉も少なくなる。
以前は楽しそうに語っていた元の世界の話も、もうしなくなっていた。
ある日のことだった。
静かな部屋で、美香がぽつりと呟く。
「私……失敗したんですね」
セシルはすぐに首を振った。
「そんなことありません。美香様のお力で神樹は浄化されました」
その言葉を聞いても、美香は静かに微笑むだけだった。
「だったら」
少し間を置いて、続ける。
「どうして誰も来なくなったんですか」
セシルは言葉が出なかった。
「私のところに来るの、セシルさんだけですよ」
その事実を、否定できなかった。
侍女が最低限の世話をするだけになっていた。
浄化の儀までは毎日のように声をかけてくれていた人たちが、今は姿を見せない。
「もう分かっているんです」
窓の外を見つめたまま、美香は静かに言う。
「でも……帰れないならもう……どうでもいいんです」
「そんなこと言わないでください!」
気づけば、セシルは声を荒げていた。
美香は少しだけ寂しそうに笑った。
「私には帰る場所があるんです。家族も……大切な人もいます。友達も。みんなと……」
声が少し震える。
「もう一度だけでいいから、会いたいんです」
一筋の涙が頬を伝った。
「それなのに、もう二度と帰れない」
その言葉を聞いたセシルは、何も返すことができなかった。
どんな慰めも、今の美香には届かない。
自分は真実を知りながら、それを覆すことも、伝えることもできない。
「……また来ます」
それだけを告げて部屋を後にする。
扉が閉まると同時に、セシルは廊下の壁に静かにもたれかかった。
拳を強く握りしめる。
どうすれば、美香を救えるのだろう。
その答えは見つからなかった。
◇◇◇
それから数日。
何もできないまま、その日はやってきた。
朝から冷たい雨が降り続いていた。
窓を打つ雨音だけが、静かな廊下に響いている。
セシルは美香の部屋の前に立っていた。
扉の前には数人の神官が並んでいる。
今日が何の日なのか、誰も口にはしなかった。
それでも、その場にいる全員が知っていた。
やがて扉が開く。
美香は静かに部屋から姿を現した。
痩せた頬に、それでも穏やかな笑みを浮かべている。
「参りましょう」
神官に促され、美香は小さく頷いた。
どこへ連れていかれるのか、美香には知らされていないはずだった。
それでも、彼女はすべてを悟っているように見えた。
歩き出そうとしたその時、不意にセシルの前で足を止める。
「セシルさん」
優しい声だった。
「短い間でしたけど、お世話になりました」
セシルは言葉を失う。
「私、この世界に来た時は本当に怖かったんです」
美香は少しだけ微笑んだ。
「でも、セシルさんだけは最後まで、一人の人として接してくれました」
そう言って、深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
それだけを残し、美香は再び歩き始めた。
セシルは、その背中を見送ることしかできなかった。
廊下の先にある重い扉が閉まる。
鈍い音が響き渡る。
それきり、美香がその扉から戻ってくることはなかった。
◇◇◇
数時間後。
セシルは、美香の荷物を地下の保管庫に運ぶよう命じられていた。
机の上には、一つの鞄が置かれている。
召喚された日、美香が持っていた荷物だった。
セシルはそっと鞄を抱き上げる。
地下へ続く石階段を下りるたび、冷たい空気が肌を撫でた。
最奥の部屋には、棚が何列も並んでいる。
棚の上には、小さなぬいぐるみが置かれていた。
その隣には、表紙が擦り切れた本。
色あせた髪飾り。
見たことのない鞄や、この世界にはない道具。
どれも、召喚された聖女たちが残したものだった。
セシルは空いている場所に、美香の鞄を静かに置く。
その瞬間、胸が締めつけられた。
美香だけではない。
この場所には、同じ運命を辿った人々の想いが、静かに眠っていた。
「召喚の準備を始めます」
地下室の入口から、神官長の声が響いた。
セシルはゆっくり振り返った。
「……もう、ですか」
「世界は待ってはくれません」
神官長はそれだけ告げると、静かに部屋を後にした。
◇◇◇
再び、大聖堂。
白い法衣をまとった神官たちが静かに並び、床一面に描かれた魔法陣が淡く輝いていた。
セシルは列の最後尾に立つ。
誰よりも、この先に待つ運命を知りながら。
やがて魔法陣が眩く光を放つ。
一人の少女が姿を現した。
辺りを見回した少女は、大きく目を輝かせる。
「すごい……! 本当に異世界なんだ!」
期待と喜びに満ちた笑顔だった。
神官長が一歩前に進み、穏やかに微笑む。
「おめでとうございます。聖女様。あなたは神に選ばれました」
その言葉を聞いた少女は、嬉しそうに笑った。
セシルは、その姿から目を離すことができなかった。
あの日、自分も同じ言葉で美香を迎えた。
心から祝福し、その先に待つ運命など何も知らずに。
けれど、もう違う。
祝福の言葉は、喉まで込み上げても、口にすることはできなかった。




