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神に選ばれた聖女

作者: ぽかぽか
掲載日:2026/07/28

 神殿の最奥にある大聖堂には、静かな緊張感が漂っていた。床一面に描かれた巨大な魔法陣を囲むように、白い法衣をまとった神官たちが並ぶ。

 その場に立つことを許されているのは、ごく限られた者だけだった。


 聖女召喚の儀式は、この国でも最高機密とされている。

 儀式に参加できるのは神官長をはじめとする一部の上級神官のみ。召喚された聖女のお世話も、選ばれた数名だけに任される。位の低い神官の多くは、聖女に直接会うことすらない。


 その列の最後尾で、セシルは小さく息を吸った。

 神官となって五年。

 今日、初めて聖女召喚の儀式に立ち会う。

 世界を救う聖女を迎える神聖な儀式。

 選ばれた者しか参加を許されない名誉ある役目だと、幼い頃から教えられてきた。


「儀式を始めます」


 神官長の厳かな声が響く。

 全員が祈りを捧げるように目を閉じると、魔法陣が淡い光を放ち始めた。

 やがて光は眩い輝きへと変わり、大聖堂全体を包み込む。

 セシルは息をのんだ。


(これが……聖女召喚)


 胸の鼓動が早くなる。

 光がゆっくりと収まると、魔法陣の中央には一人の女性が立っていた。

 セシルと同じくらいの年だろうか。

 黒い髪に見慣れない服装。

 現れた女性は辺りを見回し、不安そうに目を見開く。


「……え?」


 戸惑った声が静まり返った大聖堂に響いた。


「ここ……どこですか?」


 一歩、また一歩と後ずさる。


「どうして……」


 突然知らない場所に放り出された恐怖が、その表情から伝わってきた。

 しかし、それとは対照的に神官たちの顔には喜びが浮かんでいた。

 神官長は穏やかな笑みを浮かべ、彼女の前に進み出る。


「おめでとうございます。聖女様。あなたは神に選ばれました」


 神官たちが一斉に頭を下げる。

 女性は神官長の言葉の意味が分からないというように、呆然と立ち尽くしていた。


「ま、待ってください」


 震える声が響く。


「私は会社に行く途中だったんです。ここはどこなんですか? どうしてこんなところに……」


 神官長は優しく微笑んだまま答える。


「どうかご安心ください。これからゆっくりご説明いたします」


 その穏やかな声に、彼女は少しだけ表情を緩めた。

 セシルは思わず女性を見つめた。

 突然知らない世界に連れてこられたのだ。

 混乱するのも無理はない。


(きっと、大丈夫だ)


 この方も、周りの支えがあれば少しずつこの世界に慣れていくだろう。

 この時のセシルは、彼女が幸せになれると本気で信じていた。


◇◇◇


 聖女のために用意された部屋は、神殿内でも特に上等なものだった。

 柔らかな寝台には清潔な寝具が整えられ、室内には上質な調度品が並んでいる。窓の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、小鳥のさえずりが聞こえていた。

 けれど、美香の表情が和らぐことはなかった。


「……帰してください」


 部屋に案内したばかりのセシルに、美香は震える声で訴えた。


「お願いです。私はただ会社に向かっていただけなんです。家族もいますし、大切な人だっているんです」


 今にも泣き出しそうな瞳を向けられ、セシルはすぐに答えることができなかった。


「……申し訳ありません。今すぐ元の世界へお帰しすることはできません」

「今すぐ、ということは……後なら帰れるんですか?」


 美香が縋るように問いかける。

 セシルは言葉に詰まった。

 召喚された聖女を元の世界に帰す方法について、セシルは何も聞かされていなかった。

 ただ、聖女はこの世界を救うために神が遣わす存在だと、幼い頃から教えられてきただけだった。


「それは……私からは、何とも申し上げられません」

「そんな……」


 美香の顔から血の気が引く。


「じゃあ、誰なら分かるんですか? 私をここに呼んだ人なら、帰し方も知っているんですよね?」

「神官長から、改めてご説明があるはずです」


 そう答えながらも、セシルは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

 美香を召喚したのは神殿だ。それなのに、帰還について何も知らされていないことを、今まで疑問に思ったことすらなかった。


「……申し遅れました。私は神官のセシルと申します。本日から聖女様のお世話を担当させていただきます」


 深く頭を下げる。

 美香はしばらく黙っていたが、やがて力なく口を開いた。


「……美香です」

「美香様、ですね」

「聖女じゃなくて、名前で呼んでください」


 その声は弱々しかった。


「私は聖女なんかじゃありません。……ただの会社員です」


 セシルは返す言葉を失った。

 神に選ばれることは、誰にとっても喜ばしいことだと信じていた。

 けれど、美香にとっては違うのだ。

 望んでもいないのに故郷から連れ去られ、突然知らない役目を与えられたにすぎない。


「……分かりました。美香様とお呼びします」


 少しの沈黙の後、セシルは、美香から少し離れた椅子に腰を下ろした。


「これから一か月後、美香様には浄化の儀式を行っていただくことになっています」

「浄化……ですか?」

「はい。この世界は瘴気に蝕まれています。聖女様の力で土地を清めていただくのです」


 美香は戸惑ったようにセシルを見つめた。


「私に、そんな力があるんですか?」

「召喚された聖女様には、浄化の力が宿ると伝えられています。これから力の使い方や、儀式の手順を覚えていただきます」

「その儀式が終わったら、帰れるんですか?」


 やはり、美香が知りたいのはそれだけなのだろう。

 セシルは胸が痛んだ。


「……申し訳ありません。私には分かりません」

「分からないのに、儀式だけはしろと言うんですか?」


 責めるような言葉だったが、その声には怒りよりも恐怖が滲んでいた。


「私が嫌だと言ったら、どうなるんですか?」


 セシルは答えられなかった。

 聖女が儀式を拒むなど、一度も考えたことがなかったからだ。

 美香は俯き、両手を強く握りしめる。


「……すみません。あなたを責めても仕方がないですよね」

「いいえ。突然このような場所に連れてこられたのです。混乱されるのは当然です」


 セシルはできるだけ穏やかな声で続けた。


「分からないことは、私も神官長に確認いたします。生活のことも、言葉のことも、私たちがお手伝いします。美香様が安心して過ごせるよう、私たちで支えますから」

「……ありがとうございます」


 美香は小さく答えた。

 けれど、その表情が和らぐことはなかった。

 窓の外に視線を向け、消え入りそうな声で呟く。


「帰りたい……」


 その一言に込められた寂しさを前に、セシルは何も言えなかった。


 召喚から十日が過ぎる頃には、美香も神殿での一日の流れを覚え始めていた。

 朝になると侍女が身支度を手伝い、食事を終えた後は、この世界について学ぶ。

 召喚の力によるものなのか、会話にはほとんど困らなかった。しかし、文字はまったく異なるため、簡単な読み書きから覚えなければならない。


 午後には、浄化の儀式に向けた練習が行われた。

 祈りの言葉や儀式の手順を教わり、聖女の力を引き出すため、魔法陣の上で何度も祈りを繰り返す。


「力を感じますか?」


 指導を担当する上級神官に問われ、美香は困ったように首を横に振った。


「よく分かりません」

「焦る必要はありません。聖女様のお力は、儀式の日が近づくにつれて目覚めると伝えられています」


 上級神官は穏やかに答えたが、美香の表情から不安が消えることはなかった。


「本当に、私にできるんでしょうか」

「もちろんです。聖女様は神に選ばれたお方なのですから」


 迷いのない言葉に、美香はそれ以上何も言わず、小さく頷いた。

 練習を終えた後、セシルが部屋を訪れると、美香は机に向かっていた。目の前には、この世界の文字が書かれた教本が開かれている。


「本日の練習はいかがでしたか?」

「何も感じませんでした」


 美香は教本から顔を上げ、力なく笑った。


「祈り方が悪いのかもしれません」

「まだ始まったばかりです。上級神官も、焦る必要はないと申していたのでしょう?」

「はい。でも……」


 美香は視線を落とした。


「もし、私に力がなかったらどうなるんでしょう」


 召喚された者は必ず聖女の力を持つ。そう教えられてきたため、セシルは答えに詰まる。


「そのようなことはありません」

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「これまで召喚された聖女様は、皆、浄化の儀式を成し遂げたと伝えられていますから」


 セシルの言葉に、美香は少しだけ目を伏せた。


「……そうですか」


 安心したというより、自分に言い聞かせているような返事だった。

 セシルは話題を変えるように、机の上の教本に目を向ける。


「文字の勉強は進みましたか?」

「少しだけです。でも、似た形が多くて難しいですね」


 美香はそう言いながら、一枚の紙を差し出した。

 そこには、まだ不揃いながらも、この世界の文字が並んでいる。


「これは……私の名前ですか?」

「はい。セシルさんの名前を書いてみました」

「もう書けるようになったのですね」


 思わず声を弾ませると、美香は少しだけ笑った。


「何度も練習しましたから」


 その笑顔を見て、セシルはほっと息をついた。

 召喚された直後は、言葉を交わすことすら難しいほど塞ぎ込んでいた。けれど最近は、短い時間ではあるものの、こうして笑うことも増えてきた。


「今日は私の世界の話をしてもいいですか?」


 美香が遠慮がちに尋ねる。


「もちろんです」


 それから美香は、自分が暮らしていた世界について話してくれた。

 鉄でできた大きな乗り物が空を飛ぶこと。

 夜になっても街が昼のように明るいこと。

 手のひらほどの小さな機械で、遠く離れた人と話したり、姿を見たりできること。


「そのような便利なものが、本当にあるのですか?」

「ありますよ」


 美香は少しだけ得意そうに笑った。


「最初は、信じてもらえないと思っていました」

「いえ。もっと聞かせてください」


 セシルは思わず身を乗り出した。

 知らない世界の話を聞くのは、純粋に楽しかった。

 美香も故郷について話している間だけは、不安を忘れられるようだった。

 家族や友人のこと、仕事のこと、大切な人とよく待ち合わせをした店のこと。

 話が進むにつれ、その声も少しずつ明るくなっていく。

 けれど、話が途切れると、美香の笑顔はすぐに消えた。


「……みんな、どうしているかな」


 机の上に視線を落とし、小さく呟く。


「急にいなくなったから、きっと心配していますよね」

「……そうですね」


 軽々しく大丈夫だとは言えず、セシルはそれだけ答えた。


「帰る方法のこと、神官長に聞いてくれましたか?」

「はい。ですが、今は話す時ではないとのことでした」


 それでもセシルは、浄化の儀を終えれば、神官長も帰還について説明してくれるのではないかと思っていた。

 美香の指先が、膝の上で強く握られる。


「……そうですか」


 それ以上、美香は何も聞かなかった。

 ただ、窓の外に視線を向ける。


 召喚から二十日が過ぎた。

 美香は神殿での生活にもすっかり慣れ、儀式の手順も迷うことなくこなせるようになっていた。

 それでも、浄化の力が現れることはなかった。

 毎日のように魔法陣の前で祈りを捧げる。

 上級神官は「焦る必要はありません」と繰り返すが、美香の表情は日に日に曇っていった。

 以前は熱心に教本を読んでいた机の上には、開いたままの本が置かれていた。ページは朝からほとんど進んでいなかった。


「美香様」


 部屋を訪れたセシルが声をかけると、美香はゆっくりと顔を上げた。


「あ、セシルさん」


 微笑む。

 けれど、その笑顔はどこか無理をしているようだった。


「最近、お食事の量が減っていますね。お口に合いませんか?」

「そんなことないですよ」


 美香は首を横に振る。


「少し疲れているだけです」


 そう答えながらも、食事は半分以上残っていた。

 セシルは少し考え、静かに口を開く。


「何か召し上がりたいものがあれば、ご用意できるよう料理人に相談してみます」


 その言葉に、美香は困ったように笑う。


「ありがとうございます。でも……」


 一度言葉を切り、窓の外に目を向けた。


「この世界には、ないんです。……仕事帰りによく、おにぎりを買って帰ったんですよ」


 懐かしむように目を細める。


「母が作るカレーも好きでした。休日には友達とカフェに行って、おしゃべりして……」


 美香は小さく笑った。


「その頃は、毎日同じことの繰り返しで、退屈だなって思うこともあったんです」


 少し間を置き、ぽつりと続ける。


「でも、今なら分かります」


 窓の外を見つめたまま、小さく呟いた。


「あれが、一番幸せな時間でした」


 セシルは何も言えなかった。

 美香が話すのは、いつも元の世界のことばかりだった。

 大切な人たちのこと。

 通勤途中に見ていた景色。

 よく食べた料理。


 ここに来てからの話は、ほとんどしない。

 いつの頃からだろう。

 美香は『帰りたい』と口にしなくなっていた。

 セシルは、この世界での暮らしを少しずつ受け入れ始めたのだと思っていた。

 けれど違った。

 帰りたいと願わないのではない。

 口にしても帰れないと、諦めてしまっただけだったのだ。

 そのことに、セシルはまだ気づいていなかった。


「美香様」


 静かに声をかける。


「浄化の儀式まで、もう少しです」

「はい、頑張ります」


 美香は穏やかに頷いた。

 その一言に、セシルは少しだけ安心する。

 だが、その安心は長くは続かなかった。

 窓辺に歩いていく美香の背中は、召喚された日よりもずっと小さく見えた。

 日に日に痩せていくその姿を見つめながら、セシルの胸には拭いきれない不安だけが残っていた。


◇◇◇


 召喚から一か月。

 ついに浄化の儀の日がやってきた。

 朝早く、美香は緊張した面持ちで身支度を整えていた。

 扉が控えめに叩かれる。


「美香様、お迎えに参りました」


 聞き慣れた声に、美香は小さく息を吐いた。


「はい」


 扉を開けると、そこにはいつものようにセシルが立っていた。

 二人は並んで神殿の奥へと歩き始める。

 廊下を歩きながら、美香はぽつりと呟いた。


「……今日が終われば、本当に何か変わるんでしょうか」


 その言葉に、セシルは足を止めそうになった。

 帰れるかどうか。

 その答えを、セシルは知らない。

 けれど、不安そうな美香を前に、何も言わないこともできなかった。


「神は美香様をお選びになりました。浄化の儀が無事に終われば、きっと道は開けます」


 美香はその言葉を聞き、小さく笑った。


「ありがとうございます」


 その笑顔を見て、セシルもほっと胸をなで下ろした。

 やがて二人は、大聖堂へと辿り着く。

 召喚の儀が執り行われた場所だった。

 白い法衣をまとった神官たちが静かに並び、その中央には天井まで届くほど大きな一本の神樹が立っている。

 世界の浄化を司る神樹。

 淡い光を放つ葉には、ところどころ黒い染みが浮かび、太い幹にも黒い筋が走っていた。


「どうぞ、聖女様」


 神官長に促され、美香は神樹の前に進む。

 両手を幹に添え、静かに目を閉じた。

 次の瞬間、美香の足元から魔法陣が浮かび上がる。

 淡い金色の光が腕を伝い、神樹へと流れ込んでいった。

 光は幹から枝へ、枝から葉へと広がっていく。

 黒く染まっていた葉が、次々と鮮やかな緑を取り戻した。

 大聖堂全体が眩い光に包まれる。

 セシルは息をのんだ。


(これが、聖女様の力……)


 やがて光が弱まり、静かに消えていく。

 神樹の葉の多くは緑を取り戻していた。

 けれど、幹の奥に残る黒い筋は、完全には消えていなかった。

 そのことにセシルが気づくより早く、美香の身体が大きく揺れる。


「美香様!」


 セシルは慌てて駆け寄り、その身体を支えた。


「大丈夫です……少し、力が抜けただけです」


 美香は苦しそうに息をしながらも、小さく笑った。

 神官長が二人の前に進み出る。


「お見事でした、聖女様。世界は再び清められました」


 その言葉を合図に、神官たちから安堵の息が漏れた。


「神に感謝を」

「聖女様のお力に感謝いたします」


 次々と向けられる言葉に、美香は少し照れたように頭を下げる。


「お疲れでしょう。今日はゆっくりお休みください」

「はい」


 神官長が視線を向けると、控えていた侍女が美香のそばに進み出た。


「お部屋までお送りいたします」

「あの、私も——」


 セシルが付き添おうとすると、神官長に呼び止められた。


「セシル。あなたは残りなさい」


 思いがけない言葉に、セシルは振り返る。


「……承知しました」


 美香は少し不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにセシルに笑いかけた。


「また後で」

「はい。後ほど、お部屋に伺います」


 侍女に付き添われ、美香はゆっくりと大聖堂を後にした。

 重い扉が静かに閉まる。

 その音が響いた途端、先ほどまで大聖堂を満たしていた穏やかな空気が消えた。

 神官たちの顔から笑みが失われる。

 誰も言葉を発しない。

 重苦しい沈黙の中、神官長は静かに神樹を見上げた。


「やはり、足りませんでしたか」


 一人の神官が低い声で尋ねる。


「ああ」


 神官長は、幹に残った黒い筋を見つめたまま頷いた。


「表面の穢れは祓われたが、根にまで浄化の力が届いていない。このままでは、遠からず再び瘴気に蝕まれる」


 セシルは耳を疑った。


「お待ちください」


 思わず声を上げる。


「先ほど、世界は清められたと……」


 神官長はゆっくりと振り返った。


「あの場で聖女を不安にさせる必要はありません」


 あまりにも平静な返答だった。

 セシルの胸がざわつく。

 神官長は最初から、浄化が不十分だと分かっていたのだ。


「では、美香様は……」


 続く言葉を口にするのが怖かった。

 神官長は周囲の神官たちに視線を向ける。


「皆は下がりなさい」


 神官たちは静かに頭を下げ、一人ずつ大聖堂を出ていった。

 やがて残されたのは、神官長とセシルだけになる。


「こちらへ」


 神官長に促され、セシルは大聖堂の奥にある小さな控え室に入った。扉が閉められる。

 窓のない室内には、息苦しいほどの静寂が満ちていた。


「セシル」


 神官長は向かい合うと、静かに口を開いた。


「あなたは聖女の世話係として、最後まで関わる立場です。本来なら、浄化の結果が出た後に知らされることになっています」

「何を、ですか」


 神官長はしばらくセシルを見つめていた。


「聖女の召喚は、美香様が初めてではありません」


 セシルは目を見開く。


「……え?」

「これまでにも、神殿は異なる世界から何人もの聖女を召喚してきました」


 思考が追いつかない。

 そんな話は、一度も聞いたことがなかった。


「では、以前の聖女様たちは、今どこに……」


 神官長は表情を変えないまま答える。


「皆、浄化の儀に臨みました」

「それでは、今は……?」


 問いかけながら、セシルの声が震える。

 神官長は迷うことなく告げた。


「十分な力を示せなかった聖女は、処分されます」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……処分?」

「次の聖女を召喚するためです」


 セシルの全身から血の気が引いていく。


「そんな……」

「聖女の魂がこの世界に存在する限り、新たな召喚の門は開きません」


 神官長は淡々と続ける。


「神樹を救える力を持つ聖女が現れるまで、召喚を繰り返す必要があります」

「では……」


 さっきまで笑っていた美香の顔が、脳裏に浮かぶ。


「美香様も、処分されるのですか」

「その可能性は高いでしょう」


 神官長の声には、少しの揺らぎもなかった。


「今回の浄化では足りませんでした。このまま神樹の穢れが広がれば、世界中に瘴気が満ちることになります」

「ですが、美香様は一生懸命やっておられました!」


 思わず声が大きくなる。


「毎日練習を重ね、文字も儀式の手順も必死に覚えて……今日だって、立っていられなくなるほど力を使ったのです!」

「努力だけで世界は救えません」


 静かな声が、セシルの言葉を遮った。


「この世界には何百万という民が暮らしています。一人を救うために、そのすべてを危険に晒すことはできません」

「だから、何の罪もない方を殺すのですか」


 神官長は静かにセシルを見つめる。


「必要な犠牲です」


 あまりにも簡単に告げられた言葉に、セシルは爪が食い込むほど手を握った。


「元の世界へ帰すことはできないのですか」

「できません」


 迷いのない返答だった。


「帰還の術は存在しません」


 その一言が、胸に深く突き刺さる。

 美香はもう二度と故郷へ帰れない。

 家族にも、友人にも、大切な人にも会えない。

 最初から、帰る道など用意されていなかったのだ。


「では、なぜ美香様にそのことを伝えなかったのですか」

「伝える必要がないからです」

「必要がない……?」

「帰れないと知れば、多くの者は絶望します。儀式に協力しなくなる可能性もある」


 神官長は淡々と続ける。


「聖女には希望を持ったまま、浄化に臨んでいただく方がよいのです」


 セシルは愕然とした。

 美香が何度も尋ねた言葉を思い出す。

 帰れるのか。

 儀式が終われば何かが変わるのか。

 自分は何も知らず、きっと道は開けると答えてしまった。


「……美香様には、処分についても伝えないのですか」

「もちろんです」


 神官長は静かに答える。


「残された時間を、少しでも穏やかに過ごしていただきます」


 それは本当に優しさなのだろうか。

 何も知らされないまま、最後の時を迎えさせることが。


「セシル」


 神官長の声が低く響く。


「今聞いたことを、美香様に話してはなりません」


 その声音には、有無を言わせない重みがあった。


「これは神殿の決まりです。破れば、あなたも処罰の対象となります」


 セシルは俯いた。

 握りしめた拳が小さく震える。

 美香を救いたい。

 せめて真実を伝えたい。

 けれど、それをすれば、自分も美香のそばにいられなくなるかもしれない。


「……承知しました」


 絞り出すように答える。

 返事はした。

 だが、胸の中では激しい葛藤が渦巻いていた。


◇◇◇


 神官長との話を終えたセシルは、気づけば美香の部屋に向かっていた。

 何を話せばいいのか分からない。

 いや、何も話してはいけない。

 頭では理解している。

 それでも足は、美香の部屋に向かっていた。

 扉の前で深く息を吸う。

 ノックをすると、すぐに返事が聞こえた。


「どうぞ」


 部屋に入ると、美香が穏やかに微笑んだ。


「セシルさん」


 その笑顔を見た瞬間、胸が締めつけられる。


「聞きたいことがあったんです」


 美香はゆっくり立ち上がった。


「あの……」


 少しだけ緊張したように笑う。


「私、帰れますよね?」


 その一言に、セシルは言葉を失った。

 答えられない。

 答えてはいけない。

 唇を動かそうとしても、声にならなかった。

 視線が床に落ちる。

 長い沈黙が部屋を包んだ。

 美香はその様子を見つめる。

 やがて、小さく息を吐いた。


「……帰れない、んですね」


 セシルは顔を上げることができなかった。

 沈黙だけが、その答えを伝えていた。


「……そうですか」


 美香は小さく笑った。

 その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも儚かった。

 セシルは俯き、震える手を法衣の中に隠した。

 初めて美香と出会った日。

 『安心して過ごせるよう、私たちが支えます』

 そう言った自分の言葉が、胸の奥で何度も繰り返されていた。


 浄化の儀から数日が過ぎた。

 その間も、セシルは欠かさず美香の部屋に通っていた。


「失礼します」


 扉を開けると、美香は窓辺の椅子に腰掛けたまま、庭園を眺めていた。

 振り返るだけでも力を使うように、その動きはゆっくりだった。


「セシルさん」


 微笑もうとする。

 けれど、その笑みにはもう以前の明るさは残っていなかった。

 机の上には、ほとんど手をつけられていない食事が置かれている。


「ほとんど召し上がっていませんね」

「……あまり食欲がなくて」


 小さな声だった。


「少しでも召し上がらなければ、お身体がもちません」

「そうですね」


 そう答えながらも、美香は皿に手を伸ばそうとはしなかった。セシルは食事を勧め、ときには元の世界の話を聞こうとした。

 しかし、美香は日に日にやつれていった。

 食事の量は減り、話す言葉も少なくなる。

 以前は楽しそうに語っていた元の世界の話も、もうしなくなっていた。


 ある日のことだった。

 静かな部屋で、美香がぽつりと呟く。


「私……失敗したんですね」


 セシルはすぐに首を振った。


「そんなことありません。美香様のお力で神樹は浄化されました」


 その言葉を聞いても、美香は静かに微笑むだけだった。


「だったら」


 少し間を置いて、続ける。


「どうして誰も来なくなったんですか」


 セシルは言葉が出なかった。


「私のところに来るの、セシルさんだけですよ」


 その事実を、否定できなかった。

 侍女が最低限の世話をするだけになっていた。

 浄化の儀までは毎日のように声をかけてくれていた人たちが、今は姿を見せない。


「もう分かっているんです」


 窓の外を見つめたまま、美香は静かに言う。


「でも……帰れないならもう……どうでもいいんです」

「そんなこと言わないでください!」


 気づけば、セシルは声を荒げていた。

 美香は少しだけ寂しそうに笑った。


「私には帰る場所があるんです。家族も……大切な人もいます。友達も。みんなと……」


 声が少し震える。


「もう一度だけでいいから、会いたいんです」


 一筋の涙が頬を伝った。


「それなのに、もう二度と帰れない」


 その言葉を聞いたセシルは、何も返すことができなかった。

 どんな慰めも、今の美香には届かない。

 自分は真実を知りながら、それを覆すことも、伝えることもできない。


「……また来ます」


 それだけを告げて部屋を後にする。

 扉が閉まると同時に、セシルは廊下の壁に静かにもたれかかった。

 拳を強く握りしめる。

 どうすれば、美香を救えるのだろう。

 その答えは見つからなかった。


◇◇◇


 それから数日。

 何もできないまま、その日はやってきた。

 朝から冷たい雨が降り続いていた。

 窓を打つ雨音だけが、静かな廊下に響いている。


 セシルは美香の部屋の前に立っていた。

 扉の前には数人の神官が並んでいる。

 今日が何の日なのか、誰も口にはしなかった。

 それでも、その場にいる全員が知っていた。


 やがて扉が開く。

 美香は静かに部屋から姿を現した。

 痩せた頬に、それでも穏やかな笑みを浮かべている。


「参りましょう」


 神官に促され、美香は小さく頷いた。

 どこへ連れていかれるのか、美香には知らされていないはずだった。

 それでも、彼女はすべてを悟っているように見えた。

 歩き出そうとしたその時、不意にセシルの前で足を止める。


「セシルさん」


 優しい声だった。


「短い間でしたけど、お世話になりました」


 セシルは言葉を失う。


「私、この世界に来た時は本当に怖かったんです」


 美香は少しだけ微笑んだ。


「でも、セシルさんだけは最後まで、一人の人として接してくれました」


 そう言って、深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


 それだけを残し、美香は再び歩き始めた。

 セシルは、その背中を見送ることしかできなかった。

 廊下の先にある重い扉が閉まる。

 鈍い音が響き渡る。

 それきり、美香がその扉から戻ってくることはなかった。


◇◇◇


 数時間後。

 セシルは、美香の荷物を地下の保管庫に運ぶよう命じられていた。

 机の上には、一つの鞄が置かれている。

 召喚された日、美香が持っていた荷物だった。

 セシルはそっと鞄を抱き上げる。

 地下へ続く石階段を下りるたび、冷たい空気が肌を撫でた。


 最奥の部屋には、棚が何列も並んでいる。

 棚の上には、小さなぬいぐるみが置かれていた。

 その隣には、表紙が擦り切れた本。

 色あせた髪飾り。

 見たことのない鞄や、この世界にはない道具。

 どれも、召喚された聖女たちが残したものだった。

 セシルは空いている場所に、美香の鞄を静かに置く。

 その瞬間、胸が締めつけられた。

 美香だけではない。

 この場所には、同じ運命を辿った人々の想いが、静かに眠っていた。


「召喚の準備を始めます」


 地下室の入口から、神官長の声が響いた。

 セシルはゆっくり振り返った。


「……もう、ですか」

「世界は待ってはくれません」


 神官長はそれだけ告げると、静かに部屋を後にした。


◇◇◇


 再び、大聖堂。

 白い法衣をまとった神官たちが静かに並び、床一面に描かれた魔法陣が淡く輝いていた。

 セシルは列の最後尾に立つ。

 誰よりも、この先に待つ運命を知りながら。


 やがて魔法陣が眩く光を放つ。

 一人の少女が姿を現した。

 辺りを見回した少女は、大きく目を輝かせる。


「すごい……! 本当に異世界なんだ!」


 期待と喜びに満ちた笑顔だった。

 神官長が一歩前に進み、穏やかに微笑む。


「おめでとうございます。聖女様。あなたは神に選ばれました」


 その言葉を聞いた少女は、嬉しそうに笑った。

 セシルは、その姿から目を離すことができなかった。

 あの日、自分も同じ言葉で美香を迎えた。

 心から祝福し、その先に待つ運命など何も知らずに。

 けれど、もう違う。

 祝福の言葉は、喉まで込み上げても、口にすることはできなかった。

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