第9章 真緒の終わらせ方
真緒は、携帯を握りしめ、公衆電話の前に立った。
マンションのエントランスホールの隅。
少し奥まったところ、それを設置するためにつくられたとおぼしき、浅くへこんだスペースに、その電話はあった。
バッタ色の、のっぺりした四角い公衆電話。
毎日、そばを通っているのに、そこに存在することさえ、知らなかった。
見えていたのかもしれないが、見ていなかった。使う必要がないものだから。
そういえば、真緒がここに引っ越してきたとき、大家さんが言っていた。やっぱり公衆電話は、大きな災害が起こったときなんかには、頼りになるからねって。
公衆電話を使うのなんて、どれくらいぶりだろう。
最後に使ったのは、たぶん、小学生の時だ。
真緒は、携帯の画面を開け、アドレス帳を表示する。
彼の名前、電話番号、メールアドレス、住所。
登録しているので、電話番号を覚える必要もなかった。
番号をいちいち押して電話をかけるのは、初めてだ。そして、最後にもなるだろう。
真緒は、思い出したのだ。
彼の母は、携帯電話を持っていない。
今時、めずらしいよね、と彼は言っていた。機械に滅法弱くて、テレビ番組の録画も出来ないし、食洗機も満足には使えないらしい。
だから、彼に用事があるときは、自宅の電話か、公衆電話を使う。
それなら、彼は、公衆電話からかかってきた電話には出るだろう。
彼の友人知人で、公衆電話からかける人は、まずいない。母親以外は考えられないに違いない。
それで真緒は、公衆電話を使うことにした。彼は、真緒の携帯からの電話には決して出ないからだ。
少し卑怯なやり方かもしれないが、それはお互いさまというもの。彼だって、卑怯な別れ方をしようとしているのだから。
とにかく、彼と話をしなければならないのだ。
真緒は、百円玉を細長い隙間に落とした。
硬貨は電話の中に吸い込まれ、受話器から、携帯よりもはるかに大きくてクリアな、途切れることのない無機的な発信音が聞こえる。
真緒は、携帯のアドレス帳を見ながら、ゆっくりとボタンを押した。
発信音は、コオロギの鳴き声に似た、揺れるような音に変化した。
呼び出している。
彼は、出るだろうか?
音が消える。
真緒は、ぎゅっと携帯を握りしめる。
息が止まりそうだった。
「もしもし?」
彼の声だった。
懐かしい、低い声。
ずっと、ずっと、この声が聞きたかった。
「もしもし」と、真緒も言う。
しばしの沈黙。
そりゃあ、驚くだろう。母親からの電話からだと思って出てみたら、別れたつもりの元カノだったのだから。
「元気?」
真緒は、出来るだけ明るく、言った。
「うん……」と、彼が答える。
戸惑っている。
バツが悪いというか。
今さら何の用だ、というニュアンスも混じっている。
だけど、負けない。
絶対、気後れなんかしない。
真緒は、短い時間で、呼吸を整える。
「新しい彼女とは、うまくいってる?」
真緒は、たずねた。
その質問をすると、いったいどういう返事がかえってくるのか。
それが知りたかった。
「あんまり。最初思ってたのとは、少し、違うかな。もうすぐ別れるかもしれない」
それが、彼の答え。
真緒に対して、悪びれる様子もない。
携帯で話す彼の声のほうが、もう少しマイルドで、やさしかった。
公衆電話の彼の声は、なんだかキンキンしていて、耳障りだった。
そして、情報は、それで十分だった。
つまり、やっぱり彼には新しい彼女が出来ていて、真緒とは別れていたのだ。
電話もメールも拒否されたのは、そういうこと。
わかってはいたけれど、ショックはある。
しかも、もうすぐ別れるって? 新しい彼女と?
別れるって……そう言った?
「久々に、真緒の作った料理、また食べたいな」
彼が、電話の向こうで呟いた。
無邪気な子供のように。真緒がよく知っている、いつものあの調子で。
それは、ほんの刹那の、甘い誘惑。
とろけそうな、お菓子のような。
これでもかというくらいの砂糖とクリームとバターを入れて作った、カロリーの高い、でもおいしそうなケーキのような。
傷ついた心が、震える。
そして、無理やり押さえつけないと、暴れ回りそうになる。
真緒は、一瞬、迷った。
もし、OKしたら?
たぶん、この週末にでも、あの時間が戻ってくる。
真緒がキッチンで料理を作り、彼がソファでなごむという、あのパターン。
あの穏やかで楽しい、素敵な時間が、また返ってくる。
それは、真緒が落ち込んでいたこのつらい期間、いちばん欲しかったものだった。
それが二度と戻ってこないことが悲しくて、寂しくて、せつなくて泣き暮らした。
ちょっと勇気を出すだけで、それがまた戻ってくる。軽く、首を縦にふるだけで。
彼に「うん、いいよ」と短く返事するだけで。
けれど――。
厳密には、そうはならないだろう。
もし彼とよりを戻して、またあの時間を手に入れることができたとしても、それは一時的なもの。
彼は再び新しい彼女を求め、真緒はまた、泣くことになるだろう。
遅かれ早かれ、そういうことになる。
そして、一度OKしてしまえば、それが何度も何度も繰り返されるはめになることも。
桃華に忠告されなくても、今はそれがわかりすぎるほどに、わかる。
たぶん、そういう人なのだから。
例えば、前に読んだ本の中身と結末が、もう既にわかってしまっているように。
同じ本は何度読んでも、変わることは決してないのだ。本の同じところで突き出た同じトゲで、同じように、また怪我をしてしまう。
もう自分は、その本を選んではならない。
手に取るなら、まだ読んでいない新しい本にしなければ。
私にも、プライドはある。
それは、もちろん、流されて薄っぺらなものにしてはいけないし、私が私であるためにも、守らなくてはならない。
決断するのに、そう時間はかからなかった。
たぶん、一秒もかかっていなかったかもしれなかった。
真緒は、彼に言った。
「私はもう、あなたに料理は作れない」
「……そうか。残念だね」
彼が電話の向こうで言った。本当に、残念そうに。
「うん。とても残念だ」
真緒も復唱する。礼儀的に。
「それじゃね」と、彼。
「うん。じゃあね。いろいろ、ありがとう。楽しかったよ」
「ぼくも楽しかった。ありがとう」
そう。自分は、ずっとこの言葉を聞きたかったのだ。
きちんとした別れの言葉。
別れるときには、やっぱり別れの言葉をちゃんと言ってくれないと、わからないよ。
方向を見失ってしまう。
心の行き場が、なくなってしまう。
行き場がなくなった心は、ぐるぐる回って、みんなに心配かけて、長い長い時間に癒してもらって、いつか、やんわりと昇天させるしかない。
本当は、彼には、言いたいことは山ほどあった。
泣き叫んで、文句を言って、彼を責めて……。
そういうのを修羅場っていうのだろうか。
電話だから、そうひどくはならないとは思うけど。
でも、そういうのは、やめる。
彼がひくことは目に見えているし、自分が惨めになる。
スマートに、オトナとして、お別れする。
「さよなら」
真緒は、受話器を置いた。
それは、彼が電話を切るよりも、たぶん、とても早かったと思う。
きっと彼は、真緒が電話を切ったそっけない濁音と、その後に永遠のように続く無機的な連続音をまともに聞いてしまったに違いない。
真緒が彼に対して行った、小さな小さな、最後の意地悪だった。
真緒は、深く呼吸をする。
息を吐くと同時に、体の内部にずっとこびりついていた、目に見えない涙の固まりが、一つ残らず全部抜け出て行ったような気がした。
でも……。
もしかして、結局、思いがけなくも、だけど。
結果としては、私が彼を振ったことになるのかな?
すっかり闇に染まった外の冷たい空気が、ホールに流れ込んでくる。
真緒は冷えた携帯電話を握りしめ、両手で肩を抱いて、階段を上がった。