第7章 謎の女子高生(飼い主登場)
真緒は、ドアを開けた。
浪人生が、少し緊張した面持ちで、そこに立っていた。
「そのバスケット、どうしたの? 猫用のでしょ?」
「ああ、これ」
彼は、籐のバスケットを掲げてみせた。
デフォルメされた黒猫の顔とおさかなのアップリケが、変にかわいい。
「犬用のキャリーバッグを持って家を出ようとしたら、おふくろに質問されてね。知り合いの猫を入れるって言ったら、ちょっと待ちなさいって、これを出してくれた。やっぱり犬用のに入れようとしたのは、ヒンシュクだったみたいだね」
「当たり前でしょ。犬さんも大迷惑だろうしね。あなたの家には、猫もいるの?」
「ばあちゃんが飼ってた猫のだよ。その猫も、ばあちゃんが死んだあと、いなくなった。もうかなりの高齢だったから、死に場所を探しに行ったって、みんな言う」
「あなたの家族って、おばあさんとあなたが普通の人間じゃないって……」
「知るわけがない」
彼は、肩をすくめた。
「ぼくだって、ばあちゃんが死ぬまで、知らなかった。わざわざ言う必要もないことだしね」
「それもそうだね。……どうぞ」
真緒はドアを開けたまま彼に言ったが、彼はそこに突っ立っていた。明らかに、ためらっている。
「入らないの?」
「その……」
彼は、口ごもる。
「なに?」
「一人暮らしの女性の部屋って、入ったことないから」
真緒は、吹き出しそうになる。
「お仕事でしょ。別の世界の魔物さん。照れないの」
真緒は、服の上から彼の腕を軽くつかんだ。
その手は、つい最近まで真緒の部屋に来ていたあの彼氏より華奢な手だったが、しっかりした存在感があった。
「最近掃除をさぼってたから、ほんとは汚かったんだけど、帰ってみたら、ほぼ黒猫さんがきれいにしてくれてたの」
「あの猫は、きみんちの家政婦か?」
彼が、あきれたように言う。
「あ、でも、ベッドの上は見ないでよね。床に散らかしてたものが、全部ベッドの上に行っちゃってるから」
「ベッド?」
「今、一瞬、変なこと考えたでしょ」
「か、考えてないっ!」
彼が、玄関で靴を脱ぎながら、顔を赤くして叫んだ。
「冗談よ、冗談」
真緒は、笑う。
「カレーの匂いがする」
真緒の部屋に入った浪人生が、呟いた。
「ほぼ黒猫さんが、今度はカレーを作ってくれたの」
「オーソドックスでポピュラーなメニューを選んだな」
彼が、自分の部屋にいる。
それは、なんとなく変な感じだった。
やはりそれは、見慣れたもので構成されている真緒の部屋に、見慣れていない彼が突っ立っているせいなのだろう。
ベランダからソファに戻ったほぼ黒猫は、古代エジプトの猫神の彫像を思わせるような、きっちりしたポーズをして、彼を見つめていた。
目が、必要以上にキラキラ光っている。
「小旅行は、もうおしまいだ。この中に入れ。おまえの家まで送ってやるよ。それか、自分で勝手に帰るか?」
浪人生が、バスケットを開けて床に置くと、ほぼ黒猫は、ちらっとそれを見た。そして、大きな欠伸をする。口の中の、とがったキバと歯が見えた。
「なんか、完全になめられてるような気がするんだけど」
「ぼくはまだ新人だから、仕方がない。やつは、何百年も生きている。こっちの世界で過ごした年月も、ぼくの今までの人生よりも長いだろうしね」
ほぼ黒猫は、尻尾をくねらせながら、ソファの背もたれの上に移動した。
そしてそこから、真緒の肩の上に飛び乗る。
あっという間だった。
何か風がきたと思ったら、ほぼ黒猫が肩に乗っていた。
あたたかくて、くすぐったい。
それほど重くはなかった。
「おまえは、鳥か?」
彼は、それこそ黒い梟のように真緒の肩に止まっているほぼ黒猫に向かって、突っ込みを入れる。
「ほぼ黒猫さん。名残惜しいけど、きみはもう、帰ったほうがいいよ。きみがここから出ていかなきゃ、この彼も、家に帰れない。彼は受験生だから、帰って勉強させてあげなきゃいけないよ」
真緒が言うと、<ふうーん?>という感じで、ほぼ黒猫は、浪人生を眺める。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「誰か来た」
真緒は、猫を肩に乗せたまま、呟く。
平日のこういう時間に、いきなり誰か知っている人が来ることは、ありえない。
友達なら、メールにしろ電話にしろ連絡があるはずだし、光熱費の支払いなんかも、全部引き落としにしているから、集金の人が来ることもない。
となると、宅配便とか、新聞の勧誘とかだろうか。
「ああ、ぼくが開けるよ」
猫を肩に乗せたままでは無理だと判断したのか、浪人生は、さっと玄関に移動して、ドアを開けてくれた。
「こんばんは」
ドアの向こうから、一人の少女が現れる。見知らぬ女子高生だった。
肩ぐらいまでの真っ直ぐな髪。少し釣り目がちの、黒曜石のような目。ルージュはまだひいていないに違いないのに、どこか艶めいて見える薄紅の唇。
そして彼女が着ているのは、襟が白い、紺色のレトロっぽいセーラー服だった。
真緒が今年の三月まで着ていた制服だ。知りすぎるほどによく知っている制服。
襟の後ろには懐かしい星マークがある。スカーフも、何百回結んだことだろう。
制服のなじみ具合からすると、二年生ぐらいだろうか。
彼女は、ドアを開けた浪人生を見上げた。そして、微笑む。
「あらら。見張り人グループの記録係さんじゃない。あなたもいたんだ」
浪人生は、真一文字に口を引き結んだ。
その美少女の白目もまた、心配になるくらい、青味がかっていた。心配を通り越して、不気味さを感じさせる一歩手前の、それほどの青だ。
彼女は、真緒に視線を移動させる。
ほぼ黒猫が、真緒の肩の上で、にゃーと鳴いた。
真緒は、初めて、彼の鳴き声を聞いた。
「うちの猫が、すっかりお邪魔してしまったようですね」
少女が言った。
「あなたは、この猫の飼い主?」
真緒がたずねると、少女は、頷く。
「手間が省けた。彼女に連れて帰ってもらおう」
浪人生が言う。
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル」
女子高生は、呪文のような言葉を呟いた。
すると、ほぼ黒猫は返事をするように鳴いて、真緒の肩を蹴り、女子高生の肩に飛び移る。
真緒の肩は軽くなった。けれどもその代わりに、なんともいえぬ寂しさが、ごく軽くかぶさってきた。
踏み台にされて蹴られたあたりも、ずきっと痛かった。
「その長いのが、この猫さんの名前?」
真緒が訊くと、ほぼ黒猫、もといロビー何とかかんとかが、真緒をちろっと見る。
<じゅげむか! なんて突っ込むんじゃないぞ>と、その目は言っていた。
「いつもは省略して、単に『ロビン』って呼んでますよ。うちの父は、『ナチグロ』って呼んでるけど」
女子高生が言った。
「その猫、もう二度と他の人の家に入り込まないように、ちゃんと管理しとけよ」
浪人生が、女子高生に言う。
「パソコン使ったり、料理作ったり、度を越している」
「へえ。パソコン使って、料理を作ったんだ」
彼女は、意外そうに、肩に乗っかっている飼い猫を眺めた。
「うちでは、おおっぴらにそういうこと、出来ないもんね」
「だからといって、誰かの家でさせるな」
浪人生が言うと、彼女は、少し眉をひそめる。
「さっきから、横柄な口のきき方しているけど。わたしにそういう態度取っていいの、記録係?」
真緒の体の表面に、鳥肌が、ざわっと立つ。
この子、何者?
やっぱり、別の世界とかかわりがある人物なんだろうけど。
それにしても、この圧倒的な威圧感は……。
目つきの悪いビジュアル系青年ほどの、不安を感じるようなあやしさは持ってはいないが、それでも彼女には、その場の空気を総毛立たせるような何かがある。
「もし向こうに行くことがあって、たまたまあんたに会ったら、いくらでも挨拶してやるよ。ひざまずいて、頭をさげて、うやうやしく、丁重に。だけど、この世界では、あんたはただの女子高生だ。ぼくよりも年下だしね。だからそういう前提であんたと接する」
浪人生が、臆することなく、彼女に言った。
「あなたの仲間の警告係さんは、ちゃんと正式な挨拶をしてくれたけど?」
「彼は、頻繁に向こうとこちらを行き来して、向こうの世界でも暮らしている。でも、ぼくは、向こうへは行かない。ぼくの世界はここなんだから」
「あなたは、こちらを選ぶってわけだね」
「あんたも、もうすぐ受験だろ。二つの世界の現実に悩むといいさ」
「いやなこと言うね、記録係。それでなくても、単位落としそうなのに」
少女は、肩をすくめた。彼女の肩に止まったほぼ黒猫が、それに合わせて上下する。
K学院に通ってるなら、勉強、大変だろうな。
彼女と同じ高校にいた真緒は、彼女をちょと気の毒に思う。
真緒も、それなりに苦労した。単位を落とすところまではいかなかったが。
彼女は真緒の感想を見抜いたように、真緒を真っ直ぐ見た。
「きみの高校の先輩だ。現役でS大に合格した、優秀な女子大生」
浪人生が言う。
突然ふられて、真緒は、あせる。
そ、そこまで言わなくても。
「じゃあ、家庭教師、してもらおうかな。格安料金にしてくれるなら」
少女が、真緒に笑いかける。
そう言ったのが、本気なのか冗談なのか、真緒にはわからなかった。
「彼女、あなたの正体を知ってるんだね。でも、そういう人もいたほうがいいかもしれないね」
女子高生が呟く。
「この猫さんが、私に料理を作ってくれた理由って何なのかしら? この部屋に来た理由は?」
真緒は、女子高生にたずねてみた。
彼女ならわかるだろうか。飼い主なんだし。
女子高生は、しばらく考えたあと、答える。
「んー、わからないです。でも、たぶん、たいした理由ではないと思いますよ」
「たいした理由じゃない?」
「だって、猫だもの。向こうではともかく、こちらでは、ただの猫なんです」
少女が言って、いたずらっぽく微笑む。
「猫がじゃれるのに、たいした理由はない。じゃれたいから、じゃれる。動きを目で追ってて、我慢できなくなったから、じゃれる」
浪人生が、解説するように言った。
「たぶん、そういうことでしょう。それじゃ、わたしたちは、これで。お邪魔しました」
女子高生は、その年代の女の子たちがよくやるような感じで、ぺこりと頭を下げた。
肩に止まったほぼ黒猫も、頭を下げる格好になる。
「あ。待って」
真緒は、ほぼ黒猫の前足をそっとつかんだ。
ほぼ黒猫は、前足を引っ込めることなく、真緒におとなしくつかまれていた。
<最後だから、握手くらいはしてやるよ>と、そのやわらかい肉球は言っていた。
「ありがとう。あなたのおかげで、元気が出た。料理も、おいしかった。あのメニュー、私も作るね。ケーブルテレビの番組も、見てみるよ」
ほぼ黒猫は、黙って透明な金色の目で真緒を眺めていたが、その目からは、何の表情も読み取れなかった。やはり、猫なのだから、仕方がないのかもしれない。
真緒は、ほぼ黒猫に手を回して、彼の体をぎゅうっと抱いた。
それは、たぶん、その女子高生を抱きしめて、耳元でささやくように見える体勢になってしまった。
現に、浪人生は、ぎょっとして、目の前の真緒と女子高生とほぼ黒猫を交互に見比べる。
「さよなら、ほぼ黒猫さん」
「ごきげんよう、先輩。それから、記録係さんも」
女子高生は、手を広げ、ステップを踏むように、二人に挨拶をした。
それは、涼しげで優美な仕草だった。
それからほぼ黒猫を肩に乗せたまま、女子高生は、真緒の部屋から出て行った。
ドアの閉まる音が、妙に物悲しく、長く間延びして響いた。
「結局、これ、使わなくてすんだな」
浪人生がつぶやいて、籐のバスケットの蓋を閉める。
「ご主人様登場とは、正直、びっくりしたけど」
「あの子、何者?」
「彼女も、半分は向こうの世界の住人。半分は、こちら側」
「彼女、向こうでは、お姫さま? ひざまずいて挨拶って……。それとも、あなたの上司とか?」
「姫君には、違いない。上司でもあるかもね。でも、もっとやっかいな存在だ」
浪人生は、軽くため息をつく。
「もしかして、あなたが入試のときに私を覚えていたのは、私が彼女と同じ高校の制服だったから?」
「偶然だよ。そりゃあ、うわー、同じ制服だーって、最初に思ったのは事実だけどね。それ以上の意味はない。でも、あのセーラー服は、やっぱり、かわいいな」
「記録係って……。それがあなたの役目?」
「うん。あいにくぼくらには、事務所もないし、コンピューターもないからね。この世界に入ってきたり、行き来しているものたちの膨大で詳細なデータは、全部ぼくの頭の中。それを保存して、仲間に提供するのがぼくの役割。ばあちゃんから引き継いだ能力だ」
「それは……受験生にはつらい仕事だね。じゃあ、あの目つきの悪いビジュアル系さんは?」
「彼は、警告係。他にも、探知係とか仕置係、始末係なんかもいる」
「ネーミングからして、おっそろしいグループ」
「古いテレビ番組の見すぎだって。仕置係と始末係が出てこなきゃならないほどの騒動は、そう頻繁には起こらないよ」
浪人生は、バスケットを抱えた。
「ぼくも、帰る。きょうはなんだかんだで予備校はさぼっちゃったけど、でも、面白い一日だった」
「うん。私も」
真緒は、答えながら、ますます寂しさを感じる。
そう。彼の役目も、終わったのだ。ほぼ黒猫がこの部屋から出て行ったのだから。
彼も、戻る。自分の生活に。
そして、真緒も、戻らねばならない。いつもの日常に。
「きみは、これから晩ご飯かな。あの猫が作ったカレーで」
「その前に、私は、公衆電話を探さなきゃ」
「公衆電話? きみ、ケータイは……」
「もちろん、持ってるよ。でも、公衆電話がいるの」
「よかった。ケータイは、持ってるんだ」
浪人生は、安心したように、つぶやいた。
「でも、公衆電話なら、このマンションにあるよ」
「え?」
「一階のエントランスホールの隅っこにさ。知らなかったの?」
「あ。そうか。そういえば、あったんだ。あのへんに」
浪人生は、声を出して、笑った。
声のトーンも、笑い方も、そして、笑顔も。全部、感じがよかった。
「きみも、結構、何かと損してる性格なのかもしれないね。まあ、ぼくも、人のこと言えないけどね」
「私も、そう思う」
「では、来年の春、大学で会おう、先輩」
彼は、手を差し出す。
真緒は、素直に彼の手を握った。
少し冷えた、でも、真緒よりも大きい、男の子の手。
しっかりと真緒の手を包み込む。
ほぼ黒猫とは、お互いの手の構造上の問題で、正式に握手は出来なかったけど、彼とはちゃんと出来た。
そして、彼もまた、ほぼ黒猫と女子高生に引き続き、真緒の部屋からいなくなった。
真緒の部屋が、急に静かになる。
部屋の中が、がらんと広くなり、照明もやけに明るくなった。
たくさんの、素敵な魔物たちが突然やってきて、あっという間に通り過ぎて行った。一瞬の夢のように。
「……感傷にひたってる場合じゃない」
真緒は、携帯電話を握りしめた。
「ひとつ終わらせなければ、ひとつ前には進めない。私が今の状況から脱出して、次の扉を開けるために、あなたにも、無理やりにでも、協力してもらうからね」
真緒は画面を開け、送信履歴に永遠のように出てくる同じ名前をにらみつけた。