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第6章 逢う魔が時の訪問者

 源氏物語の講義では、数枚のプリントが配られた。

 そこには、ミミズがのたくった跡に似た、黒い文字が並んでいた。

 変体仮名の文章。もちろんそれは、源氏物語の一節。


 真緒には全く読めないが、その流れるように書かれている文字には、言い知れぬ懐かしさが閉じ込められていた。

 先生は、それを現代語に訳し、解説して行く。

 当分、その変体仮名のテキストを使った授業が続くらしい。


 講義には、真緒の友人たちも何人か、来ていた。

 真緒が落ち込んでいることを知らない彼女たちは、無邪気に、「風邪ひいてたの?」とか、「バイトしてたの?」とか、軽く挨拶程度に聞いてきたが、やがてたわいもない雑談に切り替わる。

 テレビドラマの話とか、タレントの話とか、お正月の旅行の話とか。彼女たちの話は、尽きない。


 真緒は、いつもと同じか同程度に、彼女たちに接することができた、と思う。

 それは、ほぼ黒猫が真緒の部屋にきて、彼が作った料理を食べたせいかもしれない。桃華と久しぶりに会って、話が出来たせいかもしれなかった。それか、あの謎の浪人生と出会って、屋上で話したせいかも。


 もしかしたら、その全部が合わさったせいかもしれない。

 どれが直接の理由であれ、きのうまでの、部屋に閉じこもっていた自分とは違っていた。

 きょう、外に出て、大学に来て、よかった。

 真緒は、改めて思った。



 大学の友人たちと別れたあと、真緒は家路を急ぐ。

 太陽はとうに傾いて、夕方になっている。

 真緒を包み込む空気も、冷えてきた。


 秋の日暮れは早い。あっという間に、暗くなってしまう。

 その、決して待ってくれないスピードで忍び寄る夜の闇は、落ち込んでいるときには、さらにその落ち込みを悪化させる要因。

 あたりが急に暗くなると、息が詰まりそうになる。

 でも、きょうは違う。

 部屋には猫がいるし、あの浪人生も、訪ねてくる。


 真緒は、マンションに戻ったが、浪人生はまだ来ていなかった。

 ポーチには、誰もいない。

 ほぼ黒猫が乗っかっていた誰かのバイクも、もうなくなっていて、今度は自転車が数台、同じところに乱雑にとめてある。

 真緒は、二階に上がり、自分の部屋のドアを開けた。


「ただいま」


 ドアを開けると同時に、カレーの匂いが部屋の空気から独立して、かぶさってくる。


 カレー?


 真緒は、キッチンを覗いた。


 ガスレンジに、小さめの片手鍋が乗せられている。

 蓋を開けてみると、一人分の量のカレーが、中に入っていた。

 朝の味噌汁以上に、具沢山のカレーだ。

 いろんな大きさの材料が、カレールーを被って、鍋の中でごろごろしている。

 でも、カレー粉なんて、なかったはずなのに。

 

 真緒は、鍋の蓋を閉め、ほぼ黒猫を探した。

 ほぼ黒猫は、相変わらずソファの上に丸まっている。

 パソコンのモニターには、やはり、ケーブルテレビの番組が映っていた。

 お笑い芸人が、かつらをかぶり、着物をきて喋っている。誰か歴史上の人物になっているらしい。


 フローリングの床を見て、真緒は、ぴたりと動くのを止める。

 床に散らかしていた雑多なものが、すべて消えていた。いつもの、几帳面な真緒の部屋に戻っている。


「掃除してくれたの?」


 けれども真緒は、床にあったものがそのままベッドに移動しているだけであることに気づく。


 ベッドカバーの上には、容赦なく、雑多なものたちがごちゃ混ぜになって、うずたかく積み上げられていた。

 本も書類も漫画もCDもDVDも服も機械類も、区別なく乗せられている。こうなると、まるで、分別するのをさぼったゴミ置き場だ。


 これはもう、確実になんとかしなければならない。

 今晩、このベッドで寝るためにも。

 真緒は、ベッドの上を片付けたくなる衝動を押さえつける。

 それは、ここ最近忘れていた衝動でもあった。

 よかった。掃除をしようと思う気力というか、馬力というか、それが少し戻ってきている。


「そうだよね。どこに何をしまえばいいかって、いくら化け猫さんでもわかんないよね。取りあえず、ベッドに置いてくれたんだ」


 『化け猫』と聞いて、ほぼ黒猫は、ちらりと金色の目で真緒を見た。

 <そういうふうに呼ばれるのは、あまり好きじゃないからな>と、その目は主張していた。


「ありがとう、片付けてくれて。もうすぐお客が来るよ。あなたを迎えに。あなたを知ってる人みたい。あなたもその人のこと、知ってるの?」


 ほぼ黒猫は、答えない。


 朝、真緒が出がけに三個目の猫缶を開けた陶器の皿には、猫缶が入っていたという形跡さえなかった。その内側は猫の舌できれいに舐められ、まるで研磨剤でぴかぴかに磨かれたかのようだった。


 真緒は、窓を開けた。

 涼しい風が、ふわっと真緒の横を通り抜ける。


「カレーも作ってくれたんだね。でも、どうやって作ったの?」


 真緒はキッチンに戻り、再び鍋の蓋を開け、今度はじっくり中身を観察した。

 野菜が入っている。これは、ナスだろうか。それから、ピーマン。枝豆も入っている。


 真緒は、冷蔵庫を開けた。

 冷蔵庫の中は、空っぽだった。気持ちがいいくらいに。

 そして、冷蔵庫の上に置いていた、レトルトカレーも消えていた。

 そうか。これを使って、カレーを作ったんだ。


「見事だ、ほぼ黒猫さん。最後の総仕上げってわけね」


 つまり、レトルトカレーの中に、冷蔵庫の残り物を全部入れて、鍋で煮込んだのだ。

 カレーの中には、ナス、ピーマン、枝豆の他に、おそらく、りんごやチョコレート、ヨーグルトなんかも入っている。冷蔵庫から、きれいになくなっているから。


 真緒は、カレーを少し舐めてみた。

 真緒が苦手とする、レトルトカレー独特の味と食感はしない。

 妙に辛くて、でも、変な甘さがあって、歯ごたえも微妙に生ぬるく、食道につっかえそうな、あの感じ。(メーカーさんには、悪いが)

 これだけいろんなものを入れたら、オリジナルは、完全に消去されている。

 きっと食べても、胃にはもたれないだろう。


「もしかして、三個の猫缶と引き換えに、食事を三回作ってくれたのかな? ちょうどぴったり合うよね」 

 

 その時、窓の外から、誰かがわめく声が聞こえた。

 また、上の階の男子学生だろうか。

 時々宴会を開いて、その流れでマンションの前でたむろって、大声で話したりするのだ。

 そういうときは、近所からクレームが降り注ぎ、エントランスホールの掲示板に、大家さんの怒りに燃えた張り紙が現れることになる。


 だが、真緒は、その声に聞き覚えがあることに、すぐに気づいた。

 この声は……。

 彼だ。あの、謎の浪人生、もとい『別の世界では魔物』さらに『別世界から派遣された監視役』の浪人生!


 真緒は、鍋の蓋を閉めて、窓に走った。


 ソファに、ほぼ黒猫がいない。

 さっきまでそこにあった、丸まった猫の形をした闇色が、掻き消えていた。

 何か、いやな予感が、胸のあたりに鈍く渦巻いた。


 ベランダの手すりに、ほぼ黒猫がうずくまっていた。

 長い尻尾がだらりと垂れ、前方を見下ろしている。


 よかった。そこにいたんだ。

 真緒は、ほっと胸を撫で下ろす。

 だが、あの浪人生の叫び声が、ベランダの下から聞こえた。


「おまえ! トラブルは起こすな! 普段と違う行動をするんじゃないっ! ぼくらはそんなにヒマじゃないんだからなっ!」


 真緒は、下を覗いた。

 あの浪人生が立っていて、ベランダのほぼ黒猫を真っ直ぐ見上げていた。

 片手に、バスケットをさげている。

 バスケットは籐製で、魚と猫の顔のアップリケがくっついていた。CATというアルファベットのアップリケの文字も見える。どう見ても、猫用のキャリーバッグだ。

 真緒が抗議したので、猫用のを探して持ってきたのかもしれない。


「その部屋からとっとと出て行け! おまえ、何を企んでいるんだ!?」


 浪人生は叫んだが、ほぼ黒猫は、のんびりとうずくまり、リズムをつけて、尻尾をぱたぱたと左右に揺らしている。


 もしかして、楽しんでる?


 真緒からは、ほぼ黒猫の後頭部しか見えなかったが、前に回って見てみたら、その顔は、浪人生を見下ろしながら、チェシャ猫のように、薄ら笑いを浮かべているのかもしれなかった。何せ化け猫なのだから、あり得ないことではない。


 マンションの前を通りかかった人々が、猫に向かって叫んでいる浪人生を思いきり迂回して、何度も振り返りながら、あるいは、かかわり合いにならぬよう完全に無視して、小走りで去って行く。

 彼は、さっき屋上の広場で、目立つことはしないなんて言っていたけれども、十分目立っているし、あやしすぎる。


「あのさー」


 真緒は、浪人生に向かって、話しかけた。


「上がって来たら? そんなところで猫と話してたら、ものすごく人目につくと思うけど。今の時間帯って、割と人が通るよ。みんな、会社や学校から帰ってくる時間だもの」


「あ、ああ。そうだね」


 浪人生は、真緒に視線を移した。そこに真緒がいたことに、初めて気づいたようだった。


「202号室だから」


「うん」


 浪人生は、ベランダの下に消える。


「ほぼ黒猫さん、中に入らない?」


 真緒は、ほぼ黒猫の頭にそっと手を置いた。

 ほぼ黒猫は、<了解>という返事の代わりに、真緒のてのひらに、すり、と頬を軽くこすりつけた。



 浪人生が真緒のマンションのエントランスホールに消えたあと、どこからともなく、一人の若者が現れ、ポーチのブロック塀にもたれかかった。

 真緒が『目つきの悪いビジュアル系』と呼んだ、あの青年だった。


 彼は軽く腕を組み、目を閉じて動かない。

 逢う魔が時の青味がかった景色の中で、闇色のコートに身を包んで立つ彼は、やはり、見る人をどこか不安にさせる要素を確実に持っていた。


 マンションの前の道路を、一人の少女が、ゆっくりと歩いてくる。

 制服を着た高校生だった。

 その制服は、紺色のセーラー服。襟全体が白で、縁に紺の線がぐるりと入っている。

 襟の角には、星のマーク。胸元にはアルファベットの刺繍。

 レトロなデザインの制服ではあったが、少女は、今風の垢抜けた着こなしをしている。


 艶のある肩までの黒髪と、黒い目。

 どこかエキゾチックな雰囲気を持ったその少女は、マンションへと進路を変え、黒衣の青年の横を通りかかる。


「来ましたね」


 青年が言って、目を開けた。

 少女は立ち止まり、彼を眺める。

 黒衣の青年は、その場で腰を落とし、手を前に重ね、少女に向かって頭を下げた。

 まるで、その少女がとんでもなく身分の高い人物で、彼がその従順な臣下であるかのように。

 丁寧で、そして、とても優雅な美しい動作だった。


 少女は、彼のその行動が当たり前であるかのように、動じることなく、彼を見つめた。

 そういう挨拶をされることに、慣れているようだった。


「ごきげんよう、見張り人グループの警告係さん。うちの猫が、あなたがたの手をわずらわせるようなことを何かしましたか?」


 少女がたずねた。


「いえ。今のところ、殊更には。ただ我々は、あなたのペットの行動に、少し敏感なだけですよ」


 彼は答えて、にっこりと笑う。礼儀をわきまえた、控えめで上品な微笑みだった。


「あなたの猫は、二階です」


「ありがとう。ご苦労様」


 少女も、エレガントであどけない微笑を返し、そのままマンションのホールへ入っていく。

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