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第5章 屋上の公園

 エレベーターの扉が開き、学生たちの賑やかな一団が降りたあと、彼は中に真緒を押し込んだ。

 それから慣れた調子で、Rのボタンをポンと押す。


「あなたは、ここ、来たことあるの?」


「うん。今年のオープンキャンパスの日にね。でも、そのときは雨だったから」


 エレベーターが屋上に着くまで、真緒と彼は、しばし黙り込んだ。

 機械の静かな音と微かな振動が、直方体の閉じた空間に響く。


 エレベーターが開くと、明るい光がいっぱいに降り注いだ。

 格子のガラスの向こうに、青い空が見える。

 そこから外に出ると、コンクリートの地面が広がっていた。

 秋の、さわやかな風が吹き渡る。

 真緒は、思わず、小さく歓声をあげた。


「ちょっと素敵な空間でしょう」


 彼が笑った。


 そこは、おしゃれでアートっぽい公園のような広場になっていた。面積も、こじんまりした公園、という程度ではなく、屋上いっぱいを使った広いものだ。

 ところどころベンチがあり、その上には、日除けらしい、カラフルな平たい屋根も備え付けてあった。


 ベンチは、太ったナメクジのような形をしていて、表面には鮮やかな色彩の、細かいタイルが張られている。

 日除けの柱も同じようなモザイクになっていて、巨大な動物の足のように見えた。

 広場の真ん中あたりには、どこかUFOを思わせる形状のガラスのドームがはめ込まれていた。その下は吹き抜けになっているようだ。

 覗きこんでみると、何層にもなった手すりが重なっていて、大勢の学生たちが、水の底で動き回っているように見えた。


 屋上のベンチに座っている学生たちは、それぞれ、食事をしたり、昼寝をしたり、本を読んだり、思い思いの穏やかな昼休みを過ごしている。


「こんなところがあったなんて。全然知らなかった」


「それは、半年ほど、損をしたかもしれないね」


 彼は言って、空いているベンチに座る。


「あー、いい気持ちだ」


 彼は、両手を頭の後ろで組んで、ベンチにもたれかかった。

 真緒も、彼の隣に座る。もちろん、少し距離を開けて。

 

「きみが、化け猫が料理を作ってもびっくりしないくらい落ち込んでる理由って、彼氏とうまくいってないせいなんだ」


 彼が言った。


 聞いていたのか? 桃華との話の内容を。

 細かく聞き取れる距離ではなかったはずなのに。

 真緒は、横目で彼を見る。


「あなたには関係ないものね」


「気を悪くするかもしれないけど」


 彼が、真緒のほうを向いて、言った。


「ぼくには、ぜいたく、というか、もったいなく思える」


「ぜいたく? もったいない?」


「だって、ぼくは、今のきみの立場になりたくて、必死になって勉強してるのにさ。きみの立場になるために、一年、いろんなことを我慢して、不安定でやりきれない心の状況を何とかなだめながら、毎日を過ごしてる。もう少しだって、自分に言い聞かせて。大学に受かれば、楽しい学生生活が待ってるって。なのに、きみはその立場にありながら、そういう状況」


「そうだね。あなたの立場では、失恋して落ち込んでるなんて、馬鹿みたいだって思えるかもしれないね」


 きのうも、似たようなセリフを言った。あの猫に向かって。

 けれども、猫は無反応だったが、隣の浪人生は、ちゃんと真緒のほうを見て答えてくれた。


「別に、馬鹿みたいだとまでは思ってないよ。ただ、もったいないなあって」


「もっと楽しそうで、大学生活を満喫している見本だったらよかったね」


「まあ、ぼくは、女性と付き合ったことないから、そういうことはよくわかんないけどね」


「じゃあ、無事大学生になったら、どんどん恋愛して、失恋して、とめどなく落ち込んでみてよ。今の私の気持ちがわかるから」


「うん。そういう経験もしてみたい。でも、なんで、一人暮らしなんてしてんの? K学院は、ここからそう遠くはないよね。高校のときから、一人暮らし?」


 この人、結構プライベートなことを突っ込んで聞いてくる。

 真緒は思ったが、素直に答えた。


「実家は、この近所。でも、お父さんが転勤で九州に行くことになって、お母さんもついて行ったから、実家には、今は留守番がてら、兄貴夫婦が住んでる。一緒に住まないかって言われたけど、やっぱり、家を出ることにしたの。兄貴のお嫁さんとは、仲が悪いわけじゃないけど、小姑は消えることにした」


「気を使って、一人暮らし、か」


「でも、一人暮らしは楽しいよ。時々、親や兄貴のお嫁さんが、日用品や食料を送ってくれるし。彼氏も遠慮なく呼べる。化け猫がご飯作ってくれたりもするしね」


「化け猫がご飯作ってくれたら、びっくりして、警戒しなきゃだめだよ」


 彼が忠告するように言った。


「何であの猫は、私に料理を作ってくれるの?」


「知るもんか。なんか作りたい理由でもあるんだろ」


「やっぱり、私が落ち込んでるから、慰めようとしてくれたとか、元気づけようとしてくれたとか、冷蔵庫の残り物で作る、超簡単レシピを伝授してくれようとしたとか……」


「その確率はゼロだと思うね。あれが、人間の女の子が落ち込んでるからって、かわいそうに思って、料理を作るようなやつであるわけがない」


「ほぼ黒猫さんのこと、相変わらず悪く言うんだね」


「知ってるからさ、あいつのことをいろいろと」


「でも、あの猫、人間に化けたら、すごい美少年なんだね。化け猫って、髪がバサバサで、猫耳はえてて、着物きてて、両手を招き猫にしてて、行灯の油を舐めるってイメージあるけど、全然違う」


 真緒は彼に向かって、子供の頃にテレビで見た化け猫の真似をして見せた。


「それは、古い映画の観すぎだろ。だけど、あいつのそういう姿も見たのか。こっちの世界でその姿になって、人間にそれを見せるなんてことは、普通、ありえないことなのに」


「ふうん。ほぼ黒猫さんが美少年に化けるのは、正直、まるっきりの夢だと思ってたんだけど。どうやら本当らしいね。あっさり肯定するんだもの」


 真緒は、少し彼に接近して、彼の顔を覗き込む。


「な、なんだよっ」


 彼は明らかに狼狽して、後ろに下がった。


「だいたいね、マビョウだのバケネコだの、私に言った時点でアウトだよ」


 真緒は、彼に言う。


「え?」


「あの猫は、ぼくが飼い主だから返してくれって、そう言えば、丸くおさまることなのに。そしたら私も、何の疑問も持たずにほぼ黒猫さんを返しただろうし、料理もケーブルテレビのチャンネルも美少年も、全部夢だったと思ったのにね。そして、私たちはそれ以上接触することなく、それぞれの生活に戻った。わざわざ化け猫だって、本当のことを言って、ややこしくしなくてもよかったのに。失敗だったね」


「ぼくがあの猫を飼ってるって? そ、そういうウソは、うまくつけないし、ウソを裏づけ出来るような立ち回りも、当然出来ない」


 彼が、少しあせり気味で言う。

 真緒は、くすっと笑った。

 やっぱりこの人は、真面目な人なのかもしれない。

 桃華の見立ては、当たってるかも。


「それは修行が足りないってことかもしれないけど。仲間によく言われる」


 彼が呟いた。


「十八やそこらで、修行が足りてるほうが、おかしい。ね、謎の浪人生さん。もういい加減、全部話してくれてもいいでしょ。中途半端はいけないと思うな」


 真緒は、言った。


「全部って?」


「あなたの正体とか、ほぼ黒猫さんの正体とか、それから、あなたの、目つきの悪いビジュアル系のお友達の正体とか。もう、予備校に通ってる浪人生、なーんて、しらじらしく言わないでよね。別にあなたが吸血鬼でも、狼男でも、ぬらりひょんでも、今の私はびっくりしないよ」


「だけど、話しても信じてはくれないだろうから」


「化け猫を信じさせといて、何を今さら。さ、どうぞっ。真剣に聞いてあげる。だいたいあなたは、私のプライベートな話を結構知っちゃったわけだから、不公平でしょ。あなたにもプライベートなこと、話してもらうから」


「やっぱり、修行が足りない……」


 彼は、深いため息をついた。


「でも、正直、きみに聞いてもらいたいというのは、少しある。誰かにこの話をするのは、初めてだな」


 そして、その謎の浪人生は、彼の『プライベートな話』をし始めた。

 それは、もちろん、不思議で奇妙な話だった。



「去年の今頃、ばあちゃんが死んだ」


 彼が言った。


 屋上から見える空は、どこまでも青く、高かった。

 ごく薄い繊維のような雲がいくつも浮かんでいて、巨大な割り箸で空をぐるぐるかき混ぜると、雲の綿菓子が出来そうだった。

 太陽の光は金色を帯びて、コンクリートの広場に降り注ぐ。

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、学生たちのほとんどは、その広場からいなくなった。


 謎の浪人生は、再び両手を頭の後ろで組んで、ナメクジ形のベンチによりかかる。

 真緒も、うしろにもたれてみる。タイルとコンクリートで出来たモザイクの背もたれは、ひんやりとしていた。


「それまでのぼくの生活が変わったきっかけは、そのことだったな。勉強も手に付かなかったし」


「もしかして、受けた大学を全部落ちたのは、おばあさんが亡くなったショック?」


「どれだけ、おばあちゃん子なんだ。第一、ばあちゃんが死んでから入試まで、数ヶ月はたってるだろ」


 彼は、突っ込みを入れる。それから、言った。


「ばあちゃんは、普通の人間じゃなかった」


「え……」


「きみは、宇宙人とかUFOとか、信じるほう?」


「おばあさん、UFOでやってきた宇宙人……?」


「そうじゃなくて」


「ごめん。真面目に聞くから。宇宙人もUFOも、存在は信じるよ。少なくとも、化け猫よりは現実感はあると思う。化け猫に会った今でも」


 彼は、空の遠いところに視線を漂わせた。


「こことは違う世界があるんだ。それは、何千万光年も彼方の宇宙にある、惑星なのかもしれない。地球と隣り合ったパラレルワールドってところなのかもしれない。本当はどこにあるのかは、わからない。でも、その世界は確かに存在しているんだ。そこは地球とよく似ていて、地球と同じように、人間も動物も住んでいる。人間とは別に、はるかに優れた文明を持った、少数の種族もいる。その種族の人々は、特殊な能力を持っていて、あちこちの別の世界と自分たちの世界を繋いで、自在に行き来が出来る。彼らは、地球にもやってきていて、人間に混じってこの世界の様子を観察したり、実際に住んでみたりもしている。目的は、だいたい暇つぶしというか、興味本位みたいだけどね」


「じゃあ、やっぱり、その人たちは宇宙人ってこと? その世界がどこか地球以外の惑星なのだとしたら」


「そうなるね。たまに、空を飛ぶ機械の船ごとやってくる人たちもいるから、それはUFOってことになるかもしれない。だけど、そうやって別の世界に出入りして、その別の世界の秩序を乱すものたちも現れた。別の世界の人たちを傷つけたり、死なせたりね。それはルール違反だ。別の世界の人たちに手を出してはいけないという、暗黙の取り決めがあるから。そこで、そういう悪さをするやつらの行動を阻止するために、監視する役目の人たちを、そこと繋がっているそれぞれの世界に派遣することにしたんだ」


「それで……その世界から派遣されたのが、あなたのおばあさん?」


「厳密には、ばあちゃんのばあちゃんくらいじゃないかな。ぼくの場合はね。きみが、目つきが悪いって言ったあの彼の場合は、じいちゃんがそうだったってことになる」


「つまり、あなたのおばあさんのおばあさんと、目つきの悪いビジュアル系さんのおじいさんは、実は異世界からやってきてて、同じくその異世界からからやっきた、秩序を乱す人たちを監視する役目を担ってるってこと?」


「そう。正確に言うと、担ってた。過去形。二人とも、もういないから。その役目は、今はぼくたちに移った。その役目を持った人たちは、普通に人間に混じって暮らして、結婚もし、子孫も残す。役目も能力も、子孫たちが受け継ぐ。メンバーが足りなくなると、元の世界から補充される。それは、三百年くらい前から続いてきたらしい」


「あなたたちの一族は、代々その役目を担ってきたんだ」


「うん。ばあちゃんが死んだとき、ばあちゃんの記憶とメッセージが、いっぺんにぼくの頭の中に流れ込んできた。ぼくは倒れて、気を失った。救急車で運ばれて、しばらく入院したよ。結局受験勉強の疲れってことで片付けられたけどね。入院してたから、ばあちゃんの葬式には出られなかった。だけど、形見は受け取った。ばあちゃんがぼくに託したことも、なんとなく理解した」


「自分の役目をあなたに引き継いでほしいってこと?」


 彼は、空を見上げながら、うなずく。


「ある日、三人くらい、見知らぬ人たちがぼくに会いにきた。ぼくと同じ役目の人たちだった。きみが目つきが悪いビジュアル系って言った彼も、その中にいたよ。彼らは、役目のこととか、別の世界のことをいろいろ教えてくれたし、そこに何回か連れて行ってくれたりもした」


「行ったんだ、その世界に」


「でも、ぼくは、こっちの世界のほうが好きだな。向こうは太陽がきつすぎる。きみが目つきが悪いビジュアル系って言った彼は、直射日光には当たれない。当たると、死んでしまう。外に出ていられるのは、太陽が沈んでいる間と、それから、太陽を遮るバリヤーが張られている、ぼくらの種族が住む都市にいるときだけ。ぼくらは、向こうでは、魔物ってことになってて、人間からは恐れられている。夜しか活動できないし、人間にとっては『魔法』にしか見えない特殊能力も使えるから。ちょっと油断すると、光る剣を持った人間たちが、ぼくらを狩りにやってくる」


 魔物――。


 真緒は、あのビジュアル系の、妖しい美形青年を思い出してみる。

 だから、鳥肌が立ったのかもしれない。

 彼は、別の世界での魔物としての気配を、こちらの世界にも投影させているのだ。


「けれど、ぼくは頭が破裂しそうだった。そんなことを突然押し付けられても、パニックになるだけだ。仲間の出現も、向こうの世界での体験も、さらにパニックに輪をかけるだけ。それで、大学入試は全滅だった。勉強どころじゃなかった。だから、もう一度、落ち着いて、受験しようと決めた。それが、今、予備校に通って浪人をやってる理由さ」


「いろいろあったんだね。想像つかないけど」


「うん。でも、もう随分、今の状況に慣れたしね。来年は大学に必ず合格するよ」


「じゃあ、ほぼ黒猫さんも、あっちの世界の住人ってこと?」


「そう。向こうでは、十二歳くらいの黒髪の美少年。きみが見たとおり。彼の一族は、向こうでも、非常に危険な部類に入る。だから、特に警戒が必要なわけ。普段と違う動きをちょっとでもしたら、ぼくらはとても気になる」


「それで、私のマンションの前にいたの」


「見知らぬ女子大生の部屋に上がりこんでるなんて、どう考えてもあやしいからね。しかも、料理まで作ったらしいし」


「別に、私に何か悪さをしようなんて、きっと思ってないよ、ほぼ黒猫さんは」


「だから、なんでわかる?」


「だから、なんとなく」


「あいつは、猫と少年以外にも、恐ろしい姿を持っている。甘いよ、人間のお嬢さん」


 彼は、眼鏡の奥の淡い紅茶色の目で、真っ直ぐ真緒を見下ろした。その白目は、やはり、空の色を少し薄くしたような、不思議なブルー。

 真緒は、どきっとする。

 彼が話した、見知らぬ異世界のカケラが、その目の向こうに一瞬垣間見えたような気がした。


 つまり、この人は、普通の人間じゃないんだ。

 別の世界の血を引いている。

 その世界から託された役目も、担っている。


 けれども、異質なものを感じるとか、おそろしいとかいう感覚は、彼に対してはそれほどなかった。あのビジュアル系美形の彼は、苦手とはいえ。


「こわくなんかないもんね。ほぼ黒猫さんも、それから、あなたもね」


「あいつと一緒にするなよな。ぼくはこっちの世界の割合が多いけど、あいつは正真正銘、まじりっけなしの向こうの世界の生き物だ」


「警戒しすぎなんじゃないの」


「そのくらいにしないと、役目は務まらない」


「大変だね、あなたも」


「両立させていくさ。でも、ぼくは、もう向こうの世界には行かない。引き継いだ役目はちゃんと果たすけど、こっちでの自分の生活を大切にする。そう決めた」


「じゃあ、その役目とやらで、私に話しかけてきたの。あの猫は危険だって、わざわざ本当のことを言って?」


「きみはぼくのことなんか覚えちゃいないだろうけど、ぼくにとってはきみは、大学の入試のときに見かけた、知ってた子だった。嘘はつきたくなかったし、きみに本当のことを話したら、どういう反応が返ってくるのか見たいというのもあった。変な人だと思われるのがオチだと思ったけどね」


「思ったよ、変な人だって」


「やっぱりね。仕方ないけどさ。本来なら、あの猫を引き取りに行くっていうのは、ぼくの役割じゃない。でも、今回は特別。仲間にも、知り合いだからって、大目に見てもらってる」


「そう。なんかよくわからないけど、ありがとう。私のために役目オーバーしてくれて」


 彼が話したのは、明らかに、荒唐無稽な話。

 だが、真緒は、半信半疑を通り越し、彼の話を普通に聞いて、相槌を打って、質問も返している。いつも友達と話す雑談のように。ボケとツッコミだって入れている。


 これも、落ち込みすぎていて、危機管理意識が麻痺しているせいなのだろうか。

 そのせいも多少はあるかもしれなかったが、隣の浪人生の雰囲気が、きっとそうさせているのだ。真緒は、思う。


 最初はあやしい人だと思っていたけれど、彼の素直さは、伝わってくる。

 彼が、策略を練ったり、誰かを陥れたりなど出来ない性格だということも、何となくわかる。


「ところで、この後、うちにほぼ黒猫さんを引き取りに来るつもりなんでしょ。どうやってご主人のところに連れていくの? まさか、抱きかかえてじゃないよね」


 真緒は、彼にたずねた。


「そんなことしたら、無事ですむわけがない。猫のキバと爪は、りっぱな凶器なんだよ。何か、ケージとかペット用のキャリーバッグとか、ダンボール箱に入れるかな。あの猫は小柄だから、持ち運びしやすそうだしね。でも、彼がおとなしく、そういうものに入ってくれるかどうかは疑問だけど」


「ほぼ黒猫さんのおうちって、うちのマンションの近く? 猫の行動半径って、そんなに広くないんでしょ」


「うん。歩いて行ける距離だよ。白い、おしゃれな家に、彼は住んでる。その家まで連れ戻せなくても、取りあえず、きみの部屋から出てってくれれば、それでいい。だけど、一応、彼を入れるものは用意しなきゃね。うちは小型犬を飼ってるから、キャリーバッグはある。それを使おうかな」


「犬をいつも入れてるキャリーバッグに、ほぼ黒猫さんを入れるつもり? やめてあげて。なんてかわいそうなことをっ!」


 真緒は、抗議する。


「ちゃんと中は掃除して、消臭スプレーもぶっかけるさ」


 彼は、ベンチから立ち上がった。


「そうなると、これからぼくは、うちに帰って、キャリーバッグを取ってこなくちゃ」


「ちなみにあなたのおうちも、うちのマンションの近くなんだ?」


「徒歩では少しきつい。電車で四つ目くらいの駅かな」



 彼は、空に向かって手を伸ばし、思いっきり、のびをした。


「ああ、ずっとここに、こうしていたいな。でも、それは無理だ。ぼくが差し当たってやらねばならないことは、既に決まっている。それに、ここは、今は光がいっぱいで、こんなにあたたかくて気持ちいいけど、そのうち太陽も沈んで、気温も下がる。真っ暗になる。いつまでもここにはいられない。ぼくは自分のやることを済ませて、それからまた、こういう天気の日の、この時間に、ここに戻ってくる」


 彼は、猫のように、いきなりふわりと空に舞った。

 真緒が気が付いたとき、彼は、ベンチの上の屋根に乗っかっていた。


「危ないよ、そんなところに上って!」


 真緒が叫ぶと、彼は笑って、手をひらひらさせた。


 まあ、彼は人間ではないのだから、危なくもないか。

 真緒は、思い直す。

 なんせ、別の世界では、魔物さんだ。


「見晴らしがいいよ。最高だ。海も見える。あの海の向こうにある国々にも、ぼくは、いつか行く。絶対にね」


 彼は、眼鏡をはずした。

 眼鏡の縁に光が止まって、端整な横顔のそばで、きらっと光る。


 やっぱりこの人、きれいな顔立ちをしている。

 真緒は、彼を見上げて、さりげなく確認する。

 眼鏡も似合ってるけど、コンタクトにしたほうがいいかも。

 

 彼は、眼鏡を手に握りしめたまま、ぽんと跳ね上がった。

 くるくると回転し、ひねりも入れて、コンクリートの地面の上に、見事に着地する。

 見とれるくらいの、きれいなフォームだった。


 さすが、別世界での魔物さんは、やることが違う。

 こういう行動をする彼は、ほぼ黒猫よりも、化け猫っぽい。


「今からでも、水泳の飛び込みの選手とか、トランポリンの選手、目指せるんじゃない?」


 真緒は、彼に言ってみる。


「ぼくは、目立つことはしない。あやしまれるからね。この世界で、ごくごく平凡に、幸せに生きていく」


 彼は再び、眼鏡をかけた。


「では、ぼくは先に行くよ。日本文学史の源氏物語の授業を見学出来ないのは残念だけど」


「来年、同じのを受ければいいよ。先生が大学をやめない限り、きっと源氏物語の講義は、タイトルは変わったとしても、来年も再来年もあると思う」


「それは楽しみだ。じゃあ、またあとで、きみのマンションで会おう」


「うん。あとでね」


 そして、謎の浪人生は、屋上から姿を消した。



 真緒は、屋上から見える景色を眺める。

 正面には、ごちゃごちゃした、都市の街並み。さまざまな色が溢れすぎて、灰色っぽくなっている。

 背後には、山の重なり。


「海が見えるって言ってたね」


 真緒は、ベンチに上った。

 屋根は無理だけれど、ベンチの背もたれくらいなら何とか、乗っかれそうだった。

 真緒は、ベンチの背もたれの厚みの上に立ち、日除けの柱につかまった。そして、そこから見える風景を見つめる。


 街の向こうに、青味がかった銀色のビニールテープのような帯が見えた。海だ。

 風景のはるか彼方に、確かに貼り付いている。圧倒的な存在感で。


 そうだったんだ。ここからは海が見えたんだ。

 小さな感動だった。位置的には、海がその方向にあるというのはわかっていたのだが、実際に見えると、なんとなく嬉しかった。


 真緒の学科の建物は、奥まった山側にあるので、海は、どうあがいても見えない。

 そこの屋上も、一度行ってみたことはあったが、エアコンの室外機が並んだ、無機的で殺風景な空間だった。


「いいね、ここ。気に入った」


 真緒は、呟く。


 建物の中は他の学科専用かもしれないが、屋上は違う。

 ここは大学の学生なら、誰が来ても、文句は言われないだろう。

 桃華にも教えてあげよう。

 桃華のことだから、きっと、ここに入り浸りそうだけど。

 そんでもって、ああいう格好をしているから、ここではちょっとした有名人になりそうだけど。


 真緒は、ベンチの背もたれを蹴って、真っ直ぐ、下のコンクリートの地面に降りる。

 あの浪人生のようにはいかなかったが、それでも、きれいに足を揃えて着地できた。

 ベンチから降りても、海はやっぱりそこから見えていた。

 今まで、気が付かなかっただけなのだ。最初から空との境い目にくっついていたのに。

  

(そろそろ、日本文学史の教室に行こう。まだちょっと早いけど、ここからは、結構移動時間がかかりそうだし……)


 真緒は、カバンから携帯電話を取り出し、画面を開けた。


 新着メールはなかった。受信履歴を見ようとして、うっかり送信履歴の画面を出してしまう。 

 そこにずらりと並んでいるのは、全部同じ名前。

 真緒の落ち込みの原因の張本人である、彼の名前だった。


 十日前から、その一度たりとも返事が来たことはない。

 彼の携帯にも、真緒からの受信履歴は残ったはずだが、新しい彼女がいるなら、もちろん、残らず削除されているだろう。


 たとえこれから何十回メールを送ったって、電話をかけたって、無視されて終わる送信履歴が、携帯の記録に積もっていくだけ。

 彼は真緒からのメールには返事も出さないだろうし、電話にも出ないだろう。


 着信拒否をしないのは、彼のやさしさ?

 違う。たぶん、そういう度胸というか、潔さがないだけだ。


 彼も今の時間は、大学にいる。

 彼も大学生で、別の、決して海が見えない低いところにある大学に通っている。

 経営学部の学生で、真緒は何度かどういうことを勉強しているのか聞いてはみたが、全く理解できなかった。単語自体の意味がわからない。もっとわかるように、努力すればよかったのだろうか。

 「おまえは何度言っても、俺の学科の名前さえ、覚えられないんだな」と、言われたこともあったっけ。


 私が悪かったの?

 料理を作る以外にも、もっともっと努力して、彼のやっていることに興味を示し、心を砕かねばならなかったのだろうか?


 この一週間、どれだけ繰り返し、そう思ったことか。

 数えられないくらい後悔して、涙を流したことか。


 でも、もうそれも、間もなく終わりだ。終わりにする。

 私も、私のやることを済ませて、近いうちに、またここに来る。

 あの<別の世界では魔物さん>の浪人生が言っていたように。


 そして、今度ここに来るときには、もう落ち込んではいない。

 もう少し穏やかで、明るくて、すっきりした気分の私になっている。

 

 真緒は携帯を閉じ、屋上の公園をあとにした。

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