第4章 三人でランチ
心理学は一般教養科目なので、他の学科と合同講義になる。教室も、広いところが用意されていた。
毎回欠かさず出ていれば、必ず単位は取れるという、手堅い科目でもある。
けれども、出席は取るが、カードに学籍番号と名前を書いて提出するだけなので、別人による代理出席も、当然可能。全く出席をしたことがなくても、試験の出来によっては優を取れるという話もあった。
試験においても、教科書・ノート持込み可らしい。受験勉強をくぐり抜けて来た真緒には、未だにその大らかな仕組みが信じられない。
もしかして教授は、学生の答案用紙を扇風機で飛ばして、遠くへ飛んだ順に、優・良・可をつけているんじゃないかという噂が、まことしやかにささやかれている。
心理学の講義が終わると、桃華が背後から現れた。
後ろのほうの席で、講義を聴いていたらしい。ということは、実は遅刻して、そっとドアに近い後ろの席に座ったのかもしれなかった。
「久しぶり」
桃華が真緒を見下ろして、にっこり笑った。
きょうの彼女は、薄手のケープ付きのコートを着ていた。
シャーロック・ホームズが着ているようなインバネスコートをもうちょっとかわいらしく、女の子向きにした感じだ。コートの下には、編み上げブーツ。
頭には、ベルベットのヘアバンド風ヘッドドレス。
だがそれは、よく見ると、三角形の突起がさりげなく二つ、くっついている。言わずと知れた、猫耳だった。
「なんか、痩せたね。ちゃんとご飯、食べてる?」
「うん。ここんとこ食べれてなかったけど、きのうは焼きうどんとキムチの味噌汁を食べた。きょうは朝から、おにぎりと、具沢山の味噌汁の朝ごはんを食べてきたし。デザートもしっかりね」
「朝からご飯? それは、いい傾向だ。いつも真緒は、コーヒーか、よくてもそれプラストースト一枚だものね」
確かに、真緒が朝からボリュームのあるメニューを食べるのは、珍しかった。いつも朝は、そんなに食べられないのだ。
でも、今朝は、そんなことを考えることもなく、食べてしまった。
その朝ごはんを作ったのは、猫なのだけれど。
真緒は、桃華に、猫が焼きうどんやおにぎりを作ったことを打ち明けようとしたが、やめておいた。
そんなことを言おうものなら、桃華の手が真緒の額に伸びてきて、熱がないか、はかろうとするに違いない。桃華は外見とは違って、結構現実的なのだ。
だいたい、本当に猫が料理を作ったのかという疑問は、まだ真緒の中でもやもやしている。
実際、料理を作っている現場を見たわけではないのだ。見たとしても、素直に信じたかどうかはわからないが。
ソファに座って爆笑していた美少年だって、やっぱり夢だったのかもしれない。
あの浪人生から化け猫だと聞かされても、あまりにも現実離れしすぎている。
第一、あの浪人生の存在さえ、現実だったのかどうか。
あまりにも落ち込みすぎていて、幻を見なかったとは言い切れない。
「次のシナリオ論、休講だよ。さっき、学生課の人が掲示板に貼ってた」
桃華が言った。
「やっぱり、って感じだけど」
シナリオ論の講師は、よく名前の知られた劇団を主催していて忙しいらしく、休講がやたらと多かった。
知る人ぞ知る有名人らしい。夏休みには集中講義をしたので、学生からは大ブーイング。
何せ、その補講だけのために、実家にも帰れず、バイトも出来ず、暑い中、大学まで出てこなければならないのだ。
秋からは、ちゃんと講義をすると言い訳していたのだが、やっぱり休講は相変わらずだ。冬休みも集中講義になるかもしれない。
「多忙な人みたいだもんね。この間、テレビにも出てたよ」
「結局、客寄せパンダじゃん。それわかってて、あの授業を選択した私たちも私たち、だけど」
真緒と桃華は、心理学の教室から出て、大学の広い構内を歩いた。
著名な建築家が設計したという大学の建物は、どこか、SF映画に出てきそうな未来都市の雰囲気がある。
秋の澄み渡った青い空が、大学の上をどこまでも覆っている。
「シナリオ論休講だし、日本文学史もエスケープして、帰ることにした」
と、桃華。
「え? 帰るの?」
真緒は、残念に思う。
桃華にいっぱい話をしたかったのに。いろいろ聞いてほしかったのに。
「バイト入れたんだ。急に風邪で来れなくなった子がいて、困ってるみたいだしね」
桃華は、ケーキ屋さんでバイトしている。
そんなにケーキが好きというわけではなさそうなのだが、そこの制服が、黒のふわっとしたロングのワンピースに白いエプロンドレス、白のレース付きのヘッドドレスという、シックで古風なメイドスタイル。それだけの理由で選んだらしい。
実際、その制服は桃華に妙によく似合っていて、その制服で店の外を歩いていてメイドカフェの店員に間違われたことも、一度や二度ではないらしかった。
「だいたいみんな、帰ったよ。でも、一旦帰って、日本文学史に出てくる組もいるみたいだから」
「そう。私は日本文学史は出るよ。せっかく来たんだから。でも、それまでどうしようかな」
「とりあえず、お昼は一緒に食べよう。で、知り合い?」
桃華が、真緒の横を指差した。
そこには、いつの間にか、あの浪人生が立っていた。両手で大事そうに、薄緑色の分厚い書類袋を抱えている。
「な、なんで、あなたがここにいるっ!」
「真緒に向かって手をあげながら近づいてきたから、てっきり知り合いだと思ったんだけど? 一応、知り合いなんでしょ」
桃華が言って、唖然として突っ立っている真緒と、その浪人生を見比べる。
「し、知らないよっ。うちのマンションの前に立ってて、さっきほんの少し話をしただけだもん。あとは、一浪してる予備校生だってことと、入試のときに、私の二つ後ろの席だったってことぐらいとかっ」
「それだけ知ってれば、十分知り合いでしょうが。でも、入試のときに、後ろの席? じゃあ、私たち三人、同じ教室で試験受けたってことか」
桃華は、じいっとその浪人生を観察し始める。
「でも、きみたちは合格したけど、ぼくは不合格だった」
浪人生が言った。
「それは、気の毒」と、桃華。
「ど、どうやって入ってきたのよっ!」
真緒は、彼を睨む。
けれども、彼が幻でなかったことに、真緒は確かに安堵していた。
ということは、化け猫も現実ということになる。
「来年この大学を受験するんですって言ったら、警備員さんは、すんなりと入れてくれた」
彼が言った。
「それから学生課に行ったら、願書をくれた。大学内を見学してもいいですかって聞いたら、どうぞごゆっくりって。親切に、構内の地図までくれたよ」
うう。そういう手があったんだ。
真緒は、頭を抱えたくなる。
「どっちにしろ、来年、この大学の入学試験は、ほんとに受けるから。願書もらうのは二回目だけどね。もう夏のうちに、もらってたから」
「第二志望で受けるんでしょ」
真緒は、意地悪く彼に言ってみる。
「うん。でも、第一志望の大学にはレベル的に到底入れないと思ってる。運がよければ受かるかなって程度。だから、本命はこの大学だよ」
「浪人したんだ。大変だね」
自身も一浪だった桃華が言う。
「一緒にお昼ご飯、どう? 学食も見学してったら?」
「あ、喜んで」
彼は、本当に嬉しそうに言った。
真緒は、ますます頭を抱えたくなった。
大学には、学生食堂は二箇所あった。カフェも、三箇所くらいある。
第一食堂は玄関に近く、いつも混んでいたが、第二食堂は奥まった場所にあり、学生の人数も少なめで、ゆったりと食事が出来る。
ガラス張りで明るく、外の広場の芝生の緑や木々、花壇もよく見えた。
真緒と桃華、そして謎の浪人生の三人は、第二食堂をめざして歩いた。
浪人生は真緒たちから少し遅れて、遠慮がちにうしろからついてくる。
「一浪ってことは、歳は真緒と同じだね」
桃華が言った。
「そういうことになるね」
「真緒、彼氏と別れたところなんだから、次、あの子とつきあっちゃったら?」
と、桃華。
「な、なんで、そういう展開にしようとするわけ? だいたい、あの子は、浪人生で、受験生なんだよっ」
二人の会話が後ろの浪人生に聞こえているのかどうかは、わからなかった。だが、昼休みの学生たちの賑やかさにかき消されて、話の内容までは聞こえていない確率が高い。
何しろ昼休みには、さまざまな同好会や研究会、劇団のメンバーが、我先にとキャンパス内に繰り出してくるのだ。
彼は、珍しそうに周囲を見回しながら、ついてきている。
「前の彼氏よりは、性格は、はるかにマシとふんだ。顔も、割といい線いってる。背の高さも。でも、タダモノじゃないって感じはするけどね。今は浪人してても、来年の春には大学生でしょ。ここの大学だか、もっと高いレベルの大学だか、低い大学だかは、わかんないけど。見てくれだって、大学生になれば、もう少し、ぱりっとするかもしれないし」
「あのね、私は、今付き合ってる彼とは、まだ終わってないの。別れたって、まだ思ってないから」
「じゃあ、もう終わらせたら? こう言っちゃなんだけど、彼氏の中では、もうとっくに終わってると思うよ」
桃華は、相変わらず、ずばりと言う。
「やっぱり、そうなのかな」
「メールも来ないし、電話にも出ないんでしょ」
「うん……」
「それは、もう終わりにしようってことだよ。そりゃあ、たぶん、修羅場がこわくて逃げてるとか、めんどうなことは避けたいっていうのも本音だろうけどね。メールにしろ電話にしろ、そういう態度示してるんだから、いい加減、察しろってことだよ」
「察しろ? 察せない。そんなの、納得いかない」
「真緒は、完璧主義者だもんね。こだわりが強いっていうか。融通がきかないっていうか。でも、彼なりのやさしさだと思うよ。ずるいけどね。そうやってお互いに察して自然に別れて行くっていうのが、オトナの別れ方だって。最近読んだ本にも書いてあったな」
「自然に別れる? 終わりの言葉もなく? そんなの、いやだ。そんなのがオトナの別れ方なら、そんなオトナになんかなりたくない」
「じゃあ、きちんと納得が行くように、自分で終わらせるんだね。たとえ修羅場になっても、真緒が満足するなら、それでいいじゃん。でないと、いつまでたっても、次には踏み出せないよ。ま、私なら、彼の部屋のドアの前に立って、待ち伏せするかな」
「そういうの、下手するとストーカーでしょ」
「むろん、真緒流の、別の方法を考えればいい」
三人は第二食堂に入り、窓際の明るい場所に席を取った。
「定食より、どんぶりがおすすめだよ。少し時間はかかるけど」
桃華が、浪人生に言う。
「どんぶりか。いいな」
「お金がないなら、シンプルに玉子どんぶり。ちょいリッチなら、木の葉どんぶりとか、カツ丼とかだね」
「ベタだけど、受験生だから、カツ丼にするよ」
真緒は、玉子どんぶりの食券を買って、浪人生と一緒に学生の列に並んだ。どんぶりは人気のメニューで、そこだけいつも列が出来ている。カウンターの中では、ぴしっと糊のきいた白衣に身を包んだおばちゃんが、懸命にどんぶりを作っていた。
桃華はきつねうどんにしたので、先にテーブルに戻って、ひとりで食べ始めていた。
謎の浪人生は、出来たてのカツ丼を無邪気に頬張る。
この人、本当に幸せそうに、嬉しそうに食べるんだ。
真緒は、ちょっとあきれて、彼を眺める。
「今度、遊園地に行こうよ、真緒」
もう既に、きつねうどんを食べてしまった桃華が提案した。
「私の服、貸してあげるから」
「服? もしかして、ゴスロリの?」
「絶対、真緒、似合うって。フリルひらひらのブラウスとか、猫耳帽子とか。ほんとはそういうの、好きなんでしょ?」
「やめて。そっちの世界に引き込もうとするのは」
「そういえば、きみ、似合いそうだね、ゴシック・ロリータっての? 高校のセーラー服も似合ってたけど」
浪人生が、カツ丼を食べながら、言った。
真緒は、彼をぎろっと睨む。
「そんな格好が出来るのも、長い人生の中で、今だけだからね。今だから許されるし、今だから似合う。だったら、今ちょっとだけやってみてもいいんじゃない?」と、桃華。
こういうことを言うときの桃華は、やはり真緒よりも、はるかに年上に思える。
人生というものをある程度わかって、冷静に突き放して眺めたような、大人びた台詞。
真緒は、今の状況をこなすだけで精一杯で、ほんのわずかな先の未来さえ、捉えられないというのに。
「私がそういうのにはまってるのは、一浪から開放されて、はじけてるってこともあるわけ。あなたも来年の春には、はじけてよね」
桃華は、浪人生に声をかけた。
「うん。ほどほどに、はじける」
彼は、残りのカツ丼をかきこみながら、答えた。
「じゃあ、私、バイトがあるから」
桃華は、空になったきつねうどんの器が入ったトレーを、片手で持ち上げた。
「ごゆっくり、浪人生さん。次の授業休講だし、真緒、大学の中、案内してあげたら?」
そして、桃華は真緒の横に回って軽くかがみ、真緒の耳元に口を寄せた。
「な、なに」
「やっぱり、あの子と付き合ったら?」
桃華は、ささやいた。
「だからぁ……」
「性格、結構真面目そうだし、きっと真緒と合うよ。タダモノじゃないって予感は消えないけど。あの子、絶対、真緒に気があると思うな。でなきゃ、入試の時に一回見かけただけで、覚えてるわけないもん。失恋から手っ取り早く立ち直るには、新しい彼氏を作るのが、一番」
「だから、そういう展開にはならないって」
「わかんないよ。真緒、女の子はね、クールに、したたかに、かわいく生きていかなきゃだめだよ」
桃華は、にっと笑って、真緒の肩をぽんぽんとたたいた。そして、行ってしまう。
後には、真緒と、謎の浪人生が残された。
「次の授業、お休みってこと? キュウコウってのは?」
彼がたずねた。
「そう。シナリオ論なんだけど、先生が来れなくなったみたい。でも、その次の日本文学史はあるから」
「なんか、わくわくするなあ。シナリオ論か。想像もつかない。それに、日本文学史。やっぱり、日本の文学を系統立てて、教えてくれるの?」
「私も最初、そう思った。でも、それはタイトルだけ。先生が源氏物語専門の学者さんだから、4月からずっと、源氏物語しかやってない。たぶんずっと、最後まで源氏物語」
「密度の濃い源氏物語か。いいな。来年には、ここにいたいな」
彼が、夢見るように呟いた。
「ここにいられるように、次回はしっかり、頑張ってください」
けれども、彼が一学年下に入ってきたら――。
学年が違っても、同じ学科だったら、合同の授業もある。
同じ授業を受けることになるかもしれない。
それこそ、二つ後ろの席とか。隣の席とかで。
「悪いけど、大学の案内なんてしないから」
真緒は、彼に言った。
だいたい、しなければならない理由なんてないのだ。
「いいよ。去年の夏と今年の夏、オープンキャンパスで来たときに、だいたい見たから。それより、この大学の中で、行きたいところがあるんだ」
彼は、さりげなく真緒の食器を自分のトレーに移し、それから真緒のトレーもその下に重ねた。二人分の食器を持って、彼は席を立つ。
「ちょっと、ちょっとお。その、あなたの行きたいところに付き合うなんて、言ってないから。あなた、帰らないの?」
「帰る? あの猫をきみの部屋に置いたまま? それは出来ないな」
彼は、食器を返却口に置いた。
そして、大声で、「ご馳走さまでした!」と叫ぶ。
カウンターのおばちゃんが、どんぶりを作りながら、にやっと笑って、頷いた。
「じゃあ、どうしたいわけよ?」
真緒は、彼にたずねた。
「あの猫は、あの猫の主人のところに返す。だから、あの猫を引き取るために、きみと一緒に、きみの部屋に行かなきゃならない。でもきみは、まだ授業があって帰れない。だから、一緒にいる」
「別に一緒にいなくてもいいと思うけど」
「次の授業、お休みでしょう。天気もいいし、ちょっと付き合ってよ」
彼は、真緒の手首をつかんで、歩き始める。
「きみ、手首細いんだね。強く握ると折れそうだ」
「女の子は、体のつくりが華奢なの。で、天気なんて、特に関係ないでしょ?」
「ものすごく関係があるんだ。ほら、あれ」
浪人生は、食堂を出た真正面にある、積み木のような建物を指差す。
「あの屋上に、行ったことある?」
「ない。だって、他の学科が専用で使ってる建物だもの」
「どこの学科に所属してるかなんて、ぱっと見ただけではわからないよ。どの学科の誰って、IDカードを首から下げてるわけじゃないでしょうが」
彼は、学生の海を掻き分けながら、真緒をひっぱって、その建物の中にどんどん入って行った。