第3章 怪しい浪人生
何か、ひんやりとした、ぷにぷにのものが、頬に押し付けられた。
真緒は、目を開ける。
部屋の中は、明るかった。
真緒は、携帯に手を伸ばして、時間を見る。
「え?」
朝だった。AM10:00。
「うわ。午後から夜を通り越して、朝まで眠ってしまった」
しかも、ベッドの上で。
しかも、服も着替えず。
しかも、顔も洗わず、歯も磨かず、お風呂も入らず。
「うう。あり得ない」
真緒は、頭を抱える。
落ち込んでいるとはいえ、そういうことは習慣として、かろうじてやれていたことなのに。
けれども、今から準備しても、十一時からの心理学の講義には、充分間に合う。
真緒のマンションから大学までは、十五分もかからずに行けてしまうのだ。
ソファを見ると、ほぼ黒猫は、ちゃんとそこにいた。美少年ではなく、猫の姿で。
さっきの頬のぷにぷにの感触は、たぶん、ほぼ黒猫の前足の肉球だ。
おそらく、ベッドまで来て、起こしてくれたのだろう。
パソコンのモニターには、テレビの番組が映っている。
主婦向けのワイドショーだ。ケーブルテレビの番組ではなさそうだった。
「そういうのも、見るんだ」
けれども、今の時間、ケーブルテレビではお笑い番組をやっていないので、仕方なくワイドショーをかけているのかもしれない。
真緒は、それから、テーブルを何げなく見て、固まった。
また、料理が作ってある。
お皿の上に、小さめのおにぎりが二つ。
それから、具がたっぷり入った味噌汁と、ガラスの器に入ったウサギりんごとヨーグルト。
「や、やっぱり……き、きみが作ったんだよねえ」
ほぼ黒猫は、完全に真緒の反応を無視して、目を閉じ、真ん丸くなっている。
真緒は料理に近づいて、しげしげと眺めた。
おにぎりのひとつには青のりがまぶされていた。
もうひとつのほうにはかけられていなかったが、ところどころ枝豆が見える。枝豆ごはんを作って、それを握ったようだった。
形は、両方ともきれいな三角とはいえない。真ん丸くもなかった。形としては、じゃがいもにいちばん近いかもしれない。
味噌汁には、千切りにしたキャベツと、薄く輪切りにしたピーマン、そして、玉子がまるごと一個、入っていた。玉子は半熟で、白身もほどよく固まっている。
ウサギりんごは、皮の厚さも切り方も、完璧すぎるほどだった。ガラスの器の中で、ヨーグルトのお風呂に、シャープなウサギりんごがつかっている。
真緒は、念のため、玄関のドアを確認した。
鍵はもちろんかかっているし、チェーンもしてある。
誰も外から入っては来られない。
やっぱり今朝のおにぎりも、ほぼ黒猫が作ったということになる。
真緒は、ソファで丸まっているほぼ黒猫を覗き込んだ。
眉間のあたりに、ご飯粒のかけらがくっついている。
真緒は、ほぼ黒猫の前足をつまもうとしたが、その前に前足は素早く引っ込んだ。
「この手で、おにぎりを握ったの?」
猫が、悪戦苦闘しながら、おにぎりを作っている図。真緒はしばし、思い描いた。
確かに苦労して作ったのかもしれないけれど、『猫が前足で握ったおにぎり』というのは、あまり食欲は出ないかもしれない。
「ちゃんと男の子に変身して、作ったんだよね、きっと」
ほぼ黒猫が何者かは不明だが(こうなると、やっぱり、ただの猫であるはずがないわけだが)、真緒のために料理を作ってくれたのは確かみたいだった。
「じゃあ、せっかく朝ごはん、作ってくれたんだし。ありがたくいただきます。その前に、きみも朝ごはん、食べる?」
真緒は、二個目の猫缶をお皿に開けた。
床に置くと、ほぼ黒猫はたちまちソファから下りてきて、まぐろムースにぱくついた。
おにぎりは、形は不恰好だったが、塩がきいていて、案外美味だった。
もちろん真緒は、もっと上手なおにぎりが作れるが、そのじゃがいも状おにぎりが何となく、いとおしくて、嬉しかった。
そして、おにぎりの不出来に対して、ウサギりんごのカンペキさといったら。
おにぎりを作ったのは初めてで失敗作になってしまったけど、刃物はしょっちゅう使っているので朝飯前、とでもいうような、とんでもない落差があった。
味噌汁の具が、玉子とピーマンとキャベツ、という取り合わせも意外だった。
でも、栄養たっぷり。
おにぎりと味噌汁でも、十分、りっぱなメニューになるんだ。
これも、目からウロコかな。
ちゃんとデザートもついてるし。
朝ごはんを食べ終わったあと、真緒は、窓を開けた。
(きのうのあの人たち。まさか、まだいたりして。そんなわけないけど)
ベランダから覗いてみて、真緒は小さく声をあげる。
いたのだ。
きのうの、あのビジュアル系。
きのうと同じ場所に、きのうと同じ服装で、立っていた。
隣には、あの男の子はいない。ひとりだけだ。
こ、今度は、あの人が待たされてるんだね、きっと。
真緒は思った。
ビジュアル系が、真緒を見上げる。
きのうはちらっとだったが、今回は、まともだった。
目が、おもいっきり合う。
真緒は、部屋の中に飛び込んだ。
やっぱり鳥肌が、ぞわっと立ってしまった。
な、なんなの、あの人。
まさか、ストーカー?
違う違う違う。そんなはずない。
それは、私の思い過ごし。自意識過剰というもの。
私が窓を開けて見下ろしたから、彼も見上げた。
ただ、それだけ。
きっとあの人、美形なのに目つきが悪いから、いろいろ損してるんだ、気の毒に。
真緒は顔を洗って服を着替え、カバンに教科書とノートを詰めた。
「私は、これから出かけるの。大学に行くから、夕方まで帰ってこれないよ。きみは、おうちに帰る?」
朝ごはんを食べ終えて再びソファに戻ったほぼ黒猫は、相変わらず丸くなっていた。
真緒の問いかけにも、無反応だ。
<ぼくはこのままここにいるよ>と、そのまん丸さは告げていた。
「そう。じゃあ、私は行ってくるね。あ、その前に」
真緒は、器に三個目の『紀州のとれとれマグロ・ムース仕立て』を開ける。
「これは、夕飯だからね。それまでに食べちゃだめだよ。お腹こわすから」
真緒は、部屋を出た。
今度は、パソコンはそのままにしておいた。
きっとほぼ黒猫は、真緒が留守の間、ケーブルテレビの番組をずっと見続けるだろう。
たとえ暴れまくったとしても、部屋の中はあれ以上散らかしようはない。
ポーチに降りてみると、あのビジュアル系の美形はいなかった。
「よかった、消えてる」
真緒は、ほっと胸を撫で下ろす。
間近からじろじろ見られたら、一日中鳥肌が立ったまま、直らないような気がする。
「きみ、部屋に、猫、入れただろ」
突然、背後から声がしたので、真緒は飛び上がった。
振り向くと、きのうの天パの男の子が、そこにいた。
きのうはラフなパーカとジーンズだったが、きょうはダークグリーンのジャケットに黒のパンツ、首には空色のマフラーを無造作に巻きつけている。
「な、なんですか。あなた、大家さんの回し者?」
真緒は、彼に言った。
そして、きのうはほとんど無視していたので、あまり観察も出来なかったその男の子を遠慮なく眺める。
思ったより美形だ。結構顔立ちが整っている。
だが、伸ばしっぱなしらしい髪が、それをぶち壊している。
もう少し髪を切ったら、もっと素敵なのに。
真緒は、他人事ながら、ちょっと残念に思う。
眼鏡の奥の彼の目は、日本人離れした紅茶色だった。そして、白目は薄いブルー。首に巻いているマフラーの空色が映っているわけでもなさそうだ。
「別にぼくは、ペット禁止とか、そういうことを言いたいわけじゃない。ここの大家さんも知らないさ」
彼が言った。
「問題は、あの猫だ」
「あの猫? ほぼ黒猫さんのこと?」
「ホボクロネコ?」
彼が変な顔をしたので、真緒は思わず笑ってしまった。
そんなこと言っても、わからないよね。
あ。
そういえば、私、笑ったのって、久々かも……。
真緒は、ふとそのことに気づく。
「私が勝手に呼んでるの。前足の先と尻尾の先が白いだけで、あとはほぼ黒いから、<ほぼ黒猫>さん。あなた、もしかして、あの猫の飼い主?」
「違う。あれには、ちゃんと別に飼い主というか、主人がいる。あの猫は、今もまだきみの部屋に?」
「いるよ。たぶん、今は、テレビ見てるんじゃないかな」
「きみ、よく朝まで無事でいられたな」
彼が、真剣な表情をして、言った。
「どういう意味?」
「あの猫は、普通の猫じゃない。魔猫だ」
「マビョウ?」
「つまり……化け猫ってことだ」
「化け猫。あ、そうなんだ。それで、パソコン使ったり、ケーブルテレビの番組にチャンネル変えたり、料理作ったり出来るんだ。納得」
「納得するな。料理まで作ったのか、あの猫っ」
彼は、くわっと口を開ける。
「うん。きのうは、焼きうどんとキムチのお味噌汁作ってくれたよ。今朝は、青のりのおにぎりと枝豆のおにぎりと、それから玉子とキャベツとピーマンのお味噌汁。ウサギりんごとヨーグルトも付いてた。でも、作ってるところは見ていないけどね。気が付いたら、料理が置いてあったから」
「で、き、きみ、その料理、食べたのか?」
「せっかく作ってくれたんだもん。おいしそうだったし」
「普通、食べるか?」
彼は腕組みをして、あきれたように真緒を見下ろした。
「どういう神経をしてるんだか。猫が料理作るなんて、変だと思わなかったのか?」
「うーん。今ちょっと、私、感覚おかしくなってるかも。なんせ、とんでもなく落ち込んでるから。化け猫がやってきて、料理作ったくらいでは、びっくりしないかもね」
彼は、ますますあきれ顔になる。
「でも、あなたのお友達は、ちょっとこわかったけど。あなたの友達、目つき悪いよ」
真緒が、彼と話していたビジュアル系のことを思い出して言うと、彼は、眉を寄せた。
「まあ、彼の目つきがきついのは、あっちの影響が強いからだけど……。別に悪気はないよ。いい人だ。ぼくが保証する」
あっちの影響?
やっぱり、ビジュアル系バンドでもやっているのだろうか?
それに保証するったって、そもそも、そう言っているあんたが、ものすごくうさん臭い。
真緒は、しらっとその謎の男の子を見上げる。
「彼はね、きみを守っていたんだ、一晩中」
「はああ?」
何を言い出すんだ、この人は。
「なんで、私があの人に守ってもらわなくちゃなんないのっ!」
「あの猫がきみに手を出したら、すぐに阻止できるようにね」
「手を出す? 阻止? ほぼ黒猫さんが、私に何をするっていうんだよ」
「きみは知らないだろうけど、あの猫は、危険なんだ」
「危険? なんで?」
「その……」
彼は、ちょっと空を見上げるような感じで考えていたが、考えつかなかったのか、それとも真緒に何かを説明するのを避けたのか、結局、こう言った。
「それはやっぱり、化け猫だからさ」
「あ。私、大学に行かなくちゃ。遅刻するから」
真緒は、時計を見るふりをし、足早に歩き出す。
彼は、あわてて真緒の隣に並んだ。
「ついてこないでよ。あなたたちのほうが、よっぽどあやしいんだから」
「きみは、ぼくらよりも、料理を作る化け猫を信用するのか?」
「当然でしょ。別に料理には毒も入ってなかった。悪意で作ったんじゃないってことは確実だもの。誰かに料理を作ってあげるとか、誰かに作ってもらった料理を食べるのって、とても大変なことなんだから。その人の命の糧を作ってあげること。作ってもらうこと。相手を信頼してなかったら、そんなの出来ない」
「じゃあ、きみは、例えば、ぼくがきみのために料理を作ったら、信用するのか?」
真緒は立ち止まって、彼をしげしげと見上げた。
「しないと思う。最初からあやしいもん。でも、あなた、料理、作れるんだ?」
「……カップラーメンなら」
彼は、真緒に見つめられ、少しのけぞって、弱々しくつぶやいた。
「そういうの、料理っていうか?」
真緒は、再び早足で歩き始める。
彼は、あきらめずに、真緒の隣に肩を並べる。
「きみ……。S大の学生?」
彼がたずねた。話題を変えるらしい。
「そうだけど。もしかして、あなたも?」
「いや」
彼は、首を振る。
「高校生?」
「いや。今は予備校に通ってる」
「浪人してるんだ」
もうあと三ヶ月もしないうちに、大学入試が始まる。
推薦入試ならとうに終わっているし、一次日程での試験を行う大学もそろそろ出始める。受験生には追い込みの時期だ。真緒も、高校三年だった去年の今頃は、結構勉強をしていた。
受験生は、この時期何かと気が立っているもの。しかも、浪人生なら、なおさらだろう。
けれども、だからといって、化け猫がどうとか言い出して、見知らぬ女子大生にふらふら話しかけてていいのか?
「S大は、第二志望だったな」
彼がつぶやいた。
真緒は、ちょっとむっとする。
私は、第一志望だったぞ。
S大だって、世間的には、レベルはそんなに低くはない。
「あっそ。じゃあ、第二志望のS大には受かったけど、第一志望の、どこかものすごくレベルの高い大学に落っこちたから、浪人してるんだ」
「第一志望はもちろん落ちたし、第二志望のS大にも落ちた。それどころか、第五志望まで、見事に全部落ちた」
彼が言った。
それは、大学の選び方が、最初から間違っているのではないのか?
真緒が思った途端、彼はすぐに言い訳する。
「ちょっと去年の今頃からごたごたがあって、勉強に集中できなかったんだ」
「それは、ご愁傷様でした。そのごたごたが何なのかは、興味ないから」
「きみ、高校、K学院だった?」
彼がたずねた。
「なんで知ってるの。ますます、あやしい」
「S大の入試のとき、きみはぼくの二つ前の席だった」
「……」
そんなことを言われても、真緒のほうは、覚えているわけがなかった。他の高校の受験生のことなんて。
入試のときに、そんな余裕など、あるわけはない。
しかも、第一志望の大学の入試なのだ。
緊張していて、試験官の顔さえ、定かではない。
桃華だって、同じ教室で受験したはずなのだが、お互い、まるで記憶がないのだから。
なのに、なんでこの人は、真緒のことをわざわざ覚えているのだ?
「ご、誤解しないで。K学院の制服は、目立つからだよ」
彼が、言い訳するように言う。
確かに、真緒の出身高校の女子の制服は、有名だった。
『あの高校の制服は、かわいい』という評判が、他府県まで広がっている。
紺色のセーラー服で、白い衿の端に星マークの入った、ちょっとレトロっぽいデザイン。
その制服にあこがれて、入学してくる女の子も多い。
「じゃあ、あなたとは同い年なんだ」
「でも、ぼくは浪人したから、学年は一つ下になってしまうわけだけどね」
なんか、普通に、雑談してる、この謎の男の子と。
真緒は、改めて、思った。
正体もわからない、あやしい子なのに。
でも、男の子と並んで歩きながら話をするのは、久しぶりだ。
彼以外の男の子と……。
学生たちの人数が、風景の中に増加してくる。
大学が近い。
「で、あなた、何者なの?」
真緒は、彼にたずねた。
「ぼくは、その……予備校に通ってる浪人生」
「なんであの猫が化け猫だって、知ってるの?」
「それは……知ってたから」
「わけわかんない」
受験生なのに、国語、大丈夫か?
真緒は、少し心配になったりする。
「ごめん。きみの質問には、答えられない」
彼が、ちょっとうなだれ気味に言った。
「あ、そ。じゃあ、聞かないけど」
「だけど、あの猫には、かかわらないほうがいい。このまま部屋においといたら、きみは明日の朝、冷たくなってるかもしれないよ」
「こわいこと言うね。でも、ほぼ黒猫さんは、そんなことしないよ」
「なんでわかる?」
「なんとなく」
彼は、真緒の答えを聞いて、救いがたいという感じで、ため息をついた。
いつの間にか、大学の門の前だった。
真緒は、彼を振り返った。
「部外者は入れないからね。最近、大学も厳しいんだから。私たちだって、学生証は常に携帯しておくようにって、きつく言われてる。ここでお別れだね。じゃあね、予備校に通ってる、謎の浪人生さん」
真緒は、他の多くの学生たちに混じって、大学へと入った。
ちら、と振り向くと、浪人生は門の前で、学生の流れに逆らって、ただひとり、突っ立っている。
同じような年齢の学生たちの中で、彼の存在は、妙に浮き上がっているように、真緒には思えた。
その浮き上がり方は、浪人生だからという理由だけではないような気がした。