第10章 a recovery
床がきれいに掃除された真緒の部屋は、やはりどこか殺風景だった。
それは、束の間の訪問者たちがやってきて出て行った、その名残りの寂しさのようなものもあるのかもしれない。
ベッドの上は、目を覆いたくなるほど、ごちゃごちゃだったが。
ベッドは、寝るまでに、片付けなければならない。
その前に、晩ご飯にしよう。
ほぼ黒猫が作ってくれたカレーがあるから、ご飯を炊いて。
真緒は、ほぼ黒猫が座っていたソファを見る。
ほぼ黒猫がいたあたりは、毛だらけだった。
おまけに、背もたれには、爪の跡が入っている。
深いのが三本と、数え切れないのが、いっぱい。
ここで、爪とぎをしたらしい。
「あの猫おぉ……」
真緒は、ため息をつく。
でも、猫を部屋に上がらせたんだから、仕方がない。
柱に爪とぎされなかっただけ、ましというもの。
けれど、ちょうどいい。
このソファには、何か布をかけて覆ってしまおう。
はっきり言って、ソファの紺色は、この部屋には合わない。
もっと明るい暖色で、かわいい柄がプリントされた布を買ってこよう。
明日にでも、沿線の駅にある大型雑貨店に行かなければ。
ついでに、他にも何か気に入ったものがあったら、いっぱい買ってきて、この際、部屋の雰囲気を変えてしまおう。
冷蔵庫もからっぽだから、食料品も買い出しに行かなきゃならないし。。
真緒は、猫の爪の跡が残った背もたれを撫でた。
きみは、たいした理由がなくてこの部屋に来て、たいした理由もなく料理を作ったのかもしれないけれど。
私にとっては、たいした理由があったと思うよ。
真緒はそのとき、パソコンのマウスの下に、折りたたんだ紙がはさんであるのを見つけた。
見慣れない紙だった。真緒のものではない。
きちんと折りたたんだ、その紙を開けてみる。
そこには、メールアドレスが書かれていた。
<kirokugakari@・・・・・.jp>
整った、きれいな文字。
ひとつひとつ、時間をかけて、丁寧に書いたような。
「キロクガカリって……」
真緒は、声を出して、思いきり、笑った。
真緒の声を部屋全体が、あたたかく包んでくれたような気がした。
「実は、結構気に入ってるんだ、あっちの世界と、引き継いだ役割。だって、ケータイのアドレスのアカウント名って、普通、自分の嫌いなものにはしないもんね」
それで、彼はさっき、真緒が携帯を持っているということを聞いて、安心したのだろう。携帯を持っていないと、携帯同士でのメール交換は、もちろん出来ないからだ。
これは、切符。
毎日の生活に、<不思議で奇妙な非日常>が入ってくることが約束されたチケット。
それを選ぶかどうかは、真緒のこれからの判断になる。
真緒は、しばらくメールアドレスを眺めたあと、その紙を大切にたたんだ。
『猫ふんじゃった』のオルゴールのメロディーが流れる。
桃華からのメールだ。
画面を見てみると、相変わらず、件名なし、本文一行だけの文章だった。
<メアド、ゲットした?>
なんというタイミングと内容。
桃華も、案外、遠いご先祖が別の世界からやってきたりしていて。
真緒は、くすっと笑う。
あの浪人生が話してくれた別の世界の話は興味深かったけれど、この世界だって、そして自分の未来だって、いろんなことで溢れている。
おもしろくて不思議で未知なことも、もちろんいっぱいありそうだ。
真緒が日頃見ているようで、実際は見ていないもの、見過ごしているものも、たくさんある。
失恋で落ち込んでいる場合じゃない。
もしかしたら、来年の春を過ぎる頃には、人間じゃない彼氏が出来ているかもしれない。
桃華と一緒に、ゴスロリの格好をして、歩いているかもしれない。
でもって、桃華も、あの目つきの悪いビジュアル系の美青年と付き合ってたりして、四人で遊園地でダブルデートしたりしてるかもしれない。その頃には、真緒も、ビジュアル系青年の目つきの悪さに慣れているかもしれない。
そして真緒は、彼が、姫君よりも上司よりもやっかいな存在だと言った、あの女子高生――ほぼ黒猫の飼い主であり、真緒の高校の後輩である彼女の家庭教師をしていて、ほぼ黒猫にも、週に何回かは定期的に会えていたりするかもしれない。
そんな想像をしてみると(そこまで行くと、もうほとんど妄想に近いのだけれど)、未来は、とてもおもしろい。わくわくするくらいに。
やっぱり、来年の三月になったら、あの浪人生にメールを送ってみよう。
合格したよって、返事がくることを期待して。
そしたらきっと、新学年に大学のどこかで顔を合わせるよりももっと早く、確実に彼に会えるだろう。
もしかすると、三月まで待つなんて我慢できなくて、一か月後、いや一週間後、いやたとえばもう明日なんかに、取りあえずメールしてしまっているかもしれない。
メアドありがとう、受験がんばってねって。また春に会おうねって。
真緒は、桃華のメールに返事を送った。
<ゲットした♪>
<ダーク七都外伝・クッキングキャット 完>
※補足
最後の<ゲットした♪>の♪の部分には、本来は携帯の絵文字(上昇矢印二個と太陽マーク)が入ります。