第1章 不思議な猫
いちばん最初、闇色の影がそこに凝縮され、固まっているように見えたので、真緒はどきっとした。
まだ昼間だというのに、どこからか夜を少しだけ切り取って、そのかけらをふわりと置いたみたいな。なんとなく不安を感じるような、微妙に場違いなような、暗黒の固まり。
けれども、よく見ると、それは猫だった。
艶々の、やわらかい毛をした黒猫。
マンションのポーチに誰かが置いた、中型バイクのシートの上に、その黒猫はうずくまっていた。
ネイキッドバイクのピカピカのボディにも、銀色のハンドルにも、その黒猫は、材質的にそぐわなかった。
あまりにも対極的なものの上に乗っかっていたので、そう思えたのかもしれない。
バイクは機械で、冷たくて硬いわけだし、猫はふわふわで、あったかくてやわらかいわけなのだから。
真緒が近づくと、黒猫は目を開けた。
透明な水晶の底に、金箔が沈んでいるような目。
金箔には薄いエメラルド・グリーンが溶けていて、真ん中には、針金のような暗黒の瞳がはめこまれている。そんな感じだった。
黒猫は逃げもせず、うずくまった体勢のまま、自分の真ん前にかがみこんだ真緒をじっと見上げた。
体は、小さめ。まだ子猫なのかもしれない。
「きみ、きれいだね」
真緒は、一瞬迷ったが、そっと手を差し出し、黒猫の首筋あたりを撫でてみた。
黒猫は、黙って撫でられている。
いやがる素振りはなかったが、かといって、気持ちよくもなさそうだった。
けれども、撫でられることには慣れている。
<そう? 撫でるなら、しばらくじっとしておいてあげるよ>、という態度だ。
首輪はしていないが、やはり、どこかの家の飼い猫なのだろう。ノラ猫にしては、毛並みが整いすぎている。
「毛はビロードのようだし、目は宝石みたい。なんてきれいなんだろ」
よくある表現だと思ったが、真緒は黒猫に言ってみた。賛辞をこめて。
黒猫は、少し目を細める。
とはいえ、やはり喜んでいるようでもなかったし、<なーに歯が浮くようなことを>などと照れているようでもない。
相変わらず、無表情だった。
もちろん、猫とは、そういうものなのだが。
もし笑ったり、頷いたりしたら、化け猫ということになる。
「あったかーい」
猫の体温が、心地よかった。
撫でるのをやめて、手のひらを猫の体に押しつけていると、じんわりとあたたかさが伝わってくる。
真緒は少し勇気を出して、黒猫を抱き上げてみた。
黒猫は抵抗もせず、おとなしく真緒の腕の中におさまった。
「あ、きみ。全部黒ってわけじゃないんだ」
猫の両前足の先は、真っ白だった。前足に、白い足袋をはいているように見える。
白い部分は、量的にソックスほどの長さはないから、やっぱり足袋だろう。
尻尾の先も、白かった。そして尻尾は、信じられないくらいに長い。
真緒は、こんなに尻尾の長い猫は、見たことがない。
「黒猫さんじゃなくて、ほぼ黒猫さんってとこかな」
真緒は、その<ほぼ黒猫>を一回だけ、ぎゅううっと抱きしめ、それからバイクのシートの上に戻した。
「ありがと。抱かせてくれて。そんじゃね」
真緒は、<ほぼ黒猫>の頭を撫で、それから猫の正面で、手を振った。
真緒がポーチを通ってマンションの中に入ろうとすると、ほぼ黒猫は、バイクのシートから、ぽんと、軽く飛び降りた。
そして、尻尾をくねくねと宙に踊らせながら、優雅な足取りで、真緒のあとをついてくる。
(わ。しまった。うかつにかまってしまったから、ついてきてる)
真緒は、後悔する。
前も、自転車置き場にいたノラ猫にかまったら、しつこく足にまとわりついてきて、撒くのに苦労した。おまけにそのあと部屋に帰ったら、ノミが2匹ほど、足からフローリングの床の上にぴょんぴょん跳ねた。
「ついてきてもだめだよ。うちのマンションは、ペット禁止なんだからね」
真緒は、くるりと振り返り、ほぼ黒猫に諭すように言った。
ほぼ黒猫は、透明な目で真緒を見上げた。
<そんなの、わかってるよ。別に飼ってもらおうなんて思ってないさ>と言っているような気がした。<ぼくにはちゃんと家があって、世話をしてくれる人たちもいるんだから>
「じゃあ、なんでついてこようとしてるんだよ?」
<単なるヒマつぶし>と、ほぼ黒猫は、答えたような気がした。
もちろん、そんな声は聞こえなかったが、なんか、そんな雰囲気が伝わってきた。
「そう。そんじゃ、うち来る? 私もヒマだから」
真緒がまだ言い終わらないうちに、ほぼ黒猫は真緒を追い抜いてマンションのエントランスホールを横切り、跳ねるように階段を上がっていった。
「おーい。行きすぎだって。うちは二階なんだからね」
真緒が二階の通路に出ると、ほぼ黒猫は、三階に上がりかけていた階段を、なーんだ、低いところに住んでるのかと言いたげに仕方なく下り、再び真緒を追い抜いて通路を歩いて行く。
視界の下のほうで、黒くてやわらかくてふわふわのものが動いていくのは、不思議だった。
でも、それは確かにそこにいるし、ちゃんと生きて活動している。なにしろ、しなやかで美しい。
「ここですから」
真緒は、ドアの鍵を開けた。
「どうぞ」
ほぼ黒猫は、真緒が入るよりもはるかに早く、躊躇も遠慮もなしにドアの隙間を通り抜け、するりと中に入った。
「言っとくけど、部屋はきれいじゃないからね」
真緒は、ほぼ黒猫のうしろ姿に呟く。
そう。ここんとこ、掃除していない。
掃除する気にもなれない。
掃除だけじゃなく、家事は全部やる気にはなれない。
家事だけじゃなく、勉強も、外出も、全部。
すべてのことが煩わしい。
真緒のマンションは新築で、どこもぴかぴかだった。
自分がその部屋を最初に使うのだということが、気持ちよかった。
それにデザインも垢抜けていて、窓の他にガラスブロックの明り取りなんかも、おしゃれにはめ込まれてあったりする。
間取りは、申し訳程度の玄関と、半畳くらいのキッチン。
キッチンの横にはユニットバスと洗濯機置き場。
そして、7.5畳ほどだというフローリングの部屋(ほんとに7.5畳あるのかどうかあやしいと、真緒は思う)。
フローリングの部屋は、ベッドを置くと、もう余裕がなくなった。
それでも、小さな冷蔵庫と本棚を壁に沿って並べ、部屋の真ん中には小さめの低いテーブルと一人掛けのソファを置いている。
テーブルの上には、二十インチのパソコン。
パソコンは、パソコンとして使うだけではなく、それでテレビも見るし、DVDも見る。CDも聴く。
一人暮らしの狭い部屋の中では、そのパソコン一台で十分だった。
その狭い部屋は、真緒の几帳面な性格のおかげで、常にきれいに保たれていた。
ところが、この一週間、いろんな雑多なものが片付けられもせず、積もっていっている。
いつもの真緒だったら、考えられない状況だ。
ほぼ黒猫は、真緒が床に散らかした教科書やノート、辞書、服、携帯の充電器、などなどの間を縫うように移動した。
猫とはいえ、その汚い部屋の中を歩いてもらうのは、やはり、なんとなくうしろめたかった。
ほぼ黒猫は、やがて一人掛けのソファの上に、ふわりと乗っかる。
「あ、やっぱりそこに座るんだ」
ほぼ黒猫は、そこでのんびりとグルーミングを始める。
この部屋の中での特等席。
ほぼ黒猫は、一目見て判断し、そこを選んだのだろう。
そのすわり心地のいい紺色のソファは、彼からのプレゼントだった。
日曜日、突然、沿線の駅近くにある、有名な雑貨屋さんから届いたソファ。
「やっぱりこの部屋には、ソファが必要だよ」と彼は、真緒の部屋に来る度に言っていた。
彼が、深夜のバイトをしたお金でそのソファを買ってくれたのだと知って、真緒はとても感激した。
それ以後、彼が遊びに来たときには、そこが彼の定位置になった。
真緒が料理を作っている間、彼はいつもそこに座って、インターネットをしたり、テレビを見ていた。眠っていることもあった。
真緒は、自分の部屋で彼が眠ってくれることが嬉しかった。
平和で、静かな時間。いとおしくなるほど、楽しい時間。これからも、ずっと続いて行きそうな。
きっと、ずっと続いていくのだろうと思っていた。
当たり前に、それを信じていた。
でも――。
もう、そんなこともない。彼がここに来ることは、たぶん、永遠にない。
そう思うと、また涙がじわりと湧き上がる。もう、枯れるほど泣いたのに。
今は、どういうわけだか、そのソファには、猫が座っている。さっき会ったばかりの、見知らぬ猫。
既に、この部屋の主にでもなったかのように、丁寧に毛並みの手入れをしている。
真緒は、パソコンをつけた。何か、音がほしかった。
「ほぼ黒猫さん、おなかすいてる? なんか食べる?」
真緒は、取りあえず冷蔵庫を開けてみた。
たぶん、猫が食べられるようなものは、ないかもしれないとは思ったけれど。
冷蔵庫に入っているもの。
干からびかけたナスが一個、ピーマンが二個、キャベツがわずか。
それから玉子が二個、ハムが一パック、うどんが一玉、なくなりかけたキムチ一瓶、リンゴが四分の一個。
プレーンヨーグルトが少し。チョコレート一かけ。あとは、調味料。
冷凍庫には、夏からずっとそのままの冷凍枝豆と、一週間くらい前に冷凍したご飯。
もちろん、いつもは、もっと食料であふれている。
ただ、買い物に行って、冷蔵庫を補充する気になれない。
「きみが食べられそうなものって、ハムくらいかな。それか、マーガリン、舐めてみる? ツナ缶もあいにくないしね。カニカマとか、かつお節もないんだ。悪いね」
ほぼ黒猫は、相変わらず、自分のグルーミングに夢中になっている。
携帯が、鳴った。
『猫ふんじゃった』の、オルゴールのメロディー。
桃華からのメールだ。
前に桃華が遊びに来て、しばらくして帰ったあと、突然携帯からこの『猫ふんじゃった』が流れ始めた。
びっくりした。そんな着メロ、聞いたことも、もちろん設定した覚えもなかった。
桃華が勝手に真緒の携帯にダウンロードして、自分からのメールはそのメロディーが鳴るように設定して行ったのだ。
以来、時々真緒の携帯は、オルゴールの『猫ふんじゃった』を奏でている。
真緒は携帯を取り出し、メールを見た。
<生きてる?>
件名なし、本文のみの、とても短い文章だけれど、それで桃華の気持ちは、十分伝わってくる。
<生きてる>
真緒はそう打って、返信した。
ありがとう。心配してくれて。そういう気持ちを文字の間にこめて。
そして、携帯を閉じて、テーブルに無造作に置く。
真緒が大学を休んでから、きのうで一週間。
桃華にも、もう一週間以上会っていない。
大学へは、きょう、久々に行った。
どうしても出なければならないドイツ語の授業だったってこともある。
毎回出席しないと絶対に単位が取れないという、そして、選択した学生の半分近くが単位を落とすという、恐怖の科目だ。
一回休むと、わからない部分が多くなり、二回休むと、完全に授業についていけなくなる。それは避けたかった。
あと、ドイツ語の授業は、みんなに会わなくてもよかったから。
真緒と仲のいい友人たちは、みんなドイツ語を避け、他の、単位を取りやすい第二外国語を選択している。
桃華はイタリア語だったので、もちろんドイツ語の授業で会うことはない。
みんなには会いたいけど。あの明るい笑顔の輪の中に、真緒はまだ戻れそうもない。
明日は、心理学。そのあと、シナリオ論と日本文学史の講義もある。
久々に出ようかな。桃華も来るかもしれない。
そろそろ、浮上しなくっちゃ。
でも、やっぱり、当分浮上できないのは、自分でもわかる。
桃華に会ったのは、一週間以上前の、お昼が最後。
学食にいた真緒を見つけた彼女は、真っ直ぐ、真緒のテーブルに歩いてきた。
服装で、遠目からでも、桃華だということが、すぐにわかる。
アンティークドールっぽい衣装をもう少しシンプルにした感じの服装。
大学に来るときは控えめにしていて「ん? もしかして?」という感じだが、桃華と休みの日に出かけると、「う。やっぱり」ということになる。
一緒に歩くのには、ちょっと勇気がいる服装。いわゆる、ゴスロリ。
その日もまだ普通っぽく、ワンピースとカーディガンという格好でまとめてはいるが、桃華が被っているのは別珍のウサミミ帽子だった。
2本の長い耳が、桃華のストレートの髪と一緒に、さりげなく後ろに垂れている。
大学に着て来る服装のゴスロリ度も、春に比べると、ゆるやかに上がってきているような気がする。
髪を赤系の栗色に染め、メイクもばっちりしている桃華は、真緒より一つ年上。一浪してから、大学に入ったからだ。
一つだけ年上のはずなのに、桃華は五歳も十歳も年上に感じることがある。
それは、彼女が、一瞬にして人を見抜くという、特殊な才能を持っているせいなのかもしれない。
桃華の、第一印象で他人に対して働くカンは、はずれたためしがないらしい。
ただし、本人によると、自分の恋愛に関しては、まるっきりその才能は機能しないらしかった。
桃華は、真緒の真正面の席に座った。
それから、真緒をじっと見つめて、しばらく黙っていた。
「どしたの?」
真緒がたずねると、桃華は眉間に皺を寄せ、目を宙に漂わせた。
彼女がそんな複雑な表情をするのを真緒は初めて見た。
桃華は、意を決したように、口を開く。
「あのさあ」
「ん?」
「きのう、遊園地に行ってきたんだ」
「ああ。従妹が遊びに来るから、一緒に行くって言ってたよね」
けれど桃華の顔は、遊園地の楽しい話をしそうな雰囲気ではなかった。
彼女は、複雑な表情のまま、続ける。
「……で、見たんだ」
「何を?」
「あんたの彼氏。その遊園地で。女の子と一緒だったよ」
「え?」
桃華は、真緒の視線を真っ直ぐに受け止める。
「それは、その……」
真緒は、言葉を探した。
言い訳になりそうな言葉。
桃華を、そして自分も納得させることが出来るような、とても便利な言葉。
だが、なかなか見つからない。
「単なる女友達とか、後輩とか、親戚とか……じゃないかな」
「そんな雰囲気じゃなかったよ」
桃華は、真緒が見つけた、当たり障りのない言い訳をばっさりと否定した。
「詳しく聞きたい?」
桃華が言った。
意地悪なんかで言ってるんじゃない、ちゃんと現実をわかれって、その目は告げていた。
「いい。聞きたくない。もう十分」
真緒は、呟く。
最後のほうは、もう、自分でも聞こえなかった。
「真緒、二股かけられてるんじゃないの」
桃華が、ちょっと腹立たしげに言った。
桃華は、彼に対して、以前からあまりいい印象は持っていない。
初めて彼を紹介したときも、一瞬にして、<油断のならない人物>という評価を下したと、自分で言っていたのだ。
「じゃあ。そういうことだから」
桃華は、そっと真緒の肩に手を乗せた。それから席を立って、行ってしまった。
真緒は、ひとり、残された。
いろんなものが頭の中をぐるぐると回った。
「二股じゃないんだ、たぶん」
真緒は、ハムのパックを開けながら、つぶやいた。
「もう終わってて、それで新しい彼女が出来た。それか、新しい彼女が出来そうだったから、終わりにしたのかも」
もう十日以上になる。彼からの連絡が来なくなって。
何回もメールを出したのに。返事は全く来ない。
電話もかけてみた。
いつも、留守番センターにつながった。
故意に、真緒からのメールを無視して、電話にも出ないとしか思えない。
付き合い始めた頃は、しつこいくらいにメールも電話もくれていたのに。
真緒は、ハムを一枚つまんだ。
きれいなピンク色の断面。艶々していて、なめらかで、おいしそうな。
けれども、食べる気にはなれない。
真緒は、ほぼ黒猫の鼻の上に、ハムをかざしてみた。
ほぼ黒猫はグルーミングをやめ、ハムの匂いをふんふんと嗅ぐ。
だが、すぐに、グルーミングに戻ってしまう。全く興味がなさそうだった。
「ハム、食べないの。じゃあ、これは?」
真緒は、指にマーガリンをつけてほぼ黒猫の鼻先に近づけてみた。
だが、やはり匂いをかいだだけで、反応はあまり芳しくない。
「じゃあ、何が食べたいの? 言ってみてよ。なんなら、近所にペットショップがあるから、買ってきてあげるよ」
真緒はほぼ黒猫に質問したが、もちろん、返事を期待したわけではなかった。
何気にほぼ黒猫がグルーミングをぴたりとやめて、『そおお? じゃあ、このメーカーの、このカリカリを買ってきてよ』なんて答えたら、気を失うだろう。
でも……。
今の私の状態だったら、気を失わないかもしれない。
真緒は、ぼんやりと思う。
案外、不思議なこととか奇妙なことが起こっても、全部受け入れちゃうかも。
落ち込みすぎて、普段の感覚が麻痺している。
自分じゃない自分が、ここにいる。
「わたし、落ち込んでるの。失恋で」
真緒は、ほぼ黒猫に向かって、呟いた。
「失恋で落ち込んでるなんて、馬鹿みたいだと思う?」
もちろん、ほぼ黒猫は、答えない。
グルーミングを続けている。
「ネットで、動画でも見る? ネズミさんとか、鳥さんとか。好きでしょ、そういうの」
真緒は、適当に検索して、鳥の動画を選んだ。
カラスが数羽、アンテナに止まっている動画だ。
翼を羽ばたかせたり、体を揺らして鳴いたりしている。他の鳥よりは動きが大きくて、迫力があった。
ほぼ黒猫は、じっとパソコンの画面をみつめた。やはり、それは興味をそそられたようだ。
「じゃ、しばらく見ててね。画面に爪たてたら、だめだからね」
真緒は、冷蔵庫を再び開け、ハムを直した。
何か、食べなくちゃ。
でも、やっぱり、食べる気にはなれない。
おなかはすいてるのに。
料理を作る気になれない。
自分に栄養を与えたくない。
彼に捨てられた自分に、食べ物なんか与えたくない。
また涙がこぼれて、床に落ちた。
涙を出そうなんて、思ってないのに。
勝手に出た。
今、冷蔵庫にある材料で出来るものって……。
焼きうどんくらいかな。キャベツとピーマンと、それからハムで。
ほんとは、豚肉を入れたらおいしいのだけど。
あとは、ハムエッグにナスの味噌汁をつけるとか。
けれども、キャベツもピーマンも、切るのがめんどうだった。
フライパンに玉子を割って、ふたをして、水を入れるのもめんどう。
ナスを細かく切るのもめんどう。
もう、なんか複雑なことをするのが、すべてめんどう。
冷蔵庫の上には、レトルトカレーが一箱、乗っかっている。
実家から食料品が送られてきたとき、一緒に入っていたものだ。
真緒は、レトルトカレーが苦手だった。食べると、必ず胃がもたれる。
普通の手作りカレーは大好きなのだが。
気分的なものなのかもしれない。
だから、もちろん、レトルトカレーもパス。
だいたい、鍋にお湯を沸かすのさえ、苦痛だ。
その前に、カレーなら、ご飯を炊かなければならない。
お米を計って、研いで、分量の水を入れて……。そんな複雑なこと、絶対、無理だ。
真緒は、ため息をつく。
こういうの、鬱状態っていうのかもしれない。
何もやる気になれない。
真緒は冷蔵庫を閉めた。
そして、くるりと向きを変えたところで、固まる。
パソコンの画面には、真緒が用意した、さっきのカラスの動画とは別のものが映っていた。
「な、なに、これ……」
それは、ネット通販のサイトだった。
アップで、どどーんと大きく映し出されているのは、缶詰の写真。ウェットのキャットフードの缶詰――つまり、『猫缶』だ。
猫缶の側面には、しましまの猫が舌なめずりをしている写真が入っている。
真緒は、しばらく、その猫缶の映像を見つめた。
なんで、これが?
まさか……。
真緒は、ほぼ黒猫の前足をさっとつまむ。
グルーミングを邪魔されたほぼ黒猫は、真緒をじろっと眺めた。
「まさか、この手で、マウスを動かした……とか?」
ほぼ黒猫は、真緒の指の間から、自分の前足をひゅんと引っこ抜いた。
そして、何事もなかったように、グルーミングに戻る。
「単なる偶然? カラスの動画のあと、このページが現れるようになってた? でも、そんなわけないものね。何か動作をしない限り。きみがたまたまマウスかキーボードの上に乗っかったら、たまたまこのサイトのこの猫缶のページが現れた、とかだよね」
ほぼ黒猫は、完全に真緒を無視している。ただ、耳は真緒のほうに向いていた。
「なんかよくわかんないけど……。ペットショップに行って、買ってきてあげるって言っちゃったし。どっちにしろ、うちにはきみが食べられるものって何もないもの。どうせ買いにいくなら、この猫缶にするね」
真緒が言うと、ほぼ黒猫は、どことなく満足げな顔をした……ような気がした。
真緒は、その猫缶のページを印刷した。
そして、プリンターから吐き出された紙を折りたたむ。
「じゃあ、ペットショップに行ってくる」
真緒は、小さめのバッグに財布と携帯と猫缶を印刷した紙をほうりこみ、肩にかけた。
それから、パソコンの電源を切る。
玄関で振り返ると、ほぼ黒猫は、相も変わらず、グルーミングにいそしんでいた。