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渡り鳥 (読み切り)

作者: San
掲載日:2026/04/24

朝の空気は、まだ少し冷たかった。


窓を開けると、向かいの家の屋根の上で雀が数羽、ぎこちない声で鳴いている。

遠くで自転車のブレーキの音がして、新聞配達の人が坂道を降りていった。


家の中は静かだった。


キッチンのテーブルの上には、昨夜のまま置かれているマグカップが一つ。

冷めきったコーヒーの跡が、薄い輪になって底に残っている。


椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見る。


向かいの家の玄関が開く。

会社員らしい男が出てきて、ネクタイを直しながら足早に坂を下りていく。


その後ろから小学生の兄妹が走り出し、母親が「忘れ物ない?」と声をかける。


どこの家にも、朝というものがある。


だが、この家にはもう一つ、少し違う朝がある。


隣の部屋の扉は開いている。

ベッドはきれいに整えられているが、そこには誰もいない。


昨夜も、帰ってきていない。


それは珍しいことではなかった。


むしろ、家にいるほうが珍しい。


「またどこか行ってるのか」


そう呟いてみるが、特に驚きもない。


最初の頃は心配していた。

夜遅くまで帰ってこない日もあったし、朝になっても部屋が空っぽなこともあった。


けれど今では、それが当たり前の景色になっている。


どこへ行っているのか。


聞いたことはある。


そのとき彼女は少し考えてから、こう言った。


「うーん……そのへん」


そのへん、という言葉の中には、

公園も、川も、海も、町も、たぶん全部含まれている。


それ以上は聞かなかった。


聞いても、きっと同じ答えだからだ。


昼前、買い物に出ることにした。


坂の多いこの町では、歩くたびに少し息が上がる。

古い家々の間を抜け、細い道を下っていく。


途中、小さな公園がある。


滑り台と、ブランコが二つ。

砂場の端には、古びたベンチが置かれている。


そこに、座っていた。


遠くからでも分かる。


背中の形で分かるのだ。


ベンチに浅く腰かけて、空を見上げている。


風で髪が揺れている。


少し近づくと、彼女がこちらに気づいた。


「あ」


と、短く声を出す。


「また外?」


そう聞くと、彼女は笑った。


「うん」


それだけだった。


隣に座る。


ベンチは太陽で温まっていた。


公園には誰もいない。

遠くで犬の鳴き声が聞こえるだけだ。


彼女はしばらく空を見ていた。


「今日はここ?」


「うん。さっき来た」


「家は?」


「朝ちょっと寄った」


寄った、という言い方をする。


まるで家が途中の店みたいに。


砂場の隅で、風が砂を少しだけ動かす。

滑り台の金属がきらりと光る。


彼女は急に立ち上がった。


「じゃあ、行くね」


「どこに」


「そのへん」


やっぱり同じ答えだった。


そしてそのまま、公園の出口へ歩いていく。


呼び止めることはしない。


彼女は振り返りもしないで、坂の向こうに消えていった。


ベンチには、まだ体温が残っていた。


それから数日後。


夕方のスーパーだった。


店内には揚げ物の匂いが広がっている。

レジの前には小さな列ができている。


野菜売り場の端で、見つけた。


トマトを手に取って、真剣な顔で眺めている。


近づく。


「何してるの」


彼女は驚いた顔をした。


「あ」


「また外?」


「うん」


トマトを戻す。


「買い物?」


「いや、見てただけ」


「何を」


「赤いなって」


確かに赤い。


当たり前のように赤い。


二人で少し笑った。


スーパーの蛍光灯の下では、時間の感覚が少し変になる。

外が夕方なのか夜なのか、分からなくなる。


レジの放送が流れる。


「本日、卵が特売です」


彼女はそれを聞いて、


「卵か」


と言った。


「買う?」


「いや」


また少し店内を歩く。


冷凍食品の前で立ち止まり、

パン売り場を通り過ぎる。


結局、何も買わない。


「帰る?」


そう聞くと、彼女は首をかしげた。


「うーん」


少し考えて、


「もうちょっと歩く」


と言った。


外へ出ると、空はすっかり夕焼けだった。


雲が長く伸びている。


スーパーの自動ドアの前で、彼女は靴の先で地面を軽く蹴る。


「じゃあね」


「うん」


また歩き出す。


今度は川のほうへ向かっている。


どこへ行くのかは、やっぱり分からない。


夜、家に戻る。


玄関の靴は一足だけ。


静かな家。


電気をつける。


キッチンの椅子に座る。


少しして、玄関の音がした。


ドアが開く。


彼女だった。


「あ、いた」


まるで外で会ったときみたいに言う。


靴を脱いで、リビングに入る。


「どこ行ってたの」


「川」


「何してたの」


「見てた」


「何を」


「流れるやつ」


それだけ言って、ソファに座る。


しばらく沈黙が続く。


時計の秒針が進む音が聞こえる。


やがて彼女が言う。


「ねえ」


「ん?」


「この町、歩くと結構広いね」


「そう?」


「うん」


少し考えて、


「まだ全部行ってない」


と言った。


そして窓の外を見る。


夜の町は静かだ。


遠くで電車の音がする。


彼女はふっと笑う。


「明日、どこ行こうかな」


そう言う顔は、もう半分外にいるみたいだった。


たぶん明日も、家にはいない。


そしてまた、私は彼女を探しどこかの公園や店や道で、

見かけるのだろう。


そのとき彼女はきっと、同じように言うだろう


「あ」


と。

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