◆第三章 同じ日の、別れ
シロと咲良が通い始めてから四年。季節は巡り、比呂人は今日で十八歳になった。立派な成人だ。
園の決まりで、十八歳の誕生日に誰もがここを卒園する。独り立ちをしないとならない。比呂人は近くの自動車整備工場への就職が決まっていた。工場の社長、十河明久(55)も向日葵園の出身者で、園の先輩たちも何人か工場で働いていた。
その日の朝、施設の空気はいつもより乾いていた。荷物は昨夜のうちにまとめた。スーツに身を包む鏡の中の自分が少しだけ知らない顔に見える。
食堂の黒板には、白いチョークで大きく書かれている。
《比呂人くん 卒園おめでとう》
「今日で卒園ね」
園長の光江の言葉に比呂人は、目を逸らしたまま頭を下げる。側には来賓で招かれていた十河社長の姿も。
「……今まで、ありがとうございました」
九歳でここにきて、ずっと目をかけてくれていた園長。言えたのはそれだけだった。もっといろいろと言葉を重ねたかった。お礼の気持ちも伝えたかった。けれど喉の奥が詰まって、言葉が形にならなかった。
そんな気持ちを察して、光江は比呂人の頭を優しく撫でた。
隣の十河にぺこりと頭を下げたあと、いつも咲良とシロがやってくる方向を窓から覗き込む。
他の園児とは距離を取る比呂人を見て十河がつぶやく。
「何かしら、心に抱えていそうですね。…昔のあいつみたいに。」
光江は比呂人の後ろ姿を見守りながら、胸の痛みを覚えた。
夕方5時のチャイムが鳴る。
「遅いわね。咲良さんたち。」
光江がつぶやく。
外は徐々に空が暗くなり、天気予報にはなかった雨が、細い針みたいに落ちてきた。
風が強まり、街路樹がざわめいた。
同じ日。蓮も十八になった。
「誕生日、おめでとう」の言葉は、家の中では儀式みたいに薄かった。
夫人は、穏やかな声で「あなたのため」と言い、今日も予定表を差し出す。蓮は笑って頷いた。
習い事の準備のためと部屋へ戻り、クローゼットの奥から小さなスポーツバッグを取り出した。
監視が厳しくアルバイトなどもできない。この日のために無駄遣いを一切せずに貯めたお小遣いを握りしめ、着替えなど最低限のものを詰め込んだ。
心臓がうるさくて、息が浅い。けれど足は止まらなかった。
玄関の鍵を開ける音が、こんなに大きいなんて知らなかった。
蓮は雨の匂いの街へ出た。誰にも見られないように細い道を選び、お地蔵さんのある場所へ向かった。
そこだけは、ずっと変わらない。
道路沿いの小さな隠れ家。雨除けの屋根。冷たい石の匂い。そしてミーとの場所。
「ミー……!」
ミーはいつもより小さく丸まっていた。最近元気が無かったので心配していた。呼んでも、返事の鳴き声はか細い。蓮は膝をつき、そっと抱き上げた。骨ばった軽さが、腕の中で震えた。
「ねえ、今日から私、やっと自由になれるんだよ……」
言いながら、自分の声が泣き声に変わっていく。
「ミーだけが友達。私、一人じゃ生きていけない……」
その言葉が落ちた瞬間、ミーの身体から力が抜けた。
蓮の腕の中で、息がふっと途切れる。
あまりにも静かで、抱きしめているのに、どこか遠い。
「え……ミー?」
蓮は呼ぶ。何度も。返ってこない。
ミーを抱きしめて泣き崩れる蓮。その泣き声も雨音にかき消される。
いつまでも雨の中ミーを抱きしめる蓮に、そっと傘を差しだす男。動物病院の院長鳥谷だ。
「そっか。君を待っていたんだね。」
ここ最近ずっと体調がすぐれなかったミー。鳥谷が病院に連れて行こうとしても、今日は頑なにこの場所を離れようとしなかったという。
遠くに救急車のサイレンが鳴っている。雨粒に削られて、近づいて、――そして遠ざかっていく。
蓮は顔を上げた。誰かが運ばれていく音。知らない誰かのはずなのに、胸の奥が騒ぐ。
雨の向こうに、赤い光が滲んで消えた。
その救急車に、咲良が乗っていることも。その隣で、白い盲導犬もまた、二度と目を開けないことも。
まだ、誰も知らないまま。
雨だけが、同じ強さで降り続いていた。




