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◆第二章 ほどけた糸の行き先

 施設で子供たちが遊び回っている。比呂人はその輪には入らず、日陰のベンチに腰を下ろし、ポケットから一枚の写真を取り出した。角が少し擦れている。何度も触って、何度も戻した跡だ。そこには、比呂人の祖母栄子、比呂人、双子の妹の蓮、盲導犬サクラが写っていた。写真の中の笑顔は、今の自分とは別人のようだ。


 比呂人と蓮は、早くに両親を亡くし、物心ついた頃から祖母・栄子の元で暮らしていた。

 栄子が可愛がっていたオウムのダイスケも一緒。早起きのダイスケの鳴き声でいつもの朝が始まる。畳の匂い、台所の湯気、祖母栄子の指先のやさしさ。そして、玄関にはいつも尻尾を振っていた盲導犬のサクラ。

 貧しくても、家の中は明るかった。


 比呂人はいつもサクラと一緒だった。いつも学校から飛んで帰ってきてサクラと遊んだ。たまにサクラと蓮が仲良くするとやきもちを焼いたりした。


 たまに栄子が買ってきてくれる「松栄堂」のたいやきが、比呂人と蓮の何よりの楽しみだった。比呂人はいつも、あんこがたっぷり詰まった頭の部分を蓮に譲り、しっぽを自分で食べた。


「あ、今日は当たり!しっぽにもあんこ入ってる!」


 比呂人が嬉しそうに声を上げると、蓮が笑った。サクラも尻尾を振る。

 そんな些細なことが、何よりも幸せだった。


 比呂人はサクラを抱き寄せた。

「僕とサクラで、みんなを守るんだ」

 サクラは静かに寄り添い、家族の輪郭を守るようにそこにいた。


「僕、いっぱい勉強してお医者さんになって、おばあちゃんの目を治す!」

 蓮も負けじと宣言する。

「私は歌手になって、みんなに大きなおうちプレゼントする!」


 そして蓮が『ひまわりの約束』を歌い出すと、比呂人も一緒に口ずさんだ。ダイスケも二人に合わせるように鳴いた。


 急に比呂人の口の周りを舐めようとするサクラ。

「お兄ちゃん、くちのまわり、あんこ!」


 栄子はみんなの声のする方へ顔を向け、皺の奥で笑った。



 そんなささやかな幸せの日は、長く続かなかった。

 持病があった栄子の体調が悪化し、ある日ふっと坂を転げ落ちた。

 入院。点滴の匂い。白い廊下。


 それから比呂人は学校の行き帰りには必ず當間神社に立ち寄った。祈れば届くと信じたかった。神様はちゃんとみんなを見てくれている、と栄子が言っていたから。

 わずかなお小遣いを握って賽銭箱に落とし、手を合わせた。雨の日も、寒い日も。何度も、何度も。

 それでも栄子は、意識が戻らないまま逝った。


 葬儀のあと、家は急に広くなった。

 サクラは盲導犬センターへ戻されることになり、比呂人は児童養護施設へ。蓮は里親を名乗り出た裕福な老夫婦の家に引き取られた。オウムのダイスケは行方知れず。

「必ず迎えに行くから!」

 蓮を載せた車が遠くの角を曲がるまで、比呂人は何度も何度も叫んだ。

 知らない大人たちが、家族をバラバラに裂いた。

 “仕方ない”という言葉が、やけに簡単に使われた。



 運動場の歓声が遠くに聞こえる。比呂人は写真を見下ろしたまま、声にならない息を吐く。


「守るって言ったのに」


 比呂人は誰にも聞こえない声で呟いた。

 お金と地位、権力がなければ、何も守れない、そう思うほど、心の扉は固くなっていった。明るくて、よく笑った自分が、遠くに置き去りになっていった。


 ある日の當間神社。

 今日もまた、咲良が祈り、盲導犬シロが足元で待っている。シロとミーはいつものように

 それぞれの存在を確認するように目を合わせ、ミーは二人を見送ると、音もなく地面へ降りた。慣れた足取りで細い路地を抜け、片隅にある小さな地蔵の前でぴたりと止まる。そこが待ち合わせ場所だと知っているみたいに。雨除けの屋根の下、石の冷たい匂いが溜まっている。


「ミー!」


 駆け寄ってきたのは、涙で頬を濡らした少女――蓮(14)だった。蓮はしゃがみ込み、ミーに抱きつく。ミーは抵抗もせず、慣れたように体を預けた。


 蓮の里親となった前田哲男(63)、陽子(58)夫妻は、向日葵園に多額の寄付をしている地域の資産家、子どものいない二人は、過去も何人か向日葵園から養子を迎えていた。

 前田家に来た蓮は、私立の有名女子中学校に編入し、衣服も食事も何不自由なく暮らした。けれど家の中には、目に見えない決まりがたくさんあった。笑い方。話し方。成績。将来。子供のいない老夫婦は、理想の子供像を蓮に押し付けた。悪い成績を取ると、前の子はこうだった、あの子はどうだったと比較された。「いい子」を演じれば演じるほど、心は薄くなる。自分じゃなくなる。歌が好きだったはずなのに、声を出す場所もなくなった。


 期待に応え続ける蓮は、夫妻にとって「完璧に仕上がった最高傑作」だった。だが蓮自身は、自分が誰なのかわからなくなっていった。


「私、ただのお人形さんみたい」


 蓮はミーの首に顔を埋め、嗚咽を漏らした。


「もう、死んでしまいたい……」


 ミーは返事の代わりに、蓮の腕へ頬を摺り寄せる。


「私には、ミーだけしかいない……」


 遠く離れたと思っていた兄妹は、同じ街の、すぐ近くで暮らしていた。

 その間を、シロとミーが毎日すれ違いながら結んでいることを――比呂人も蓮も、まだ知らない。


 雨の日。シロの定期健診で、咲良はいつもお世話になっている鳥谷動物病院へ向かった。約束の時間、病院のドアは閉まっている。雨粒が白杖を叩き、シロの背が少し濡れる。

 しばらくして、傘を差した男、鳥谷動物病院院長の鳥谷大輔(36)が走って帰ってきた。びしょ濡れになりながら玄関の鍵を回し、息を切らして頭を下げる。


「すみません、遅くなって。」


 當間神社の野良猫「ミー」が最近具合悪く、この雨の中心配になって見に行っていたという。

 咲良は「ミー」と聞いて、ふとシロの耳がぴくりと動くのを感じた。

 雨の匂いの向こうで、なにかが繋がりはじめている。まだ誰も、その糸の先を知らないまま


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