校舎の黒板
私の肌は、深い森の底のように沈んだダークグリーンだ。
その表面は、黒鉛と粘土を焼き固め、数千度の高温で焼成された特殊な塗料でコーティングされている。
視覚にはマットなざらつきを感じさせるが、触れれば意外なほど滑らかで、冷ややかだ。
指先で撫でれば、微細な粒子が指紋の溝に引っかかる感触だけが残る。
幅三・六メートル、高さ一・二メートル。
私はこの教室の支配者であり、知識の泉であり、そして沈黙の観察者、黒板だ。
四月。
新学期の教室は、独特の化学物質の匂いで飽和していた。
真新しい教科書から漂うインクの溶剤臭。上履きのゴムが床と摩擦する匂い。ワックスのかかったフローリングの甘い匂い。
そして、三十人の生徒たちが発散する、生命力の塊のような、青臭い体臭。
若い教師が、新品のチョークを箱から取り出す。
石膏の棒が私の肌に打ち付けられる硬質なリズム。
炭酸カルシウムの粉塵が舞う。
微粒子が春の斜光の中で乱舞し、私の黒い平面上に白い軌跡を刻み込む。
『入学おめでとう』
過剰なまでの筆圧。文字のトメ、ハネ、ハライに、教師の緊張と教育への情熱が滲んでいた。
熱い。
文字を書かれるということは、摩擦熱を受け取るということだ。
私という無機物に、彼らの体温と意志が転写される瞬間だ。
私は全てを記録し、全てを受容してきた。
授業中、退屈を持て余して頬杖をつく生徒。その視線は私の表面を通り越し、頭上に掲げられた時計の秒針へ釘付けになっている。
教師の目を盗んで、机の下を密かに移動する手紙。
早弁をする生徒の弁当箱から漏れる、冷えた唐揚げと海苔の湿った匂い。
テストの日の、張り詰めた緊張感と鉛筆が紙を走る音。
放課後の喧騒。
そして夕暮れ。
茜色の西日が窓から侵入してくる時間。
私の肌は夕焼け色に侵食され、チョークの白道が金色に輝き出す。
無人の教室で、一人の少年が私に接近する。
彼は周囲を警戒しながら、震える手でピンク色のチョークを握りしめた。
石膏が削れる、微かで儚い音。
彼は右下の隅に、小さな傘を描いた。相合傘だ。
自分の名前と、意中の女子の名前。
書いている彼の横顔は、夕日よりも赤く上気していた。
彼の乱れた呼気が私にかかる。甘酸っぱい、青春の喘鳴のような息遣い。
心拍数が上がっているのが、空気の振動で伝わる。
しかし、書き終えた直後、彼は我に返ったように黒板消しを掴んだ。
布フェルトが叩きつけられる鈍い音と共に、文字は抹消された。
チョークの粉が舞い上がり、彼は咳き込む。
文字は視界から消え失せた。完全に。
だが、私には感知できる。
うっすらと残る白い痕跡。
チョークの微細な粒子が私の表面の凹凸に食い込み、完全には除去されていないのだ。
叶わぬ恋、言えない想い、明日への不安、些細な秘密。
それらは「幽霊」となって、私の中に積層されていく。
何千、何万という言葉が、地層のように私の表層の下に化石化して眠っている。
私は黒い記憶装置だ。
三十年の歳月が流れた。
私は老巧化した。
中央部分は長年の摩擦で塗装が剥離し、下地が露出し、白茶けて光沢を帯びてしまった。
チョークが滑る。
インクの乗らないボールペンのように、文字が掠れる。
時折、耳障りな金切り声を上げてしまう。
強く書こうとすると、爪でガラスを引っ掻いたような不快音が響くのだ。
生徒たちの耳を塞ぎ、顔をしかめる。
「この黒板、ボロいよな」
悪態をつかれる。
謝罪はしない。これは私の経年劣化による悲鳴なのだから。
私は十分に働いた。もう休ませてくれ。
廃校が決まった。
少子化の波に飲まれ、この校舎は解体されることになった。
最後の卒業式の日。
式が終わった後の教室に、生徒たちが雪崩れ込んできた。
彼らは制服のボタンを外し、ネクタイを緩め、チョークを両手いっぱいに抱えていた。
「書こうぜ!」「全部埋め尽くそうぜ!」
秩序なき饗宴。
けれど、それは破壊衝動ではなく、愛ゆえの暴動だった。
無数の手が私に伸びる。
痛み、痒み、そして圧倒的な熱量。
『3年B組最高』『先生、ありがとう』『離れ離れになっても友達』『ずっと好きでした』
極彩色の文字、下手くそな似顔絵、涙マーク、ハートマーク。
私の深緑の肌が見えなくなるほど、私は色彩で埋葬された。
チョークの粉が吹雪のように舞い、教室の視界を白く染める。
生徒たちの髪も、眉毛も、黒い制服も、石灰まみれだ。
彼らは咳き込みながら、泣きながら、笑っていた。
その混濁した空気の味。
石灰の乾いた粉っぽい味と、涙の塩味と、汗の酸味が混じり合った、濃厚な「別離」の味。
私は窒息しそうだったが、これほどの充足感を感じたことはなかった。
私はただの板ではない。彼らの心のキャンバスだったのだ。
「絶対消すなよ!」
「そのままにしておこうぜ!」
彼らはそう言い残して去っていった。
誰も黒板消しを手に取らなかった。
私は消されなかった。
この乱雑で、騒々しく、温かい落書きこそが、私の死化粧となった。
解体の日。
重機の咆哮が近づいてくる。
キャタピラの金属音がアスファルトを削る。
地響きが、私の背中を伝ってコンクリートの躯体を揺さぶる。
隣の教室が破壊される音。圧縮され、ねじ切られる建材の悲鳴。
窓ガラスが砕け散る音。
風が吹き込んでくる。
土埃と、鉄が切断される際の焦げた匂い。
巨大な鉄の爪が、天井を無造作に引き裂いた。
外界の光が、無遠慮に降り注ぐ。
暴力的で、あまりにも眩しい光。
教室の空気が一瞬で入れ替わる。
重機のオペレーターが私を視認した。
一瞬、アームが止まる。
彼にも見えたはずだ。私に刻まれた極彩色のメッセージが。
しかし、感傷で工事は止まらない。
鉄の爪が私に向かってくる。
次の瞬間、絶望的な衝撃が走った。
ベキベキベキッ!
私は中央からへし折られた。
『最高』の文字が分断される。
『ありがとう』が粉砕される。
崩れ落ちる瞬間、膨大な量の白い粉が舞い上がった。
それは単なるチョークの粉ではない。
三十年分の授業、三十年分の落書き、三十年分の秘めた想いが結晶化した魂の粉塵だ。
私は瓦礫の中で、剥き出しになった空を見上げた。
粉塵が春の陽光を受けて微細なプリズムとなり、キラキラと光りながら青空へと昇華していく。
美しい光景だった。
私の肉体は砕け、産業廃棄物として処理されるだろう。
だが、私の記憶は粒子となって風に乗る。
大気圏を循環し、どこかの街で、雨となって降り注ぎ、誰かの肩を濡らすかもしれない。
あるいは、新入生の吸い込む空気の一部となるかもしれない。
その時、ふと懐かしい教室の匂いを感じたら、それは私だ。
形はなくなっても、私は世界の一部として漂い続ける。
さようなら、そして、ありがとう。
私の愛した、愚かで愛おしい子供たちよ。




