第46話 鴎のソフィア
ノエリアの街、そして海を一望する丘縁で、岩に腰かけパンを食べるシェリーと俺。
そんな俺たちの前に、一羽のカモメが舞い降りた。
この辺りでよく見る、小型のカモメだ。
そして、近いな。
こんなに人に近づくのは珍しい。
俺に寄ってきたのか?
……ん?
カモメは僅かに体を前傾し、首根を下げる。
そして、空へとむけて嘴を開けた。
「スピー。スピー。スピー」
これは……そういやそんな時期か。
「ねぇ、モーちゃん。
この子、何て言ってるの?」
シェリーが小首を傾げ、困惑の表情を見せる。
「ああ、餌くれってさ。
カモメの求愛行動だ。
モテる男は辛いな」
そう言って、嘴を傾け目を伏せる。
同時に風が吹き抜け、羽根を震わせる。
決まった。
これが男のダンディズムだ。
「ぷっ。何よ、それ」
シェリーが吹き出し、苦笑する。
かつての船旅を彷彿させる、二人の時間が返ってきた。
いい時間だ。
だが、そんな問答の合間にも、カモメは鳴き続けている。
「スピー。スピー。スピー」
コイツさえ居なけりゃな……。
「それにしても、粘るな。
試しに、シェリーがあげてみたらどうだ?」
「え? いいの?」
シェリーが目を見開き、瞳の奥に光を覗かせる。
素顔はクールな彼女の見せる、普段と真逆の表情。
これもまた、シェリーの織りなす百面相の魅力だな。
さて……
「構わんだろ。それに、このままだと収まりもつきそうにないしな」
「じゃあ……」
シェリーがパンをちぎり、カモメの口元へと運ぶと、
「きゃっ」
パチンと嘴を閉じ、シェリーの手からパンを奪い取る。
シェリーはパンを手放し、手を引いた。
顔を見れば、目を丸くしている。
ビックリしたか。
「良かったな、端っこ持ってて。
野生のカモメはこんなもんさ」
俺の言葉に彼女は満足げな笑みを浮かべ、呟く。
「でも、可愛いわね……」
カモメがまた上を向き、おかわりを要求している。
シェリーもまた、パンをちぎっては与える。
暫く繰り返した後、カモメは姿勢を正して羽を広げ、
「モケ――――――」
長く響き渡る、雄叫びを上げた。
「なんか長いわね。これ、意味わかる?」
「これは、シェリーに惚れたか。
でも、コイツ雌だしなぁ。
ま、いざとなったら俺が何とかするさ」
と、プレイボーイを気取ってみせる。
まあ、実態はというと、俺はそんなに器用じゃなくて、純愛派なんだけどな。
とは言え、カモメくらいならどうにでもなるだろう。
そんな事を考えていると、シェリーが突如、声を上げた。
「ちょっと、そんな堂々と浮気を宣言しないでよ」
あれ? ちょっと怒ってる?
目尻が普段より上がってるような。
「え? これは違わないか……?」
と、宥めにかかる。
カモメ同士の交尾なんて、所詮ただの繁殖行動だろう?
「ちがわない。ダメよ」
むむ。
シェリーが顔を近づけてきた。
それに、静かな怒気が滲んでる。
圧力が、凄い。
こんなシェリー、始めて見たぞ。
女神の地雷をついに踏んでしまったか。
マズいな……ここは素直に従おう。
「そうか……わかったよ」
と、そこにカモメが歩を進め、シェリーに近づいた。
「クルル……」
首をもたげ、甘えた声を出す。
宥めようとしてるのか。
それに、コイツの感情は……。
「ああ、この感じは、惚れたというより懐いたのか」
生物としての本能か、シェリーが同性だと気付いてる。
まあ、雰囲気とか微妙な違いって、あるもんな。
安心したぜ。
シェリーは手を下げ、掌を上に向けた。
そして、恐る恐るといった様子でカモメに差し出した。
カモメに動じる気配は無い。
シェリーの掌が、ついにカモメに触れ、指でそろりと撫で始めた。
いつも俺にするような、優しい仕草だ。
カモメもまた、甘えた声を漏らす。
「ふふっ。可愛いわね。名前つけてあげましょう」
静かに微笑を見せるシェリー。
声色も、どこか弾みを帯びている。
心の奥底から湧き出る喜びが、再びシェリーに宿ったか。
良い兆候だ。
それにしても、カモメに名づけって。
出会ってすぐの時の事、思い出すな。
「ジョナサンみたいなのは無しだぞ?」
一応、釘を指しておく。
首を回し、シェリーを見上げると、苦笑いが見える。
「分かってるわよ。そうねぇ。ソフィアはどう?」
ソフィアか。
その名は、知の象徴。
コイツには正直勿体ない気もするが……。
「スピー。スピー。クルル……」
ほう。
コイツなりに、感じるところがあるのか。
意外に聡いな。
「喜んでるみたいだぞ。
コイツの名前はソフィアで決まりだな」
俺の言葉に一瞬シェリーが目を丸め、直後に破顔する。
よかった。
ついに、いつものシェリーが帰ってきた。
「そう? よかった。
ソフィア、よろしくね」
シェリーがソフィアを撫で、ソフィアも甘えた声を漏らす。
俺とソフィアに挟まれ笑みを浮かべる。
その姿は、さぞ美しかったに違いない。
シェリーの深奥に潜む、女神が、帰還した。




