第8話 実花、顧問にレシピ精度を褒められる
放課後の料理部部室は、珍しく静かだった。
窓の外では、桜の花びらがわずかに風に舞い、春の終わりを告げている。やわらかな光が調理台を照らし、心地よい空気が漂っていた。
実花はその光の中で、真剣な表情でノートを開いていた。
ページには「桜餅(道明寺・長命寺)」とタイトルがあり、分量はg単位、加熱時間、塩抜きの目安、注意点まできっちり書き込まれている。
「えーっと……道明寺粉は二十分浸水、長命寺の生地は弱火で薄く……」
ひとりごとをつぶやきながらペンを走らせる実花の横で、杏子はスマホを片手ににやけていた。
「うわ、このケーキめっちゃ映える! 次はこれ作ろうよ、ハート型で二段重ね!」
「そんなの、作る前から崩れる未来が見えるな……」
翔子はため息をつきつつ、調理器具を一つひとつ点検している。包丁の刃先を光にかざし、磨き残しがないかまで確認する姿はまるで職人だ。
そんなとき——
「おや、今日はずいぶん静かだね」
部室のドアが開き、家庭科の宮原先生が顔をのぞかせた。
柔らかな笑顔と、いつものエプロン姿。
「何やってるの?」
実花は顔を上げ、少し照れながら答える。
「あ、あの……前回の桜餅のレシピをまとめてて……」
宮原先生は、実花の手元からそっとノートを受け取った。
ページをめくりながら、眉をわずかに上げて感心したように目を細める。
「……分量がきちんとグラム単位で揃ってるし、加熱時間も現実的だ。工程の順番も無駄がないし、初心者でもこれなら再現できそうだね」
褒められた瞬間、実花の頬がぽっと赤くなる。
「ほ、本当ですか? まだ改良できると思うんですけど……」
「いや、これは立派な完成形だよ」
宮原先生の穏やかな声に、実花は小さくガッツポーズを作った。
そのとき、隣から杏子がにゅっとスマホを差し出す。
「え、そんなに? じゃあ先生、私の“インスタ映えノート”も見てみます?」
宮原先生はスマホ画面を一瞥し、少し間を置いてから微笑んだ。
「……うん、写真集としてはいいね」
「ぶっ……!」
耐えきれず、翔子が吹き出した。
「杏子、それ料理レシピじゃなくてスイーツ写真展だな」
「えー、味も見た目も大事でしょ!」
ぷくっと頬をふくらませる杏子に、宮原先生も思わず苦笑した。
「せっかくだから、このレシピの精度を実地で確かめてみようか」
宮原先生の提案に、部室の空気が少しだけ引き締まった。
材料棚から薄力粉やアーモンドパウダー、バターを取り出し、
実花のノートを開いたまま、3人と先生でフィナンシェ作りが始まる。
「じゃあバターは焦がしバターにしますね」
翔子が小鍋を慎重に火にかけ、香ばしい香りが立ち上る。
「卵白は泡立てすぎないでねって書いてある」
実花が指差すと、杏子が「はいはい、優しく混ぜますよー」とボウルを抱える。
計量も混ぜ方も、ノートの手順通り。
オーブンに入れて待つこと十数分——
焼き上がったフィナンシェはふっくらきつね色、ほんのり甘い香りが部室に広がった。
「……本当に、レシピ通りだと失敗しないね」
宮原先生が一口かじり、満足げにうなずく。
その瞬間、杏子が顔を輝かせた。
「じゃあ次は苺ジャム入りバージョンを——」
「またか」
翔子が即座に制止し、実花がくすっと笑った。
オーブンの余熱と甘い香りの中、部室はまたいつものあたたかい空気に包まれていった。
「……うん、決めた」
フィナンシェを口に運びながら、宮原先生がぽつりと言った。
「これからも、部の公式レシピ担当は実花に任せたいな」
「えっ……私ですか?」
思わず手が止まる。
褒められることに慣れていない実花は、耳まで赤くしながらも——
「はいっ!」と、少し大きめの声で返事をした。
「じゃあ私は、公式“盛り付け写真”担当で」
杏子が胸を張ると、翔子がすかさず苦笑する。
「私は公式“現実的判断”担当で」
「……肩書き長っ!」
実花が吹き出し、宮原先生も笑う。
春の終わりのやわらかな日差しの中、
部室には、甘い香りと小さな笑い声が溶けていった。
放課後、三人は並んで下校していた。
夕焼けが街をオレンジ色に染め、遠くからカラスの声が聞こえる。
「でもさー」杏子が前を見たまま口を開く。
「ジャム入りレシピも公式に載せようよ。ほら、彩りアップ間違いなし!」
「却下」
「却下」
実花と翔子が、息ぴったりに即答した。
杏子は一瞬むっとした顔をしたが、すぐに両手を腰に当てて空を見上げる。
「ふん、いつか認めさせてやるー!」
その声は、茜色の空に吸い込まれていき、
三人の笑い声が、ゆっくりと帰り道に広がっていった。
レシピ:基本のフィナンシェ(実花の公式レシピ)
※()内は会話パート
材料(6個分)
卵白 2個分(実花「黄身はプリンに回すと無駄なし!」)
砂糖 60g(翔子「甘さ控えめ派は50gでも」)
無塩バター 60g(杏子「有塩でやるとどうなるの?」 → 実花「塩気が強くなるから今回は却下」)
薄力粉 30g
アーモンドプードル 40g
ベーキングパウダー 小さじ1/4
下準備
オーブンを180℃に予熱する(翔子「予熱忘れると焼き色ムラになるぞ」)。
バターは鍋で溶かして焦がしバターにし、粗熱を取る(杏子「焦がしすぎると苦いから注意!」)。
型にバターを塗り、粉をはたいておく(宮原先生「この一手間で型離れが全然違うよ」)。
作り方
卵白を軽くほぐし、砂糖を加えて混ぜる(実花「泡立てないで、さっくりね」)。
薄力粉・アーモンドプードル・ベーキングパウダーをふるい入れ、ゴムベラで混ぜる(翔子「粉をふるうのはダマ防止」)。
焦がしバターを少しずつ加え、滑らかになるまで混ぜる(杏子「ここでジャム入れたら—」→翔子&実花「却下!」)。
型に流し入れ、180℃のオーブンで15分ほど焼く(宮原先生「焼き色は縁がきつね色になったらOK」)。
粗熱が取れたら型から外し、完成(実花「ほんのりバターの香りが最高!」)。
試食タイム
杏子「ふわふわ!でも外カリッ!」
翔子「これは部公式レシピに文句なし」
宮原先生「これからも精度の高いレシピ、期待してるよ」
実花「はいっ!」