63. 翔子、後輩に包丁スピード講義
家庭科室の調理台には、次々と運ばれてきた野菜の山。
人参、玉ねぎ、ピーマン──歓迎会の料理の準備で、テーブルは色とりどりに賑わっていた。
「ぜんっぜん切り終わらない~!」
新入生男子が半分涙目で人参を見下ろす。まな板の上には不揃いな輪切りが並び、見るからにリズムが悪い。
その隣では、新入生女子が包丁を両手で握りしめていた。
「えっと……こうかな……?」
恐る恐る野菜に刃を当てるその手はぎこちなく、切るたびに「ガンッ」「ズッ」と大きな音を立てる。
「お、おい。指、切りそうで見てらんない……!」
見ていた他の子たちがざわつく中、翔子は腕を組んで一歩前に出た。
「……これは包丁講義の出番ね」
低く呟いた声には、不思議な頼もしさがあった。
彼女の目はすでにスイッチが入っていて、まるで戦場に赴く職人のように鋭い。
その雰囲気に、新入生たちは思わず背筋を伸ばした。
「さぁ──包丁の真髄を、見せてあげるわ」
「まずは姿勢と持ち方から、ね」
翔子はすっと新入生女子の背後に立ち、包丁を持つ手に軽く自分の指を添えた。
「ひ、ひゃっ……!」
女子がびくりと肩をすくめる。けれど翔子は気にせず、淡々と指導を続けた。
「包丁を持つ手はここ。握り込むんじゃなくて、軽く添えるくらいでいい」
「そして、もう片方の手は──こう。指を丸めて、猫の手に」
翔子は自分の指を折り曲げて見せる。その所作は無駄がなく、流れるように美しかった。
「こうすれば、刃が当たっても指先は守れるの。怖がるより、形を覚えて安心して切ることが大事」
新入生女子は真剣にうなずき、猫の手を真似てみる。
だが、次に翔子がさらりと付け加えた言葉に目を丸くした。
「包丁はね、“押す”だけじゃないの。引いても切れる」
「えっ!? そうなんですか? 今までずっと押すだけだと思ってました!」
驚きに声を上げる新入生たち。翔子はにやりと笑い、切れ味の良さそうな眼差しを包丁の刃先に向けた。
「切る、じゃなくて──“運ぶ”。それが本当の包丁さばきよ」
さらっと放たれた一言に、場の空気がピンと引き締まる。
その瞬間、新入生たちの中で「この先輩は本物だ」という認識が一気に広がった。
「じゃ、スピードモードでいくわよ」
翔子は袖を軽くまくり、まな板の前に立つ。目の前には玉ねぎと人参。新入生たちの視線が一斉に集まった。
包丁を握り直した瞬間、空気が変わる。
次の刹那──
「トントントントンッ!」
包丁の刃が走る音が、軽快なリズムとなって家庭科室に響き渡った。
玉ねぎはみるみるうちに細かなみじん切りに。人参も同じ調子でスッと整然とした千切りへ。
「うわぁっ、速い!」
「ちょっと待って、もう終わってる!?」
「プロの料理番組みたいだ……!」
新入生たちの目が一斉に輝き、口々に感嘆の声を上げる。
翔子は包丁を止めると、まるで何事もなかったかのように刃先を布で拭き取り、肩をすくめて一言。
「包丁っていうのはね、リズムが命。慣れれば、切る音が自分の音楽になるの」
その言葉に、憧れのまなざしがさらに集まる。
だが──
「はいはい、翔子、ちょっと見せびらかしすぎじゃない?」
と、杏子が横から茶化すように割り込んできた。
「べ、別に見せびらかしてないわよ。ただ、技術は見て覚えるのが一番だから」
と翔子は少しだけ赤くなり、そっぽを向く。
場は和やかな笑いに包まれ、新入生たちの緊張もすっかり解けていた。
「俺も……やってみたいです!」
新入生男子が勢いよく手を挙げた。さっきまで感嘆の声を上げていた瞳が、今度は挑戦の光に燃えている。
「いいわ、やってみなさい」
翔子がまな板の前を譲ると、男子は緊張した面持ちで包丁を握りしめた。
「えっと……トントン……トン……あれ、リズムが崩れる!」
刃がまな板に当たる音は、ぎこちなく途切れがち。指先も少し強張っている。
翔子はすぐ横に立ち、穏やかな声で囁く。
「焦らなくていいの。スピードより、まずは正確さ。ひとつひとつ、確かめるように切って」
男子は小さく頷き、動作をゆっくりにする。
──トン、トン、トン。
少しずつ音が一定になり、野菜の形も整ってきた。
「……あ、なんか掴めてきたかも!」
「そう、その調子!」翔子が笑みを浮かべる。
続いて、新入生女子も包丁を手に取る。
「さっきまで怖かったけど……もう大丈夫そうです!」
緊張した面持ちから、次第に自信に満ちた笑顔へと変わっていく。
「トントン……ほら、ちゃんと切れてる!」
「いいわね、さっきまでと全然違う」翔子が頷く。
その場に漂うのは、成長の手応えと達成感。
先輩に支えられながら、一歩ずつ進んでいく後輩たちの姿に、部屋全体が温かい空気に包まれていった。
「スピードはね、あとから自然についてくるの。大事なのは正確さと丁寧さよ」
包丁を置いた翔子が、きっぱりと言い切る。その言葉は、まるで教科書に載せてもいいくらいの指導の一文だった。
「さすが翔子。これでみんな安心して包丁を持てるね」
実花が感心したように微笑む。
「うん、頼れる先輩って感じだよ」
杏子が茶化すように笑いを乗せると、翔子は少しだけ視線をそらし、頬をかすかに赤らめながらも──
「……まぁ、当然よ」
と、いつものクールな口調で返した。
そのやりとりを見ていた新入生たちは、尊敬のまなざしを向ける。
「いつか先輩みたいに速く切れるようになりたい!」
「私も!もっと練習します!」
その輝く瞳に、翔子はふっと小さな笑みを浮かべた。
──背中を見られている。
そう意識した瞬間、彼女の中で“ただ得意だからやる”包丁技術が、“後輩を導くための力”へと変わっていくのを感じていた。
家庭科室に響くのは、包丁の軽快なリズムだけではなく、先輩と後輩を繋ぐ確かな絆の音だった。
包丁講義編
シーン1:きっかけ
「ぜんぜん切り終わらない~!」
新入生男子が玉ねぎと格闘しながら、半泣きの声を上げる。
「ひぃ……手が怖い……!」
隣の新入生女子も、包丁を持つ手がぎこちなく震えていた。
それを見た瞬間、翔子のスイッチがカチリと入る。
(これは……包丁講義の出番ね)
冷静な表情のまま、心の奥で闘志に火がついていた。
シーン2:基本姿勢チェック
「はい、まずはストップ!」
翔子がすっと近づき、包丁を持つ新入生女子の手を直す。
「猫の手で指を守ること。刃は押して、引いて……切るんじゃなくて、運ぶのよ」
「えっ!? 包丁って押すだけじゃないんですか?」
「むしろ押すだけだと潰れるわよ」
さりげなく決め台詞。
──“切るんじゃなくて、運ぶ”。
新入生女子がぽかんと口を開ける。
(か、かっこいい……!)
ちょっとしたファンが生まれた瞬間だった。
シーン3:スピード実演
「じゃ、実演するわね。スピードモードで」
翔子が一歩前に出た途端、家庭科室の空気が張り詰める。
トントントントン──!
リズム良く包丁が走り、玉ねぎも人参も瞬く間に山へ。
「うわぁ!早すぎ!」
「プロですか!?」
新入生たちの目がキラキラ輝く。
「……翔子、ちょっと見せびらかしてない?」
杏子のツッコミに、場が一気に和む。
「そ、そんなこと……ないけど?」
(ちょっとは見せびらかしたかもしれない)
シーン4:後輩の挑戦
「俺もやってみます!」
勇気を出した新入生男子が挑戦する。
──ガタガタガタッ!
包丁の音はどうにもリズムに乗れず、野菜は大きさバラバラ。
「焦らなくていいわ。まずは正確さ」
翔子が横で落ち着いた声をかける。
「……なるほど、リズムがちょっと掴めてきた!」
少しずつ音が「トン、トン」と整っていく。
「包丁、怖くなくなってきました!」
新入生女子もチャレンジし、笑顔を見せる。
不安顔だった二人の目が、少しずつ自信に変わっていった。
シーン5:まとめ・先輩の背中
「スピードは後からついてくる。大事なのは正確さと丁寧さ」
翔子の言葉に、新入生たちは力強く頷く。
「翔子の講義で、みんな安心して包丁を持てるね」
実花が優しく言い、杏子はニヤリと笑う。
「うん、頼れる先輩って感じ」
「……まぁ、当然よ」
ちょっと照れ隠し気味に、翔子は肩をすくめる。
「いつか先輩みたいに速くなりたいです!」
まっすぐな声に、翔子は思わず背筋を伸ばした。
(あぁ……私たち、もう“見られる側”なんだ)
背中を追いかけてもらう責任と誇らしさが、確かに芽生えていた。
エピローグ
こうして始まった翔子の「包丁講義」は、
ただの調理指導じゃなく、
後輩が先輩を憧れる、部活青春のワンシーンになった。
そして──この日から新入生たちは、包丁を手に取るたび、
“運ぶ”という言葉を思い出すことになる。




