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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

少女が魔女に至るまで

作者: 鴇田ひるね

※バッドエンド注意

※マッドヒロイン

※残酷描写注意

※暴力描写注意


不快感を催した場合はブラウザバック推奨です。



 とある村に、イリスという少女がいた。


 彼女は生まれつき強大な魔力を備えていた。まだ幼いうちから水を操り、風を起こし、その力を無邪気に披露していた。


 しかし、閉鎖的な村において抜きん出たその才能は脅威でしかなかった。大人たちから異端扱いを受けた彼女はやがて人前でその力を使うことはなくなった。


 それでも両親は彼女を愛し、大切に育てていた。

 しかしある冬の日、流行病が村を襲い、まず母が、次いで父も呆気なく命を落としてしまった。



 流行病をこの村に招き寄せたのはあの魔女のせいだ。



 村のものは口々にイリスの噂を囁き合った。

 イリス自身も、流行病で両親を亡くしているにも関わらず。


 孤独となったイリスを守る者はもはやいない。

 村人たちの迫害は日を追うごとに勢いを増していき、ついに初夏のある日、畑の火入れにかこつけてイリスを納屋に閉じ込めた村人はそこへ火を放ったのだ。



 魔女は火刑だ!



 村人は口を揃えて叫び、イリスは恐怖に支配された。

 胸の内から込み上げるものがなんなのかも気付かぬまま、イリスの目の前は真っ赤に染まった。


 それはイリスの内に秘められた強大な力の暴走だった。


 気がつけば、空は黒煙が広がり、家々は炎に包まれ、人々は逃げ惑い悲鳴が轟いていた。

 そんな中をイリスは無傷のまま歩いていた。村人たちはそんなイリスの姿に怯え、口々に言った。



「魔女が村に火を放った!」と。



 イリスは恐ろしくなり、逃げ出した。

 涙を流し、恐怖で足がもつれながらも、ただひたすら走り続けた。




 この事件は瞬く間に王都へと伝わり、民衆の不安を煽った。


 火の手を逃れ保護された村人たちは口々に言った。

 魔女イリスが悪しき魔術によって村を焼き払ったのだと。


 彼らは自身の行いを棚に上げ、イリスの邪悪さを誇張して語った。その言葉はみるみるうちに噂として広まり、流行病も畑の不作も全ては魔女の呪いのせいに違いないと人々はありもしない話に恐怖した。



 この状況に、王都は魔女の捜索と捕縛の命を出した。

 収集した情報から、魔女イリスの逃げた先は村から離れた霧深い山の中であると推察され、直ちに捜索隊が編成された。


 その中に、まだ若き騎士がいた。

 整えられた銀の短髪に透き通るような蒼玉色の瞳をを持つリュシアンという名の青年。

 彼は霧の晴れた一角で、一人の女と遭遇した。


 女は慌てて逃げ出し、リュシアンはそれを追った。

 しかし、急いだ女は足を踏み外して山肌を滑り落ちた。

 リュシアンは咄嗟に彼女を庇いながら自らも転落し、二人は谷底へと落ちた。




 二人は奇跡的に生きのびたが、リュシアンは女を庇ったことで足を負傷していた。



「どうして、私なんかを庇ったの……?」



 女はリュシアンに尋ねた。蒼白な顔色に、黒く長い髪、鮮やかな炎を思わせる紅玉の瞳をした彼女は、やはり魔女と蔑まれし女、イリスであった。


「魔女の捕縛が私の使命だ。お前を見殺しにすることではない」


 イリスの問いに、リュシアンは毅然と答えた。


 しかし、悪しき魔女相手に、足を負傷しては太刀打ちすることはできない。リュシアンはこの状況をどう切り抜けるかを模索したが、その思いに反してイリスは献身的にリュシアンの傷の手当てをした。

 自生した薬草を潰して塗布薬を作り、傷にそれを塗って自身の魔力を注いで治癒を促す。


 魔女と呼ばれているにしては随分素朴なやり方だった。

 何故、治癒術を使わない?


 訝しんだリュシアンはふと問いかけた。

 王都の魔術師であればこの程度の傷には治癒術を用いて治療するのが一般的だったからだ。魔女がそれを使えないはずはない。


 しかし、返ってきた答えにリュシアンは驚いた。

 これまで魔術といったものを習ったことはなく、魔力の使い方も両親から授かった一冊の魔導書だけでの独学だという。

 話を聞けば、村の大火も元は村人による彼女への迫害が原因だというではないか。



 リュシアンの中で悪しき魔女イリスという存在が音を立てて崩壊していく。

 よく見ればイリスはまだ幼さを残す少女ですらあった。彼女はただの力に翻弄される心優しき少女でしかない。



 このまま彼女を王都へ連行すれば、理不尽に不名誉な濡れ衣を着せられ処刑されることになってしまう。

 リュシアンにとってそれは耐え難いことだった。この剣は弱きものを救うために振るわれなければならない。



 リュシアンはイリスの手当てのおかげで三日もすれば動けるまで回復した。

 彼はイリスの罪の有無について、今一度考え直してもらうために、山の麓の集落に構えた拠点に戻り仲間たちに報告をした。


 最初こそ、数日行方不明となっていた彼の生還を喜んだ仲間たちであったが、魔女を庇う発言をするリュシアンに自ずと空気は凍りついていく。



「魔女の言葉を信じるとは、正気かリュシアン!?」



 返ってきたのはリュシアンへの罵倒であった。


 魔女は男を誑かすもの、魔女は狡猾で嘘つき、それはリュシアンでも心得ていた。


 しかしイリスの言葉にはそのような邪悪な思惑など感じ取れなかった。ただ、全てを諦めたような悲痛な想いが込められていた。



 リュシアンは魔女を庇う言動を咎められ、捜索隊から外され待機命令が下されてしまった。



 もはやイリスが悪しき魔女であるかどうかなど問題ではないのだ。村の大火から逃れた被害者、そして噂に惑わされ不安と恐怖に苛まれた民衆、それらを鎮めるには彼女を生贄とすることが最も手早く民からの信頼を勝ち得る方法なのだ。


 そのために、あの少女は犠牲になる。


 弱きものを救うために彼は騎士となった。しかし、現実は弱きものを切り捨てるためにこの剣を振るうことを強いられている。


 リュシアンは悩み、そして決意した。


 騎士としての全てを捨てて、己の信念を貫く決意を。


 外套を纏って彼はイリスの元へと駆けた。



 そしてイリスもまた、決意をしていた。


 これまで、両親を除けば誰一人自分の言葉を聞き入れてくれる者はいなかった。

 どれほど人々に危害を加えるつもりはないと示しても、口ではなんとでも言えるのだと、一蹴されてきた。


 だが、リュシアンだけは違った。

 彼は魔女と呼ばれるイリスを狩る立場にありながら、イリスの言葉を誠実に受け止め応えてくれた。


 それだけで、報われた思いだった。


 彼の誠意に応えるためにも、彼女は罪を償う決意をしていた。たとえ本意ではない、魔力の暴走であったとしても、逃げずその罪と向き合おうと。


 間も無く、彼女は捜索隊の騎士の一人に見つかり、捕えられた。

 しかしそんな彼女の決意を嘲笑うかのように、並べ立てられた罪状は身に覚えのない濡れ衣ばかりだった。


 絶望に打ちひしがれるイリスだったが、騎士と彼女の前に一人の男が現れる。外套に身を包んだその人は、イリスが唯一心を許せると感じたその人、リュシアンであった。



「待機命令を無視し、魔女を救いに来るとは。見損なったぞリュシアン!!」

「少女を守って見損なわれるならばそれで構わない」



 リュシアンは剣を抜き、騎士を退け、イリスをその手から奪い去った。


 彼は自身の立場を投げ打ってでもイリスを救ったのだ。



「どうしてそこまで……!」

「弱きものを守るとこの剣に誓った。その誓いを貫いたまでだ」



 リュシアンとイリスはそのまま行方をくらました。

 その事実はすぐに王都へ報告された。


 騎士が魔女に誑かされ、下僕と化したという話はあっという間に市民たちに漏れていき、魔女イリスへの恐怖心すら増してしまう結果となった。


 王都は直ちにイリスとリュシアンへの追討の命を下し、手配書は各地へ配られていった。



 二人は身分と名を隠し、兄妹を装って追っ手に警戒しながら、各地を転々とする日々を送ることとなった。


 リュシアンは身分に繋がるものを全て売り払い、日雇いの護衛などをし、イリスは長かった髪を切り、薬師として煎じた薬を売って日銭を稼ぎ、追っ手の気配を感じるとすぐさま次の街へと移る生活を送った。



 イリスは自身のせいでリュシアンすらも罪人となってしまったことに強い罪悪感を覚え、苦しんだ。

 しかし、リュシアンはそのイリスの想いを知り、寄り添った。



「私は私の信念を貫くために、君を守り抜く。君は決して、魔女と呼ばれるような存在ではない。こんなにも心優しい人だ」



 リュシアンの言葉に、イリスは涙を流した。


 それから二人は互いに支え合った。





 秋になり、彼らは辺境の小さな村に身を寄せた。

 流れ者の二人は最初こそ警戒されていたが、リュシアンは収穫の手伝いに参加し、イリスは子供や病人の世話をして、村の人々と少しずつ信頼を築いた。


 実りは年々減る一方だが、それでも出稼ぎで若手の減った村で二人の働きは大いに感謝された。

 

「あんたの妹は器量がいいな、どうだ俺の倅の嫁に!」


 作業の合間、冗談まじりに村の男に言われてリュシアンは顔を赤らめ思わず、「とんでもない!」と声を張った。その反応に村人たちは笑って揶揄う。


 イリスは体の弱った人々の世話を手伝い、薬草を煎じて与えた。


「うちの爺さんの咳がだいぶ落ち着いたよ、ありがとうね。」


 そう感謝されるたび、イリスの心は温かく満たされていった。

 人に感謝されることすら、彼女には初めての経験だった。


 二人は村の者達に徐々に受け入れられていった。

 このままここで穏やかに過ごせたならと、そう願わずにはいられなかった。



 しかし、その平穏も長くは続かなかった。



「収穫が減ったのは、魔女が呪いを撒いたせいらしい。街へ稼ぎに出た息子がそんな話を聞いてきたよ」



 煙草をふかす老人たちが話す言葉に、イリスは表情を曇らせた。

 どんなに遠くまで逃げたとしても、彼女を魔女と呼ぶ噂は追ってくる。王都から遠く離れた田舎であったとしても、二人が真に安息を得ることはなかった。


 やがて、流れ者である二人は村の人々からも疑念の目を向けられ始める。


 そして二人はまた一つ、居場所を失い、その地を後にした。



 冬が訪れ、海沿いの街に身を寄せた。


 安宿で寒さを凌ぎながら、リュシアンはイリスに文字を教えた。僅かな文字しか読めず、かつて読んでいた魔導書すら一部しか読めずにいたという。


 閉鎖的な村で心を許せる相手は両親だけだった彼女の知識はひどく限定的だった。リュシアンはそんな彼女に、冬の澄んだ空の星々の物語を語り聞かせた。その物語にイリスは瞳を輝かせ聴き入った。


 幸福な時間だった。


 やがて二人は互いに特別な存在になっていった。冬の寒さに身を寄せ合い、微笑みあった。

 リュシアンはイリスの頬を撫で、彼女の紅玉のような鮮やかな瞳を見つめる。イリスはリュシアンのその仕草が好きだった。その時に覗く彼の右手首のホクロすら愛おしく感じていた。



 この時間がずっと続けばいいのに、とイリスは思っていた。


 しかしその切実な願いは決して叶うことはなかった。




 手配書を見た者の密告によって雪の降り頻る夜、二人はなす術もなく捕えられた。


 イリスは泣いて懇願した。

 どうかリュシアンは許して欲しいと。だがその願いも叶えられることはなかった。


 二人は離れ離れに捕えられ、尋問を受けた。尋問とは名ばかりの拷問だった。

 縛られ、鞭を打たれ、イリスは犯してもいない罪の自白を強いられた。


 本当の魔女になるまいと、村で炎を操ったように、胸の内から力が溢れそうになるのを何度も堪えながら。


「どうか、リュシアンだけは、助けてください……彼は、ただ、私に情けをかけてくれただけ……彼の命は、助けて、私は処刑されても、構わない、だから、彼だけは……っ」



 何度も鞭で打たれ、肌のあちこちは裂けて血が滲み、爪は剥がされ尽くしてなくなった。

 縄で縛られた痕が刻まれ、イリスはもはや虫の息だった。


 拷問は数日に渡り、その間は当然食事らしい食事も与えられない。気を失えば冷水をかけられて覚醒させられた。


 国を呪い、民を害した罪を認め、自身を悪しき魔女であると認めるのならば、リュシアンは魔女による洗脳を受けていたのだとして罪を軽減されると囁かれた。その結果、イリスは自身が魔女であることを認めてしまった。


 しかし、これでリュシアンが救われるならばそれで良いと思えた。彼との日々はまるで夢のようだった。両親以外の人間に愛され、必要とされたことなどなかった彼女にとって、リュシアンはかけがえのない人だった。


 自分の命など惜しくはない。そう思えるほどに。



 裁判らしい裁判もなく、彼女の処刑は確定した。


 程なくしてイリスは拘束され、王都から離れた森の奥深く、廃墟と化した古い聖堂へと連行された。


 イリスに課された刑罰は表向きには処刑であったが、火刑ではなかった。炎を操り村一つを焼き払った魔女に、炎による浄化など通用しないと論じられた結果、彼女の魂を永久に封じることになったのだ。



 人々に忘れ去られたこの廃墟でその準備は着々と進められた。

 巨大な魔法陣の中心へ、魔女イリスは拘束されたまま乱暴に放り出された。


 石床に転がる体に痛みが走ったが、もはや彼女は反応すらしなかった。

 抵抗する気力すら失い、虚ろな瞳のまま、彼女は自分を罰する準備を進める人々をただ静かに見つめていた。


 しかし、その中で信じられないものを目にする。



 リュシアンだ。



 イリスと同じく、傷だらけの体、縄で縛られ、引きずるように歩かされている。

 彼もまた、魔法陣の中心、イリスの傍らに蹴り倒された。


「どうして……彼は、彼は罪を軽くするって……」


 掠れた声で訴えるが、誰もその声を聞くものなどいない。


 全て嘘だったのだ。リュシアンを想う心を利用され、彼らに都合の良いように証言させられていたにすぎなかった。


 リュシアンの顔は痣と裂傷に覆われ、唇は血で黒ずみ、声も掠れていた。



「……イリス、すまない……君を、守ると約束したのに……」

「リュシアン、ごめんなさい……私のせいよ……」



 数日ぶりの再会はあまりに痛ましいものだった。


 ボロ布のような粗末な服を着せられ、赤黒い染みが随所に広がっている。髪は血で固まり、皮膚は青紫に変色し、喉は悲鳴を上げ続けたことで掠れていた。

 お互いの姿に、胸が締め付けられる思いだった。



「これより、悪しき魔女イリスと叛逆の徒リュシアンの封印の儀を執り行う!」



 高らかに宣言したのは白銀の法衣を纏った大司教だ。


 気づけばこの朽ちかけた聖堂の中には大司教を始めとする聖職者たち、魔術協会の重鎮や貴族諸侯が整然と並んでいた。


 兵に守られながら大司教は前に進み出る。手にした聖杖で床を叩き、厳かに宣言した。



「魔女イリスよ。そなたは禁術を操り、邪悪なる呪いをもって病を撒き、豊穣の地を枯らし、王国の集落を業火に包んだ。これをもって、そなたは悪しき災厄の魔女として断罪される。


そして、リュシアン。そなたは王に誓いを立てた忠義の騎士でありながら、国の敵である魔女に与し、捕縛の命に背き、彼女の逃亡を助けた。そなたの罪は重く、魂を捧げて王国に償うべきである」


 大司教は腕を掲げた。それを合図に神官たちが詠唱を始める。それに応えるように魔法陣は青白い輝きを放ち始めた。


「リュシアンの魂をもって楔となし、魔女イリスをこの地に封じ、永遠の眠りにつかせる。これを封印の刑とし、ここに執行を命ずる!」


 リュシアンの頭上に光の槍が形成され容赦なくリュシアンの肉体を貫いた。彼は苦痛に顔を歪め、身を震わせた。



「やめて! 彼は許して! お願い!!」



 拷問の末に枯れ果てたと思われた涙が再び彼女の頬を濡らした。


 光の槍はリュシアンの肉体からその魂を引き剥がし始める。

 魂が剥がれる苦痛にもがき苦しむリュシアンだが、なんとかイリスに向き合い、笑顔を浮かべた。額には脂汗が浮かび、体は痙攣するように小刻みに震えている。



「い、イリス……泣かないで……っ」

「リュシアン、ごめんなさい! 私のせいで、ごめんなさい!」

「いいんだ、こうなることは、覚悟の上だった……君が、謝ることじゃない……」



 リュシアンの肉体に刺さった光の槍が彼の魂と共に、その肉体から徐々に抜けていく。


 荒い息と掠れたうめき声を上げながら、肉体から魂が完全に抜き取られ、彼の肉体はついに糸の切れた人形のように力無くイリスの傍に崩れ落ちた。


「うそ……リュシアン、目を開けて……っ! おねがい……!」


 イリスはなんとか体を起こし、リュシアンに呼びかけた。

 今すぐに彼の体を助け起こし、抱き締めたかったが、身を戒める拘束のせいでそれらも叶わない。


「魔女イリスよ。そなたの魂はこの地に縛られ、二度と夜を歩くことも、朝陽を浴びることも叶わぬ。汝の魔性を、この大地にて永劫に封ずる。さあ、眠るがいい!」


 大司教の言葉を合図にしたように、リュシアンの魂を奪った光がイリスの肉体に降り注いだ。

 すると、イリスの肉体はたちまちつま先から石のように固まっていく。


「やめて! この人を返して! リュシアンを……ッ!」


 懇願も虚しく、肉体は徐々に重く、冷たく変質していく。



「……リュシアン……っ」



 イリスの傍らにはまるで眠るように瞼を閉じ、横たわるリュシアンがいる。彼はもう二度と、目覚めることはない。


 そんな彼を見下ろして、涙をこぼす。


 光が二人を包み込み、やがて収束する。


 魔法陣の中心には、悲痛な面持ちのまま石像となり封じられたイリスと、魂を失ったリュシアンの亡骸が残されていた。


 聖堂は静けさを取り戻し、封印の儀は完了した。


 リュシアンの魂は封印の礎となり、イリスの魂を縛る監獄となった。


 石像となった彼女の肉体は、結界により守られ、この聖堂は何人も立ち入ることが許されない禁忌の場所とされた。



 こうして二人の魔女と騎士の逃亡劇は幕を閉じたかに思われた。





 イリスが目を覚ますと、そこは何もない、空白の世界だった。


 上も下も、右も左も何もない。真っ白な世界。

 全身の傷は消え、体は羽のように軽やかだった。

 

 ボロ布のような粗末な服を着せられていたはずだが、今は純白のワンピースのような姿だ。


 何もない世界をイリスは一人で歩き出した。



「ここは……? 私は封印されたはず……」

「ここは精神世界。」



 突如背後から聞き慣れた声が聞こえた。


 はっと振り向くと、そこにはまた会えるとは思わなかったその人がいた。


「リュシアン!」

「イリス、辛い思いをさせてすまなかった……」


 彼もまた純白の服に身を包み、夥しく刻まれた傷や縄で縛られた痛々しい痕は消え失せている。


 二人は再会を喜び、抱き締めあった。

 もう二度とこうして触れ合うことは叶わないのだと思っていた。


 リュシアンの魂は封印の楔として使用された。

 彼の魂はこの封印を形作るものの一部として組み込まれたせいか、彼にはこの世界のことが手に取るようにわかるようだった。


 ここはこの封印の一部となったリュシアンと封印されたイリスの精神だけが存在する無限の世界。ここでは老いることも飢えることもないが、永劫の時を死ぬことも許されず生き続けなければならない。


 確かに、永遠を何もない空間でひたすら生き続けるとは恐ろしい話である。


 しかしイリスにとってそれは、平穏だった。


 いつ貶められるか、傷つけられるか、命を奪われるか、恐怖と不安の中にいたイリスにとって、この世界は安寧そのものだった。


 ただ一つ、そこへリュシアンを道連れにしてしまったことだけが彼女の心に棘のように突き刺さった。


「……イリス」


 呼びかけられて振り向くと、そこには穏やかな微笑みを浮かべたリュシアンが彼女を見つめていた。


「これからは、誰にも私たちを咎められない。誰にも邪魔されず、二人きりで、ここで永遠を生きていける。」


 リュシアンはイリスに目線を合わせるようにしゃがみ込み、彼女の頬を右手で撫でた。微かに覗いた手首、そこには逃亡生活中によく見た小さな愛おしい印が伺える。


「いいの……? 私、あなたの人生をめちゃくちゃにしたんだよ……?」


 囁くような声。けれど、それはずっと彼女の中に燻っていた罪悪感の吐露だった。


「私と出会ったせいで……」

「それは違う、イリス。君と出会えて私は、幸福だった。君のおかげで、私は信念を貫くことができた、守るための剣でいられた。」


 静かな声だった。それでも、その言葉の一つ一つがイリスの胸の奥へ深く届いていく。


 イリスの目からまた涙の粒がこぼれ落ちる。しかし、これは悲しみや苦しみからのものではなかった。リュシアンの指がその涙をそっと拭う。



「イリス。ここで君の心を、私の魂が永遠に守り続ける。これからもずっと……」

「……ありがとう……ありがとう、リュシアン……」



 光も闇なく、真っさらな静寂に包まれた世界。そこで二人は抱きしめ合い、愛を誓い合った。


 リュシアンの大きな手に包まれ、やっとイリスは穏やかな笑みを浮かべた。

 決して自由ではない、檻のような閉ざされた世界に、死による果てすら存在しない。

 しかし、それがイリスにとってはどれだけ救いであっただろう。リュシアンとなら、永遠を生きることなど何も恐ろしくはなかった。


 この世界は封印により生まれた精神だけの異空間。封印の一部となったリュシアンには、この世界に僅かに干渉することができた。何もない空白の世界に、美しい星空を再現することも、リュシアンの知る物語を陽炎のように再現させることすらできた。


 閉ざされた小さな村の中で、忌み嫌われ、知識を得る機会もなかった彼女に、リュシアンの与える物語や知識はどれも優しく美しかった。


 やっとここで、愛する人と穏やかに過ごせるのだ。



 この時間は永遠に続くのだと二人はずっと信じていた。





 どれだけ時が経ったのかわからない。


 ここは時間の概念のない無の世界。しかし今は、真っ白だったそこには絨毯のように柔らかな草が生え、小さな小花が咲き、空には美しい星空が広がっている。


 まるで草原のようなそこに二人の男女、リュシアンとイリスは溶け合い一つになろうとするかのようにお互いを抱きしめ合い、安らかに眠っていた。


 だが、不意にリュシアンは覚醒し、空を見上げた。

そこにはイリスのために描いた美しい星空が瞬くばかりだ。しかしリュシアンは鋭い視線でその空を超えた、世界の向こう側、外界を睨みつけていた。


「まさか……!」

「どうしたの……? リュシアン」


 リュシアンのただならぬ異変に、イリスは身を起こし彼の様子を不安げに見つめた。


 その時。美しい星空に突如亀裂が走った。その途端、リュシアンの肉体もまた、大きくひび割れ内側から光が溢れた。リュシアンの体はその衝撃に大きく体を震わせ、微かに呻き声を漏らした。


「リュシアン!?」


 何が起きているかもわからぬまま、イリスはよろめく彼の体を支えた。


「封印が、解かれようとしている……」


 苦しむリュシアンが搾り出すように発した言葉に、イリスは目を見開いた。


「そんな、どうして……!?」


 永遠だと信じていた時間、それがなんの前触れもなく、突然終焉が告げられた。


 封印の一部となったリュシアンの魂は、封印が綻んでいることを感じ取っていた。


 何者かが外からこの封印を解こうとしているのだ。それが何者の仕業かはわからない。しかし流れ込んでくるその力に、彼は邪悪な意思を感じていた。


 何者かが、よからぬことにイリスの力を利用しようとしているのだ。


 星空はかき消え、亀裂は広がっていく。リュシアンがイリスのために用意した草花も何もかもが消え去っていく。


 それに合わせてリュシアンの魂も引き裂かれようとしていた。封印の一部であるリュシアンは封印が解除されてしまえば、それとともに消滅するしかない。


 リュシアンの体にひび割れが広がっていく。その度リュシアンは苦悶の声を上げる。それでも、彼はイリスをこの静寂の世界に守り続けるために、封印を解こうとするものの力に抵抗した。


「やめて……! お願い、リュシアンが消えてしまう……!」


 封印に追いやったくせに、今度は都合よく利用しようとしている。

 その事実に、怒りを覚えずにはいられなかった。


「私はここでいいのに、このまま忘れ去ってくれればよかったのに……!」


 今にも消えてしまいそうなリュシアンを抱きしめながら泣きじゃくる。


 今更外の世界には何の未練もない。このまま誰からも忘れ去られ、世界が朽ち果てて消えてしまうまで、共にこの静寂の中で互いを感じられればそれだけで幸せだったのに。


「すまない……イリス……君を永遠に、ここで守ると誓ったのに……それすら叶えられない……」


 リュシアンは自身の無力さを痛感する。

 共に逃げたあの日から、イリスを追い詰めるものの強大さを嫌という程味わった。


 それはまるで、世界の全てが敵に回ったかのような恐ろしさだった。


 必ず彼女を守ると誓ったのに、それすらも叶わず、そして今はこの世界を維持し続けることすらできない。


 これから彼女が再び悪意に晒されるとわかっていながら、自分はみすみす消えるしかない。その事実に、胸が潰れる想いだった。


 崩壊しそうな体を保ちながら、自分に縋るイリスを抱きしめる。もう、体に力が入らなかった。リュシアンの魂は封印と共に徐々に分解されていく。


 自分が少しずつ消えていく感覚に苦しみながらも、リュシアンは言葉を紡ぐ。


「イリス……君と、もっと共にいたかった……」

「やめて!」

「これから、君が辛い目に遭うかもしれないのに、そばで守れない……許してくれ……」

「お願い……どこにも行かないで……!」


 涙で濡れるイリスの頬に、リュシアンの手が触れた。その手は震えていた。


 見上げたリュシアンの顔は穏やかに優しく微笑んでいたが、その顔は大きくひび割れ、微かに内側から光が漏れている。


「君と出会えて、私は幸せだった……これから、また悲しい思いをするかもしれない……誰かが、君の力を利用しようとするかもしれない……でも、どうか、君は君の意思で、君のために、生きてくれ……」


 世界が崩れていく。それと共に、リュシアンを形作っていた魂も崩れ始めた。

 

 永遠の別れが近づいている。嫌でもそれを感じさせた。


「いや! いやよ……お願い、リュシアン、私の名前を呼んで……最期に、お願い……!」

「イリス……」



 凛とした、静かな声だった。



「愛してる……たとえ魂が消え去っても……」



 その瞬間、世界が光に包まれた。


 イリスの意識も眩い光に飲み込まれていく。





 気がつくと、そこは朽ちた聖堂だった。


 壁は崩れ、隙間から植物の蔦が這い、苔が広がっている。

 久しく感じていなかった体の重み、そして拷問の時のままの傷と縛られた体の痛みが駆け抜ける。


 封印の儀式が行われたその場所で、イリスは一人静かに目覚めた。


 もうリュシアンはいない。


 イリスを包み込むあの温もりは永遠に失われた。



 彼女の封印を解いたのは、「再誕派」を名乗る思想集団だった。

 腐敗した世を滅ぼし、新たな秩序を打ち立てることを目的に掲げている。


 彼らは、イリスを「災厄の魔女」と信じ、世界を業火で焼き尽くすよう願うつもりでいたらしい。



 しかし、イリスは魔女ではなかった。長い時間と労力をかけて封印を解いたにも関わらず、現れたのはただの田舎娘だったのだ。



 その事実に、イリスもまた、そんなことならばリュシアンと共に眠りにつかせて欲しかったと悲しみにくれた。


 勝手な思想のために、あの幸福の時間とリュシアンを永遠に葬っておきながら、彼らはイリスが魔女ではなかったことに怒りと落胆を示した。


 だが、イリスの秘めた魔力が強大であることは事実であった。その力を利用するため、イリスは解放されることなく彼らに囚われた。

 リュシアンを失ったイリスはもはや何の希望もなく、ただ彼らの言いなりだった。イリスが魔力を用いて逃亡することを防ぐために、魔力を封じるチョーカーの装着を強制し、彼らが組織の拠点とする塔の一室に監禁された。


 封印から解放された直後に纏っていたボロ布のような服のまま、狭い部屋へと閉じ込められたイリスは、ただ抜け殻のように項垂れていた。


 身体中に刻まれたままの拷問の傷の痛みすら遠く感じる。どれだけ傷ついていたとしても、リュシアンを失った痛みと比べれば些細なものだった。まるで心の一部が欠けて失われたように、イリスの胸の内は空虚であった。



 そこへ、彼女の世話と監視の役として一人の男が通された。その姿を見て、イリスは目を疑った。



 そこに立っている男はリュシアンに瓜二つだったのだ。



 「……っ……リュシ、アン……?」


 驚いたイリスは思わず彼の名を口にした。


 リュシアンと同じ風貌、だがその髪と瞳の色だけは全く違う。


 まるで月の輝きのような銀の髪に、蒼玉のような澄んだ青い瞳のリュシアンとは違い、黒いローブに身を包んだその男は、闇のように黒い髪に、柘榴石のように深い紅色の瞳をしていた。


それでも、その相貌はリュシアンとあまりに酷似していた。


「イリス……!」


 男は微笑みながらイリスの元に歩み寄る。

 リュシアンの魂は封印と共に消滅したはずだ。だというのに、今目の前にいる彼は一体何なのか?イリスにはわからない奇跡によって、リュシアンが蘇り、イリスを助けに来てくれたのだろうか?


「リュシアン……なの……? そんなはず……」

「ああ、俺だよイリス。怖い思いをしたな。もう大丈夫だ」


 しかし、イリスは言葉に表せない違和感を覚えた。髪や瞳の色は違えど、よく似た相貌、そして何より彼自身がリュシアンであることを肯定している。


 それでも、イリスの中で、何かが違うと囁いた。


「あなた……本当に、リュシアンなの……?」


 歩み寄る男から離れるように、イリスは後ずさる。

 その仕草に、男はふっと鼻で笑った。


「……何だよ、せっかくお前の大好きな騎士様のふりをしてやったのに」


 リュシアンと瓜二つなその顔で、男は冷たい笑みを浮かべた。まるで虫ケラでも見るような視線をイリスに向け、口元を歪ませている。


「あなた、一体何なの……!? どうして、リュシアンと……」

「似てるのかって? そりゃ当然だろ」


 強引にイリスの腕を掴み、傷ついている彼女の体を壁に押し付ける。


 背中を強く打ち、咳き込むイリスはその時見えてしまった。イリスの腕を掴む男の手首に、小さなホクロがあった。リュシアンがイリスの頬を撫でる時、いつも見えていたそれ。何故、男の手首にも同じものがあるのか。


 男はそっとイリスの耳元で囁いた。


「この体はくたばった騎士様のものだからだよ」


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。追い打ちをかけるように目の前の男は下卑た笑みを浮かべて言葉を続ける。


「魔女を飼い慣らすために、再誕派の連中が用意した器だ。俺はその空っぽの器に入れられた悪魔さ」


 信じられなかった。信じたくなかった。リュシアンの魂は消され、残った肉体すらこんな形で利用されていたのだ。


 イリスには魔術の知識もなければ、黒魔術や悪魔召喚というものの存在も知らない。この男の言葉が真実かどうかを知る術などなかったが、今まさにリュシアンの肉体を操って邪悪な言動をするその男は、イリスにとってまさに悪魔そのものだった。


 まるでリュシアンの尊厳すら凌辱するように、ゼノと名乗ったその悪魔は、イリスに対し残酷な仕打ちを続けた。

 イリスの世話役を命じられているゼノは、イリスの纏うボロ布のような衣服を強引に剥ぎ取り、風呂に入れてやると言って浴室へと引きずっていった。


 肌を露わにした姿のまま乱雑に浴槽へ沈められ、手荒く髪や背を擦られた。


 拷問の跡が未だ生々しく残る体を手酷く扱われ、泣いてやめてと懇願するイリスに向けて、ゼノは愉快そうに嗤うばかりだ。


 「騎士様とは、もっといいことしてたんだろ?」


 耳にしたくもない言葉を囁かれ、イリスは必死に首を振った。


 リュシアンは決してイリスに深く触れることはなかった。逃亡中の生活の中で、イリスの頬や髪を愛おしそうに優しく撫でたり、包み込むように抱きしめるだけだった。

 封印されてからの精神世界でも、彼は口付けすらせず、イリスを気遣っていた。


 そんな優しい彼との思い出を踏み躙るように、ゼノはイリスを追い詰めていく。




 以降、ゼノは暇があればリュシアンの体と、イリスの世話役という立場を使ってイリスを傷つけ続けた。


 食事を無理やり口に押し込み、耐えきれず戻したものもまた口に詰め込んだ。

 傷だらけの体を強引に掴み、悲鳴を上げれば怒鳴り、抵抗すれば髪を掴んで引き倒す。

 洗い場では素肌に無遠慮に触れ、冷水に何度も沈めた。


 彼はイリスの泣き叫ぶ姿に愉悦していた。


 ゼノは再誕派の幹部たちに喚び出された本物の悪魔だ。


 再誕派の者達は汚い手を使い、リュシアンの亡骸を手中に収め、来たる魔女復活の時のために、その肉体を腐敗から守るため、そして悪魔という至高の使い魔を捧げ物とするため、ゼノをリュシアンの肉体へ憑依させた。


 悪魔が人間界で振るう力は、契約した人間の力に左右される。


 リュシアンの肉体に封じられた悪魔ゼノは、災厄の魔女と呼ばれる凶悪な魔女の使い魔として契約を取り交わすはずだったが、結局イリスは魔力が豊富と言っても、その力を使いこなせないただの小娘だ。

 このまま彼女と契約を交わせば、強大な力が手に入ったとしても、ゼノが暴れることを主であるイリスが拒めば意味がない。


 結果再誕派の幹部たちは計画を練り直し、ゼノの処遇についても保留とした。


 噂通りの災厄の魔女と契約を果たせれば凶悪な力が手に入り、欲望のままに人間を嬲ることができたはずだったのだ。



 これは予定が狂った事に対する憂さ晴らしだ。



 再誕派の者たちはゼノのその行為を咎めなかった。

 ただでさえ悪魔は扱いが難しい。その上、気が立っている彼を諌められる者などいなかった。


 更に、彼らにとってイリスの価値は内に秘めた魔力のみ。それさえ損ねることがなければどのように扱おうが問題はない。

 ボロ布しか纏っていなかったイリスに黒いローブを与え、その後は寝台しかない小部屋に押し込み、一日に二度味気ない食事を与えるのみで、彼女を気にかけるものなどいなかった。




 イリスは日に日にゼノの気配に恐怖を感じるようになった。ゼノが部屋に無遠慮に侵入してくると心臓が凍りつき、その姿を見ただけで吐き気を催し、体が震え怯えてしまう。


 そんなイリスの様子を見て、ゼノは嗤いながらこう言った。


「“この姿“に怯えてやがんのか?」


 その言葉にイリスは、リュシアンの姿に恐怖を抱くようになっていたことに気がついた。愛おしい人の姿のはずなのに、会いたくないと、触れてほしくないと、そう感じるようになってしまっていた。


 そのことにすら、イリスの心は砕けそうだった。ゼノの日々の仕打ちによって、大切なものが穢されていく。


 その顔で、嗜虐的な笑みを浮かべないで。


 その声で、聞くに耐えない言葉を投げつけないで。


 その手で、こんな風に触れないで。


 騎士だったリュシアンの体を手に入れたゼノに、力で敵うわけもなく、チョーカーのせいで魔力を使うこともできなかった。


 必死に抵抗しても、いとも容易く組み敷かれてしまう。


 その時、彼の右手首にあるホクロが目に止まる。

 かつて、リュシアンがそっと頬に触れるたび、愛おしく思えたその小さな印。それが今では地獄のような時間を告げるものとなってしまった。


 イリスが知る、イリスだけの大切な想いが、悍ましい行為によって踏み躙られていく。



「たすけて……リュシアン……っ」



 涙ながらに呟いた言葉。か細く、弱々しく、ほとんど風に消え入りそうな程の懇願だった。


 それでも、その名を呼んだ瞬間だった。

 今まさにイリスを力づくで押し倒していたゼノの手が、唐突に彼女の体から離れたのだ。

 これまでどんなに懇願しても、ゼノがイリスを弄ぶ手は止まらなかったというのに。


 イリスは驚きで動けずにいた。

 しかし、困惑したのは彼女だけではなかったようだ。


 ゼノ自身も、自分の手を凝視していた。

 その瞳に浮かぶのは明らかな動揺だった。まるで肉体が自分の命令に従わない事に、戸惑っている様子だった。


 だが、その不自然な静寂は一瞬のことだった。

 すぐにゼノはふてぶてしく笑い、いつものようにイリスににじり寄った。



 ただ、その「違和感」はこの時を境に繰り返されていった。


 食事を強制する時、無理やり洗い場へ引き摺る時、ゼノがイリスを傷つけ愉しむ時、彼の動きが一瞬、どこがぎこちなくなる。まるでイリスの悲痛な声に反応するように、イリスを傷つけることを拒むように。


 その変化は徐々に頻度を上げていき、やがて、ゼノは苛立ちを隠せなくなった。



「くそッ!! なんだ、“こいつ“!? 死んだやつが、今更出しゃばるんじゃねえッ!!」



 イリスを押さえつけようとした手がそれを拒んだ。苛立つままゼノはその拳を痛めつけるかのように床に叩きつける。まるでリュシアンが傷つけられているようで、イリスは思わずゼノを止めるため、その手に縋りついた。


「やめて!!」

「邪魔をするなッ!!」


 力任せに振り払い、イリスに向けて拳を振り下ろそうとした。


 目を瞑り、迫る痛みに身を硬くする。しかし、一向に衝撃が襲ってくることはない。


 恐る恐る目をひらけば、ゼノが振り上げたその拳を、もう一方の手が掴み、阻んでいた。


「リュシアン……?」


 イリスは震える声でその名を呼んだ。

 その拒絶は紛れもなくリュシアンの意思に違いなかった。


 魂は失っても、肉体だけでイリスを傷つけることを拒み始めたのだ。


 それでもなお、ゼノは諦めなかった。


「くそっ!! 入れ物が、言うことを聞かなくなりやがった!! お前のせいだ……ッ、全部、お前の!!」


 感情のままに、ゼノはイリスに掴みかかる。

 イリスに詰め寄るその姿は、かつてのリュシアンの高潔さは欠片も残されていない。その姿はまさに悪魔だった。顔を歪め、恨みと憎しみに満ちた声を吐き、腰に下げた剣へと手を伸ばした。


 スラリと引き抜いた剣を振り上げる。


 イリスは恐怖にすくんで動くこともできずにいた。

 しかし、その凶刃がイリスを襲うことはなかった。




 「……ッが……!? な、なんで……ッ!?」



 ゼノは自らの胸を貫いていた。鮮血が吹き出し、イリスの顔を汚していく。

 イリスは震えて微動だにできずにいた。目を見開き、愛した男と同じ姿のゼノの凄惨な最期を見つめている。


「っくそ……が……ッ! そこまで、して……ッ、こんな、小娘……」


 血溜まりに力無く膝をつき、ゼノは力尽きた。それと共に、闇色に染まった髪は元の銀の輝きを取り戻し、瞳も、血のような紅から優しい青に戻った。


 その体は、最期にイリスを見つめ、優しく微笑んだ。


 その表情は決してゼノが見せることのなかった慈愛に満ちたものだった。言葉もなく、糸の切れた人形のように、その場に倒れ伏す。


 その姿を、イリスは呆然と見つめていた。


 生暖かい、彼の血を浴びて。再びリュシアンが死ぬ瞬間を見せつけられた。


 封印の儀式の時、魂を抜き取られ絶命した瞬間も、封印が解かれ、魂が塵のように崩れていった瞬間も、今この時も、全て、イリスのために命を散らせていったリュシアン。



「……あ、ああ……、あぁぁ……!!」



 自分のせいだ。

 自分が弱いから。自分の弱さのせいで、またリュシアンが死に追いやられた。


 イリスの中で堪え続けていた何かがぷつりと切れてしまった。


 胸の内から押し寄せてくる激情。

 

 怒り、憎しみ、恨み、悲しみ。激しい感情の渦がイリスの内側から溢れ出す。首に取り付けられたチョーカーが弾かれたように吹き飛んだ。


 イリスの暴走する力は制御を失い、押さえつけられていた分、力の激流となって全てを飲み込んでいった。


 ゼノへの怒り、再誕派への憎しみ、二人をここまで追いやってきた人間たちへの絶望、そして何より、自分が許せなかった。


 誰かを傷つけたくない、誰のことも害さない、この力は決して怒りや恐れで振るわない。そんな誓いがあったせいでリュシアンを失ったのだ。



 (私は、魔女であるべきだった!!)



 世界が望んだ通り、魔女であればリュシアンが封じられることも、魂を失うことも、体が傷つくことも、死ぬこともなかった。

 そうであったら、自分と出会うことも、愛してくれることもきっとなかったとしても。


 彼がこんな最期を遂げるよりずっといい!



 イリスの内から溢れた力はあっという間に塔を包み込み燃やし尽くした。

 もはや何も我慢する気はない。彼をこんな目に合わせた者たちに何を遠慮する必要があっただろうか。


 逃げ惑う再誕派に属する者たちはなす術もなく炎に包まれ、熱にのたうち人の形の炭に変わっていった。幹部の数人が塔の外へと命からがら逃げ出すも、炎はまるで命を与えられたようにうねり、逃げ仰た者たちを追い回した。


「ああ、あの小娘はやはり災厄の魔女だった!!」


 断末魔を上げる幹部たちを、焔の蛇は一人残らずその業火に飲み込んでいった。


 塔の中に生きているのはイリスただ一人となった。事切れたリュシアンの肉体を、彼の血に染まりながら抱きしめている。嗚咽を漏らし、震えながら、冷たくなっていくその体を掻き抱いた。


「リュシアン……私、もう迷わないし、躊躇わないよ……」


 最初から、こうしていればリュシアンを奪われることはなかったのにという後悔を噛み締めながら、彼女は小さく、囁くように呟いた。


「きっと、こんな私、失望するよね……でも、これからは、私の意思で私の為に生きていく……貴方が私に、言ってくれた通りに……」


 眠るリュシアンの唇に自身の唇を重ねる。生きてるうちに遂にすることも叶わなかった口付けを交わして、二人は炎の渦に包まれていった。





 ある辺境の地に、その塔はあった。


 かつて大火によって崩壊したその古塔に、今では魔女が住むという。

 漆黒の髪に、炎のような赤い瞳。彼女を狩ろうと近寄る者がいれば、皆容赦なくその命を刈り取られる。


 人の命を奪うことも厭わない、冷酷非情な恐ろしい魔女だと人は噂する。







ここまで読んでくださりありがとうございました。

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