一、合唱コンクール
中学の入学式を終えて数日。吉隅ワタルには、いまだに友達らしい人はいなかった。周りの席の人に話しかけられれば答えたが、自分からは、なかなか話せずにいた。人見知りをする性格で、人と打ち解けるまでに時間がかかった。
それでも、ワタルは、ピアノがあれば平気だった。家にいる時間のほとんどはピアノの練習の為にあった。誰かに言われるからやるのではなく、ただやりたくてやっている。少し変わってるんだろうな、とワタルは思っている。
その日のホームルームの時間に、月の終わりに行われる合唱コンクールの話が出た。指揮者とピアノの伴奏者と曲を決めて、それから練習。半月ほどしか時間はないが、大丈夫なのだろうか、とワタルは少し心配になった。
合唱コンクールは、一年生だけが参加して行われる。入学したてなので、クラスメイトと親睦を深める事が目的らしい。
しかし、そんな気遣いも必要ないくらい、すでにすっかりこのクラスに馴染んでいる人もいる。そして、その人が手を上げて、元気な声で言った。
「オレ、指揮者やる」
その人・飯田光国の言葉に、担任の広田が驚いたような顔になった。そして、恐る恐ると言った感じで、光国に訊いた。
「飯田。指揮、やったことあるのか?」
広田の質問に、光国は首を大きく振ると、にっこり笑って言った。
「やったことはないけど、大丈夫」
「大丈夫? えっと、じゃあみんな。飯田にやってもらうんでいいか?」
広田の表情はやや不安気に見えたが、光国の申し出に反対する理由もなかったので、みんなに判断を委ねてきた。そして、みんなにしても、すでにクラスの顔のようになっている光国なので反対する人はおらず、光国はみんなに拍手を持って受け入れられた。
「それじゃ、指揮者は飯田に決定。ピアノの伴奏はどうする? ピアノ弾ける人は手を上げて」
ワタルは、遠慮がちに手を上げた。周りを見てみると、ワタルの他に数人の女子が手を上げていた。担任が教室を端から端まで見た後、「前に来て」と言った。
言われて、ワタルと数人の女子が席を立ち、担任のそばに集まった。来たものの女子数人は、「私、やだ。あなたやってよ」とお互いに言い合って、誰も「私がやる」とは言わない。
ワタルは、ただ黙ってその様子を見ていたが、女子の視線が自分に集まったのを感じた。女子たちは、ワタルに向かって微笑みを浮べると、
「吉隅くん。やって?」
女子たちの言葉にワタルはびっくりして、瞬きを数回してしまった。
今までの人生において、クラスの中で目立つ行動をとったことがなかった。断ったらどうなるんだろう。
ワタルが逡巡していると、広田がワタルの肩を軽く叩いて頷いた。
「じゃあ、悪いけど吉隅。伴奏頼んだよ」
「え」
戸惑うワタルを無視して広田は、みんなの方に向き直ると、
「それじゃ、ピアノは吉隅にやってもらうから。みんな、拍手」
促されて、クラスメイトがワタルに拍手をくれる。伴奏を嫌がっていた女子たちも拍手してくれたが、その表情に何かすっきりしないようなものを感じた。本当は弾きたかったのかな、とワタルは思った。
ワタルたちが、それぞれの席に着くと、広田が教室を見回して、
「で、曲はどうしようか?」
広田の言葉に、一瞬教室が静まり返ったが、先ほどの女子たちが一か所に集まると、何か話し合い始めた。そして、広田の方を向くと、
「先生。『翼をください』は、どうですか。たぶん、みんな知ってるし、二つのパートに分かれる所もあるけど、そんなに難しくないし」
「じゃあ、それに決定。君たち、歌が得意なのかな? 歌の指導、してもらっていいか?」
「あ、はい。私たち、合唱団に入ってるので。いいですよ」
ためらいなく引き受けた。ワタルは、彼女たちがピアノだけでなく歌も得意らしいことがわかり、感心していた。
ホームルームが終わり、担任が教室を出て行くと、ワタルのそばに誰かが立った。ワタルがそちらに目をやると、飯田光国がにっこり微笑み、
「よろしくな。一緒に頑張ろうぜ」
ワタルの肩をぽんと叩いた。ワタルは、その人をじっと見つめてしまった。