さようなら、みんな
玄関の脇にある水道でタライに水を張り、母は弟のズボンにこびりついた泥のかたまりをこすり落としていた。すうっと息を吸い込んで、彼女の背中に向かって宣言する。
「もう、学校には行かない」
母は首にかけたタオルで手を拭いて、寝起きの亀のようにゆっくりとこちらを振りかえった。
同時に母の正面にある壁から大きな水音があがる。浴室で弟が風呂に入っているのだ。続けてシャワーを流す音が聞こえてきた。
「なんか、嫌なことでもあった?」
「べつに。でも決めたの」
わかるよね。口にしなくても、わかってるはず。
念を込めて見つめると、彼女は視線を外した。私たちの間をザーという規則的な水音が埋める。
ボタボタと水の塊が落ちる音が混じりだして、私は目を閉じた。シャワーを浴びている弟の背中を思い浮かべる。うなだれている角度まで想像する。
「決めたのは、大河のため?」
「違う、私の。私のためだよ。私に学校は無理。わかるよね?」
母は黙り込んだまま答えない。
「私を、病院へやって」
母の表情は娘への心配と、安堵と、悲しみと……そのほかいろんなものがごちゃ混ぜでおかしなことになった。
それでも私の言葉を待っていたんだと思う。同時に恐れてもいた。
母は首をふらなかった。四年前のようには。
「なんもしてやれんで、ごめんね。由麻」
白い指が私の手を取る。ふれた場所だけが、じんと冷たく湿っている。
浴室の水音がとめどなく溢れる涙のようだと思う。
母の。弟の。私の涙。
なんもしてやれんなんて。私は、母から、弟から、子供時代にもらうべきなにもかもをもらった。
一生ぶん、みんな。
*
リビングに入ると母は、小学校から届いていた健康診断結果通知を引っ張り出して、指定の病院に電話をかけた。このごろは通知と治療証明書提出の催促の手紙はコンビニで捨てて帰っていたから、母が持っているそれはもう何年も前のものだ。
先生たちは学校で母を捕まえると、毎度こう言い募った。
身長も、体重も、入学時から全く成長していません。速やかに専門の病院を受診し、診断書を提出してください。青柳さんが心配なんです。
ある先生はさらに続けた。
……それに青柳さんは、一年生の時に神社で神隠しにあってますよね。病院には似たような経験をした子がたくさんいるんですよ、と。
来年まで様子を見て考えます、という返答を繰り返し母は追求をかわした。私の状態が気にならなかったわけじゃない。疑っていたのだ。病院に行くとどうなるのかを。
母は神隠しにあった子供を持つ親の承認制グループSNSに入っていた。
SNSには神隠しの後で成長が止まった子供を持つ人、そのことで病院に連れて行ったが最後、子供と二度と会うことができなくなった人が大勢いた。通院という選択肢はおろか、皆連絡を取る手段もなくなっているという。消されてしまう、という噂もあった。
私は母のパソコンを盗み見て、それらを知った。
母と同じ情報を共有していた父の考えは、違った。
「学校が、病院に行けば医療的にも学習的にもサポートがあると言ってたんだろう。長い目で見て考えたら由麻のためになる。顔も知らない相手の言うことよりよっぽど……」
「知らない人じゃないわ」
「会ったのか? うちには普通の……大河だっているんだぞ」
二人は夜中話し合い、時に口汚く言い争った。
私は子供部屋の壁に背中をつけ、息を殺して話に聞き入った。そんな時必ず布団出て寝ている弟と目があった。いま、大人たちが壊れていくのを目撃しているのは、私一人じゃない。暗闇の中、黙って目を合わせていると、何とも言えない気持ちになる。
ある朝、父は黙って出て行ってしまった。私を無理やり病院に放り込むことだってできたのに、そうしなかった。そのことだけで私は父に愛されていたと、今も信じていられる。
通話を終えた母は私を振り返り、眉を寄せた泣きそうな顔で苦笑した。
「すぐ病院に向かってくださいって。もう日が暮れるのに、せっかちよね」
母の声を聞いた弟が、慌てた様子で脱衣所から飛び出してくる。
「僕も行く」
着替えていたら置いていかれると焦ったのだろう。濡れたタオルを体に巻いて、拭き足りていない髪の毛からポタポタ雫を垂らしている。
「こら大河。びしょびしょのままで……。行くったって、病院なんて、大勢で押しかけるものじゃないの」
「だって、姉ちゃんはもうかえってこない」
嗜める母を押し切って、弟が確信をつく。全部、わかっているのだ。私はもう、ここにはいられないと。
母は弟の抵抗にあっさりと折れた。
「わかった」
「服着てくるから、絶対置いていかないでよ?」
「約束する」
「絶対だよ。話したいことがあるんだ」
自室に向かう階段でしつこく振り返る弟に、私にも準備がある、と念押しして安心させる。私たちはものの十分で支度をし、自宅を後にした。
*
病院は私の街から車でひとつ山を超えたふもとにあった。田舎の風景に馴染まないガラス張りの開放的な建物が妙に冷たく浮かんで見える。
受付を済ませると待っている人を何人もすっ飛ばして案内があった。放送で呼び出すのではなく、わざわざ職員がついて私たちを誘導する。エレベーターに乗って七階の特殊検査室へ。通院ではおよそ知ることのない場所だ。
職員がドアをノックすると私たちはすぐに部屋に通された。中では髪を無造作に後ろに束ねた化粧っ気のない医師が、モニター画面に顔を近づけている。
彼女はこちらをチラリと一瞥し、正面の椅子に座るよう促した。
「で、どちらのお子さん?」
「姉の方です」
「だから、どちらが姉? 見た目通りではないでしょう」
小馬鹿にしたような物言いにカチンと来る。
「ええ。七つの頃から背が伸びていないんです。二つ下の弟に抜かれて、もう長いですね。四月には中学生になるのですが……」
「それで、検査は初めて?」
医師は母を咎めるようにギョロリとした目を見開き、ふーんと鼻から息を吐いた。伸び盛りの子供の異常をわかっていて放置した酷い親といわんばかりだ。
私は医師を睨みつける。
「あんたに、非難される言われはない」
母は私を守るために、もう一年、あと半年でも、と祈るようにしてここまできたんだ。
小さかった弟が入学し、すくすくと成長するのを目の当たりにすると、誰もが私の異常に気がつく。気のせいではすまされなくなり、人々の頭の中に、あのニュースがよぎる。それでもずっと……。
「確かに、七つの子のことばづかいじゃない。生意気な前思春期のガキの態度だ」
医師はニヤリと片方の口角をあげて笑い、看護師に顎で指示する。
「採血を」
現れた看護師の異様な姿を目にし、母は私を庇うように立ちはだかった。
「待ってください。確認ですが、由麻は院内で友達と勉強できるし、治療もしてもらえる。安心していいんですよね?」
看護師は宇宙飛行士のような防護服の内側でにっこり微笑んだ。
「ええ。保証しますよ。全ての検査を終えた後には必ず。さ、由麻ちゃん。検査室へ」
「嘘だ」
弟が私の腕を引き、前に歩み出た。別の看護師が防音室のような分厚い扉を開き、青柳由麻さんの検査準備完了です、と医師に報告する。防護服の中の人はこもった低い声で、弟に向かって不穏な言葉を口にした。
「僕、そんなにぎゅっとつかんだらお姉さん、破裂しちゃうよ?」
「おっと、子供を脅すのは良くないなあ」
医師は看護師の発言を咎め、弟の前にしゃがみこんだ。
「……お大袈裟な格好で怖がらせてごめんね、ぼうや。安全のためには仕方がないんだよ。お互いのね。さぁ、手を離して」
「ほら母さん、僕の言ったとおりだ。病院は、最初からあの部屋で姉ちゃんを……」
爆破させるつもりだ。
かすかに焦げた匂いが鼻を掠める。
青柳由麻は人間じゃない。姉は七つの時に誘拐されてすり替わっている。本物そっくりの人形に。弟は何度となくそう噂されるのを聞いてきた。
数年前から騒がれている爆破事件の影には必ず、何年経っても姿の変わらない人間の存在があった。彼らには共通して数日から数年間行方不明だった時期があるのだ。
度重なる報道から、こんな噂が流れるようになっていた。消えた人とそっくりな姿で戻ってきた動く爆弾人形が、人間世界に紛れて好機をうかがっている。
……あなたの隣で笑う人は本当に人間なのだろうか?
私は周囲からの注目を浴びた。当人相手には恐ろしくてできない陰湿な嫌がらせを家族に向けられた。
だから私はもう病院へ逃げるほかないと思った。たとえ家族と別れたとしても、みんなが平和になるのならそうしなければと。
母も私の申し出に、かつて父の言ったとおり病院へ出すことが由麻の幸せになると信じる、と覚悟を決めた。
だけど道中、弟は全く違う情報を口にした。
——病院の地下、解剖室前の廊下の突き当たりで******と合言葉を唱えて。壁の内側からの合図を聞いて飛び込むんだ。そこに姉ちゃんの仲間がいる——
「俺を信じて。俺も姉ちゃんを信じてるから。どんな身体でも、姉ちゃんは姉ちゃんだって」
受付前に見た施設案内には地下の図はなかった。だけどエレベーターにはボタンがあったのを確認している。
「うん、大河。きっとまた、いつか」
ピッタリとくっついていた弟にだけ聞こえるような小さな声でつぶやいて、私は検査室を飛び出した。