二十三時の渋谷
いつのまにか夜は深まっていた。渋谷の夜は明るい。空気も、人も。渋谷駅までの道中はネオンがどこまでも私達を照らしつけた。
女トイレから藤崎がふらふらと千鳥足で現れた。しっとりと濡れた口元を手の甲で拭っている。
「あれれー! 僕のこと待っててくれたんだあ……! 優しいねえ!」
「おまえが待ってろと言ったんだろ」
「そうだっけー?」
頬をツンツンと突いてくる藤崎の指を払った。すると藤崎はふわりと揺れて、大きな欠伸をしながら当てもなく歩いた。その後ろ姿は考え無しの子供のようで、ほっとけばこのまま風となり、塵となり、どこかへ消えてしまいそうだった。
「おい。どこに行く。こっちだろ」
「うるさいなあ。分かってるってー」
時折、藤崎の腕を強く引っ張りながら山手線のホームまで連れて行った。藤崎は池袋に住んでいると聞いた。私とは逆方向だった。
あーあ。藤崎は溜息を零した。
「食べた分全部吐いちゃったー」
「飲み過ぎだ」
「これが僕のいつもどおりなのだあ」
ケラケラと笑う藤崎は楽しそうだった。特別な人間にしか理解出来ない苦悩にもがきながらも、無邪気な笑顔を咲かすことが出来るその強さが、私にはどうしても美しく、眩しく映った。
なあ。
んー?
「俺はおまえみたいになりたかった、と言ったら、おまえは怒るのか?」
刺すような視線を頬に感じた。直後、スーツの襟を掴まれた。私を睨むその黒い瞳は、本当に何も分かっちゃいないんだね、と語りかけていた。
ふ、と藤崎は憎らしく鼻で笑った。
「君さ、死んだような眼をしてるよね」
「これは……。おまえみたいなやつに憧れてしまったせいだ……」
「君は本当に滑稽な男だよ」
藤崎は私の背後に立ち、腕を回して私に抱き着いた。
「やめてくれ。気持ち悪い」
「女の子の体に抱きしめられて嬉しいくせにー」
アナウンスが響いた。遠い暗闇から光と共にやってくる電車が見えた。
「このまま背中を押してあげようか?」
その声には、本当にそれを実行してしまいそうな危うさがあった。私は背中にじっとりと冷たい汗をかいた。
「冗談はよせ」
知ってる? その無邪気な声は飾り付けないからこそ、ときに残酷になり得る。
「死ぬのって、案外難しいんだよ?」
知らなかった。と私は答えた。電車は甲高いブレーキの音を鳴らし、ホームに停車した。藤崎は私の体からゆっくりと離れた。
「そっかあ……。なら君はまだまだ大丈夫だよ」
じゃーねー。ひらひらと手を振りながら、藤崎は電車に乗り込んだ。
おい。
なにー?
藤崎は振り返らなかった。
「またな」
普通な私では、平凡な言葉しか掛けられない。藤崎の横顔が見えた。何か暗い塊を落とすように視線を下げた。
「どうだろうねー」
扉が閉まった。それは私と藤崎を隔てる線だった。私には超えられない境界線。電車は走り出した。私を置き去りにして。光を放ち、真っ暗闇を切り裂いていく。そして、見えなくなった。