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普通な君達

 自分を救い出せるのは自分の声だけだと信じていた。好き勝手に生きてきたその先にあるのは、いつだって奇異の目と憐れむ目だった。


 私は普通だから。これ以上は応えられない。


 そう言ってあの子は渋谷駅へ消えていった。大衆に飲み込まれてしまえば、僕にはあの女の子を追いかけることは出来ない。


 僕は皆々様が言う普通には生きられなかった。自分を押し殺して生きるのは死んでいると同じだったから。それが間違えていると言うのならば、この世界に生まれ落ちた瞬間から、僕は間違えていた。


 ビル群の隙間から差し込む夕陽は赤い。水面に浮かぶ血を思い起こさせた。涙が零れそうになって堪えた。泣いてしまえば、信じていた自分を否定することになる。


「疲れたなー」


 歩道橋の手すりを掴み、渋谷駅に吸い込まれていく群衆を見下ろした。こんなに人は溢れているのに、僕は孤独を感じている。雑多な足音が、うるさい。


 あ。


 見知った顔が見えた。去年と変わらない焦燥しきった眼をしていた。ああいう人間を見ると少しだけ気持ちが和らぐ。苦しみは彼らにも注がれていると実感出来た。


 スマホを操作して、田中航平の名前を探した。


「おいおーい。どこにいるー?」


 驚いているのか、声は返ってこなかった。それもそうだろう。こうやって連絡を取ったのは高校ぶりくらいだ。もう五年も前になる。去年遭ったのは只の偶然だった。


「久しぶりに飲もうよー。奢るからさ」


 少しの沈黙。「場所は?」




 僕が先に店に入って、その数分後に彼はやって来た。手を振って場所を知らせる。


「よ。変わらないねー」

「おまえは見る度に変わるな」


 感情を薄めた声、焦燥した眼、硬い表情、ジェルで固めたツーブロックの短髪、個性の一つもないスーツ。去年遭った時と、彼は何も変わらない。まるで時が止まっているかのように。


「焼き鳥が美味しいらしいよー。ここって」


 メニューを取るや否や店員を呼んだ。適当に料理を選び終えると、メニューを航平に渡した。彼は黙って受け取り、シーザーサラダと出し巻き卵、そしてお酒を注文した。文句のひとつも言わずスマートにこなす、その小慣れた感じの器用さがむかついた。


「知ってた? 僕さ、去年個展開いたんだよねえ。すごくない?」

「知ってる。というかおまえから聞いた」

「あれ? そうだっけー」


 本当に覚えていなかった。僕は自分の興味の範囲でしか、ものを覚えることが出来ない。やらないではない。出来ない。去年、あの時の会話の内容なんて全部忘れてしまった。唯一覚えていたのは彼の表情だった。滑稽な葛藤をしているようにしか見えなかった、浅瀬で溺れているみたいなあの顔。


 普通は彼で、おかしいのは僕だ。


「あれから絵の売れ行きがよくてさー。僕の絵に五十万払ってでも買うとかいう人もいて。あれは驚いたなあ。本当は売るつもりのない絵だったんだけどね、売っちゃった」


 その絵は随分と昔に描いた絵だった。あの日、髪を短く切った日、僕として生きると決めた日、自分の声だけを信じようと決意した日、部屋の窓から見た外の景色を描いたものだった。


 今見れば、子供の落書きのように拙い絵だった。なのに、捨てることも忘れ去ることも出来なくて、ずっと手元にあった。売り物にもならないのに展示した。買わせてくれと頼まれた時、断る理由が思いつかなかったから、売った。


「やっぱりおまえは特別なんだな」


 特別。だいっ嫌いな言葉だ。


 特別、変人、天才。そのたったひと言で僕という存在を片付けようとしてくる人達がいる。そういうレッテルを貼りつけることは簡単で、それ以上理解する必要がなくなるから。


 だから何も知らない。僕が生きるためには、こうなるしかなかったなんて、知らずに言うんだ。


「君は?」


 航平は昔から賢くて器用なやつだった。そのくせに、なぜ僕のことは一向に理解できないのか。


 厭味をぶつけてやると、航平は苦しそうに顔を歪めた。一年前もそんな顔をしていた。


「特別ってさあ、実は誉め言葉じゃないよね?」

「それは言い方次第だろ」

「そんなことないよー」


 特別とは線を引く言葉だ。僕は航平との間に現れた線をなぞった。これで何本目だろう。無数の線が僕を取り囲んでいる。


「つまり、俺が特別と言ったことに腹を立てているんだな。悪かったよ」

「分かればよろしい」


 知ってるよ。それは分かったふりだって。ろくに悪いとも思っていないくせに簡単に謝ったりするよね。そうやって君達は上手に世間を渡っていくんだ。


「しかし、特別が駄目ならおまえの才能を褒める時、なんて言えばいい? 天才と言えばいいのか? それも特別と同じだろう」


 世界は君達を基準に動いている。割を食うのはいつだって少数派だ。


「褒めるなんて、いらないよ。そういうの聞き飽きたからさあ」

「聞き飽きたか……。言うじゃないか」

「だってそうなんだもん」


 緩やかに自分が死んでいくことに耐えられなかった。だから僕は飛び出した。


「羨ましい限りだ」

「でも僕は嬉しくない」


 けれど飛び出した先も窮屈で、孤独だった。絶望が形を変えただけだった。


「なら何て言って欲しいんだ?」

「そうだねー」


 僕みたいな人間は、普通の人達からすれば受け入れ難いらしい。家族でさえも。


「理解して欲しい。ただ僕を理解して欲しい」


 まただ。気付けばグラスが空になっていた。追加で酒を頼んだ。


 思考が鈍っていく過程は心地よかった。

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