特別なおまえ
毎朝私を迎える電車は平凡な人間だけを運んでいる。満員電車というのは得てしてそういうものだ。普通から外れなかった、あるいは外れることができなかった者達の集合体。
毎日、毎日、決まった時間に運ばれている。まるで通勤時の体はロボットに操作を委ねたかのように規則正しく動く。風吹く雨の日も、陽炎が昇る朝も、息の白い夜も。全くといっていいほど毎日の景色は変わらない。恐ろしいほどに退屈で、窮屈。
会社員として生きるということはささやかな絶望の連続である。
私はそれを受け入れることができた。多分その理由は、私が普通の人間だからだ。その他大勢と同じように、社会に愚痴を投下し、傷の舐め合いで活力を得る。満ち足りることはないけれど、それでも生きていくことはできる。
定時上がりの夕刻。渋谷駅のホームに電車の到着を知らせるアナウンスが鳴った。ガタゴトと、変わらぬ日常を運ぶ音が近づいてくる。
ふと思うことがある。今と同じ毎日がこれからも続くだけならば、いつ死のうが変わりない。
スーツの右腿のポケットでiPhoneが振動した。
「おいおーい。どこにいるー?」
スマホ越しから聞こえてくる、その第一声だけで、彼女あるいは彼の自由奔放さが窺える。
「聞こえてるう? どうせ渋谷でしょー?」
それはサラリーマンが列をなす駅のホームでは絶対に生まれない声。甲高い電車のブレーキの音が響いた。黄緑の扉が目の前で開いた。
「久しぶりに飲もうよー。奢るからさ」
耳に馴染んだ単調なメロディーが鳴って扉が閉まった。ホームの雑多な音は車体の揺れる音にかき消された。電車は過ぎ去っていった。
道玄坂の109で枝分かれする道を右に曲がり、真っ直ぐに歩くと、その店はあった。建ち並ぶビル群の中で一つだけ細いビルの三階にひっそりと店を構えている。入口から手前側にカウンター席があり、その奥の通路には個室があるようだった。店内は薄暗く、天井にぶら下がる三つのペンダントライトから暖色光が室内を照らしていた。
カウンター席で手を振る彼女がいる。あるいは彼が。私は近づき、隣に座った。
「よ。変わらないねー」
「おまえは見る度に変わるな」
赤く染め上げたマッシュのショートヘア。去年会った時は、銀髪の長い髪を後ろで一つに束ねていた。サングラスで覆っていた大きな瞳が、今日は露わになっている。
服装だけはいつもどおりだった。ジャケットもスキニーパンツもブーツも全て黒で統一している。ボーイッシュな格好を好んで着こなすところは昔から変わらない。
「ごめんねえ。急に呼んで。一緒に来る予定だった子にドタキャンされちゃってさー」
「つまり俺は埋め合わせか」
「そんな言い方しないでよー。数ある人達の中から、僕は君を選んだんだぞ」
細い人差し指が私に向けられた。深紅のマニキュアが薄い暗闇で際立った。彼女あるいは彼の名前は藤崎ゆかり。私の幼馴染だった。下の名前で呼ぶとあからさまに不機嫌になるから、私はいつも藤崎と呼んでいる。
「焼き鳥が美味しいらしいよー。ここって」
藤崎はメニューを開いた。いきなり店員を呼んで、目に留まったものから注文していく。迷うという選択肢が藤崎の中にはない。ひと通りの注文を終えると、あとは勝手に、と言わんばかりに私にメニューを渡した。この勝手気ままさを私は羨ましく思う。
「いい店だよな。そこそこ高いだろ?」
「どうだろう。普通じゃない? 二人で一万くらいかなあ」
「本当にいいのか? 奢りで」
「いいよー。僕が誘ったんだし。それに最近は仕事絶好調なんだよねえ」
「画家か……」
「知ってた? 僕さあ、去年個展開いたんだよねー。すごくない?」
「知ってる。というかおまえから聞いた」
「あれ? そうだっけー」
去年は偶然渋谷駅で遭った。今日と同じ定時上がりの夕刻だった。ひと月後に個展が開かれるんだと、餃子を口いっぱいに頬張りながら無邪気に語っていたのを覚えている。
私はその個展に行かなかった。
「あれから絵の売れ行きがよくてさー。僕の絵に五十万払ってでも買うとかいう人もいて。あれは驚いたなあ。本当は売るつもりのない絵だったんだけどね、売っちゃった」
「凄いな。やっぱりおまえは特別なんだな」
「君は?」
「え……?」
お酒がふたつ席に置かれた。ジン・トニックとカシス・オレンジ。藤崎はカシス・オレンジを持ち上げるとカラカラと氷を鳴らした。
「最近どうなの?」
「ああ……」
私はジン・トニックの底に沈むライムを見つめた。出来ればしたくない会話だった。
「普通だよ。去年遭った時となにも変わらない。上司の無理難題をかわしながら、無難にタスクをこなすんだ。劇的な変化なんて起こらない。それがサラリーマンだよ」
「それも特別だよー。僕だったら、そんな日常には耐えられないもん」
「は?」
厭味かと、一瞬思った。に、と笑うその顔を見る限り、やっぱりそうだったらしい。
「今、ちょっとむかついだでしょ?」
「べつに……」
「嘘だあ」
藤崎はケラケラと笑ってから酒をひと口に飲み干した。
「特別ってさあ、実は誉め言葉じゃないよね?」
「それは言い方次第だろ」
「そんなことないよー」
藤崎は手振りで店員を呼んで、追加でラム・コークを頼んだ。
「特別っていうのは線を引く言葉だよ。人と人の間にさ、こうやってピッと線を引いちゃって、世界を区切っちゃう言葉だって思わない?」
言いながら、藤崎はカウンターのテーブルを縦に指でなぞった。私と藤崎の間に境界線を塗りつけるかのように。
「言う側はそんなつもりないんだろうけど。言われる側には見えちゃうんだよねえ。引かれた線がさー」
「つまり、俺が特別と言ったことに腹を立てているんだな。悪かったよ」
「分かればよろしい」
藤崎はさぞ満足げにこくりと頷いた。私は肩を竦め、グラスに口を付けた。アルコールのひと口目はじんわりと胸を温かくする。
藤崎は大きな勘違いをしている。特別という言葉を使った時に線が引かれるのではない。線は既にそこに引かれていたのだ。特別と言うことによって。その線が相手に見えるようなっただけのこと。つまり特別とは、線があるよ、と相手に伝えるための言葉なのかもしれない。
「しかし、特別が駄目ならおまえの才能を褒める時、なんて言えばいい? 天才と言えばいいのか? それも特別と同じだろう」
「褒めるなんて、いらないよ」
藤崎は唇を尖らせた。
「そういうの聞き飽きたからさあ」
こういうことを平気で言ってしまうところが藤崎であり、藤崎を特別たらしめる何かだと思う。ただ思ったことをそのまま口にする。相手がどう思おうが関係ない。味方が減っても、敵が増えても、一番大切なのは自分の声だと信じている。
「聞き飽きたか……。言うじゃないか」
「だってそうなんだもん」
普通の人からすれば不器用に見えてしまうことも、藤崎ならばそれでいい。普通を切り捨てて得た対価はあまりにも大きい。
「羨ましい限りだ」
「でも僕は嬉しくない」
彼女あるいは彼が持つ大きな自我にとって、普通の枠組みはさぞかし狭く、生き辛かったことだろう。
「なら何て言って欲しいんだ?」
「そうだねー」
だから藤崎は飛び出した。
「理解して欲しい。ただ僕を理解して欲しい」
中学二年の秋、一年間不登校だった藤崎が登校した日、長かった髪をばっさりと切り、一人称を私から僕に変えた日、彼女あるいは彼に変わったあの日から、藤崎は普通の手では届かない場所へと飛び出した。
実は男になりたいんだと公言するようになり、嫌いなものを周りから排除し、好きなものだけに執着するようになった。親との縁を絶ち、高校を卒業してから一度も実家に戻っていないらしい。私はそんな藤崎のことを格好いいと思った。
「悪いが、俺ではおまえのことを理解してやれない」
「分かってるよ。お情けの同情なんて一番いらない」
私は特別ではない。特別な人が、その代償のように持っている不器用さが自分にはない。空気もそれなりに読めるし、好きじゃないことでも程々にこなせる。それをある程度の我慢で出来てしまう。
「普通なんだ。俺は」
ふふ、と赤らんだ頬で藤崎はほくそ笑んだ。もう酒を三杯も飲んでいる。かなり早いペースだ。
「なにそれ自虐? それとも……もしかして皮肉ってんの?」
「どっちだろうな」
「えー。意地わるう」
平凡な私では理解できないから、おまえは特別なんだ。理解なんてしてやるものか。おまえが何かしらに苦しめられているのならば、それは特別な者の責務だ。
私達が退屈な毎日に苦しめられるように、おまえも何かしらの苦しみに囚われるべきなのだ。