無かったことになった星
訪れていただきありがとうございます。
「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」
硬いテーブルに押し付けられた彼の頭を、柔らかなソファに座って。この光景を何度見ただろう。この店のマスターは腕が悪く、毎朝異なる味のコーヒーを出す。今日は当たりだ、外れだと毎日の占いにはぴったりある。退屈しない。ほとんど外れだけど。彼は毎日私に頭を下げた。なかったことにしてほしい。酒、女、煙草、ギャンブル。そしてちょっとした戯れ。世間ではこの戯れを暴力というらしい。どうしようもない彼氏ビンゴ大会が開催されたとしたら私が間違いなく優勝するだろう。
「とりあえずコーヒーでも飲みなよ」
彼はコーヒーを一口飲むと流石マスター、最高の味だねなんて。これから毎日通うよ。マスターはちょっと小汚いクロスで安っぽいカップを拭きながらそれっぽく頷く。それを見て彼も。そういうのは味にうるさい客と腕の良いマスターがやることではないのか。私は頬杖をつきながらそのやり取りを見てふっと笑う。これもお洒落な女がやる所作であって、私みたいなどうしようもない女のする仕草ではないのだろう。
彼は煙草に火をつけるとだらだら言い訳。ほら金がなくてさ、仕事もさ、キャバクラでかわいい奴がいなくて。そんなタイミングでお前が甘いだし巻き卵とかさ。つーか、まずいなこのコーヒー。マスター、砂糖持ってきて。あれ、お前もう怪我治ったのか?そりゃあよかったよかった!
前は母のだし巻きは甘いんだって手をあげたんじゃない。彼の話の内容はカップから上がる湯気とともに。あがり、勾配に従って、熱力学の法則に従って。散逸。消失。残ったのは空間。香ばしい香り。丸い机。まっすぐなカウンター、どうしようもないマスター。彼氏。何かが消失し、生み出されていく。ちょうどいい。
「それでさ、昨日のパチンコでさ!おい、聞いてるか?あ、追加でケーキ1つと切り分ける用の包丁!」
彼は毎日謝る。許してあげると太陽のように。私は意地悪なのかもしれない。星が流れた。
あの日の喧嘩はまるで戦争のようであった。くだらない話からお互いの煙草に、腹に、大砲に火が付き。部屋の中は自分の居場所どころか形すら思い出すことができないマグカップ。戦争は陣地に攻め込み攻め込まれ。国民にも甚大な被害。逃げろ。進め。あの都市が陥落だと!?したらあそこを攻めろ!
戦争の終結は私の一つの爆弾によってなされた。
「もうあなたには本当にこりごりよ!今すぐ出て行って!今すぐ!」
「こっちのセリフだ、馬鹿野郎!お前の顔なんか二度と見たくないね!あほ!えー、うーんと、あほ!」
彼氏は持っていた銃(もちろん比喩である。実際のものは箒)を地面に叩きつけ(箒を放棄)、家を飛び出していった。軽い金属を踏む音が外から聞こえる。毎日聞く音。普段だったら。大きくなると嬉しい音。小さくなると。音が止み。ふと、一人だと少し広いなと思った。ガス代とか電気代も高い。家賃なんて払ったら美容院に行けなくなる。たらたらと走り出す理由を探す。いつか犬飼いたいけど一人で毎日散歩は厳しいという理由をとりあえず採用し、ドアノブを掴んだ。
外はあまりにも青かった。雲がきっと壊れてしまったのだ。彼のしょげた背中が見える。きっと今日も仲直りできる。いつものことだもの。すぐに追いかけるのもやっぱり癪な気がする。どこに行こうか。犬の散歩のルート決めなんて良いかもしれない。散歩のルート決めに行こうよ。そう彼に投げかけようとしたそのときだった。大きな音が降ってくる。きっと壊れてしまったのだ。大切ななにかが。
パチンコで外れしか引かないことによりコツコツ貯めた運貯金(?)のおかげか彼はどうにか一命をとりとめた。むしろ次の日には病院を抜け出し、私の家に。二人での散歩の途中にあった寂れた喫茶店。雰囲気だけはいっちょ前。
彼は硬いテーブルに頭を擦り付けた。
「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」
「昨日の話?」
彼は恥ずかしそうにカップをいじる。なんだ、喧嘩のことか。
「別に気にしてないわよ。私こそムキになっちゃったし」
私は強気にもカップをいじいじ。ここでお互いに言葉で謝らないのは暗黙のルールである。自分と同じくらい相手も悪い。それは喧嘩の時点で清算されていることであるから、わざわざ自分を下げる必要もない。なにも入っていない軽い頭くらいは一応下げる。これが私たちの謝罪スタイル。
「それでさ、昨日のパチンコでさ!おい、聞いてるか?あ、追加でケーキ1つと切り分ける用の包丁!」
雨だ。暗いな。帰るのが面倒だ。ずっとここにいられたらいいのに。神様の声。私の声?帰りたくない。コーヒーは既に冷たくなっていた。
次の日も、その次の日も彼は散歩に行こうと言った。例の寂れたカフェを指さして
「......。あそこ、なんか雰囲気良いな!きっと腕の良いマスターがいるに違いない。楽しみだなぁ」
なんて。あそこは昨日も行ったじゃない。美味しくないコーヒーが出てくるの。ダサいマスターがどや顔で淹れたコーヒーが。コップも汚い。気まずそうな彼の顔。喧嘩した次の日の顔。私の機嫌を伺うような。それでも彼はどうにか口角をあげて、私の手を引くのだ。
彼は私と毎日散歩していることを知らない。コーヒーを飲んでいることも。パチンコで勝った話も。ちょっと大きめの白い犬がいいよねなんて話も。彼はなにも知らない。喧嘩なんてもうずっと前の話だってことも。事故で負った怪我も、私の頬にあった傷も、もうどこにもなかった。それでも彼は毎日私に頭を下げた。許してあげると初めておもちゃを貰った子供のように笑う。私は毎日彼を許し続けた。
私たちは毎日、空から星が降るまで語り合った。晴れの日も、雨の日も。星は必ず降ってきた。それが見えるか見えないかなんてどうだっていい。犬が欲しいねなんて。でも雨の日の散歩は大変だねって。机、私、太陽。その連続の中に私がいる。彼は途切れた時間を何度も繰り返した。
今日もただの毎日。変哲のない、途切れた毎日の一つだった。外を見て頬杖の彼。星が。月?目の奥に宇宙。星が流れる。空に、彼に。私がいなくなったら誰が彼を許すのだろう。誰が彼を宇宙まで運ぶのだろう。暗闇の中を歩く。ただただ。とぼとぼと。彼はどこまで歩かねばいけないのだろう。
「毎日こうしてだらだらしていられればいいのにな、星なんか眺めてさ」
彼が毎日星を見られますように。毎日犬の話ができますように。私が死んでも、宇宙にいけますように。願いをこめて。手に力を込める。ケーキが綺麗に切り分けられている。手を伸ばす。銀色に光る鋭利なそれは、まるで流れ星だ。きっと願いを叶えてくれるのだろう。
無かったことにしてきたのはあなたのほうじゃない
彼が星になる。暗い夜空に燦然と。私のことを照らしてくれるだろうか。許してくれるだろうか。あなたのことを想ってなのよ。馬鹿なあなたにはわからないかもしれないけれど。流れていく。空を、宇宙を、彼の瞳の中。許してくれる?許して、許して。あなたをずっと許してあげるから。目の前に広がった赤い星雲を眺めていると、遠くから星の流れる冷たい音がした。