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彼女の願いはあまりに愚かで、切なくて  作者: 当麻月菜
第一章 その願いは、あまりにぶっ飛んだもので
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8

 自宅までどうやって帰って来たのか覚えていない。気付けば杏沙は玄関前に立っていた。


「……ただいまぁ」


 鍵を取り出し玄関を開けると、4人暮らしの一軒家はしんとして人の気配はない。

 

 杏沙の父は50歳を過ぎて単身赴任。母は隣県に住んでいる義母の介護の為に週末はほとんど家を空けている。


 兄の圭司は朝はいたはずだが、どこかに出掛けてしまっているようだ。


 週末に誰もいないなんて、ここ最近では当たり前のこと。なのに杏沙は大袈裟ではなく世界中で一人ぼっちになってしまったような気持ちになってしまう。  


「……ビールでも飲もっかな」


 2つ年上の役所で働く圭司は、酒豪ではないけれど晩酌をするのが日課だ。


 兄を溺愛する母は、ビールのストックを切らしたことが無い。しかもグラスを冷凍庫に入れる徹底ぶりだ。


 家族カーストの底辺にいる杏沙は、たとえ自分がビールを飲みたくても、圭司の許可なく手を付けるなんて許されない。でももう一度、靴を履いてコンビニに行く元気はなかった。


「一本ぐらいなら、バレないよね。うん……多分、大丈夫」


 最悪、母親から咎められたら兄が吞んだととぼけようと決めて、杏沙は冷蔵庫から冷えたビールを失敬して自分の部屋に入る。

 

 よく言えばシンプル。言葉を選ばなければ殺風景なこの部屋には、ベッドとローテーブル以外なにもない。洋服などの小物類は作り付けのクローゼットに収まっているので、六畳間のはずだがもっと広く感じる。


 それはきっといいことなのだろう。だが秋も深まった今の時期は、妙に肌寒く感じてしまう。

 

 杏沙は楽な格好に着替えるとローテーブルの上に置いてあるノートパソコンの電源を入れ、床に畳んで置いてあるブランケットを膝にかけた。


 短大に入学してレポートを書くのに必要だから買ってと母親にねだったこのノートパソコンは、新品ではなく三年以上使用された兄のお古だ。


 さすがにそれは酷いじゃないかと手渡された時に抗議したけれど、母からは「良いモノなんだから、まだ使えるでしょ?」と一蹴された。アナログの母にとったら、家具もパソコンも高価なものほど寿命が長いらしい。


 確かに兄が厳選したノートパソコンは、当時はハイスペックと呼ばれるものだった。だが年月が過ぎた今は、起動時には今にも壊れそうな音がするし、立ち上がりにも時間がかかる。


「……おっそ」


 ビールのプルタブを空けながら、杏沙はしかめっ面で呟いた。


 いつも遅い遅いと思っているが、今日に限っては気長に待っていられない。杏沙は床に置きっぱなしになっている鞄からスマートフォンを取り出し、検索画面を開くと【子宮がん】と打つ。


 いきなり知らない単語が飛び込んできて、眉間に皺が寄ってしまう。でも、検索の手を止めることはせず、画面の上の方にある初心者向けの解説ページを開いてみる。


「……そうなんだ」


 スルスルとスクロールしながら文字を読めば、がんに対する知識が無い杏沙でも、少しは由紀の病気が理解できた。


 ただその内容は何一つ優しいものではない。正直言って、詳しく知りたくはなかった。


 けれど気付けば【子宮がん 手術できない】と文字を打ち込み検索をかけていた。


 すぐに杏沙は、後悔した。 


 手のひらサイズの小さな画面には「末期がん」「Ⅳ期」「緩和ケア」という心をざらつかせる文字ばかりが目に飛び込んできたのだ。


「大丈夫……ネットの情報なんて当てにならないしさ……」


 気休めに呟いて、杏沙は苦笑する。ネットに依存している自分が、そんな都合の良いことを言うなんてみっともない。


 実のところ、数時間前に由紀自身の口から病名と現状を告げられた時、頭の半分は理解していた。


 でも認めたくなかった。信じたくなかったし、家に帰ってゆっくり調べれば、頭の中でよぎった【死】という言葉を消してくれる何かが見つかると思っていた。


 でも、現実はそんなに都合よくはない。


 往生際悪く検索をし続けた結果、”認めたくない現実”を”認めないといけない現実”に変えてしまった。


 なんて残酷なんだろう。誰にでも親切で、頭が良くて、スタイルだって良くて、これから先、自分なんかより社会に貢献できるはずの由紀がこんなことになるなんて。


 杏沙はスマートフォンをベットに投げ捨てて、膝を抱えた。


 はっきり口に出せないけれど「死んじゃえばいいのに」って願った人はいた。「なんで生きてるの?」て本気で思った人もいた。


 なのにその人達は今日も元気に生きている。こんな不公平なことが許されるのか。


 杏沙は己の膝を更に抱え込んで、ぎゅっと目を閉じる。


 ──和臣さんも、きっと検索したんだよね。


 残酷な文字が羅列する画面を見て、彼はどれほど辛い気持ちになったのだろうか。もしかしたら自分と同じように検索したことを後悔したかもしれない。


「……病気なんてさ……この世からなくなっちゃえばいいのに」


 声に出した途端、胸の中で悲しみと憤りが暴れて肩が震える。鼻の奥が痛い。上手く息ができなくて、無理に息を吸おうとすると変な声が出る。多分、これは嗚咽だ。


 でも泣きたくない。由紀はもっと理不尽な思いを抱えているはずだし、これから辛く苦しい闘病生活が待っている。


 それなのに健康な自分が検索結果に動揺しただけで、めそめそ泣くのは間違っている。


 ……そう思って絶対に泣くもんかと耐えていたけれど、駄目だった。


 きつく目を閉じた途端、湛えていた涙が頬を伝った。手のひらで拭ってもとめどなく溢れてきて、どうすることもできなくて杏沙は子供みたいに声を上げて泣いた。


「……やだ……由紀が死んじゃうなんて……やだぁ……!」


 荒ぶる感情のまま近くにあったクッションを壁に叩きつけて、拳を床に叩きつけて。そんな自分に呆れる冷静な自分もいて。


 いつの間にかノートパソコンはログイン画面になっていて、それが妙に腹立たしくて力任せに画面を閉じる。それからのろのろとベッドに投げ捨てたスマートフォンを手に取る。


 涙でぼやけた視界のせいでうまく操作ができないことに何度も舌打ちしながら、時間をかけて一通のメールを打った。


 返信はびっくりするほど早かった。

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