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杏沙は過去の過ちを思い出して胸がきしむ。あんな愚かなことしなければ良かったと幾度となく後悔をしてきたけれど、時間を巻き戻すことはどうあってもできない。
だから杏沙は由紀に対して誰よりも誠実でいたいと思っている。それが償いになるのかわからないけれど、由紀と友達でいるためには必要なことだと信じてる。
なのに和臣は由紀の気持ちなんて知ろうとすらせず、こんな質問をした。
「じゃあ、あんずさんの好みを教えてください」
「は……?」
「今の俺があんずさんの好みじゃないなら、変えますから」
「え?……はぁ??」
杏沙が間抜けな声を出しても、和臣はじっと杏沙を見つめている。答えをどうしても教えてほしいようだ。
──なんなの、この人。
軽く和臣を睨み付けたあと、杏沙は口を開いた。
「私が惹かれる異性は私の話をちゃんと聞いてくれて、誠実で、年上で、強引じゃなくて、穏やかで余裕がある人」
早口で言い切った途端、和臣はふっと笑った。
「なんか俺のこと意識して言ってません?」
そうだ、その通りだ。あんたがあまりにチャラくて由紀には不釣り合いだから、思いつく限り由紀に相応しい理想の彼氏像を語ってやったんだ。
はっきりそう言えたらどれだけ楽だろう。しかし相手は、友達の彼氏だ。ここで和臣と喧嘩をすれば、由紀が困る。
「別に意識してなんかない。訊かれたから答えただけ。気に障ったなら謝るね。ごめん」
「あ……いえ、謝ってほしかったわけじゃなくって……ただすごく具体的だったから……」
「好みを訊かれたから忠実に答えただけですけど?」
「それってつまり、付き合ってる人の特徴を言ったわけじゃないってことですよね?」
「は……?」
あまりにバカバカしい質問に杏沙の思考が停止した。
「あんずさん、もしかして誰かと付き合ってるんですか?」
黙ったままの杏沙に、和臣が焦れた口調で問いを重ねる。視線も鋭くて、なんだか尋問を受けているような気分になる。
「ち……違う。今はフリー」
「じゃあ、気になる人は?」
「い、いない」
「本当ですか?」
「うん、ほんと」
「その場しのぎの嘘じゃないですよね?」
「も、もちろん」
最後はすごまれるように訊かれて、杏沙はその気迫に押されこくこくと何度も頷く。
「そっか、よかった」
しばらく観察するように杏沙を見つめていた和臣は、そう言って笑った。さっきとは違う肩の力を抜いた青年らしい笑顔だった。
杏沙は喉の渇きを覚えてミルクティーを一気に飲む。
安っぽい味のするそれはお世辞にも美味しいとは言えないけれど、丁度良い温度まで冷めてくれているので、喉を潤すには最適だった。
和臣の席にあるのはコーヒーだ。さっき由紀の病室でも飲んだのに同じものを注文するということは、彼はコーヒー派なんだとどうでも良いことに杏沙は気付く。
でも、それだけ。彼がコーヒー派でブラックを好んでいようと杏沙には関係ない。
「じゃあ、そろそろ私……」
終わりが見えない会話に疲れ切った杏沙は、強引とわかりつつ伝票を掴んで席を立つ。案の定、和臣が杏沙の手を掴んだ。
「なにしれっと帰ろうとしてるんですか。座ってください、あんずさん。話はまだ終わってません。っていうか、始まってもいませんよ」
「私はもう話すこと無いけど?」
「なら、俺の話を聞いてください。今日はもうそれでいいですから」
随分と上から目線の物言いに、杏沙はカチンときた。しかし話を聞きさえすれば帰れるという言質をもらえ、腰を下ろす。
座り直したベロア地のソファは年季が入っていて、端っこが色あせていた。
「まず話を聞いてもらう前に、質問があるんですけど、あんずさん、もしかして俺のこと平気で彼女をとっかえひっかえできる軽い男だと思ってませんか?」
いっそ怒鳴られたら良かったと思うほど、杏沙に問いかけた和臣の口調は落ち着いていた。
「……思ってる……って言ったら、怒る?」
「怒りはしませんが、違います」
「あー……うん。そっか、そうなんだね」
睨む、まではいかないが強く見つめられ、杏沙は取り繕うように笑えば、和臣はここでずっと放置していたコーヒーを飲んだ。
すぐに「まずっ」と呟いたけれど、その気持ちはわかる。でも、杏沙は何も言わない。彼が語りだすのをじっと待つ。
「ぶっちゃけ俺、由紀さんから親友と付き合ってって言われて引きました。モノのように扱われて、かなりイラっとしました。……でも、由紀さんは面白半分でそういうこと言う子じゃないってのはわかってるんで」
「……うん、私だってわかってる」
途中で言葉を止めた和臣の言葉に、杏沙は相槌を打つ。
でも、彼の言った「親友」という言葉に胸がざわざわとする。
由紀はどんな気持ちで自分のことを”親友”って言ったのだろう。嫌味なく、純粋な気持ちで言ったのだろうか。そんな疑問も湧き上がる。
けれども和臣が再び語りだしてしまったため、その思考は中断された。
「由紀さん……入院してるんですよ。病気なんですよ。……しゅ、手術できない状態なんですよ。で、退院するまでっていう条件をつけてあんずさんと付き合えって言ったんです」
「……うん」
「つまり願掛けをしたかったんだなって思ったんです、俺」
「そっか。今、言われて私も同じ気持ちになった」
「そうですか。良かった……で、俺だって今日会ったばかりの人と付き合うっていっても、相手が俺のこと気に入ってくれるかわかんないし、もう誰かと付き合ってるかもしれないし……でも、由紀さんが俺とあんずさんが付き合うことで、病気を克服できるんなら付き合うフリをしたいって思ったんです」
「付き合うフリ?」
「そうです。フリだけです。由紀さんの前だけ彼氏彼女でいればいいんじゃないかって」
「あ、う……うん」
絵に描いたような挙動不審になりながらも、杏沙はなんとか頷いた。けれど、頬が熱くなるのは止められない。
恐ろしいほど、勘違いしていた。
和臣は病気におかされた恋人に言われるがまま、他の女に乗り換えるような薄情な男ではなかったのだ。
それどころか、恋人である由紀の力になるために演技をしてほしいと自分に提案している。
「とにかくもう一度考えてください。俺、由紀さんに顔向けできないようなこと絶対にしませんから」
そう言って、和臣は伝票を掴むと、さっさと会計を済ませて喫茶店を出て行ってしまった。
窓越しに小さくなっていく和臣の姿を見ながら、杏沙は息を吐く。
──自分勝手なやつ。
言い逃げした彼に悪態を吐いてみたものの、心の中では違う気持ちを持っている。
和臣は杏沙が思っていたような軽い男じゃなかったし、下心も一切ないようだ。
由紀の前だけ彼氏彼女のふりをする。それは悪い提案ではない。いや、最善の方法と言っても過言ではないだろう。
「……由紀はどうして私なんかを選んだんだろう」
高校生のあの出来事ついて、これまで杏沙と由紀の間で触れられることはなかった。
一度でもちゃんと話をしていたら、今、自分は悩むことなく和臣の提案を受け入れていただろうか。
そこまで考えて杏沙は小さく笑う。何度も話そうとしたじゃないか。でもその度に勇気が出なくて、逃げて避け続けた。
杏沙は強い喉の渇きを覚えて、ミルクティーを飲もうとしたけれど、残念なことにカップは空だった。仕方なく水を飲んだら、びっくりするほどカルキの味がした。
多分、この店は、客に出す水はミネラルウォーターじゃなくて水道水を使っているのだろう。
そんなどうでも良いことを考えた瞬間、店主と目が合った。
初老の店主はトレーを手にして無表情で杏沙の席に近付くと、無言で空になった二つのカップをテーブルから下げた。
「追加の注文は?」
つっけんどんな店主の口調は、注文しないなら出て行けというニュアンスが込められている。
「……いえ」
杏沙は鞄を抱えると、逃げるように喫茶店を後にした。