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彼女の願いはあまりに愚かで、切なくて  作者: 当麻月菜
第一章 その願いは、あまりにぶっ飛んだもので
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 青年がどんな表情をしているか気づけないまま、杏沙は手にしていた紙袋を持ち直して病室の扉を開けた。


 すぐさま広く殺風景な一人部屋に、底抜けに明るい声が響いた。


「久しぶりぃー。あんず!」

「……久しぶり、由紀。えっと……久しぶりだね、ほんと」


 由紀の弾んだ声に、杏沙はどんな言葉を返していいのかわからなくて、歯切れ悪く答えることしかできない。


 対して由紀は、まごつく杏沙を見ても笑みを絶やさない。パジャマ姿でベッドに半身を起こした状態で、ここに座れと言いたげにベッドの端を軽く叩いた。


「いやいや、さすがにそこは駄目でしょ」


 苦笑を浮かべながら杏沙は由紀の顔を覗き込むと、手にしていた紙袋をずいっと差し出す。


「はいこれ、お見舞い。気に入ってもらえるかどうかわかんないけど受け取って」

「お、手土産持参ですかぁーあんずさん。なんか社会人ぽいね」

「社会人じゃなくても用意したよ……って、あ!お……おばさん!? すみません、私ったら……いきなり騒いじゃって、すみません。えっと……その……ご無沙汰してます」


 病室の端に由紀の母がいることに気付いた杏沙は、慌ててお辞儀をする。すぐさま由紀の母親がコロコロと笑った。


「ふふっ、久しぶりね、あんずちゃん。卒業写真より、ずいぶん大人っぽくなったわね。さ、座ってちょうだい。──ほら由紀、あんずちゃんにちゃんとお礼を言いなさい」

「あんず、ありがとねー」

「こら、そんなお礼の仕方じゃダメでしょ」

「いいんだもん、私とあんずの仲だし」

「そういう問題じゃないの。親しき中にも礼儀ありって言うじゃない。まったくもう、この子は……」


 ブツブツと小言を言いながら由紀の母親は、壁に立てかけられていたパイプ椅子をベッドの横に置いて杏沙に座れと手で示す。


「すみません……あの、ありがとうございます」

「いいのよー。お休みなのに来てくれてありがとうね。ゆっくりしてってね。今、コーヒー淹れるから」

「い、いえ。お構いな」

「おばさんこう見えてコーヒー淹れるの上手だから。期待しててね!」


 杏沙に断る隙を与えずに、由紀の母親は備え付けのミニキッチンに立つ。


 入院して数日なのに、手際良く冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、電気ケトルに注いでいる。

 

 流れるような由紀の母親の動きに目を奪われていたら、由紀から「早く座んなよ」と声をかけられ、杏沙はパイプ椅子に腰掛けた。


「髪、伸びたね」


 座った途端、由紀から声を掛けられ、杏沙は「そうだね」と軽く頷く。


 杏沙は高校生の時は、ずっと肩につかないボブで通していた。けれど短大に進んでから、成人式の為に髪を伸ばしたのをきっかけに、ずっとロングヘアを維持している。本日は少しだけ毛先を巻いてきた。


 由紀といえば、高校生の時から変わらずショートカットを貫いている。色白ですらっとしたモデル体型の由紀は顔も小さいし、その髪型が良く似合う。


 けれどすっきりと顔が見えるこの髪型は、由紀の体調の悪さを隠してはくれない。


 青白い顔に、げっそりとした頬。やつれた……なんていう表現では足りないくらい、由紀はとても弱々しい。明るく振舞ってくれているけれど、きっと体を起こしているだけでも辛いだろう。


 正直、どんな病気を患っているのか気になるが、入院患者にフランクに病名を聞けるほど、杏沙は無神経ではない。


 そんな理由から落ち着かない杏沙に、由紀はくすりと笑う。もともと優等生で、学年で唯一国立大学に進んだ由紀は察しが良いのだろう。訊かずとも先に答えを教えてくれた。


「あのね……私、子宮がんが見つかっちゃって、入院したんだ」


 あっけらかんと、まるで昨日の夕食の献立を伝えるような口調で、由紀は己の病名を言った。息を飲む杏沙に向け、由紀は言葉を続ける。


「でもね、もう手術はできないの」


 これもまた由紀は、あっけらかんと言った。笑みすら、浮かべて。


『子宮がんが見つかって入院したんだ』

『でもね、もう手術はできないの』


 杏沙は由紀を凝視したまま、頭の中で由紀が言ったこの二つの言葉を何度も反芻する。


 そう……何度も、何度も。でも、どうしても理解できない。友人の身に降りかかってしまったという現実に。


「おーい、あんず……聞いてる?」

「……ぅあ……あ、う、うん」


 なんとか返事をするけれど、自分が今、どんな顔をしているのかわからないし、どんな表情を浮かべるのが正解かもわからない。


 去年の夏の始め、杏沙の母方の姉───叔母が胃がんになった。


 知らせを聞いた母は「もうお姉ちゃんは、手術できないの」と泣き叫んだ。子供みたいに顔を覆って泣きじゃくる母の姿を見たのは生まれて初めてだった。その三か月後、杏沙は叔母の葬儀に参列した。


 なぜそんな縁起でもないことを、思い出してしまったのだろう。まるで自分が由紀が死んじゃうと決めつけているようだ。


 そんな訳が無い。病気知らずの彼女が、そんな簡単に死ぬわけがない。


「……由紀は、大丈夫だよ」


 気付けば杏沙の口からそんな言葉が飛び出していた。由紀は杏沙の言葉に同意するように柔らかく微笑む。


「うん、私も退院できると思ってる」

「だよね」

「まぁ、大学は留年しちゃうけど」

「いいんじゃない?一年留年したって、由紀は国立大じゃん。ぜんぜん問題ないよ」

「そうだよね。入学してから知ったんだけど、結構、留年している人って多いんだ。だから私も、実はそこまで気にしてない」

「……なんだぁ」


 由紀はずっと笑顔のままでいる。何の確証もないのに無責任な発言をした自分を怒鳴りつけたっていいのに。


「……由紀」


 そっと手を伸ばして杏沙は由紀の手を握った。すぐに「なあに?」と明るい声で由紀は手を握り返してくれる。


 その力は思っていた以上に強かったけれど、握り返してくれた手はとても細くて頼りなかった。


「あの……あのね、私にできること……あるかな?何でも言って。できないことでも、何とかなるように頑張るから」


 きっと由紀が一番望んでいるのは、己の体に巣くっている病魔を消してほしい。それが駄目なら他の人に渡したい。そんなところだろう。


 でも、そんなこと杏沙にできるわけがない。できるもんなら、今すぐやっている。


「ごめん。……何かずっと私、無責任なこと言ってる」

 

 軽薄な発言に耐えられなくなった杏沙は俯き、小さな声で呟いた。


 けれども由紀は首を横に振って、空いている方の手を伸ばして杏沙の肩を優しく叩く。


「あんずは全然無責任なんかじゃないよ。私、あんずに大丈夫って言って貰えて嬉しい。泣かれたら、マジ困ってたし。っていうか、泣きたいのはこっちだよってキレてた」

「こら、由紀。あんずちゃんに失礼でしょ?」


 電気ポットで3人分のコーヒーを淹れていた由紀の母親は厳しい口調で由紀を窘めた。


 すぐさま由紀は「いいじゃん、別に」と唇を尖らすが、すぐに表情を変えると杏沙にこう言った。


「あのね私、あんずにお願いしたいことが一つだけあるの。良いかな?」

「もちろん、何でも言って」


 間髪入れずに頷いた杏沙に、由紀はこう言った。


「じゃあ杏沙、お願い。私が退院するまでこの人と付き合って」


 この人───そう言って由紀は杏沙の肩から手を離すと、とある方向を指さした。


 その先には、ついさっき杏沙を病室まで案内した青年がいた。

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