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翌朝、杏沙は中部総合医療センターにいた。
東棟の3階までは迷わず向かうことができたけれど、要塞病院は目的地に着くのはそこからが難題。杏沙は通りがかり看護師に3回も尋ねる羽目になった。
「あんず、おっはよー」
何とか目的地に到着して病室の扉を開けた途端、明るい声が響いた。
けれどもその声の持ち主の腕には点滴が刺さっている。しかも1種類じゃなく3つの袋がぶら下がって、最終的に一つの管に繋がっていた。
「……おはよ。ごめんね、急に」
杏沙はなるべく点滴を見ないようにして、由紀がいるベッドに近づいた。
由紀は半身を起こした状態で、ぷはっと噴き出した。
「なぁーに言ってんのっ。ヒマでいつでも来てって言ったのこっちじゃん。メール、マジで嬉しかった。ってか2日も続けてあんずに会えるなんていつぶりだろうね?」
あははっと声を上げて笑った由紀は、急に表情を改めた。
「……ねぇ、昨日のお願い、ちょっとは考えてくれた?」
「うん。でもちょっとじゃなく、がっつり」
「そっか。で、お答えを聞かせていただいても?」
まるでアナウンサーのようにマイクを持つ仕草をして近付いた由紀の手を、杏沙はぎゅっと握った。
「……うん、いいよ」
一晩悩んで決心したのに、自分でも情けないないほど弱々しい声だった。
でも由紀は、ぱっと花が咲いたように笑う。
「やった!嬉しい!! あんずなら絶対に引き受けてくれると思ったんだっ」
病気なんて吹き飛ばしてしまいそうな眩しい笑みを浮かべてそう言った由紀に、杏沙もつられて笑う。
でも、これだけは絶対に伝えておかなければならない。
「でもね、私ね、和臣さんより由紀の方が大事だから」
彼と付き合うのはフリだけ。そう言えない杏沙は、精一杯自分の気持ちを言葉にして伝える。
そうすれば由紀は「うん」と小さな声で頷いた。
化粧をしていない由紀はあどけなくて出逢った頃の15歳に戻ったような錯覚に陥り、杏沙の胸がスギンと痛む。
もう二度と由紀に対してあんな真似はしないと心の中で固く誓う。
「ところで、あんず……これって和臣君は知ってるの?」
「は?」
しんみりとした空気を一変するように、由紀は明るい声で杏沙に問いかけた。
対して杏沙は、”これ”の意味がわからず首を傾げる。
「いやぁーだから、和臣君に付き合うってちゃんと言った?」
「ううん、言ってない。だって、まず由紀に言うのが筋だと思って」
「真面目かっ」
素早く突っ込みを入れた由紀は、上半身をちょっとだけ動かして杏沙の向こうにいる人物に声を掛ける。
「だってさ。……ね?あんずは律儀な人間でしょ?」
にこっと悪戯が成功したような顔をする由紀を見て、恐る恐る杏沙は後ろを振り返った。
「……っ、な、なんで!?」
いつの間にか病室の扉が空いていた。
そしてそこには、所在なさげに和臣が立っていた。
これが廊下だったらすぐさま看護師に「お静かに!」と怒鳴られるくらいの大声を上げた杏沙に、和臣は扉を閉めてこちらへと近付く。
「あ、えっと……今日、バイトが急になくなったから来たんだけど……ちょっと入っちゃいけない空気を感じて……なんか、ごめん。立ち聞きするような形になって」
しゅんと肩を下げた和臣に、杏沙は大股で詰め寄った。
「いつから聞いてたの!?」
「結構前から……っていうか、あんずさんが部屋に入ってからずっとだと思います。……た、多分」
最後の”多分”は取ってつけたような言い方だった。
恐らく和臣は廊下で杏沙が由紀の病室に入るのを目撃したのだ。そして入るタイミングを失って、ずっと立ち聞きしていたのだろう。
いつ扉を開けたのかはわからない。だってここは病院。扉の開閉音は、ほぼ無音だから。
「もうっ、居るなら居るって言ってよ!」
「いや……ほんと、ごめんなさい」
ジト目で睨む杏沙に、和臣は心底申し訳ない顔をする。
そしてそんな二人を見て、由紀はころころと笑った。
その姿は自分の恋人を差し出したとは思えない嬉しそうな表情で、杏沙は戸惑ってしまう。そんな杏沙に、由紀は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「お付き合い初日なんだから、デートしてきなよ」
嬉しくないお膳立てをされた杏沙は頑固として断ろうとした。だが押し問答の末、病室を追い出されてしまった。
***
昨日と同じように、杏沙と和臣は並んで病院の廊下を歩く。
本日は日曜日。昨日よりも院内は活気があり、明るい声が響いている。遠くで子供のはしゃぐ声と弾むような足音が聞こえ、すぐさまそれを諌める親の声が重なる。
そんな中、杏沙はトボトボと歩く。かなりゆっくり歩いているけれど、和臣は付かず離れず一定の距離を保ってくれている。
「……えっと……ごめんなさい」
沈黙に耐え切れなくなった杏沙は足を止め、手を伸ばせば届く距離にいる和臣に頭を下げた。
すぐに彼のびくっとした気配が伝わった。
「え?何を謝ってるんですか?」
一歩杏沙から距離を取った和臣は、不安げに杏沙に問いかけた。
「……え、だって……あなたと付き合うこと先に由紀に言っちゃったから」
顔を上げてそう言えば、和臣と目が合った。
彼は心底理解できないと言った感じで、きょとんとしていた。
和臣は背が高い。おそらく180センチはあるだろう。身長153センチの杏沙は、背伸びしたって彼と同じ目線にはならない。
それに筋肉隆々の身体つきではないが高身長の彼から見下ろされると、妙に威圧感がある。たとえ、その表情が間の抜けたものであっても。
「本当に悪かったと思ってる。ごめん。でも……やっぱり由紀に先に言っておくべきだと思って。だってやっぱ彼氏が他の女の子と付き合うのって嫌なはずだし……そりゃあ、由紀は昨日自分から言ったけどね。でも、もしかしてやっぱナシって思ってるかもしれないし。だから、えっと」
「あの、あんずさん」
ずるずると後退しながら言い訳をしていた杏沙だけれど、途中で和臣に待ったをかけられてしまった。
杏沙が足を止めたと同時に、和臣は空いてしまった距離を詰める。
「俺、怒ってなんかいないですよ。っていうか、逆に、あんずさん流石だなって思いました」
「は?」
「いやだって、昨日の今日で決断してくれて、しかも自分から由紀さんに言いに行くなんて、まじで凄いです」
「……はぁ?」
良く分からないが国立大学のお方に褒められてしまった。
でも杏沙は嬉しくなんか無い。それに由紀にはああ言ってしまったけれど、自分は彼にも確認しないといけないことがある。
「私、凄くなんかない。あと、由紀にはあなたと付き合うって言ったけど、でも」
「わかってます。……フリだけですよね?」
最後は誰にも聞こえないように、和臣は杏沙の耳元で囁いた。
「あ、う、うん。そう」
こくこくと頷きながら杏沙は、耳を何度もこする。
囁かれた時に吹きかけられた息がくすぐったくて。
和臣は好男子だ。しかも国立大学生ならきっともてるだろう。こんなふうに女性と急に距離を詰めることだって、得意なのかもしれない。
でも杏沙は、違う。もともと惚れっぽい性格ではない。
それにどんなに和臣が顔が良くても異性とは思えない。彼はどこまでいっても、友人の彼氏なのだ。
でも今日の杏沙は、彼ともう少し一緒に居たいと思っている。
もちろん親交を深めたいわけじゃない。これから自分達が由紀の前でどんなふうに振舞えば良いのか、きちんと話し合いたいから。
「和臣さん、この後の予定は?」
「ないです」
「じゃあ、ちょっと時間貰っていい?」
「もちろんです」
即答する和臣に、杏沙は一つ頷くと再び歩き出す。
ふと窓に目を向けると、並んで歩く二人が映っていた。
他者の目には自分たちはどう映るのかと杏沙はぼんやり考える。
手を繋いでいるわけでもなければ、笑顔で会話もしていないから恋人というより友人だろう。もしくは家族か。
「ねえ、和臣さん」
「なんですか、あんずさん」
「演技は得意なほう?」
「いえ、あ、ご想像にお任せします」
先行き不安な和臣の返答に、杏沙は密かに打ち合わせは綿密にしなければと気合を入れた。




