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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蟹とラプンツェル

作者: 中村朱里

現代もの百合です。

じょきん! じょきん! じょきん! じょっきん! じょきじょきじょき、じょっきん!

ハサミで容赦なく、届いたばかりの手紙を切り刻む。親の仇みたいだね、なんて、この手紙をくれたあのひとは笑うかもしれない。

ああ、そうですね。いっそ本当にそうならよかったのに。どれだけだって笑ってくれてよかったの。親の仇であったとしてもなんでも、とにかくそうやって笑ってくれるなら、それで、それだけでよかったのに。

でももうあのひとは笑わないんだ。私の記憶の中でしか、もう、笑ってくれない。

それが悔しくて悔しくてならなくて、より一層細かく切り刻む手に力がこもる。

悲しいんじゃないの。悔しいの。悔しくてたまらなくって、最初で最後のあのひとからの手紙にありったけの八つ当たりをぶつけてるわたしは、きっと喜劇の主人公にふさわしい。

悲劇なんかじゃなくて、これは喜劇だ。コメディじゃなくちゃいけない。滑稽な道化になって記憶の中のあのひとを笑わせることだけが、今のわたしにできることだった。

じょきん! じょきん! じょっっっきん!!

これで最後とばかりに力いっぱいハサミを入れた。


――本当に蟹にでもなる気かい?


記憶の中のあのひとがまた笑った。はい、花先輩。上等です。わたし、このまま蟹にだってなってみせます。そう内心で吐き捨てて、シュレッダーにかけるよりも細かく切り刻んだ、手紙だったもの、をかき集める。

そのまま全部、一文字だって取り落とさずに両手で包み込んで、寮の自室から飛び出して、この華御門女学園のシンボルである時計塔へと向かう。

急ぎ足はすぐに駆け足になって、そのまますぐに全速力になった。何事かとこちらを振り返る先輩後輩同級生の顔も、わたしを諌める先生の声も、ぜんぶ遠い。なにもかもいらない。みんなみんな、どいつもこいつも、花先輩のことをなにひとつ知らなかった奴らなんて大嫌いだ。ああそうだ、そうだよ、わたし、わたしがいちばん、いちばん、だいきらい。

両手で包む手紙だったものにはなんの温度もなくて、なんだか何もかも幻みたい。現実はいつだってわたしに優しくない。そうだ、だからきっとこれはうそだ。信じるもんか。


――――花先輩が、死んだなんて。


金剛院花かづら先輩。こんごういん、はなかづら、せんぱい。

この華御門女学園の、お姫様であり、王子様であったひと。彼女のことを、誰もが敬愛と情景を込めて、そのうつくしい姿の通りに『花』と称えた。

誰よりも美しく先日ご卒業された彼女は、その後すぐに開かれたご婚約披露パーティーの翌日、ご実家が所有されている山の崖から、身を投げたのだと。そういう話がまことしやかにこの閉鎖された学園にも伝わってきた。

そんなまさかと思っていたのに、今日になって届いた彼女からの手紙に、わたしはこんなにも動揺させられている。

花先輩。花先輩。

長く艶めくみどりの黒髪、白磁の肌、けぶるようなまつげ、青みを帯びた切れ長の瞳、すらりと伸びた手足、小さな頭をちょんとしなやかで華奢な身体の上に置いた見事なバランス。挙げればキリがない魅力を併せ持った、本当にとても綺麗なひとだった。

この華御門女学園の創設者の直系であった彼女は、姫君であり、学園中の生徒の憧れの的だった。外の世界を知らない少女達にとって、彼女は王子様でもあったのだ。


――『姫王子』だなんて、皮肉がきいていると思わないかい?


花先輩がそう嗤った意味を、わたしは今もなお知らないままでいる。それがやっぱり悔しくて、こんなにもやるせない。やっぱりわたしは、わたしがいちばん大嫌いだ。

姫王子と名高い麗しの彼女と、勉強しかとりえがないしがない奨学生のわたしが出会ったのは、偶然だった。

良家の素敵な女の子達しかいないこの学園は、私には少しばかり息苦しくて、教室にも図書館にも寮の自室にも居場所を見つけられなかった。だからこっそりと、良家のお上品なお嬢さんだったら絶対に入らない、古びた形ばかりのシンボルの時計塔に忍び込んで、そこで一人で勉強しようとしたのがはじまり。

時計塔の最上階には、もうお姫様が住んでいたのだ。

窓辺に腰掛けて外を眺めるその姿の、なんてうつくしかったことだろう。黒髪が陽の光を透かしてきらめいて、伝統的な制服がまるでドレスみたいに見えた。ラプンツェル、という言葉が頭をよぎったのもそのときだった。塔に閉じこめられた長く美しい髪の女の子。

その“ラプンツェル”が、学園中で話題の『姫王子』と呼ばれ慕われる麗しの金剛院花かづら先輩だと気付くのにも時間がかかった。わたしがめいっぱいの参考書を抱えて立ち竦んでいたら、彼女はまるでチェシャ猫のようにシニカルに「いいよ」と笑ってくれた。


「ここに来る生徒なんて僕くらいだと思っていたのに。きみ、なかなか見どころがあるね」

「ありがとう、ございます……?」

「はは、疑問系か。まあまあ座りたまえ。勉強するんだろう。どうせ暇だし、なんなら解らないところを教えてあげようじゃないか。そのバッジ、奨学生だね? 名前は?」

「え、あ、た、田中、仁子、です」

「たなかにこ。じゃあカニ子だ」

「え」

「よろしくカニ子」


そういう出会いだった。私が参考書とノートに向き合う中で、花先輩は時計塔の古い備品を勝手に使って、わざわざお茶を淹れてくれたり、当初の宣言の通りに私の勉強の面倒を見てくれたりした。

姫王子の気まぐれと呼ぶには、彼女はあまりにもご親切で、同時に意地悪でもあった。だって本当に“お優しく”て、“ご親切”なら、箸にも棒にも引っかからない奨学生のわたしなんかと関わり合いになるはずがなかったから。だれかにばれたら、それだけでわたしは今度こそ本当に華御門女学園から居場所を失う。周囲にそれをたやすくさせてしまうようなお姫様、それが花先輩だった。

けれど彼女の声はあまりにも心地よく、わたしから手放すこともできなくて、ひみつの関係はひそやかに続いた。

逢瀬だなんて呼ぶには大それた、ただの勉強会。

それを繰り返すこと数回、私が彼女のことを“金剛院先輩”ではなく“花先輩”と呼ぶようになるのに、そう時間はかからなかった。

だって花先輩は、自分の名前が嫌いなのだそうだったから。金剛院も、花かづらも、どちらも気に入らないらしい。


「カニ子は変わっているね。きみだけだよ、僕をファーストネームで、しかも愛称で呼ぶなんて。そのありがたみを解っておくれ」

「だって花先輩は苗字も名前もお嫌いなんでしょう。これでも考えたんですよ、わたしも。それにわたしのことカニ子と呼ぶのも花先輩だけなのでおあいこです」

「それはそれはありがたい。まさしく光栄のいたりだな」

「お互いさまです」


田中仁子。わたしの名前。名字がありきたりな“たなか”で、名前をそのまま“にこ”、と読むわたしのことを、花先輩は出会ってこの方“カニ子”と呼び続けた。

カニ、つまりは蟹。一般的に『素敵』だと思われるようなあだ名ではないと思う。正直あんまり好きじゃない。でもいくら言っても花先輩はわたしのことをカニ子と呼ぶから、私も花先輩が嫌いだという“花”という名前で花先輩のことを呼んだ。それが花先輩にはどうにもご不満だったそうだ。

金剛院も花がづらもお嫌いだった彼女は、それでも花のようにやっぱり美しくて、花と呼ぶ以上にふさわしい呼び名はないだろうと勝手に思っていた。

本音三割、冗談三割、嫌がらせ四割だと言ったら、花先輩は「なるほど悪くない」と逆に面白そうに笑ったものだ。


「花、花か。そうか。正しいね。花なんて、綺麗なだけだからなぁ」


紅を塗っているわけでもないのに鮮やかに色付く唇を尖らせる花先輩は、それでもやっぱりしみじみとうつくしかった。この学園で唯一の庶民と言っても過言ではないぼっちの私が、『華御門の姫王子』とこんな風に二人きりで過ごしているなんて知られたらと思うとかえすがえすも繰り返すだけでぞっとする。

けれど頼るアテもツテもないわたしにとって、花先輩が担ってくださる専属家庭教師役はあまりにも魅力的で、メリットとデメリットを天秤にかけたら大きく前者に傾くわけで。だから勉強を見てもらうかわりに、わたしは花先輩のとりとめのない話に付き合い続けた。

――そう、言い訳し続けた。


「とげを持つ花も毒を持つ花もありますよ」

「僕のとげも毒も、結局魅力にしかならないと思わないかい?」

「ああ、そうかもしれませんね」


私が適当に同意を示すと、「そうだろう」ともっともらしく花先輩は頷いた。さらりとこぼれる長い髪がきらきらつやめいて、それだけの仕草だけでもきっと傾国とうたわれるのだろう。

とげを持つ花の代表格は薔薇。毒なら……ええと、鈴蘭とか彼岸花とか、だろうか。どれも綺麗なだけじゃない花だけれど、とげよりも毒よりも、この身を傷付ける痛みよりもその美を独占することを優先したくなるような綺麗な花。

世界はきっと私が思っているよりももっとずっと広くて、探せばもっといろんな花が出てくるに違いない。

でも、その中でも。


「花先輩は……花先輩ですね」

「うん?」

「どんな花が似合うかなって思ったんですけど、たぶんどれもお似合いだろうなって」

「それはどうもありがとう。ちなみにカニ子の好きな花は?」

「食べられる花全般です」

「すばらしい。僕はカニ子に食べられる花になりたいな」

「胃もたれしそうですね」

「ひどいな」


くつくつと喉を鳴らして笑う花先輩は、これまたやっぱりうつくしくて、その笑顔をこんなにも近くで独占できるなんてとんでもなくぜいたくなことなんだろうなぁなんて他人事のように思っていた。質素倹約を旨とするより他はない人生でのはじめてのぜいたくが、姫王子の独占権。これが最初で最後だったらどうしようかな、焼肉の食べ放題くらい行ってみたかったな、とか、そういうとりとめもない夢を見ていた。

わたしとは正反対に、ありとあらゆるぜいたくを許されている花先輩といえば、授業もサボりがちで、暇さえあれば……ううん、暇じゃなくたって、時計塔の最上階で外を眺めているのだという。

お父さんもお母さんもいない私は、この学園の奨学金を必死になって机にしがみついて掴み取って入学した。そして奨学生であり続けるために、今もなおやっぱりいつだって必死になって机にしがみついて、学年五位以内、の中になんとか居場所を見つけてるのに。

花先輩はそんなことをしなくたってたやすく学年一位の座をキープしている。天は二物を与えずと言うけれど、あれはつくづくガセネタだと思う。

かみさまに花先輩は愛されているのだとわたしは信じていた。

その日もしみじみとそう思わずにはいられなかった。


「おやカニ子。なんだいそのプリントの束。それにハサミ? 本当に蟹にでもなる気かい?」

「誰が蟹ですか。次のディベート大会の資料です。一冊ずつ冊子にするように、担当の先生に任され……」

「押し付けられた?」

「……まあ、そうとも言います」


じょきん、とハサミでプリントを切っていく。単純作業は嫌いじゃないけど、こういうあからさまな押し付けは好きじゃない。

私が断れないことを知っていて押し付けてきた先生は、先達て私が授業で板書のミスを指摘したのを根に持ってるに違いなかった。八つ当たり、カッコワルイ。けれど優秀で勤勉な奨学生のわたしは繰り返すが断ることなんてできやしない。それが解っていて押し付けてきたあの先生は、生徒のことをとてもよく理解していらっしゃる。

じょきん、じょきん、と、ハサミを動かしていると、不意に視線を感じた。下を向いていた顔を持ち上げたら、驚くほど近くに花先輩のとても綺麗なお顔があって「ひゃっ!?」と肩を揺らしてしまった。

花先輩は、にんまりと笑った。


「ちょうどいい。そのハサミで僕の髪も切っておくれ」

「は!?」

「長く伸ばしすぎてしまってね。こんな寮暮らしじゃ仕方ないとはいえ……そこでカニ子。きみに任せたい。ここはぜひとも蟹らしくこうハサミでじょっきんと頼むよ」

「は、はい……?」


こちらに背を向ける花先輩。さらりと流れる髪。陽の光を透かすうつくしい流れに、はからずも見惚れた。左手からプリントが滑り落ちて、導かれるようにその髪に触れる。冷たくなめらかな触り心地は、わたしのかすかすの髪と同じものだとは到底思えない。

ラプンツェルの髪もきっとこんなふうにうつくしかったのだろう。塔から流れるこの髪に、王子様も手を伸ばさずにはいられなかったのだろう。きっとラプンツェルを閉じ込めていた魔女だって、本当はこの髪を独占したかっただけなんじゃないだろうか。自分だけのものでなくなってしまったから、魔女は、この髪を、と、そこまで思ってから、はっと息を飲んだ。

右手のハサミも取り落としてしまった。かしゃん。乾いた音がした。


「カニ子?」

「……無理です」

「うん? 僕が言っているのに?」


この僕が、とわざわざ強調する花先輩はやっぱり意地悪だ。肩越しに振り返ってくる彼女の花のようなかんばせに浮かぶ笑みは、わたしのことを確かに馬鹿にしていた。神様に愛された彼女は、傲慢に私を睥睨していた。

どうせきみもほかのやつらとおなじか、と、さも残念そうにその微笑みだけで語られても、反論できない。

だってそうじゃないですか。


「わたしは、魔女でも王子様でもなくて、ただの蟹でしかないんですよ、ラプンツェル」

「……僕がラプンツェル?」

「ご不満ですか?」

「いいや、正しい。カニ子はいつだって正しいね。それに残酷だ」


くふふ、と含み笑いをこぼした花先輩は、そうして立ち上がった。長い髪がわたしの手をすべっていく。

その名残を惜しんでいたら、不意に電子音が鳴り響いた。花先輩のスマートフォンだ。

わたしはそんな高級品なんて持ったことがないけれど、花先輩は当たり前のようにおそらくは最新モデルと思われるそれの画面を手慣れた仕草で白い指先ではじいた。

花先輩のまなじりが、冷ややかにすがめられた。どうかしたのだろうかとその姿を見上げていたら、わたしの視線に気が付いた花先輩は、つまらなそうに肩をすくめた。


「フィアンセ殿からだよ」

「ふぃあんせ」

「そう。フィアンセ、つまりは婚約者殿だ」

「こんやくしゃ」


耳馴染みのないその言葉を、思わず反芻してしまった。そうしてそれを咀嚼し、嚥下して、なるほどと頷く。

見た目も頭も運動神経もピカイチ、ついでにご実家は旧華族の名家の大金持ちの資産家たる金剛院家で、ついでにその一人娘でいらっしゃるという花先輩の、いずれとなりに立つひと。そんな存在が初めから定められていても、何一つ不思議はなかった。


「どんな方なんですか?」


いったいどんな傑物だろう。そのふぃあんせどの、様とやらは。

生半可な男性じゃ花先輩の圧倒的な存在感の前にかすんでしまうに違いない。

だからこそ、興味本位でそう問いかけた。

花先輩は少しも考える様子なく、即答した。


「立派な方だよ」


ひらたい声だった。そこには何の感情もこもっていなくて、なぜだかぎくりとした。

聞かない方がよかったのかもしれないと後悔しても遅くて、居心地の悪さに身動ぐと、花先輩はいたずらげに笑って、スマートフォンの画面を見せてくれた。

そこに映る画像にぱちりと思わず瞬いてしまった。見事な金髪青目のイケメンがそこにいた。


「わあ。王子様みたい」


そう、シンデレラや白雪姫を迎えにきてくれるみたいな、素敵な王子様そのもののイケメンだ。

一目でそうと解る上流階級のお生まれの、外国をホームとすると思われるイケメンが、見事な振袖に身を包んだ花先輩の隣で微笑んでいる。

日本人形のような花先輩と、ビスクドールのようなイケメンは、あつらえたかのようにお似合いだった。

やっぱりお姫様には王子様なんだなぁといっそ感心していると、花先輩は「ははっ!」と破顔した。


「王子様! 王子様か。そうだね。まさに多くがそう呼ぶよ」


そういうお方だよ、と花先輩は笑う。その笑顔に、あ、と思った。

胸に満ちたのは、驚きと安堵。そんな自分に余計に驚いた。


「花先輩は、このひとのことお嫌いなんですね」

「そう見える?」

「はい」

「カニ子はこういうのが好き?」

「いえ、もう少し普通に現実感がある方がいいです」


手堅い職業に就いていてくれて、普通に暮らせるだけのお給料を稼いできてくれたらそれ以上は望まない。あ、ついでにわたしが働くのも認めてくれるならもう言うことはないな。

そう思いながら、その条件を踏まえるに、しみじみとこのイケメンはお断りさせてもらいたいところだとおこがましくも勝手に思っていると、花先輩はきょとんと瞳を瞬かせて、それからお腹を抱えて今までになく爆笑した。びっくりするくらいの笑いっぷりだ。


「ははははははっ! いいな、それ。僕も次に彼に聞かれたら、そう答えようかな。ああ、楽しみだ。どんな顔をしてくださるだろうか」


げらげらと笑いながらもそれでも上品な花先輩の笑顔に、なんだ、と落胆する私がいた。花先輩は婚約者さんのことを嫌っていながら、その仲は悪くないんだ。

ラプンツェルのことをまた思い出す。この時計塔という塔から彼女のことをさらってくれるのは、きっとこのふぃあんせどの、様なんだろう。そうしてちゃんとハッピーエンドになれるのだろう。

そんな予感がして、なんだかやたらと安堵して、それから少し、自分でもよく解らないスプーンひと匙ほどのさびしさも覚えた。我ながら勝手なものだ。

でも、花先輩は、元より生きる世界が違う人だ。いつかお互いのことを思い出として昇華するのだろう。こんなさびしさなんて、今だけのものだ。

ううん、そもそももしかしなくたって、わたしは花先輩にとっては思い出にすらならない、なれないのかもしれない。このうつくしいひとの記憶にかすめることなんて、そんな真似がどうしてわたしに叶うだろう。さびしいと思う真似すら、わたしの身に余る。

あーあ、やだな。やだやだ。やだなぁ。

そう花先輩を見上げていたら、ふと彼女のかんばせから笑みが消えた。

ぞっとするほどうつくしい、人外じみた美貌に息を飲めば、彼女はそのまま身を屈めてくる。

さらり。長い髪が、わたしのほおを撫でて、それから、花先輩は花びらのような唇を震わせる。


「カニ子。僕はきみが大嫌いだ」


しじまを震わせる鈴を転がすような声音に、どうしようもなく安堵した。


「そうですか」

「それだけかい?」

「そうですね。納得しました」

「そうか」

「はい」

「じゃあさよならだ」

「はい」


それっきりだった。花先輩はわたしを置き去りにして、時計塔を後にした。残されたわたしは、ぼんやりとそこに座り込んだままでいた。


――キス、されるかと、思った、なんて。


ばかみたい、と、自分を笑ったその夜。わたしは寮の自室で、夢を見た。

夢の中で、わたしは蟹だった。

見上げる先にはあの時計塔があって、最上階の窓辺に花先輩が腰掛けていた。花先輩はラプンツェルなのだ。彼女のいつもよりももっとずっと、地面に届くくらいまで伸ばされた長い髪がこちらへと垂らされているのに、わたしの両手はハサミで、横歩きしかできないから、どうあってもラプンツェルのもとに辿り着けないし、辿り着いたとしても彼女の髪を掴んで時計台をよじ登ることもできない。わたしのハサミはラプンツェルに届かない。

だからその代わりに、ラプンツェルの左手の小指に結ばれた、どこかへと伸びる綺麗な赤い糸が目の前を走っていたから、それを、ぷつんと自らの手のハサミで断ち切った。

そういう、夢だった。

それっきりだ。

わたしは時計塔に行かなくなって、たぶん花先輩もそうだった。

そのまま季節はめぐり、花先輩は卒業した。在校生からの送辞に対して、卒業生を代表して答辞を口にする花先輩の姿は誰よりもうつくしくて、誰もがその姿に見惚れた。わたしもきっとそうだった。ただそのわたしのまなざしには、恨めしさもまた込められていたに違いなかったから、卒業式というおめでたい日にはふさわしくなかったのだと思う。

花先輩の元に集う人々を見ないふりして、花先輩を見ないふりして、わたしは日常を取り戻した。そのはず、だった。


――――――――――それなのに。


進級直前に届けられた手紙に、わたしは、わたしは。

足を急がせ、階段を駆け上り、そうして時計塔の最上階に辿り着いた。その勢いのままに、手の中に閉じ込めていた、切り刻んだ手紙を、窓から身を乗り出して思い切りぶちまけた。

まるで花が散るみたいに、手紙だったものは散って、風にさらわれて、あっという間に何もかもなくなってしまう。

手紙が、手紙だったものが、花びらみたいに、ぜんぶ、ぜんぶ。


「っあ、あ、ああ」


いかないで。いかないで。手を伸ばしてももう一文字だってこの手には残らない。自分でやっておきながら、ばかみたい。

ああ、馬鹿だ。馬鹿だった。わたしは。そしてきっと、花先輩は。

お互いに何も知ろうとしないままだった、わたし達は。


――拝啓、田中仁子様

――わたくし、金剛院花かづらは

――あなたさまを、お慕いしておりました


「――――ッ!」


手紙に記されていたその言葉に、衝動が。嗚咽が。感情が。何もかもが濁流のように押し寄せてきて、煮詰めたジャムみたいにぐちゃぐちゃになって、立っていられなくなる。

何一つ言葉にならないかわりに、涙がぼろぼろぼろぼろ、馬鹿みたいにこぼれた。

座り込んで泣きじゃくるわたしのことを誰もなぐさめてくれない。だってこの時計塔に入れるのは私と花先輩だけだった。その花先輩はもういない。どこにも。どこを探しても。

そう思ったらもうどうしようもなくなってしまって、ただただ泣きじゃくることしかできなくなる。


――花先輩。


花先輩。花先輩。待って。いかないで。おいていかないで。

わたし、わたし、まだ何も伝えてない。勝手に何もかも言い残していかないでよ。わたしまだ何も言ってないじゃないですか。

ねえ、はなせんぱい、はなせんぱい。

わたし、わたし。


「す、き」


たった二文字だ。それから、わたしもです、って。わたしも、あなたがすきですって。そうやって続けるだけだったのに。どんな数式よりもどんな英文よりも簡単な一言だったのに。

それなのにどうしてわたしは何も伝えられていないの。伝えられなかったの。ああそう、そうだよ、わたし、まだ、なにも、なんにも、伝えられてない。

ひどい、ひどいです花先輩。

あなたのおっしゃった“大嫌い”が、本当は“あいしてる”だったってこと、知ってました。知らないふりを、していました。気付かないふりを、していました。だって住む世界が違っていたから。ラプンツェルと蟹じゃあ、同じ世界には住めないでしょう。ハッピーエンドなんて迎えられないでしょう。

でも、でも、本当に住む世界が変わってしまう前に、わたし、わたし、あなたに。


「はな、せんぱ、い」


あなたのことがすきです。今もなお。そして、これからも、きっと、ずっと。

でももう伝えられないんだと思ったら悔しくて悔しくて、もう呼吸すらできなくなる。

ぐっちゃぐちゃに泣きじゃくり続けて、どれくらい経っただろう。

もう行かなくちゃいけない。立たなくちゃいけない。でも、まだ諦められないわたしは、やっぱり前に進めない、横歩きしかできない蟹なんだ。

そうやって、袖口で顔を一生懸命ぬぐっていた、そのときだった。


「おや、カニ子。こんなところで何をしているんだい?」

「……へ?」


鈴を転がすような声に、ぽかんとした。顔を持ち上げたその先にある、黒いロングコートにびっくりする。

だれ、と思う間もなく、私の口は、そのひとの名前を呼んでいた。


「はな、せんぱい」

「ああ、カニ子」


ご実家で自ら命を絶ったはずの花先輩が、そこにいた。当たり前みたいに、花みたいにうつくしく笑って、そこに。呆然と見上げる私に、その笑顔に照れ臭さを織り交ぜた彼女は、そのまま私の目の前にしゃがみこむ。

その手が、わたしの濡れたほおを撫でていった。

冷たい手だ。けれど確かなぬくもりがある。

唇が、わなないた。


「その髪」


こぼれ落ちたのはそんな言葉だった。

長く伸ばされていたはずの髪が、ばっさりと、肩よりも上の位置で切られている。あんなにも綺麗だった黒髪が。

どうして、と声なく問いかけると、花先輩はやっぱり照れ臭そうに笑うのだ。


「置いてきた。僕の……私の、過去と一緒に」


それはどういう意味だろう。愚問だと解っていたから、もう問いかけることはできなかった。わたしのほおを撫でて、わたしの涙で濡れた指先をちろりと舐めた花先輩のかんばせから笑みが消える。

真剣なまなざし。白磁の肌に朱がさした。まるで花が色付くみたいだった。


「ねえカニ子。きみのハサミが、私の髪を切ったんだよ」


ひどい言いがかりだ。反論したくしても言葉にならない。だってその言葉は、あまりにもわたしにとって都合がいいから。

わたし、夢でも見てるのかな。そうじゃなかったら、花先輩の幽霊でも見てるのかな。死んでもなお、会いにきてくれたって、うぬぼれても、いいのかな。

ねえ花先輩。あなた、本当に、わたしの目の前にいるんですか。

そう問いかけるかわりに、手を伸ばす。花先輩のまなじりから伝う涙は、やけどしそうなくらいに熱かった。


「カニ子。私と、生きてくれる?」


愛してるから、と、言い訳のようにそう言われたから、わたしはもう笑うしかなかった。だってもうこうなったら、見ないふりも気付かないふりもできやしないじゃない。しかたのないひとだなぁ、と笑うしかないじゃない。


「はい、花さん。わたしもだいすきです」


よろしくお願いします、と右手を差し出すと、金剛院花かづら先輩だったひとはくしゃりと顔をゆがめた。

ぎゅうとわたしの手を両手で握り締めて、ぼろぼろ泣きながら笑った。

笑って、くれた。


「私はもう、この手を放してはあげられないよ」

「こんな蟹のハサミでよければ、喜んで」


うつくしい花が、不器用なハサミで、ぱちん! と切り落とされる音が聞こえる。花はやっぱりうつくしく微笑みながら、その蜜のような涙をしたたらせて、私の前に落ちてきた。

そうして、かつてラプンツェルだったうつくしいひとの赤い糸を、私は自分の左手の小指の赤い糸と結び直したのである。

なるほど、蟹も悪くないなぁ。なーんて、私も泣きながら笑ったのだった。

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