85話 恋人の『愛してる』
「レヴェイユをどこにやった? 三秒以内に言え。でなければ潰す」
吹っ飛んだエタンスに冷たい視線を向けて、クロルは言い放つ。彼は怒ってはいたが、まだ冷静ではあった。盗賊クロルとして、優しく語りかけていたのだから。彼女がソワールでなければ、こんな優しい言い方はしていなかった。
「待て、話を聞け!」
「三秒」
実際には二秒。エタンスの眼球めがけて蹴りを入れようとしたところで、「三階スタッフルーム!」と彼は叫んだ。
「トリ。こいつをよろしく。三階集合」
クロルは、全速力で三階に向かった。
◇◇◇
さて、時は遡る。クロルたちがスタッフルームに入室し、レヴェイユが一人になった後の話だ。
レヴェイユは、ぼんやりと座っていた。
グランドが監視しているかもしれない状況だ。彼女は悪党からの視線を感じ取るスキルはないので、唯一の対策は、常に気を抜かないようにすることのみ。だから、常にぼんやりしているのだ。
そうしていると、ほわわんと思い出す。羽根が生えそうな背中を、必死に真っ直ぐに保つ。
―― 好き
こうして何度も、真夜中の彼を思い出してしまう。
例えて言うのなら、彼女のこめかみあたりに小さなクロルが住んでいて、レヴェイユがぼんやりし出すと、すぐにひょこっと顔を出すのだ。これが恋だ。
―― だめ。好き。あぁ、もう、だめ。クロル大好き~! 一生、ここにいたい。サブリエの住処を終の棲家にしたい~
脳みそから花が生えていた。
―― 今のうちに懐中時計を盗んで捨てちゃおうかしら? そしたら、一生任務が続くのでは!?
咲き乱れる脳内花畑。にょきにょきと生い茂るものだから、視界不良で未来が見えていない。あと、心根が悪すぎて引く。
いかに任務を長引かせるか。そんなことを考えはじめる、浮かれソワール。そんな彼女に突きつけられたのは、現実ではなく冷たいナイフだった。
「伯爵家のお嬢ちゃん。声を出さずに付いて来い」
「え?」
突然、背後に現れた盗賊は、二人組の男だった。ナイフは彼女の背中に一つ。首筋に一つ。戦えば倒せるだろう。逃げ切ることなんてカンタンだ。
―― でも、伯爵令嬢なのよね。どうしようかなぁ……
ナイフを突きつけられているというのに、ぼんやりと考え出すレヴェイユ。タレ目もタレたまま。幸運なことに、『恐怖で声も出せない、か弱いご令嬢』に見えなくもなかった。
壁の向こうで見ている赤い瞳にも、そう映ったことだろう。
「よし、そのまま付いて来い」
「え? あ、はい」
『クロルのために頑張らないと~』と、彼らに付いていった。
とことこ歩いて、三階のスタッフルームに到着。ドアに鍵をかけられる。
でも、鍵なんてその気になれば秒で開けられるレヴェイユだ。ソファに座って、盗賊の二人組を観察する。黒髪と茶髪だ。目を細めてじーっと見てみるが、どう見ても初めましての人物だった。
「怖がって一言もしゃべんねーじゃん!」
「泣きそうになっちゃって。しばらくオレらに付き合ってよ」
「え? あ、はい」
レヴェイユは学んだ。話さずに目を細めていると、怖がって泣きそうな娘に見えるのだと。それならばと、彼女は目を細めた。よし、いい感じに取り繕えている。
―― あ、そうそう。ご令嬢は泣くのよね~。泣いてみようかしら
イイ子の子爵令嬢が『母の形見がどったらこったら』と泣いていたことを思い出したのだ。もうすでに『どったらこったら』という省略のされ方をするくらいには、記憶がなかった。
「……ぐすん」
「本当に泣いちゃってんじゃん」
「まだ何もしてないのに? か弱っ!」
よしよし、いい感じだぞ。
しかし、めそめそと泣いている様が、何というか……そそられたのだろう。茶髪の盗賊が「へー?」と、のぞき込んできた。
泣き顔に興奮するなんて、とんだ変態ドS野郎だ。最低な男じゃないか。おっと、クロルの話じゃない。茶髪の盗賊の話……あぁ、まぎらわしいな。全く、どいつもこいつもド変態だ。
「……なぁ、多少なら怖がらせてもいいんだよな?」
「あー、そういう話だったような」
すると、茶髪男はナイフを振りかざす。ソファの上に美しく広がるスカートに向かって、それを突き刺した。ナイフはスカートを貫通し、ソファに真っ直ぐ刺さる。怪我こそないものの、その十センチ横には彼女の足があるのだ。なんという暴挙。
レヴェイユは微動だにできなかった。いや、微動だにしなかった。
―― あぁ、穴が開いちゃった。また新しい服を購入申請しないと~
そして、ぼんやりと服のことを考え始めた……ふぅ、ぼんやり。
なんてこった。こんな残念なことがあるだろうか。普通なら緊迫感のある場面だろうに、そうはならない。残念すぎる。甘い場面は甘くならず、辛い場面は辛味が足りない!
だって、仕方がない。彼女からすれば、こんな茶髪男など道端の石ころだ。
恥を知ってひれ伏せぃ! 目の前にいるのは一世を風靡した、あの大犯罪者。最低最悪の悪女と名高い、女泥棒ソワールだぞ!? 重ねてきた罪の質も量も、悪党としての器も、彼女の圧勝。この部屋の中で悪党トーナメントを開いたならば、ぶっちぎりで優勝だ。これがヒロインだ。
そんなことを知らない茶髪男は、ニタニタと楽しそうに話しかけてくる。
「ビビって声も出せないか?」
―― ビビットカラーのワンピース? 斬新なアイディアね
「へぇ、スタイルいいじゃん。これ、破いちゃおうかなー。ほーらビリビリ」
―― 最近運動不足だから、サイズ測り直そうかなぁ
「……おい、さっきから無反応だけど?」
「え? あ、はい。キャア! ヤメテクダサイ!」
叫び声に抑揚がなさすぎるが、どうにか誤魔化せるだろう。全く危ないところだった。ぼんやりしている場合じゃない。
―― あら? なんかスースーする
いや、本当にぼんやりしている場合じゃなかった。ふと下を見たら、とんでもない状態になっていた。
スカートが破かれて、丸出しだった。
「きゃっ!」
慌てて隠そうとするも、その手を茶髪男が押さえ込む。両手を組み敷かれ、レヴェイユは丸出し状態でソファに転がされた。
―― はずかしい! パンツ丸見え~!
恥ずかしいとかそういうことじゃない。もっとヤバい。
「お? おっとり顔に似合わず、結構きわどいな」
そうなのだ。ランジェリーショップ店長の……マミちゃんだっけ? とにかく、なんかそんな感じの子の助言を信じて、相変わらずきわどいまま生きていたのだ。マミちゃんの呪文、『これを見せればイチコロよ』。何度見せてもノーコロリ。
「……ギャップがいい」
「え!?」
思わぬ展開。茶髪男がコロリしちゃったんですけど。マミちゃんの罪は重い。
クロルも、早いとこ芋っぽいやつを買い与えておけば良かったのに。さては、こっそり楽しみにしていたんじゃないか? これだから男ってやつは!
レヴェイユはいつになく焦った。悪意には慣れている彼女だが、こういうエロスな悪意を向けられるのは初めてだったのだ。
―― うそ、やだ。触ってくるの!? え、やだやだ!
脚を這ってくる、汚い手。ゾワゾワと気色悪さが追従する。思わず蹴り飛ばそうと脚に力が入ったが、そこで思いとどまる。
―― グランドが見てるかも
ここで蹴り飛ばしたらどうなるのだろうか。スーパー脚力だ、ただの伯爵令嬢でないことは自明の理。芋づる式に、その事実にたどり着くだろう。
―― そしたら、任務がダメになる……?
そう思ったら、脚は力なくソファにだらりと落ちた。強く蹴り上げることなど出来なかった。
それでも小さく抵抗をしようと、手に力を入れた。ダメだ、ぶっ飛ばしそうだ。力加減がわからない。剛腕だ。
それなら、大声で叫ぶべき? 噛みつくのは? にらむのはセーフ? 嘘をついて切り抜けるのは? 脅してやめさせるのは? この茶髪男にクロルを重ねて、黙って耐えればいいの?
何が良くて何がダメなのか、全くわからなかった。間違えたらアウト。クロルに迷惑をかける。指先ひとつ動かせなかった。
気色悪さと共に、のどに後悔がにじむ。ぽろぽろと涙がこぼれた。気色悪くて泣いてるんじゃない。殴り飛ばせないことが悔しいんじゃない。
―― あぁ、私って……どこまでいっても、こうなのね
こんなときだからこそ、化けの皮が剥がされたのだ。
なんで、普通の娘なら考えつかないことを考えてしまうのだろう。任務だとか騎士だとか、正義ぶって頑張ってみたけれど、心根はずっと変わらない。
本音を言う。『今すぐ蹴り上げて、その汚い手をズタズタに切り裂いてやる。そして、二度とこんなことをしないように、大切なものを全部、この先ずっと奪い続けてあげるから覚悟して』
でも、そんなことをしたら、もう二度とクロルの前には立てない。嫌われちゃうとかそういうことじゃない。彼を裏切るということだ。
あの日、心臓に手を当てて誓いを立てたときから、レヴェイユは彼のために生きている。彼を裏切るくらいなら、何だって我慢する。
ぎゅっと目を閉じてクロルを思い浮かべた。自分の狂気を抑え込むために、少しでも不快感を拭うために、彼にすがりついた。
犯罪者が大嫌いで、悪女に罰を下すのが大好きで、視線も態度も冷凍庫。辛辣な言葉を選んで傷つけては、楽しそうに泣き黒子を上げて笑う。……並べてみると悪い男だけど、それでもキュンとする。
善良な宿屋の娘・レヴェイユだったときとは全然違う。優しくて、いつも甘い声でレーヴェと呼んでくれた。触れる手は『君が大切だよ』と伝えてくれていたのに。あのときの彼の手は温かくて、やわらかくて……。
そこで、ふと気付く。
―― ……違う、そうじゃない。ずっと変わらないじゃない
レヴェイユは思い出した。頭を撫でる手。教会でかばってくれた彼の背中。涙を拭いてくれた袖。真夜中の彼。橋でのキス。
その温度はどれも温かくて、全部何も変わらない。『君が大切だよ』と、いつだって彼は伝えてくれていたじゃないか。
―― こういうの、クロルはどう思うのかな。『よくやった』って、笑って誉めてくれるのかな
こんな心ごと引きちぎられるような耐え難い我慢を、彼は喜んでくれるだろうか。
すると、いつもレヴェイユのこめかみ辺りに住んでいる小さなクロルが、ぴょこっと顔を出す。彼女の中にいる彼は、泣き黒子をぎゅんぎゅんに下げていた。
―― ……うん。クロルは喜ばないよね
その瞬間、レヴェイユはわかってしまった。ここで抵抗しないことは、大義からすれば正しいことかもしれない。正義の騎士ならそうすべきだ。きっと、彼女がしてきた罪からすれば、これくらいは受け入れるべきだろう。もし上手くいけば、カドラン伯爵も国民もみんな誉めてくれる。
でも、クロルは絶対に喜ばない。よくやったなんて誉めてはくれない。なんで蹴り上げなかったんだと、怒ってくれるはずだ。
初めて会った、春の日差しが降り注ぐ路地裏で。赤色と茶色が混じり合うレンガの上に寝転んで、レヴェイユを受け止めてくれた彼。
この宿屋の、夏の太陽が差し込む暑い窓辺で。赤色と茶色の髪を軽く触れ合わせながら、『絶対に一人になるな』とささやいてくれた彼。
彼は、いつもどんなときも大切にしてくれた。視線は冷たくて、言葉は棘ばかりで、『君が大切だよ』なんて甘い言葉を聞いたことはないけれど、レヴェイユはそれを分かってしまった。
―― なんだ。じゃあ、こんなこと頑張っても意味はない。全部どうでもいいじゃない
瞬間、彼女は喉に詰まった重い後悔を飲み込んだ。それを丸ごとお腹の中にしまい込んで、ごっくんと消化したのだ。
善悪の概念ってなんかの役に立つの? 分からないことを後悔する価値ってなに?
過去を悔いて、自分の生き方をねじ曲げて生きていく未来で、得られるものは何だろうか。正しく生きてきた彼の背中を腰巾着みたいに追いかけて、彼に何を渡してあげられるというのか。
後悔したってもう遅い。どうせ間違ってきた人生だ。間違ってきたことすら活かして、這い上がって、彼をぶち抜くしかないじゃないか。
悪女上等。善悪の概念なんて、どうでもいい。改心なんて出来もしないものにしがみつくな。どうせそんなの一生分からない、そんなの知らなくたっていい。
だって、レヴェイユは知っている。
クロルが嫌がることも喜ぶことも、全部知っている。だったら、神よりも美しい彼を道しるべにして、正しいフリして生きていけばいい。
レヴェイユは、後悔を飲み込んで無い物ねだりをやめた。善いも悪いもバッサリと捨て去り、クロル・ロージュだけを選び取ったのだ。
大きく息を吸って、肺に空気を満たす。反撃開始だ。
「その汚い手で、私に触れないでくださる?」
「あ?」
「よろしくて? 私は伯爵家の娘。貴方の顔は鮮明に覚えましたわ。お父様に言って、この宿屋を焼け野原にすることもできますのよ?」
脅し上等。嘘をついて何が悪い? クロルなら、絶対ほめてくれる。
「私はクロル様だけのもの。あなたごときが触れて良い存在ではございませんの」
足を動かせばスカートの切れ端も動いた。もう少し足を伸ばせば、ひんやりとした感触。あらまぁ、こんなところにナイフがあるじゃない。
レヴェイユは四方からの死角になることを確認し、軽く抵抗するフリをしながら、ナイフを器用に蹴り上げた。それは打ち上げ花火のように、天井高くまで飛んでいく。
「あらまあ、大変」
「は?」
次の瞬間、ヒュッと音を立てて空からナイフが降ってきた。それは男の頬をかすめて、ソファに突き刺さる。そこにはちょうど赤い髪が広がっていて、それが切られてハラハラと舞った。
汚い手を振りほどき、男の耳元でささやく。小さな、小さな声。壁の向こうには聞こえないくらい。でも、とびきりの狂気を添えて。
「ナイフ使うの久しぶりだから、鈍っちゃったみたい。次は、外さないわ。後頭部に突き刺す」
「お前……!?」
そこで、タイミングばっちり。怒りを含んだ、けたたましい音を立てて、ドアが蹴破られた。
「レヴェイユ!」
クロルは厚手のドアなど何のその。まさにドアを足蹴にしてスタッフルームに入った。
まず一番に見えたのは、苺色の頭。次に視線がいったのは、床に落ちている布の切れ端。そして、ソファの上には茶髪の男がいて、その下で組み敷かれているきわどいのが丸出し状態の彼女。ナイフで切られた彼女の苺髪が、白いソファに散らばっていた。
彼女はホッとした様子で起き上がろうとしていた。でも、スカートの端がどこかに引っかかっていたのだろう。無理に引っ張られ、それが千切れて『ブチっ』と響いた。
クロルはジャケットを脱いで、それをレヴェイユにかけてあげる。『どえらい美形だ』と放心している茶髪男の肩をポンと一回だけ叩き、無言で殴り飛ばした。
そりゃあもう殴った。ぼっこぼこだ。茶髪男は向こう三か月はまともに喋れないし、腕も動かせないだろう。証拠隠滅。美の神から、罰が下されたということだ。
途中、エタンスを引きずりながら現れたトリズに、「クロルさん、オレにもやらせてくださいよ~」とやんわり止められて、ようやく殴る気が失せた。
ズレた眼鏡をかけ直したエタンスは顔面蒼白。
「クロル! すまなかった!」
「……エタンス」
「伯爵令嬢が信頼に足る人物かどうか、テストをしただけなんだ」
「いい加減にしろよ。信頼に足る、信頼に足る……ってさ。信頼できねーのはそっちじゃん」
クロルはエタンスの方を向いてはいたけれど、彼を見てはいなかった。壁の向こう側にあるだろう、赤い瞳を見ていた。
「俺らは遊びで恋人ごっこしてるわけじゃない。立場なんて関係ない。俺が、どれだけ……大切にしてると……思ってんだよ」
その声は、少し震えていた。
「クロル、すまない。事前に聞いていたら、こんなことには……」
「もういい。これだけは言っておく」
クロルは、ソファに突き刺さったままのナイフを引き抜いた。
「俺はレヴェイユを本気で愛してる。次に手を出したら、二人とも迷わず殺す」
そのナイフを壁に向かって投げつける。それは吸い込まれるように壁に突き刺さり、十五センチほどの刃渡りは簡素な壁に全て埋まっていた。
「薄い壁はもうウンザリ。ここを引き払う。トリ、レヴェイユ、行くぞ」
「ま、待て! クロル、報酬はいくらでも出す。他に要求があるなら、それも便宜をはかる。どうか依頼は引き受けてほしい」
クロルは分かっていた。疑り深いグランドが信頼してしまう犯罪者とは、どういう人物なのかを。何故わかるかといえば、身をもって知っているからだ。
到底及ばない高いスキルがあって、悪びれずに悪いことができて、そのくせ交わした約束を守る人間。そして、決定打は弱みがあって正直者であること。
クロルは本気で潜入をしている。もう弱みは見せた。だから、最後は正直に答える。
「……俺らとお前らは、対等な関係だ。ここからは、勝っても負けても恨みっこなし。本当に俺たちを信頼できるなら、苔色ポストに手紙を入れといて。出来ないなら、ここで終わり。世話になった」




