83話 特殊任務、その声を出せ
食事を終えて宿に戻ると、夜も遅い時間。レヴェイユは、クロルと二〇一号室に入る。ドアを閉めれば、二人きり。
「レヴェイユ、先に風呂入ってきなよ」
「ありがとうございます」
ちゃぽん。湯船に浸かりながら、レヴェイユはどうしようもない感情を持て余していた。
ぼんやりゆるゆるな彼女ではあるが、自分の中の変化にまで無頓着ではいられなかった。その変化に気付いてしまったのだ。
「はぁ、むかむかする~」
クロルはモテる。道を歩けば、女の子はみんなクロルを見ているし、カフェにいたって、レストランにいたって、乙女たちの視線は彼が総取りだ。レヴェイユが隣にいたところで、お構いなし。誰もが彼を奪おうとする。
そう、『奪われる』だなんて、そんな感情が芽生えていることに気付いたのだ。
少し前までは、やきもちを妬いたところで泣いたりしょんぼりするのが、レヴェイユ・レインという娘だった。彼に嫌われている自分。どうすれば彼に近づけるのか、泣きながら考えていただけだ。
それが、先ほどの食堂での一件。あの盗賊団サブリエの女がクロルに粉をかけてきた瞬間、レヴェイユは胸のあたりから沸き上がる黒い感情を知った。あれは怒りだ。もうむかむかが止まらない。食事をしても満たされない、お風呂に入っても流されない。初めての感情だった。
―― こんなのだめ。クロルは、私のものじゃない……
現実を見てみれば、彼は誰のものでもない。
こんな感情が芽生えたのは、きっと恋人のフリなんてしているからだ。本音と演技がごちゃ混ぜになって、脳がひどく混乱する。彼の仕草も、言葉も、行動も、その全ては演技なのに、それが本音だと錯覚したくなる。
だって、彼の触れる手がひどく優しい。錯覚しても仕方ないじゃない。中毒性のある、甘い錯覚だ。
―― ちゃんと仕事をしないと。むかむかする気持ちは捨てて、ちゃんとやらないと!
レヴェイユは、頭から水を浴びた。このやるせない気持ちと持て余した感情を、全てキレイに洗い流すのだ。
◇◇◇
「お先に頂きました。クロル様も、どうぞごゆっくり」
「ありがと」
ちゃぽん。湯船に浸かりながら、クロルはどうしようもない感情を持て余していた。
そう、レヴェイユに耳打ちしながら伝えた『ピーー』の件だ。彼女とは違って、切なくもへったくれもなくて申し訳ないが、彼はそんなことを考えていた。
クロルは決めている。最後まではしない。絶対にしない。……まぁしたいかしたくないかで言えば、クロルだって男だし? 『教えてね?』なんて言われたら『お任せ下さい』の一択だ……なんてことは、断じて思っていない。彼女との関係を深めるつもりはないからだ。
もっと言えば、出来ることならヤってるフリだって避けたい。が、避けようもない。フリが必要な事態は、ある日突然やってくるのだ。ドアの向こう側に誰かが立った瞬間に、突然。
クロルは分かっていた。グランドなら必ず確認させるはずだ。盗賊クロルが伯爵令嬢の手綱を、どれだけしっかりと握っているのかを。ぎゅうぎゅうに握っているところを見せつければ、盗賊クロルの評価は爆発的に高くなる。やるしかないのだ。
しかし、彼女といったら『なんもわかってねぇな』感がすごい。『はい、アクション!』と言ったら、彼女は対処できるだろうか。即答しよう、そりゃ無理だ。困ったぞ、ちゃぷん。
……え? レヴェイユの抱える切ない感情と全然違うじゃないかって? なるほど、あっちは『むかむかする』という話で、こっちは『むらむらする』という話なんじゃないかって? 切なくも何ともないじゃないかって?
勘違いしないで頂きたい。彼がどれだけ切ない思いをして、今、この湯船に浸かっているのかを考えてほしい。湯桶からしたたり落ちる、ぴちゃんぴちゃん……という水の音を、彼がどんな気持ちで聞いているのか、少しでもいいから想像してみてほしい。
そもそも、彼と彼女では立場が大きく異なる。同じ湯船に浸かっていても、考えることに差が出るのは当然なのだ。
なぜ差が出るのか、とても傲慢な言い方をしよう。彼は彼女のものではないが、彼女は彼のものになってしまったからだ。
それは、この先ずっと変わらない。例えば、レヴェイユが他の男と恋仲になろうが、結婚しようが、そんなことは関係ない。彼女が余所見したって、他の男にドキドキしたって、そんなの無意味だ。
だって、一瞬で奪い返せるから。
これは美形だからとか、そういうことではない。レヴェイユの心の中に、クロル専用の場所が出来てしまったということだ。イス取りゲームではない、クロルだけが鍵を持つ心の部屋だ。
レヴェイユはその事実をまだ理解していないが、クロル・ロージュという男は深く理解している。だから、差が生まれる。
―― ちゃんと仕事をしないとな
クロルは、頭までザブンと湯船に浸かった。このやるせない気持ちと持て余した感情を、潜って深くまで沈めるのだ。
仕事の時間だ。
髪を乾かして、寝る支度を整えた。彼女は従順だから、厚手のパジャマを着ていた。色気もへったくれもないやつ。
ドアの外に誰もいないことを確認して、彼女をベッドに連れて行く。ベッドを共にするのは、あの初デート以来だ。
ふかふかのベッド。肌触りの良い真っ白なシーツ。クロルは美しい唇を動かして、彼女にささやいた。
「あえぎ声を出せ」
なんてこった。『金を出せ』みたいな低ーく冷たーい声のトーンで言われましても。新しいスタイルの強盗だろうか。
「あ、あえ?」
「あーんとかやーんとか。あの耳障りなやつ」
耳障りとか言うでない。
「え、えっと?」
「お前、そこから知識ねぇの? ……さてはブロンのブロックがあったな? ったく、過保護すぎだろ」
「ブロンブロック?」
ブロンブロック、やたら語感が良い。大方、ブロンがそういう方面の情報を、可能な限りシャットアウトしていたのだろう。彼女の正体がソワールであることを考慮すれば、そういう欲を知らずに生きてもらった方がリスクが少なくて済む。
「そんなんでよくハニトラ志願したり、俺に『えっちなことするの?』とか言えたな」
「詳細を知らないだけで、概要は知ってるもん。……その、声ってなぁに?」
クロルは詳細を教えてあげる。かくかくしかじか。
「な、なるほど。女性は声を出す作法があるのね」
「声を出してるのか出るのか、俺は知らねぇけど。ともかく練習しておかないと、フリするときにやばいだろ? とりあえずテキトーに言ってみろ。はい、アクション」
荒い、荒すぎる。『俺に任せておけ』とか格好良いこと言ってなかったっけ? 気のせいだろう。
ベッドの上でなら甘い雰囲気になると思ったら大間違いだ。彼と彼女は仕事中なのだ。
レヴェイユもそれは分かっていた。今となってはクロルにだけ従順で、クロルのために仕事熱心になった泥棒だ。よしと気合いを入れるように拳をにぎり、「それでは、コホン」と言ってから口を開いた。
ノーメイクなのに、唇はつやつやの苺色だった。
「アーン、ヤーン」
なんかの呪文かな。
どうしようもない声が、どうしようもない感情と共に、やわらかいベッドの上を通過していった。
クロルは無言で立ち上がり、もう一度ドアの向こう側に誰もいないことを確認する。誰もいなかった、助かった。
「バカ、下手くそすぎだろ!」
「ぇえ? そんなに下手?」
「ド下手だ。そして、厳密に言えば、この場合に下手だと思われるのは俺の方だ。まじで勘弁して」
「?」
大問題だ。クロル・ロージュの名に傷がつく。
「練習あるのみ。もう少し甲高い感じで」
「ァーン」
「違う。吐息交じりに」
「ャーぁン」
「もっと色気を出せ」
「ァアーン」
「違う。遠吠えかよ」
「うぅ、負け犬だアーン」
「まじでやべぇな」
想定よりもド下手だった。しかし、相手は汚れきった犯罪者とは言え、清らかな生娘。青き正義の騎士とは言え、汚れきったプロクズとは違うのだ。
で、汚れきったプロのクズはスパのルタだった。
「仕方ねぇな。自分で触ってみろ」
「え?」
「だから、こことかそことか触って気持ち良くなればいいじゃん。見ないでやるからさっさとやれ」
「ぇえ……?」
「つべこべ言わずに、さっさとやれ」
「ハイ、ヤリマス(怖)」
ベッドの上、甘いどころかもはや恐怖。
「あ、クロル先生。その前に質問たいむ~」
「お、前向きだな。許可する」
「どれくらいの時間、声を出してればいいのかしら?」
「……お前、えげつない質問するね」
「?」
クロルは迷った。このド素人の女に負担をかけるべきか、プライドを守るべきか。
「ドアの外だもんなぁ……じゅ、待て。ご……いや、さ、さん……あー……さ、三分間でいい」
「はぁい、三分間ね。それなら何とかなるかも~」
「本当に何とかしてくれ」
クロルは削った。時間も誇りもゴリゴリに削った。彼の男気に拍手。
「コホン。じゃあ後ろ向いてるから。三分な。はい、アクション」
スパルタが過ぎる。クロルにそっぽを向かれてしまい、レヴェイユは放置された。さすが放置プレイの権化……いや、仕事中だった。
優秀な犯罪者は、すべからく熱心で努力家だ。天才盗人のレヴェイユも、ご多分にもれず明後日の方向に努力家で熱心だった。なんだかよく分からないけど、なんとなーく触ってみる。布ずれの音がやたら響いて、ものすっごい恥ずかしかった。でも頑張った。
そして、いざ。口を開く。
「あーん、やーん」
ド下手である。クロルは背中を向けたまま、ずっこけていた。
「下手がすぎる」
「そ、そう?」
「自覚しろ、過去一で色気のない声だった。あー、もっと練習させとくんだったな。想定が甘かった。しくじったー」
「……か、過去一?」
過去一、ということは、過去がたくさんあるのだろう。分かってはいるけれど、分かりたくもない。喉の奥から、またむかむかと黒い感情が出てくる。
演技でも本当でも、彼の恋人だった女性は何人いるのだろうか。その美しい声で、何度『愛してる』と言ったことだろうか。
むかむか。むかむか。むーかむか。
「どうすっかなー。でも練習するしか……って、どうした? すっげぇ顔してるけど」
「ハッ! な、ナンデモナイ。もう一度やります。上手くできるようになるまで頑張る! 努力あるのみ~」
レヴェイユがもう一度触ろうとすると、その前にクロルが彼女の頬を触った。触ったというか、人差し指でつついてきた。ぷに。
「げふっ」
「また、むくれてんの? いつも泣くだけなのに。まさに心境の変化だな」
「チガウノ。全然、ダイジョブデス」
「ふーん? 膨らんだ頬には、独占欲が入ってると見た」
「うぅ……」
レヴェイユは、むくれた頬を手で挟んでペチャンコにした。ついでにパンパンと頬を叩く。
「仕事には持ち込まないから、だいじょうぶ」
「へー?」
「……えっと、練習するからあっち向いてて?」
「はいはい」
レヴェイユは頑張った。だって、クロルのためだから。彼のためなら、なんだってやってみせる。……やってることは、ヤってるフリだけど、えっと、とにかく頑張ったのだ。こんな健気な犯罪者がいるだろうか。
そうして三分どころか、三十分。この世で一番気まずい三十分を過ごした成果がこれだ。
「ぁーん、ゃーん」
上達しなかった。絞り出して小文字。絶望だ。
「ご、ごめんなさい……本当になんて言ったらいいか。こんなに才能がないなんて、ごめんなさい」
「あー……うん、まぁ、頑張りは伝わった」
気まずい。労われて逆にツラい。いっそのこと罵ってほしい。
レヴェイユは、もうどうしていいか分からなかった。そもそもにゴールがわからん。そんなボイス聞いたこともないし、何を目標にしていいのやら。
「んん? そうよ、ゴールが分からないから、上達しないんじゃないかしら?」
「ゴール?」
「そうよ! 誰かと経験してくれば分かるようになるかも。名案ね、ちょっと行ってくる~」
「このバカ。どこ行く気だよ」
「え? 気軽にしてくれそうな男性のとこに~」
「ノリが軽い。ブロンが泣くぞ?」
すると、クロルの美しい手がスッと伸びてきて、耳をスルリと撫でられた。彼の手になぞられる快感に、「ん……」とかすれた声がこぼれた。
「やれば出来るじゃん。その調子」
「えっと?」
「最後まではしない。ゴールがわかったら、そこで止める」
「……してくれるの!?」
「頑張りは伝わった。お前も仕事だと割り切れるなら、やってやらないこともない」
「~~~っ! うれしい~!」
「騒ぐな。仕事だからな、仕事」
「はい、仕事ね、仕事です」
「分かってるならいい。だから……仕事でやるだけだから……この件が終わったら、全部忘れて」
閉じ込めるようにして、心も身体も縛り付けてくるくせに、彼は残酷なことを口にする。この美しい手も、少し潤んだ瞳も、見上げた先にある泣き黒子も、全部忘れてほしいと彼は言うのだ。
レヴェイユは思った。任務が終わってしまったら、彼が触れてくれることなんて二度とないのだろう。
「うん、大丈夫。わかってる」
忘れると約束したわけじゃない。忘れられなくても、大丈夫だと頷いただけだ。
その頷きに合わせるように、ギィッとベッドのきしむ音が響く。
「じゃあ、やるぞ」
クロルは気合いを入れた。
ここから甘い雰囲気に突入すると思ったら、大間違いだ。こちとら仕事中だ!
真夏の夜もシーツも彼女も全力で空気を甘くしようとしてくるが、最後の砦、クロル・ロージュはなびかない。甘くなど、してやるものか!
「はい、まずはこっちから触るぞー」
「あ、はい。お願いします」
クロルは、触診の雰囲気をかもし出した。
「例えばー、こことか」
「ゃ、ん」
「……あと、こういう感じとか」
「ひゃん、嘘ぉ、なにこれ」
「……ふーん、こういうのもいい?」
「ん、ふぁ、まって、」
「……じゃあこれも好き? っつーか、パジャマが厚手すぎてやりにくいな」
「はぁ、ん、あつい……脱ぐね」
「え」
ギリギリと、ベッドのきしむ音が響く。
「あー……なるほど」
ハニトラ担当潜入騎士歴、約六年。『こんなペラペラのやつ、なんの意味があるんだろ?』長年の疑問が解決した瞬間であった。
クロルは、薄手のナイトドレスの必要性を初めて理解した。あれは、脱がさなくていいからこそ、この世に存在するのだと。
服が無用なら、我慢は無謀。シーツが白なら、彼女は赤。今夜もショートケーキを思い出す。……うん、甘い。
こうして真夏の夜は、更けてゆく。




