5話 紫髪のトリズ
宿屋の客室。可愛い部屋に並んだ三人の男女。じわりと緊張をたずさえて、クロルは様子をうかがった。
―― 一体、誰が胸章を?
「ふぉっふぉっふぉ、おやおや、まあまあ」
すると、開けっ放しだったドアから、おじいさんが出てきた。やたらとヒゲは長く、人の良さそうな雰囲気がヒゲの先からにじみ出ていた。店主というよりマスターという感じのおじいさんだ。
「おやおや。そちらはお客様かな?」
「あら、マスター。こちらは近所で失神しちゃった、栄養失調で記憶喪失の方なの」
病状を並べてみると、色々と失いすぎている。
「お邪魔しています」
クロルが軽く会釈をすると、店主ことマスターもニコニコしながら向き合ってくれた。大して事情を聞かないままに、クロルを見てうなずく。
「お疲れでしょう。身体が良くなるまで泊まっていきなさい」
「え、良いんですか? 無一文なんですが」
「病人をポイと投げ出すような、非情な宿屋ではございませんよ。先のことは、体調が良くなってから考えましょう、ふぉっふぉっ」
「助かります。ありがとうございます」
―― じいちゃん、めっちゃ優しい……!
長いこと祖父と二人暮らしだったクロルは、根っからのおじいちゃんっ子。初対面であるマスターの優しさに、とろとろのじんわりだ。クロル・ロージュは、おじいちゃんに弱い美形男だった。
そんなこんなで、まさかのすんなりと潜入成功。体調が戻ってからのことはまた考えるとして、内心で相棒デュールとハイタッチ。
「今日はお疲れでしょう。軽くご紹介だけしようかな、ふぉっふぉっ」
マスターは優しく紹介してくれた。
「赤髪がレヴェイユ、そして紫髪がトリズ様です。もう一人、金髪のレイという娘がおりますが、買い出し中でして……。そして、私が宿屋のマスターです。どうぞごゆっくり」
トリズだけ様付けをされているところから察するに、客の立場なのだろうか。
「あら、よく見ると、衣服も身体も泥だらけ。湯あみをなさいますよね? 準備をいたしますので、休んでいてくださいね~」
レヴェイユの一言で、宿屋のメンバーは一旦解散。クロルは部屋に一人きりになった。
さぁ、仕事開始。宿屋の調査だ。
栄養失調でぶっ倒れたとはいえ、仕事は真面目にやらなければ。クロルは起き上がって、フラフラの身体を真っ直ぐにした。窓の外を見るに、ここは二階の客室。
―― こういう場合、従業員の部屋は……一番上か
この宿屋は三階建て。規模から言っても、三階が従業員専用のスペースだろう。
クロルが三階に上がってみると、そこにはドアが二つあった。泥棒の住処にしては、簡単な構造の鍵だ。
潜入騎士の中には、もちろん鍵のピッキングに長けた同僚もいるが、クロルはハニトラのスペシャリストなので、そこらへんはノータッチ。
ピッキング道具を持っていること自体がリスクだし、そもそもクロルにとって、鍵とはターゲットが頬を染めて、どうぞと寄越してくれるものだ。こじ開けるものではない。とんでもなく悪い男だ。
とは言え、今回はソワールという重要任務。鍵の複製くらいしておくべきだろう。
軽くノックをするも返事はない。不在と判断して、クロルはシャツの袖をまくりあげる。やる気みなぎる騎士というわけではない。鍵穴に、腕の柔らかいところをグッと押し当てるのだ。
これは、潜入騎士が合鍵を作るときに使う常套手段。内出血しそうなくらいに強く押し当てれば、皮膚に鍵跡がバッチリと写し取られる。これを紙に書き写して、デュールに複製してもらうという流れだ。
ちなみに夏場になると半袖になっちゃうので、お気軽には使えない。どこを押し当てるのか非常に気になるが、今は春先。長袖で良かった。
開けたことが分かるような細工がドアにされていないことを確認した上で、手前の部屋からドアノブを回してみる。
珍しいことに、鍵はかかっていなかった。そのままドアを開けると、ふわっと心地良い風が通り抜ける。
―― うっわ、可愛い部屋……あ、これ苺ちゃんの部屋だ
ドアに鍵もかかってなければ、窓も開けっ放し。やわらかい桃色のカーテンが風で揺れ、甘い香りが広がった。
数日後にはクロルも寝ることになるだろうベッドは、レースがほどこされたアイボリーのシーツ。クッションは苺柄。
デスクの上に赤い花が飾られて、鏡や小ぶりの化粧品が並んでいた。その化粧品たちは、不思議なことにほとんど未開封のまま。開いているのは、淡い色のリップだけ。そう言えば、彼女は薄化粧だった。
ベッドサイドには簡素な目覚まし時計が三つ。さらに、不自然なことに床の上にも目覚まし時計が置いてある。ベッドの下、部屋のど真ん中、クローゼットの前、点々と。どう見ても朝に弱い人がやるやつじゃないか。
―― 苺ちゃんは、朝が激弱なのか。起きててもぼんやり顔だもんなぁ
忍び込み慣れしているクロルだって、さすがに口元を押さえてちょっと笑った。
―― 警戒心ゼロ。鍵くらいしとけよな
部屋の鍵は、心の鍵と同義。『鍵をかけていなかった』という事実は、かなり重要な情報だ。『レヴェイユ』が本名であるという事前情報も加えれば、ソワールである可能性は低いようにも思えた。
とは言え、本格的な家捜しは、また次回。クロルはレヴェイユの部屋を出て、階下の気配を探る。音から察するに一階のキッチンに一人、二階に一人。あとは宿の建物内にはいない様子。調査続行だ。
次に、奥の部屋のドアノブを回す。しかし、こちらは鍵がかかっていた。改めて訪問するか、なんて考えていると。
「こんなところで何してるんですか、クロルさん?」
突然、真後ろから声をかけられ、喉の奥がひゅうっと音を立てた。振り向くと、紫髪の少年がニコニコと笑顔を振りまいている。
「客室にいったら、もぬけの空で驚きましたよ。何か探し物でも?」
「あぁ、ちょっとね。えっと、トリズ……くん、でいいのかな?」
「ええ、結構ですよ。お風呂の用意が出来たので、声をかけにきました。レヴェイユさんが案内してくれるそうです」
「ありがと。君は……お客様なのかな?」
「いえ、一応従業員です」
クロルが小首を傾げると、少年トリズは「あ~」と頷きながら続ける。
「皆さんが僕を『トリズ様』と呼ぶのは、伯爵家の遠縁だからです。事情があって、こちらの宿にお世話になっています。歳は十六。男性同士よろしくお願いしますね」
トリズはニコリと笑って握手を求めてくる。身分差は関係なく接してほしいということなのだろう。その友好的な態度に、クロルも笑顔で握手を返した。
―― 十六歳か……
宿屋メンバー、その一。紫髪のトリズ。デュールの事前資料にはいなかった人物だ。
髪も瞳も紫色。少し妖艶さがあるのは、この色彩のせいだろうか。
シャツもきちんと上までボタンを止めていて、絵にかいたような優等生。貴族らしい品格がある。
身長は一七三センチメートル程度。ソワールとしても通じる身長だし、身体の線も細い。女装をすれば女に見えるだろう。ソワールと対峙した騎士たちは皆、『男顔負けの体術だった』と証言しているが、男そのものならば説明が付く。
ソワールは女泥棒と言われているが、その信憑性も高くはない。何しろ正体不明の大泥棒なのだから。
「クロルさん……探し物があるんでしたっけ。大変ですね。後で宿を案内しながら、僕も探すのをお手伝いしますよ。小さくて見つかりにくいでしょうから」
「そう? ありがと」
まだ昼過ぎ。外で子供が遊んでいるのだろうか。「きゃはは」「かくれんぼしよーぜー」と楽しそうな声が聞こえてきた。その声を聞きながら、クロルはにこやかに階段を下りた。