4話 記憶を戻して記憶は戻らない
ぶっ倒れた路地裏を通り抜けると、そこにはとっても可愛らしい宿屋がある。
『ようこそ、時の輪転へ』の看板が下げられた、赤褐色の門。その向こう側には石畳の道があり、それを辿れば大きな一軒家が建っている。真っ白な壁に真っ赤な屋根、こちらもショートケーキみたいな配色だ。
玄関前には『火曜・木曜、カフェやってます』と書かれた、チョコレート色の看板。
泥棒の住処とは思えない可愛い宿屋。その二階の客室に、クロル・ロージュは寝かされていた。
がやがやと声がする。医者がどうのこうの、ジャケットをどうたら。クロルは少しずつ濃くなる意識に身をゆだね、重たいまぶたを開けた。
―― 赤い
目が覚めるような赤い髪。
「あ、大丈夫ですか……?」
真っ先に目に飛び込んできたのは、ぶっ倒れる前に見た女性だ。瞳を揺らして、クロルの顔をのぞき込んでいた。
「倒れたの、覚えてますか? 今、お医者様が来ました」
そこで「いやはや」と言いながら、恰幅の良い町医者がやってきた。クロルは、すぐさま栄養失調だと診断される。栄養を取っていないのだから当たり前だ。
それにしても、栄養失調でもクオリティが落ちずに顔が良い。失った栄養の代わりに、アンニュイな雰囲気がトッピングされて、色気が増し増し。美形ってすごい。
医者に薬を与えられ、どうにか言葉を取り戻す。目をこすりこすり。
「ここは……?」
「宿屋だよ。覚えているかな?」
白衣を着た医者が、優しく教えてくれる。
「医者、宿屋……」
意識を手放す前の状況を問いかけるように、赤髪の女性に視線を向けると、彼女は軽く事情を教えてくれた。
「私、レヴェイユと申します。ここは宿屋『時の輪転』です。この宿屋で働いていまして、すぐ近くだったので連れ帰ってみました。ようこそ~」
やたらおっとりのんびりとした『ようこそ~』を浴びてしまい、クロルは『こちらこそ~』と答えそうになった。が、そんな雰囲気ではない。それよりも何よりも。
―― 時の輪転!? 『レヴェイユ』って……容疑者じゃん
運命か因縁か、はたまた天意だろうか。クロルは、ソワールの潜伏先である宿屋に拾われたのだ。
頭に叩き込んでおいた資料を思い出し、血の気が引く。路地裏で彼女を受け止めた際に、騎士並みの瞬発力の良さを見せつけてしまったじゃないか。なんであんなことをしてしまったのか!
―― 落ち着け、まだ巻き返せる
引いた血の気をそのままに、頭を抱えるように茶色の前髪をかき上げて、鍛え上げられた『はてさて?』顔をお披露目。記憶を戻して、記憶が戻らないフリをするのだ。
「俺は、一体……?」
そう、相棒デュールと立てた作戦は、『腹ペコのボロボロ姿で、記憶喪失のフリをして潜入せよ』であった。不自然なほどに美形であるクロルを潜り込ませるのに適した作戦だ。過去に何度か実績もある。
さすが一週間食べていないだけのことはある。朧気に揺れる瞳が、その信憑性を増していた。引き締めボディも、鳥の餌みたいな食事も、全部無駄じゃなかった。
クロルのはてさて顔を見た医者は、「むむぅ」と何やら難しい顔をする。
「問診をしましょう。お名前、出身、何か自分に関することはわかりますか?」
まるで頭が痛むかのように、いつもテキトーに下ろしているだけの前髪をくしゃりと握る。
「名前も、何も……覚えてない」
鮮やかなまでの『ココハドコワタシハダレ』を決めてやった。テキパキと聴診器を当てられて、ふむふむと診察をされること、十秒。
「これは、記憶喪失ですな」
超スピード診断じゃないか。さては、やぶ医者か? いやいや、彼はやぶ医者ではない。この医者は本物の町医者ではあるものの、相棒デュールが話を通しておいた仕込みの医者だ。仕込みが雑で、やぶ医者化してしまっただけだ。
クロルとデュールのタッグは、第五騎士団の中でも秀でている。異常に顔が良く天性の女たらし、臨機応変でオールラウンダーのクロル。貴族出身の異端児、常に攻めの姿勢を取るギャンブラーのデュール。
実際のところミスも多いが、それを補うリカバリー力の高さ。てんやわんやはあったとしても、蓋を開けてみれば任務遂行率百パーセント。これが二人のやり方なのだ。
瞬時にデュールの仕込みであることを察したクロルは、「記憶喪失……?」と何かを受け止めるように、呟いてみたりする。
その呟きを聞いた宿屋の店員らしき二人は、哀れみの目を向けてくれた。
そう、この部屋にはクロルと医者と、他に二人の人間がいた。クロルを助けた赤髪の女と、紫髪の男だ。
―― 店員は女二人のはず。他にもう一人いるのか?
なんやかんやと処置をして医者がサクッと帰宅した後、レヴェイユは優しい声で尋ねてくる。
「何か身分を証明するものとかありますか? ジャケットのポケットとか」
クロルは眉を一つも動かさずに、内心でハッとした。ジャケットは脱がされて、椅子に掛けられていたからだ。
―― まずい、内ポケットに金色の胸章入れっぱなしだ
この女性がソワールであれば、持ち物検査くらいしているかもしれない。
クロルは思案する。仮に、ここで胸章が見つかっていたとしたら、そのまま記憶喪失の騎士のフリをして撤退をするしかない。ここまでの成果を、脳内で報告書にまとめてみる。『路地裏で女の下敷きになってぶっ倒れて撤退』一体、何しに来たんだ。
しかし、無慈悲にも、ジャケットは目の前に突き出される。
「どうぞ」
「どうも」
皆に見守られながら、ポケットを探り探り。
「財布も持ってないみたいだ」
当然だ、デュールには無一文で投げ出されている。無慈悲。
「胸ポケットはどうかしら?」
「胸ポケット……あぁ、ハンカチが」
「僕が拝見しましょうか。トリズと申します」
紫髪の若い男性が申し出たので、クロルはそれを手渡した。
トリズは、深い紫色の髪を軽く揺らしてハンカチを広げてくれた。若い男というか、少年とも言える年齢だ。十六歳程度だろうか。
「あ、刺繍があります。クロル・ロージュ……あなたの名前ですか?」
クロルは乱れた前髪を軽く整えながら、思い出すように眉を寄せる。そして、「わからない、聞き覚えもない」と答えておいた。もちろん、聞き慣れた本名だ。
潜入捜査では、偽名を使うのが定石だと思われるかもしれない。本名が特殊な場合だったり、事情によってはそういうこともあるにはある。
しかし、実際のところ偽名は必要ない。彼らは公的機関勤務、雇い主は国だからだ。
というのも、彼らが潜入騎士になった瞬間、国中に様々なフェイク情報がばらまかれ、偽の戸籍情報が少なくても百個、多ければ千個以上は作られる。
例えば、探偵や情報屋といった人間たちが、彼らの情報を調べようとしても、相当頑張らなければ正しい情報にはたどり着けない。握らされた偽情報で踊るだけだ。
特に、クロルの出身は王都でもないし、しがない平民だ。調べようにも、絶対無理。
よって、どこに行っても何者に変わっても、彼はクロル・ロージュのままで生きている。偽名となると大幅にややこしさが増すが、とてもシンプルだ。
しかし、そこで思わぬ事態が発生。
「クロル・ロージュ……?」
レヴェイユが反応を示したのだ。ニコニコと穏やかに微笑んでいた表情は消え、まさに驚愕。小さい声ながらも、確実にクロルの名前を呼んでいた。
「もしかして、レヴェイユさんのお知り合いですか?」
少年トリズが期待を込めるように尋ねるが、レヴェイユは小さく首を振った。
「……いえ、聞き覚えがあっただけです。でも、良く聞く名前ですものね。申し訳ございません」
内心、クロルは大きく安堵。一応、記憶を漁ってみたが、彼女の顔にも名前にも覚えはなかった。
と、安心したのも束の間。またもやレヴェイユが余計なことを言い出す。
「あとは、内ポケットかしら? 何かありませんか?」
「あー……どうかなぁ、内ポケットには……」
内ポケットを軽く探る。ゴソゴソ。
「あ、何もねぇじゃん」
少年トリズは、「そうですか」と言いながらハンカチをクロルに返してくれた。
「身分が分かるものがあれば良かったんですが、残念ですね」
―― 無い
本当に、胸章がなかった。
唯一、騎士団所属であることを証明できるのが、金色の小さな胸章だ。直径三センチ程度の、剣と弓の図案が刻まれた正義の胸章。
―― ソワられた?
いくらか鋭い目で、二人を見る。赤髪か紫髪か。そして、まだ見ぬ三人目はいるのか。
ソワールは、誰なのか。