30話 話は突然始まるもので
雨が止んだ。長いことしゃがみ込んでいたクロルは、暗い路地裏に晴れ間が差したのを合図に立ち上がった。
レヴェイユがソワールであることは間違いない。そうであればさっさと彼女を捕縛しよう。こうなっちゃったら、もうサクサク処理するのが一番だ。
しかし、現実的な話をしてしまえば、捕縛しようにも証拠がない。
潜入による捕縛方法は大きく二つ。言い逃れできない現行犯か、確固たる証拠がある場合か。
潜入騎士であるクロルの目撃証言であれば、それを証拠として捕縛することもできるが、さすがに乱暴だ。捕縛後に彼女が自供してくれたら良いが、知らぬ存ぜぬを通された場合は面倒なことになるだろう。
彼女が盗品を持っていれば話は早いが、部屋にはなかった。何度も確認したから間違いない。盗品はどこか他の場所に隠されているのだろう。窃盗現場あるいは、隠し場所に彼女が立ち寄る現場を押さえたい。
―― 絶対に捕縛してやる
新たな気持ちで、向かうは宿屋『時の輪転』
クロルは、自分の目で確かめてみたかった。本当にレヴェイユは帰りを待っているのか。嘘をついて善良な優しい生娘を装い、さぞかし楽しかったことだろう。
憎悪とも言える感情を抱え、赤褐色の門をくぐり抜ける。可愛らしい白い宿屋の扉を開ければ。
「あ、クロル、おかえりなさい~」
キッチンに彼女がいた。こんなに背筋が凍る『おかえりなさい』があるとは。クロルの背中はカッチコチだった。
「今日の夕食は骨なしチキン。たくさん作るからたくさん食べてね」
ゾッとするほどに優しい声。現実とは思えない状況に、肌が震えて立ち上がる。高揚感と嗜虐心。絶対に捕まえたい、牢屋にぶち込んでやりたい、こんなに煽られたのは初めてだった。
―― 装え。騎士であることがバレたら終わり。逃げられる
奥歯をグッと噛んで捕縛したい欲を我慢する。下を向いて一度笑顔を作ってから、そのまま顔をあげた。
「クロル?」
「ただいま」
「大変! 雨に降られたの?」
彼女は慌てたようにタオルを引っ張り出して駆け寄ってくる。ふわふわなタオルが余計にくすぐる。
「あー、急に降ったから。……レヴェイユは、降られなかった?」
「え……? あ、うん、私も少しだけ降られちゃった」
嘘ではなさそうだ。きっとソワールは屋内を逃走してきたのだろう。
「クロル?」
優しくクロルの髪や服を拭きながら、彼女は不思議そうに名前を呼んでくる。
「なに?」
「何かあった……?」
当然、初恋の相手がソワールだったなんてことは言えず、クロルは前髪に滴る雫を軽く拭いながら「何もないよ」と答えた。
「そう……? あ、風邪ひいちゃう。すぐお風呂に入って温まってね」
「あぁ、そうする」
風呂なんかどうでも良かったが、さっさと立ち去りたくて仕方がなかった。お礼の一つも言わずに彼女の手からタオルを取り上げ、ガシガシと頭を拭いて風呂場に向かおうとする。
……あぁ、何とも重苦しい! 少し前まで恋人未満タイムとかいっておしゃべりに花を咲かせていた二人が懐かしい。なんでこんなことになってしまったのか。
そんな重苦し~いイヤ~な空気をガラッと変えるべく、ガチャっと真後ろの玄関扉が開いた。
「……うおっ!?」
思わずぎょっとした。泥まみれでずぶ濡れ。ボロボロになったトリズが立っていたのだ。
あのトリズが、見た目にそぐわない身体能力を持っているトリズ・モントルが、何とも悲惨な感じになっているではないか! 一体何があったのだろうか。
「……トリズ君、どした?」
「ぜぇぜぇ、何か飲み物を~」
「大丈夫ですか? すぐにお持ちします」
レヴェイユが飲み物を取りにキッチンに向かうと、トリズは一番近い椅子にドサッと座って息を整えていた。
あれ? 色々あって忘れていたが、そういえば彼はレヴェイユの監視役をしていたはずだ。
しかし、レヴェイユはソワールとして無事に珈琲を盗み、帰りに鶏肉の特売コーナーで盗みを働いてから宿屋に帰ってきているわけで。鶏肉は特売だったのにそれを窃盗するなんて、悪すぎるわけで。
「ダイジョブ? 何があった?」
「あれは、十一時を少し過ぎた頃でした。外が騒がしくなったものですから、僕は少し様子を見ようと宿屋を出たんです」
「急に話が始まったな」
「そしたら、突然黒い犬に追いかけられて」
「犬?」
「そうです、獰猛で大きな黒犬です」
「お、おう? それで?」
「適当に避けて宿屋に戻ろうとしたんですが、どういうわけか避けても付いてきて。街を走り、路地裏を駆け抜け、野を越え山越え、最後に川に落ちたところでやっと犬は去っていきました。いつの間にか財布も落としていて、歩いて帰ってきました」
「笑っていいところ?」
「ダメなところですけど~?」
「ぶふっ……」
テーブルの下でクロルは足を踏まれた。くっそ痛かった。
「あらまあ、大変。トリズ様がまさか獰猛な黒犬に追いかけられていたなんて……災難でしたね~」
心配そうに飲み水を渡すレヴェイユ。その姿は聖母よろしく、どこからどう見てもクロルの大好きな心優しいレヴェイユだったが。
―― ま、まさか、これレヴェイユの策略か!?
災難ではなく、策略なのでは。これはトリズの監視を外すためにレヴェイユが仕掛けた罠なのではなかろうか。
クロルは人知れずゾッとした。伯爵家の遠縁という地位に、物腰柔らかな人柄の設定であるトリズをここまでやり込んだ上で、彼女は鶏肉まで買い込んで悠々と帰宅しているのだ。凄くて惨い。
へとへとトリズは、水を飲んですぐに浴室に去っていった。クロルもお風呂に入るつもりだったが、さすがに譲った。
そこで玄関扉がまた開く。次に現れたのはレイであった。
「ただいま、ぜぇぜぇ」
輝く金色の髪がなんかグッチャグチャだった。
「おぉ、レイ。汗だくだな、お疲れ……?」
「み、水ちょーだい……!」
「あらまあ、大変。 今、持ってくるわね」
レヴェイユは、またもやキッチンに引っ込んでいった。
「で、何があった? 黒犬にでも追い回された?」
「へ?」
「獰猛な犬の話はねぇのかなって」
「獰猛? あんたの話?」
「一応聞いてみるけど、俺と獰猛に何の共通点が?」
「下半身が荒く乱暴」
「その顔でそういうこと言うなよ……」
可愛い顔しているのに、中身はバキバキに男だった。
「うふふっ、美しい顔でごめんあそばせ?」
「お前なぁ、美形レベルで言えば俺の圧勝だからな?」
「ぇえ? まぁ茶髪茶瞳にしては頑張ってると思うけどぉ、金髪青瞳の圧勝じゃない?」
「ぁあ?」
美形二人の言い合いが止まらない。案外、仲良くなれたりしないだろうか。
それにしても、お互い顔を歪めて睨み合っているものの双方ともに美しい。歪みがスパイスになって、ハードボイルドな美しさが表れていた。
そこでレヴェイユが飲み水を持ってくる。
「もう、ケンカしないの。レイ、手を洗って着替えてきて。夕食の下ごしらえ、一緒にやろ?」
「おっけー♪ やるやるー!」
そう言って、レイはスキップらんらんで部屋に戻っていった。その様子を見たクロルは『こいつ、レヴェイユのこと好きすぎだろ。恋する男なんて端から見れば悲惨なもんだな』なんて思いながら、自戒。
その日の夕食は、骨なしチキンとショートケーキをたらふく食べて、戦前の準備完了。知らぬが仏。
さて、ここからの目的は、ソワールすなわちレヴェイユの捕縛だ。彼女を捕縛するためには、レヴェイユが盗品を持っている事実を突き止めるか、現行犯で捕まえるか。
それに対して、手札は二つ。トリズの部屋に仕掛けられた大粒エメラルドの件。そして、ワイン窃盗事件の証拠品であるワインオープナーが、レイの部屋で見つかっている件。共犯か、身代わりか。
クロル・ロージュ対レヴェイユの捕縛戦が幕を開ける。




