3話 路地裏で苺が落ちてきた
『クロル、半分こにしよう。じゃんけんで勝った方が大きいチキンを食べる。どうだ?』
クロルの祖父は、子供相手に本気でじゃんけん勝負を挑んでくるような、どーしようもないじいちゃんだった。クロルは、いつも小さい方のチキンを食べていたっけ。
「は、腹へった……」
何故、こんな祖父とのエピソードを思い出したかと言うと、クロルは腹ぺこの状態で馬車に乗せられていたからだ。そわそわとする感覚を誤魔化したくて、指先を軽くすりあわせる。
その向かいには、相棒デュールが座っていた。
「クロル。ソワールの潜伏先、宿屋『時の輪転』はすぐそこだ。気を引き締めろよ」
「これ以上、引き締めようのないほどに、引き締めボディだけどな」
「ナイスボディ」
お腹と背中がペッタンコボディになってしまったクロル。悲しいことに、あーんと食べたショートケーキと骨なしチキンが、最後の食事だったのだ。
宿屋に潜入するためだけに、この一週間ほとんど食事を取らず、鳥の餌みたいな何かをつまんで耐えた。というのも、デュールと立てた作戦によって、腹ペコのボロボロな男として、潜入することになったからだ。本当に餓死寸前のボディだ。
「クロル、ここで降りろ」
「はいはい、わかってるって」
目撃者がいないか警戒をしつつ馬車を降りようとすると、デュールが「忘れ物だ」とジャケットを投げ渡してくれた。
「さんきゅー。あ、俺の胸章は?」
「これから任務だというのに、まさか騎士である証を紛失したのか? はぁ、不真面目すぎる」
「あのなぁ。騎士団食堂で胸章見せて勝手に食べないようにって、お前に取り上げられたんだけど、忘れた?」
「もちろん、覚えている」
クロルで遊ぶのが大好きなデュールは、軽く笑って金色の胸章を返してくれた。なんかちょっと曇っているような。お帰り胸章。
「二人の容疑者、しっかりクロるしてやれ。健闘を祈る」
「ちょ、うわっ!」
挨拶すらさせてもらえないままに、ドンと背中を強く押され、美形男は馬車の外へ。おっとっと……と、数歩つんのめってから振り返ると、馬車はすでに出発していた。
「ったく、なんだよ」
ガラガラ……馬車が走り去る音を背中で聞きながら、誰かに見られてはマズいと、胸章はすぐさま内ポケットへ。周囲を見回して、現在地を確認する。路地裏を通り抜けた先に宿屋があると把握し、民家がひしめく薄暗い道に入り込んだ。
「はぁ、嫌な感じの路地裏」
まるで袋小路の入り口みたいな路地だった。暗くてジメジメ。つまずきそうな小石ばかりが目について、任務の先行きを案じてしまう。
しかし、小石を見ている場合ではなかった。人影のない路地裏で、なにやら人の気配を感じ取ったのだ。
クロルは、歩みを止めて辺りを見回す。鍛え上げられた騎士の勘は、大抵正しい。茶色の瞳を上に向ければ、そこに人影があった。
―― あ、ショートケーキ……
それは非日常的な光景だった。苺みたいな赤色の髪、白いワンピース姿の女性が屋根の上に立っていたのだ。それは、まさにショートケーキの配色。
屋根の高さは、四メートルほどあるだろう。まるで崖みたいな絶壁だ。春らしいシフォン素材のワンピースがふわりと風に遊ばれて、青々とした丘の上でピクニックをしているかのような、爽やかな立ち姿。
先ほどまで暗くジメジメした路地裏だと思っていたが、天を仰げば春らしい水色の空が広がる。めまいがするほどの光の散乱。全てが鮮やかだった。
十秒くらいだろうか。クロルがこの光景に見入っていると、女性はまるで宙を歩ける能力があるかのように、足を一歩踏み出した。そして、驚くことに、そのまま屋根からふわりと降りたのだ。
「あぶなっ!」
頭よりも神経が先に動いた。クロルは、全身の力を足に集中させて踏み出す。そのままグイっと手を伸ばすと、白いワンピースのすそが指先をかすめた。『ダメだ間に合わない』と判断して、地面を蹴り上げて飛び込んだ。
地面と衝突する寸前。クロルの胸に、ストンと彼女が落ちてきた。
痛々しい音を立てながら、背中が地面に引きずられる。背中は軽く死んだ。
腹ペコとは言え、さすがは鍛え上げられた騎士だ。普通なら間に合わない場面だが、ギリギリセーフ。
ホッと胸を撫でおろし、腕の中にいる彼女をのぞき込んだ。
「あぶねっ……ギリセーフ。ったく、なにしてんの? あの高さから落ちたら、怪我じゃすまないだろ」
クロルがいなければ大怪我どころか、南無阿弥陀仏案件だ。叱るように声を低くすれば、クロルの胸に顔をくっつけてフリーズしていた彼女は、「わたし?」と言いながら、ひょこっと顔を上げた。
クロルと同じ、茶色の瞳だった。
おっとりとしたタレ目。軽くウェーブのかかった赤い髪がふわふわと舞う。赤は赤でも、熟した苺みたいな色だ。二十代前半だろう、柔らかい雰囲気の若い女性だった。
「……ヒールで着地できる高さじゃねぇだろ。そもそも、なんで屋根の上にいたんだよ?」
「……」
「俺の話、聞いてる? おーい?」
全く無反応の彼女。クロルが「苺ちゃん?」とテキトーなあだ名で呼ぶと、茶色の瞳を丸くして、やっとこさ声を出してくれた。
「あらまあ、大変」
謎の答えだった。やたらとのんびりした口調に、甘く優しい声が重なる。ケーキみたいな、そういう甘さ。
「えっと、ダイジョブか?」
意味のわからない彼女の返答に、『頭は』という言葉を取り除いて、クロルはニュアンスを伝えた。すると、彼女は「ふふっ」と少し笑って答える。
「はい、頭も大丈夫です~。ごめんなさい、驚いてしまって」
どうやら察しは悪くないらしい。しかし、彼女はクロルに乗っかったまま。なぜか、どいてはくれない。そこは察してくれない。
「こちらからもお尋ねしていいかしら。大切な背中の容体は?」
「どういたしまして。たぶん大丈夫」
背中をいくらか動かしてみると、痛みは大きく広がらない。この程度ならば傷もほとんどないだろう。
女性は「よかった~」とニコッと微笑んで、また話を続ける。ずっとクロルに乗っかったままだ。いい加減どいてくれないかなと思ったが、ついついタイミングを逃してしまう。
「ところで、この路地裏に敷かれたレンガ。白ではなく、茶色と赤色で作られている理由をご存知かしら?」
「……突然の謎かけ? 茶髪の俺と苺髪の君が、寝っ転がっていても違和感がないように配慮してくれた、とか?」
「ふふっ、面白い人。さて、早く立ち上がりましょうか、失礼~」
正解は教えてくれなかったが、クロルの上からはどいてくれた。なんの謎かけだったのだろうか。
―― 変な女……
ゆる~く漂う、ド天然の香り。
「立てますか?」
汚れたレンガが敷き詰められた路地裏に、眩しい春の日差しが降りそそぐ。悪女ばかりを相手にしてきたクロル・ロージュは、目の前に差し出された彼女の温かく白い手を取った。
しかし、起き上がれなかった。身体を起こした瞬間、強い目眩がクロルを襲ったのだ。
―― あ、これやばいやつだ
くるくる、ぐるぐる、ぐぅぐぅ、……バタン。
なんという作戦ミス! お腹が減りすぎた上にいきなり全力で走ったせいで、クロルは意識を失ってしまった。
ソワールの潜伏先は、すぐそこだ。こんなところで倒れてしまって、万が一騎士だとばれたなら任務遂行は難しい。
時刻は正午。王都の大時計の鐘の音が『リーンゴーン……』と、意識の外で響いている。
途切れる寸前、クロルが見たのは女性のきょとん顔だった。その顔を見て、クロルの勘が告げた。
―― あ、この子は俺の味方だ
その勘にかぶせるように、「あらまあ、大変。空前絶後の美形が倒れたわ~」というのんきボイスが、意識のないクロルの頭上に落とされたのだった。